第一章 始まりはいつも突然に
銀杏並木の途中で制服姿の生徒達と別れ、大きな大学構内へと歩いていく私服姿の乙女達の中、ひと際注目を集める、一人の乙女がいる。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう、紅薔薇さま」
「ごきげんよう」
すれ違う生徒一人一人から挨拶を受けている彼女は、明るい笑顔で丁寧に挨拶を返して行く。
セーターとジーパンとダッフルコートに身を包んだ、気の置けない友人や先輩方からは『子だぬきみたい』と称される可愛らしい童顔と、リボンで飾られたツインテールが印象的な彼女の名は福沢祐巳。
幼稚舎からリリアンに通い、この春、大学に進学したばかりの一年生。文字通り生粋の『マリア様の庭の乙女』である。
ほんの一ヶ月ほど前までは一杯に散っていた木の葉もめっきり少なくなってしまった道を足早に歩きながら、祐巳は『それにしても』と苦笑した。
「もう、紅薔薇さまじゃないんだけどなあ」
紅薔薇さま。それは、昨年、高校三年生だった時の彼女に課せられていた名称だった。
高等部の生徒会、『山百合会』の三人の代表者たちに代々受け継がれている三色の薔薇の名前。紅薔薇さま、黄薔薇さま、白薔薇さま。
一年生のとき、当時『紅薔薇のつぼみ』であった、憧れの小笠原祥子さまと姉妹の契りを結んで以来、ずっと山百合会と共に高校時代を過ごした祐巳は、最後の一年間、祥子さまの跡を引き継ぎ、なんとか紅薔薇さまとしての役目を勤め上げる事が出来た。
卒業し、次の世代の薔薇さまたちにバトンを渡し、『これで、薔薇さまの名前ともお別れだなあ』としんみりしていた祐巳だったが……実際はこの通り、今でも、特に同級生達からは、名前よりも圧倒的に
『紅薔薇さま』と呼ばれることの方が多いのだ。
『もう、卒業したんだし、紅薔薇さまじゃないよ』と、事あるごとに言ってはいるものの、高等部か
らエスカレーターで大学部にあがった生徒達は『紅
薔薇さま』と一年間呼び続けた癖が、なかなか
抜けてくれないようだった。
考えてみれば、自分も、未だに自身が高校一年生の時の馴染み深い薔薇さま達――佐藤聖さまや水野蓉子さまや鳥居江利子さまと会うとき、ついつい薔薇さまの名前で呼んでしまうことが多い。
『三つ子の魂百まで』というものなのかな?
祐巳はそんなことを思いながら、『ごきげんよう、紅薔薇さま』と、次々にかかってくる挨拶に、笑顔で答え続けて行った――
☆ ☆ ☆
「大変、時間が……ああーっ!」
大学の大きな校舎内。祐巳は、出来ることなら全力疾走で駆け出したいという欲求を懸命に抑えたもどかしげな表情で、早足で廊下を進んでいた。
一限の始業開始のベルまで後わずか。なのに、よりによってその教室は、校舎の最上階の一番奥まった所だという間の悪さ。
おまけに、その授業の教授は、始業ベル後の入室は一切認めてくれないという厳格な方。なんと言うめぐり合わせの悪さだろう。
ああ、何であと五分早くベッドから起き上がることが出来なかったのか。いつもより特に冷え込んだ朝の気候のせいだ。あんなに寒かったら、誰だって布団の中の温もりの誘惑に負けてしまって当然だ!
おまけに、ここに来るまでの間にかけられた無数の挨拶に応えるのにも、かなりの時間がかかってしまったし……
「……って、言い訳してる場合じゃないって」
祐巳は、無意識に自己弁護を続けていた自分にツッコむと、改めて先を急いだ。
時計を見ると、もうこのまま歩いていたのでは、絶対に間に合わない時間。見渡すと、辺りには他の生徒の姿は無い。どうしよう……
「……マリア様、お許しください」
祐巳は、胸元にかかったロザリオを握り締めながら許しの言葉を呟くと、全速力で走り出した。
角を曲がり、直線をまっしぐら。あとは、このまま突き当たりのエレベーターに飛び乗れば、なんとか……その時だった。
「紅薔薇さまの決定的瞬間、もらった〜!」
カシャッ!
「えっ?」
突然、脇で光ったフラッシュと聞きなれた声に、祐巳は前につんのめりなりそうになりがならも『キキッ!』と靴底と廊下がすれる音を立てながら、その場に急停止した。
「あははっ。祐巳さん、そんなに慌てて走ったら、転んで怪我しちゃうよ」
脇の、自販機などとテーブルが置かれた、ちょっとした休憩スペースになっているその場所で、備え付けの椅子に腰掛け、仰々しいカメラを構えてこちらを見据えているのは、高等部時代は写真部部長、大学生になった今も、大学の写真部で一年生ながらエースとして活躍している、祐巳の友人の一人、『メガネちゃん』こと、武嶋蔦子さんだった。
「ごきげんよう、祐巳さん」
「ごっ、ごきげんよう……って、蔦子さん、こんなときに写真なんて撮らないでよ〜!」
不意打ちで写真を撮られたことに、祐巳はちょっと慌てながら抗議した。
誰もいないと思って、ついつい出来心で走ってしまったけど、やはり誰かが見ているものなんだなあと、ちょっと反省しながら。
「ごめん、ごめん。なんだか、急にドタバタって音が聞こえてきたから、ついついね。それで、祐巳さん。そんなに慌てて、どこに行こうとしてたの?」
「どこって、授業に決まって……え?」
苦笑で尋ねて来た蔦子さんに慌てて答えている途中、祐巳はふと気付いた。
そう言えば、一限の授業、蔦子さんも一緒の授業を履修しているのに、何でこの時間にこんなところで、のんびりしているのだろうか? ……まさか。
嫌な予感が脳裏を過ったとき、蔦子さんは、祐巳の予想通りの事実を告げてくれた。
「一限なら休講よ。掲示が出てたの、見なかった?」
「……やっぱり」
祐巳は、急にどっと疲れを感じ、蔦子さんの隣に腰を下ろすと、倒れこむようにグテッとテーブルに伏してしまった。
まさか、そんなオチなんて。いつもなら、登校時に正面の連絡掲示板には必ず目を通して行くのだけれど、今日は慌てていて見逃してしまっていた。
落ち込む祐巳に、蔦子さんは更に止めを刺すような一言を告げた。
「はははっ、くたびれ損だったね、祐巳さん」
「……はぁ〜、言わないでよ、そんなこと〜」
まさにその通りなだけに反論も出来ず、祐巳は全身を襲う虚脱感にぐったりするしかなかった。
まったく、急に休講なんて……朝、狂おしいばかりの布団の温もりへの執着を振り切ったことが、無駄になってしまった。
ともかく、いつまでも落ち込んでいても仕方が無い。遅刻という不名誉なことにならなかっただけでも幸いと思わなければと考えを変えた祐巳は、自販機で愛飲の缶汁粉を買うと、蔦子さんと一緒に、束の間のティータイムを楽しむことにした。
熱い飲み物で咽喉を潤し、心を解しながらの雑談の中、蔦子さんがふと思い出したように尋ねた。
「そう言えば、もうすぐクリスマスだけど、今年は何か予定があるの?」
「えっ? ……えっと」
突然の問いかけに、祐巳はあからさまに表情を曇らせ、言葉を濁してしまった。
『百面相』と呼ばれ親しまれている祐巳特有のそんな素直な反応に、蔦子さんはそれだけでおおよその事情を察した。
「そっか……祥子さま、ダメなんだ」
『悪いこと聞いちゃったかな』と、申し訳なさそうなニュアンスを込めながら言った蔦子さんに、祐巳は、『ううん』と気遣うように首を横に振りながらも、しょんぼりと寂しそうな眼差しのままだった。
「仕方無いよ……お姉さま、小笠原家のお仕事だけでも手一杯なのに、大学の方も一切手抜き無しで頑張っていらっしゃるんだもん。……私が、我がまま言うわけにはいかないし」
自分に言い聞かせるように言ったものの、寂しいことには変わりない。祐巳はしょんぼりとしたままじっと俯いてしまった。
――祐巳の最愛のお姉さま、小笠原祥子さまも、祐巳同様、高等部を卒業後は、そのままリリアン女子大学に進学されている。
『同じリリアンだから、大学進学後もお姉さまと一緒に居られる♪』
祥子さまは、見聞を広げるために余所の大学に行ってしまうのではないかと不安に思っていた祐巳はほっと一安心だった。
……ところがだ。
「それにしても、祥子さまも頑張るよねえ。大学に入ると同時に、お父様の御仕事を本格的に手伝い始めて……まだ学生なのに、今じゃ、事実上小笠原グループのトップを勤めていらっしゃるんだものね」
しみじみと感心したように言う蔦子さんに、祐巳は『うん』と少し嬉しそうに、けどやっぱり寂しそうに肯いた。
そう。祥子さまは、大学生ながら既に小笠原グループの代表として、父、祖父に並び第一線でバリバリ活躍されているのだ。
特に、昨年末から着手した大掛かりな新事業プロジェクトは、この秋まで大成功を収めて、内外共に名前だけで跡を継いだわけではないという、その実力をしっかりと見せ付けたのだった。
祥子さまの活躍は素直に嬉しい。嬉しいけど……
「……無粋なこと聞くけど……祐巳さん、祥子さまに最後に会ったのって……いつ?」
「……後期の授業始まってすぐくらい……かな。ゆっくり会えたのは」
聞き辛そうに尋ねた蔦子さんに、首を捻りながら思い出すと、祐巳はますます落ち込んだように、『しゅん』とうな垂れた。
後期の授業開始が九月末。そして今がもう十二月の頭なのだから、考えてみれば二ヶ月以上も、まともに祥子さまに会えていないのだ。
一応、大学には授業の度にちゃんと来ているのだけど、授業が終わったらすぐまた会社にとんぼ返りで、廊下ですれ違って目配せで挨拶する程度のことはあっても、一緒にお茶を飲む時間すら取れない。
今の状況では、年末の忙しいクリスマスの時期に休暇を取れるわけもないのは聞くまでも無く明白なことだった。
小笠原家という、大財閥の跡継ぎとしては仕方が無いことだとわかってはいるのだけれど、やはり、祐巳は寂しさを感じずにはいられなかった。
落ち込む祐巳に、蔦子さんは優しく元気付けるように声をかけた。
「……ほら、元気出しなよ、祐巳さん。祥子さまも、今は仕事が特別忙しいだけなんだろうし、もう少しすれば、きっと、時間が取れるようになるよ」
「……うん、そうだよね」
優しい友の気遣いに感謝しながら、祐巳は気持ちを切り替えるように呟いた。
今、取り掛かっているプロジェクトが落ち着いたら、もう少し余裕が出来るとは、祥子さま自身も言っていた。それに、学校に来たときは、ほんの一分でも時間があれば、挨拶だけでも交わそうと、まめに自分の所に会いに来てくれているのだから。
……大丈夫、我慢出来る。
ようやく、いつもの明るい表情が戻った祐巳に、蔦子が安心したように肯きながら、ふと思いついたように切り出した。
「そう言えば、祐巳さん、今朝のニュース見た?」
「えっ? ニュース……?」
いきなりガラッと変わった話題に、祐巳はきょとんとしながら首を横に振った。
何しろ、寝坊して遅刻ギリギリ大慌てで家を飛び出したから、朝ごはんも食べて来ていないのだ。当然、ニュースを見る余裕なんてあるわけも無い。
そんな祐巳の返答に、蔦子は『実はね』と、そのニュースの話を説明しようとした。
……その次の瞬間。
「あっ……」
廊下の向こうに何かを見つけた蔦子さんは、急に荷物を持って立ち上がった。
「えっ? どうしたの?」
突然立ち上がった友人に、祐巳は何事かと訝しげに尋ねた。
蔦子さんは再び廊下の向こうを一瞥すると、意味ありげな笑みを浮かべて言った。
「いや、邪魔しちゃ悪いから、失礼するよ。祐巳さん、また今度ゆっくりお話しようね。ごきげんよう」
「えっ、ちょ、ちょっと蔦子さ〜ん!」
いきなり荷物を持って立ち去って行く蔦子さんを祐巳は何がなんだかわからずに慌てて呼び止めようと振り返った。
急にどうしたんだろう。意味ありげなニュースの話も気になるし……と、振り返った視線の先、廊下の向こうに歩いて行く蔦子さんと入れ違いにこちらに向かってくる一人の女性の姿を見て、祐巳は『あっ』と口を押さえて思わず絶句し、同時に『邪魔しちゃ悪いから』という、蔦子さんの言葉の意味も理解したのだった。
その女性は、すれ違う蔦子さんと軽く会釈で『ごきげんよう』と挨拶を交わしてから、足早に祐巳の方へと近づいて来る。
凛々しいスーツ姿のそのお方は、祐巳のお姉さま、小笠原祥子さまだったのだ。
祐巳の姿を見つけ、にっこりと微笑みながら歩み寄ってくる祥子さま。祐巳は大慌てで立ち上がり、まるで飼い主を見つけた子犬のようなはしゃぎ振りで駆け寄って行った。
祥子さまは『廊下を走っちゃダメよ』と苦笑で注意しながら、駆け寄る祐巳を片手を上げて迎えた。
「ごきげんよう、祐巳」
「ごきげんよう、お姉さま。あれ、でも……今日は、お姉さま、授業は無いはずでは?」
久しぶりに会えたことに満面の笑みを浮かべた祐巳は、すぐに首を傾げて尋ねた。
この曜日の午前中は祥子さまは授業を取っていないので、普段は大学に来ることはなかったはずなのだが……どうしたのだろう?
祥子さまは、そんな祐巳を、何故かいつもより固い表情で見つめていた。
「あの……お姉さま?」
普段と明らかに様子の違う祥子さま。祐巳は、何か正体不明な不安を感じ、ちょっと表情を曇らせながら見つめていた。
祥子さまは、祐巳をじっと見据えたまま、小さくため息をつくと、おもむろに言った。
「祐巳、今日、授業は?」
「えっ? あっ、一限は休講になってしまって……二、三限は履修していませんので、四限までは何もありませんけど……」
突然の問いかけに戸惑いながらも、祐巳はすぐに答えた。この曜日は授業が飛び飛びになっていて、毎週、合間の時間潰しに苦労しているのだ。
「そう。じゃあ、時間はあるわね?」
「ええ。……あの……何か?」
おかしい。祐巳はますます妙な不安を感じて表情を曇らせた。なんだか、今日の祥子さまは妙に切羽詰った感じがするというか……焦っているというか……ともかく、様子がおかしい。
「あのね……祐巳。よければ、ちょっと、付き合って欲しいの……その……話があって」
祐巳の疑問をますます強めるように、視線を泳がせ、言葉を濁らせながら言う祥子さま。
どう考えてもただ事ではない。一体、何があったのだろう……
(もしかして、急に海外に転勤で、もう日本には当分戻ってこないことになっちゃったとか……なんだろう、なんだろう……)
「祐巳……祐巳?」
「……えっ、なっ、なんでしょう、お姉さま?」
不安が妄想を暴走させ、すっかりうろたえてしまっていた祐巳は、祥子さまの呼びかけでようやく我に返った。
祥子さまはそんな祐巳を見て、ため息をつきながら言った。
「祐巳……あなたも、もう、大学生にもなったんですから……そろそろ、その賑やかな顔をするの、おやめなさい」
「あっ……すっ、すいません」
久しぶりに『百面相』を注意され、祐巳はまた『百面相』でしゅんと落ち込んでうな垂れた。注意してはいるのだけど、生まれつきのこればっかりは、そう簡単に治らないのが困りものだ。
すっかりしょげてしまった祐巳にを見て、祥子さまは『ちょっと言い過ぎたかしら?』と、表情を曇らせ、フォローの言葉を口にしようとした。
……その、絶妙のタイミング。
グ〜キュルル……
「……」
「……」
廊下に響いた『カエルの鳴き声』に、祥子さまは目を点にして、祐巳は顔を真っ赤にして絶句してしまった。
「あっ、あの……その、ちょ、ちょっと今朝はドタバタしてしまって、朝ごはん抜いて来てしまって、それで……」
祐巳は真っ赤な顔のまま、顔の前で両手をブンブンと振って、大慌てで釈明した。
久し振りに会ったお姉さまの前で、なんて失態!
そう言えば、姉妹になったばかりの時も、同じよ
うな失敗をした経験があったような。懐かしいなあ
……って、こんなことで懐かしがってどうするの!
あたふたとする祐巳を見て、きょとんとしていた祥子さまの表情に、やがて笑みが溢れ始めた。
「くくくっ……あなたは……そう言うところ、本当に変わらないわね」
祥子さまは遂に堪えきれなくなったのか、口に手を当てて俯くと、大笑いし始めてしまった。
「おっ、お姉さま〜!」
ひどいです!とばかりに抗議する祐巳に、祥子さまは笑いを堪えながら『ごめんなさい』と答えつつ言った。
「そうね……それじゃあ、時間もあることだし、どこかへ食事をしに行きましょうか。いいでしょ?」
「えっ……」
『ちょっと、静かなところで話したいと思っていたし』と続けた祥子さまの誘いを、ずっと祥子さまとゆっくりお会いしたいと願っていた祐巳が、断るわけも無かった――
☆ ☆ ☆
祥子さまに連れられるまま二人が向かったのは、リリアンから車で小一時間、都心から少し外れたところにある、イタリアンレストランだった。
てっきり、たまにする普段のデート通り、近くのファーストフード辺りにでも行くのかと思っていた祐巳は、思わぬ高級店に尻込みしてしまったが、祥子さまは『カジュアルで気軽なお店だから大丈夫よ』と、あっさりと言い放ってくれた。
中は、いかにもレストランというシックで格式高い内装で、おまけに二人の為に用意された席は、小さいけれど綺麗な庭の良く見える個室だった。
祐巳にしてみれば、十二分な高級店に思えるけれど、どうやら祥子さまにとっては、正装しないで入れるというだけで、気軽なお店という感覚らしい。
さすが、生まれながらのお嬢様だなあと、祐巳は常々思う『世界の違い』を今日もまた感じ、今更ながら一抹の寂しさを覚えた。
それにしても……爽やかなトマトの酸味が食欲をそそる、シンプルなトマトのスパゲティを、アルデンテに茹でられているためにピンピンはねてなかなかフォークに巻き付けられないのを苦心しつつ出来るだけ上品に口に運びながら、祐巳は正面の席に座っている祥子さまをちらちらと見つめて思った。
やっぱり、今日の祥子さまはおかしい。
朝お会いしたときから感じていたが、その疑念はますます確固としたものになっていた。
まず、ここに来るまでの車。普段なら、運転手さん付の車に乗って移動しているはずの祥子さまが、今日に限って、ご自分で運転されていたのだ。
『私だって、ちゃんと免許は持っているのよ?』
自ら運転なさると聞いて祐巳が驚いた表情になると、祥子さまは悪戯っぽく微笑みながらそう返してくれた。
確かに、祥子さまは高校卒業間際に免許を取られていたし、その運転技術も、聖さまやどこかの銀杏王子さまと違い、祥子さまらしく丁寧で優雅なものだった。
それにしても、今まで祥子さまが運転する車に乗ったことなんて、免許を取ってすぐの頃に、二人でドライブに行ったときくらいしか無いことなのだから、珍しいなんていったものじゃない。
そして、店選びもそうだ。普段なら、正式なディナーというならまだしも、二人だけで軽く遊んで食事をというときには、祐巳が固くならないように気を使ってか、それとも自らの好奇心からか、もっと庶民的なお店を選ぶのに、このきちんとしたレストランの、しかも個室。
そして、今、目の前に座る祥子さまの様子。
『あまり食欲ないから』と、一品だけ頼んだサラダにも満足に手をつけず、何か言葉を探しているようにそわそわとしながら、紅茶を啜るだけ。
どう見ても、何かがあるとしか思えなかった。
ともかく、こうなったら、自分が思いきって話を切り出して尋ねてみるしかない。折角の美味しいスパゲティも、こんな焦れる気持ちで食べると何とも味気ないけど、そんなことは言っていられない。祐巳は、上品さを失わないギリギリの速さでスパゲティを平らげると、水と紅茶で息を整え、相変わらず挙動不審な祥子さまを見据え、話を切り出した。
「お姉さま……何か、お話があるんですよね?」
「えっ……」
「さっきから、お姉さま、ずっと落ち着いていらっしゃらないみたいですし……一体、どうなさったんですか? 私に話って……なんなのでしょう?」
突然の問いかけにきょとんとしてしまった祥子さまを、祐巳は更に問い詰めて行く。
一体、何がどうしたのか、一刻も早く聞きたい!
祐巳は焦れる気持ちで祥子さまに訴えた。
祐巳のそんな想いが通じたのか、祥子さまは紅茶を少し啜ると、『そうね……』と、ようやく話を切り出す意を決したように呟いた。
「ええ……祐巳、今日はあなたにとても大切なお話があって……それで、こうしてわざわざ付き合ってもらったの」
ゆっくりと話し始めた祥子さまの表情は、普段の凛とした気高い雰囲気とは違い、緊張して、少し儚げな弱さが感じられた。
凛々しい祥子さまも素敵だけど、こう言う祥子さまも素敵かも……と、こんな状況にもかかわらず、祐巳は不謹慎にも思ってしまっていた。
「……祐巳、話、聞いてるの?」
「……えっ? あっ、はっ、はい!」
少し怒気の篭った祥子さまの言葉に、祐巳は慌てて我に返った。
うっとり見とれてしまっていたらしい。祥子さまは、『自分から話を切り出したのに……』と、かなり不機嫌そうにじっと睨んでいた。
ああ、ごめんなさい、お姉さま! でも、お姉さまが、あまりにもお美しいからいけないのです! だから、ついつい見とれてしまって……
祐巳は、そんな理不尽な言い訳を心の中で叫びながら、お怒りを静めてもらおうと『申し訳ありません』と、ぺこぺこと頭を下げた。
祥子さまは、『大事な話だから、ちゃんと聞きなさいね』と、少し疲れたように頭に手を当てて、ため息をついていた。
「あの……それで……一体、何なのでしょうか?」
気持ちを入れ直し、祐巳は改めて尋ねた。
頭を抱えていた祥子さまは、祐巳の声にゆっくりと顔を上げると、じっと、祐巳の胸元を見つめた。
急に見つめられ、『なんだろう? もしかして、服が乱れているのかな?』などと思い、身だしなみを見直したが、特に乱れなどはなかった。
一体、お姉さまは何を見ているのだろう? 疑問に思った時、祥子さまがゆっくりと喋り始めた。
「祐巳……首からかかっているそれ……」
「えっ……あっ」
その言葉で、祐巳は祥子さまの視線が何に向けられていたのかようやく悟った。
今から数年前、高校一年生の学園祭の最終日にお姉さまから頂いて以来、ほとんど毎日欠かさず身につけている、祐巳に取って何物にも変えがたい、一番の宝物。
そう。お姉さまから頂いた、姉妹の証のロザリオだった。
ロザリオがどうしたのだろう? 言い知れぬ不安に、服の上からロザリオを握り締めていた祐巳に、その不安が現実の物となって襲い掛かった。
「祐巳……そのロザリオを……返して欲しいの」
その言葉を聞いた瞬間、祐巳は声を上げることすら出来ず、頭の中が真っ白になってしまった。
ロザリオを返す。それはつまり、姉妹関係の解消を意味する。
いや、正確には、お姉さまが高等部を卒業された時点で、姉妹関係は解消されるというのが姉妹制度の決まりだけれども、絆はそう簡単に割り切れるものでは無い。まして、祐巳と祥子さまは、同じリリアン女子大学に進学したこともあり、なんとなく高校時代が延長しているような気分がして、その傾向は強かった。
それなのに、今、祥子さまは、祐巳にロザリオを返すように求めた。
一体何があったのだろう。理由を考える余裕も無い。ただ、祐巳は、この世の終わりを目の当たりにしたかのような、耐え切れない絶望に打ちひしがれるしかなかった。
真っ白に燃え尽きてしまった祐巳を現実に引き戻したのは、呆れたような祥子さまのお叱りの言葉だった。
「祐巳……ちょっと、祐巳! 一人で勝手に話を進めないで頂戴!」
「……えっ?」
空ろな目で見つめると、祥子さまはやれやれと腕を組み、『まったく、あなたは相変わらず一人で先走り過ぎるわね』と、ため息をついていた。
そんな言い方は酷いです。だって、いきなりロザリオを返せなんて言われたら、誰だってこうなってしまいます!
祐巳は声に出す元気は無く、心の中で悲しく叫びながら、祥子さまを抗議の眼差しで見つめ返した。
祥子さまはそんな祐巳に『話を最後まで聞きなさい』と前置きをして、『こほんっ』と小さく咳払いをして話始めた。
「あのね。祐巳にロザリオを返して欲しいと言ったのは……その……」
また言いよどむ祥子さまに、祐巳は『お姉さまがそんなに言いづらいこと……やっぱりお別れに違いない』と、今にも泣きそうな顔になってしまった。
祥子さまは祐巳のそんな表情に気付くと『だからそうじゃないと言ってるでしょ!』と、少しイラついたような声を上げた。
「ロザリオを返して欲しいと言ったのは、祐巳とお別れしたからじゃないのよ。代わりに……ロザリオの代わりに、祐巳に別の物を受け取って欲しいの」
「……別の物……ですか?」
どうやら、ただ単に姉妹関係の解消でさようならというわけではないらしいとわかり、祐巳はようやく我を取り戻し、きょとんと首を傾げて祥子さまの言葉の続きを待った。
「あのね……その……」
相変わらず歯切れの悪い祥子さま。本当に、今日はどうなさったのだろうか。祥子さまと姉妹になって数年。色々な姿を見て来たけれども、今日ほど落ち着かない祥子さまを見るのは、初めてだった。
そんな、こちらの不安感を煽るような姿を見せられては、あれこれ悪い想像をしてしまうのは仕方ないことだ。『一人で、勝手に話を進めないで』と言うのなら、早く話を終わらせて欲しいなあと切実に感じながら、祐巳はじっと祥子さまを見つめ続けた。
しかし、祥子さまは、『えっと……だからね、そのね……』と、本当に今まで見たこともないくらいの歯切れの悪さで言いよどむばかりだった。
「お姉さま、しっかりなさってください!」
とうとう耐え切れなくなった祐巳は、なんとか祥子さまに落ち着いてもらおうと、発破をかけるように言った。
「わっ、わかってるわ……その、あのね」
祐巳の激励に、遂に覚悟を決めたように、祥子さまは懐に手を入れると、そこから何かを取り出してテーブルの上に置いた。
それは、小さな紫色のフェルトの箱。きょとんと祐巳が見ていると、祥子さまはその蓋をパカッと開け、祐巳の前へ差し出した。
「……え」
その箱の中身を見て、祐巳は驚いて絶句した。
小さな箱の中、柔らかそうな紫のクッションの上にひっそりと置かれていたのは、シンプルなデザインのリング。その中心には、窓から差し込む日差しを受け、キラキラと透明な光を放つ小さな石――ダイヤモンドが飾られている素敵なものだった。
これを、ロザリオの代わりにというのだろうか? でも、一体なんで急に指輪なんか。
その真意が読めずに首を捻る祐巳に、祥子さまは小さく深呼吸すると、祐巳の目を見据え、とんでもない爆弾発言をしてくれた。
「祐巳……その指輪を……あなたの左手の薬指にはめて欲しいの」
「左手の薬指に……あっ、はい……って、ええ〜っ!」
言われるまま、箱から指輪を取って左手の薬指にはめようとした刹那、祐巳はその重大な意味に気付き、大声を上げた。
「ちょ、ちょっと祐巳! 気をつけなさい! 個室と言っても、ここはお店の中なんですから」
『他のお客さんに迷惑でしょ』と、祥子さまは顔をしかめて嗜める。
けど、それは無理と言うものだ。だって、こんな話を聞かされて、落ち着いて要られるわけがない。
左手の薬指につける指輪。それが何を意味するかくらい、祐巳にだってすぐわかる。
でも、まさかそんな……
「あの……お姉さま……それは……その……一体、どういう……」
『左手の薬指につける指輪に、自分が知る以外の意味があっただろうか?』などとあれこれ思考を巡らせ、祐巳は呆然とその真意を尋ねた。
祥子さまは恥ずかしげに顔を赤らめて俯き、上目遣いで祐巳を見つめて一言返した。
「それは……その通りの意味よ。みなまで言わせないで」
「その通りって……あの、お姉さま、それは……」
まさか、いや、でも、そんな……
混乱してあたふたとする祐巳に、祥子さまは『しょうがないわね』と、真っ赤な顔を上げると、正面から祐巳を見据えて、はっきりとおっしゃった。
「プロポーズよ……私と……婚約して欲しいと言っているのよ」
「えっ……ええっーっ!」
左薬指につける指輪と言うことで、まさか……と思いながらも予想はしていた。……予想はしていたけど、まさか本当にそうだなんて!
いくら『みっともない』と窘められても、叫ばずにはいられない程に大きな衝撃だった。
祥子さまは『そんなにびっくりしなくてもいいじゃない』と、少し不服そうな様子で呟くと、一呼吸入れて、またじっと祐巳を見つめて語り始めた。
「……ロザリオを返して欲しいと言ったのは、姉妹の関係を解消して……一緒に並んでこれからの人生を共に過ごしていく、『伴侶』という新しい関係を築きたかったから。……祐巳、私と、結婚して頂戴」
遂に祥子さまの口から飛び出た『結婚』と言う決定的な言葉に、祐巳の鼓動はありえない速さで『ドクドクッ!』と高鳴り始めた。
どうしよう、どうしよう? 落ち着け、落ち着きなさい、福沢祐巳!
まさか、お姉さまにプロポーズされるなんて……なんて、幸せな! ……って、いやいや、そんな単純に喜んでいる場合じゃない!
ともかく、今の混乱した状態では、何を言えばいいのか思いつかない。まずは落ちつかないと……
祐巳は、自分の前の水をグイっと一息で飲み、更に少し温くなっていた紅茶も飲み干し、それでも足りずに、『これ、頂きますね』と、祥子さまの前にあったコップの水をも一気に飲み干して、ようやく少し落ち着きを取り戻した。
「あの……その……えっと……」
祐巳は、とりあえず口を開いてみたものの、あまりにも突拍子も無い申し出に、一体何から聞いて行けばいいのやら、考えがまとまらなかった。
と、祐巳が気を落ち着けている間に、同じように気持ちを落ち着けていたのか、祥子さまがいつもの冷静さを取り戻したように、凛とした佇まいで切り出した。
「まあ……突然の話だから、色々とあるでしょう? 説明してあげるから、一つ一つ言って御覧なさい」
そう言って、祐巳を落ち着かせるように優しく微笑む祥子さま。
その笑顔につられる様に、祐巳もどうにか、まともに考えられる程度まで落ち着く事が出来た。
やっぱり、お姉さまが落ち着いていてくださると、私も安心出来るなあ。祐巳は自分に取ってのお姉さまの存在の大きさと、そんな大切なお姉さまから、なんとプロポーズされてしまったという事の重大さを改めて感じながら、とりあえず、思いつくままに尋ねていくことにした。
「あの……まずは……婚約って……その、柏木さんとのことは……」
祐巳が真っ先に尋ねたのは、本来の祥子さまの婚約者、『銀杏王子』こと柏木優さんとの事だった。
柏木さんの『同性愛』が原因で、祥子さまの中では、もう随分前に終わったことになっている婚約関係だが、正式に婚約解消したとは聞いていない。
前々からそれが不安で、『どうなっているんですか?』と聞きたかった祐巳にとって、まずは一番気になることだった。
おそるおそる尋ねた祐巳に、祥子さまは、『ああ、そのことね』と、いともあっさり答えてくれた。
「それなら問題ないわ。昨夜……というよりも、今日の未明かしら? 正式に婚約解消することをお爺様やお父様に了承して頂いたから。プロポーズするんですもの、それくらいのケジメはきっちりとつけてきたわよ」
「そうなんですか」
それを聞き、プロポーズのことと別にして、祐巳は、ほっと胸を撫で下ろした。
柏木さんとの婚約問題は、ずっと祥子さまの中で重荷になっていた大きな問題だった。それが無事に解決したことは、祐巳にとっても一安心だった。
けれど、祥子さまと結婚させて、柏木さんを小笠原家の跡取りにと考えていたらしいお爺様やお父様を、どうやって説得なされたのだろう?
そんな疑問が、またまた顔に出ていたのか、祥子さまは『その辺りはちゃんと考えていたのよ』と、更に詳しい説明を始めてくださった。
「私自身が、小笠原家の跡継ぎとして立派にやっていけると証明するために、この一年半ずっと頑張って来たし、それに、優さんとも協力して一緒に説得したし。婚約は解消しても、仕事上のパートナーとしては優さんがずっと協力してくれるということもあるから、二人とも、思ったよりはあっさりと納得してくれたわ」
祥子さまの説明に、祐巳はなるほどと納得した。
確かに大学進学後からの一年半。祥子さまが残して来た実績を見れば、跡継ぎとして相応しい実力だと納得させるには十分だろう。
そして、仕事上のパートナーではあり続けると言う柏木さんの存在。言うのもあれだけど、人格的には多々問題がある柏木さんも、仕事に関しては祥子さまに負けず劣らずのやり手らしいし、そう言う面では頼りになるのだろう。
でも、仕事とは言え、柏木さんが祥子さまの傍に居続けると言うのはちょっと嫌かもしれない。こんなときに、そう言う細かいところにすぐ考えが行ってしまう自分に、祐巳は思わず苦笑してしまった。
「優さんとの婚約については、そう言うことで決着が着いているわ。……他になにかある?」
柏木さんとの話をそう言ってまとめ、次の質問を促して来た祥子さまに、祐巳は俯きしばし考える。
聞きたいことは色々ある。『本当に、私なんかでいいのでしょうか?』とか『結婚式はやっぱり教会ですよね』とか……って、それは気が早すぎるか。
一瞬の思案の後、祐巳は、どうしても祥子さまに確認しておかなければいけない、決定的な問題があることにようやく気付き、息を飲んだ。
そうだ……柏木さんとの婚約問題なんかより、身分の違いなんかより、もっともっと根源的な、厚く高い壁があるじゃないか。
それに気付き、祐巳の表情は今までにないくらいに、暗く重く沈んだものになった。
「……祐巳? どうしたの?」
祐巳のわかりやすい表情の変化に、祥子さまは怪訝そうに首を捻った。
そんな祥子さまの様子からは、二人の間にあるとても深刻な問題に気付いているようには思えない。
お姉さま……わかっていらっしゃるんですか?
祐巳は心の中で呟きながら、出来ることなら口にしたくは無い……決定的な問題を、投げかけた。
「お姉さま……結婚と言っても……私たちは……女同士なんですよ?」
――同性。二人の間に広がる、最大の壁。
そう、私も祥子さまも女同士。いくら二人が愛し合い、結ばれたいと思っても、世間からは、決してそれを認めては貰えないのだ。
法律や世間の目など気にせずに、心のままに……と言うのはたやすいが、一般人ならまだしも、小笠原家の時期当主という公の地位にある祥子さまにとっては、それは致命的なスキャンダルになってしまいかねない。
その辺りのことを、祥子さまほど聡明な方が考えていないわけがないのだけれども……
不安そうに祥子さまを見つめる祐巳は、やがて、妙な事に気付いた。
「あの……祥子さま、どうなさったんですか?」
怪訝そうに首を少し傾げ、祐巳は尋ねた。
何故なら、祐巳が切り出した決定的な問題点の指摘に、祥子さまはきょとんとした顔で首を傾げるだけだったのだから。
自分は、何か変なことを言っただろうか? 一番、大切な話だったはずなのにと首を傾げた祐巳に、祥子さまが不思議そうに尋ねて来た。
「祐巳……もしかして、知らないの?」
「……えっ? 知らないって、何をですか?」
さっぱり見当もつかず、首を傾げるしか無い祐巳を見て、祥子さまはふと気付いたように言った。
「ああ、そう言えば、祐巳、今朝は寝坊したと言っていたわね。……そう、だから知らないのね」
「あの……すいません、お姉さま、話がさっぱり見えてこないんですけど……」
一人で納得したように肯いている祥子さまに、祐巳は『早く教えてください』と急かすように尋ねた。
しかし、祥子さまは『口で説明するより、実際に見た方が早いわ』と言うと、部屋に備え付けの呼び鈴を鳴らしてお店の人を呼ぶと『今日の朝刊を持って来てくださる?』と注文したのだった。
「新聞がなにか?」
「いいから、少し待っていなさい」
新聞に一体何が載っているというのだろうか? いくら考えても見当がつかずに戸惑う祐巳の元に、やがて祥子さまの命を受けたお店のウェイターさんが、一部の新聞を持って来てくれた。
「一面を御覧なさい」
新聞を受け取る祐巳に、横から祥子さまのちょっと悪戯っぽいニュアンスを感じさせる声が聞こえて来た。
偶然にも、福沢家で取っているものと同じ新聞を受け取ると、祐巳は小さく折りたたまれたそれを広げ、早速一面に目を通した。
一面一杯を使って、大々的に報じられているトップニュース。その大きな題字を見て、祐巳はただ声を上げることも出来ずに絶句した。
ぽかーんとする祐巳を見て、祥子さまは『そう言うことよ』と、にっこりと微笑んで告げた。
「これって……えっ? えーっ!?」
今日は、本当に驚く事が多いなあと、心のどこかでふと冷静に思いながら、祐巳は何回目かの悲鳴にも似た絶叫を上げずには居られなかった。
そこに書かれていた題字は、祥子さまが『同性結婚』と言う問題に対して、なんでこんなに冷静で居られるのか、その疑問を一目で解決してくれる、単純明快な言葉だった。
『同性結婚認可法案成立!』
ショックから覚めた祐巳は、大急ぎで一面の記事を貪るように読み始めた。
「その様子だと本当に寝耳に水みたいね。……散々揉めていたけど、今日の未明に、ようやく国会で正式に成立したのよ、その法案。今朝はその話題でどこのニュースも新聞も持ちきりだったのに……祐巳もう大学生なのだから、毎朝、新聞やニュースを見て、社会情勢に気を配るようになさいね」
祥子さまの苦笑混じりの声を聞きながら、祐巳はざっと記事を読み進めて大まかな内容を把握した。
昨今の同性愛者に対する社会的認知の広がりの影響を受け、彼、彼女らの人権保護の観点から、『同姓結婚認可法』と一般的に呼ばれているこの法案が国会に提出されたのは、確か昨年末だった。
それ以来、国会でその法案の成否に関してずっと論争が繰り広げられて来たのは、祐巳だってちゃんと知っていた。
『これが成立したら、お姉さまと結婚出来たりするんだ』
なんて言う妄想を繰り広げて、一人『キャッキャッ!』とはしゃぐなんて、恥ずかしいことをしたこともある。
……そのときは、まさかその妄想が現実になるなんて、思わなかったけど。
記事を読み終え、呆然と顔を上げた祐巳の目に、にっこりと微笑む祥子さまの顔が飛び込んで来た。
「これで、納得したかしら? 優さんとの婚約問題も解決。ついでに言うと、うちの人間には、もう、祐巳にプロポーズをするということは昨日のうちに伝えて了解も取ってあるわ。そして、法律的にも近い将来問題無くなる。どう? まだ何かある?」
「あの……えっと……」
確かに、それ以上外的な問題点は思い浮かばず、祐巳は言葉に詰まってしまった。
そんな祐巳に、祥子さまは再び思いつめた表情になって、尋ねて来た。
「祐巳……私と……結婚してくれる?」
答えを求められた祐巳は、すぐには答える事が出来ず、グルグルと回り巡る思考に酔ったように、目の前に置かれたキラキラと輝くダイヤを呆然と見つめ続けた――