Motherland




 ──赤い幻を、見ている。

 それに気づいたのは、いつの頃だったろうか。何度か肌を重ねた後だった気もするし、良く思い返せば、わりと初めから見ていたような記憶もある。
 いや、いつからなんてのは結局のところそう大した問題じゃない。折られた指が両手の数を超えるほどに抱き合っても、その錯覚が消せないことの方が厄介だ。

 と言うよりも、むしろ最近は──いっそ現実と見紛うほどに、その幻は。

「……んっ、あ……ふ、しろ、う……」
「遠、坂」
 薄く張り詰めた障子紙越しに、清浄な月の光が透けている。青く滲むその明かりだけを灯した宵の部屋で、少女の細い指先が柔らかにシーツを掻く。
「ん、ん──ふ、あ、ああ……」
 ほつれ乱れた黒髪が、汗で濡れた首筋に貼りついている。唇も瞳も透明な水の膜に包まれ、その瑞々しい白い肉は、どこもかしこも目に見えないゼリー状の粘膜にまとわりつかれているように艶かしい手触りだ。火照る額に、薄い鎖骨に、揺れる乳房にまで唇を注ぎながら、ぐちゃぐちゃという音と共に抽送を繰り返す。
「あ、……んっ……ああ……っ!」
 ねじ込んだこちらのペニスをぎゅうぎゅうに締め上げてくる彼女の圧力が、その限界が近いことを教えてきていた。
「んうっ、あ──ん、ど、したの……? 士郎、この頃、なんか──」
 弱々しい声を漏らす遠坂を、乱暴に揺さぶりながら見下ろす。その後に続く言葉を聞きたくなくて、唇に噛みつきながら一層強く突き上げた。
「ふぁっ……! だ、め──そんなに、激しく、しちゃ……あ、あああ……っっ!!」
 奥のざらついた部分を抉りながら、小さな核を押しつぶすと、面白いようにあっさりと遠坂が達する。のけ反る首は頼り無くて、指を食い込ませれば、蝋細工のようにたやすくぽきりと折れてしまいそうだった。
「遠坂──遠坂……っ!」
 俺の思い通りに最後まで操られ、強引に頂点を踏み越えさせられた少女の体を抱きしめて、こみ上げる精を吐き出しながらその名を呼ぶ。
「あ……あ、士郎……し、ろう……わたし、わ……たし……っ!!」
 甘く震える遠坂の声は、間違いなく俺を求めている。その両腕は、俺の背中にきつく回されていて、確かにこの胸の中には彼女の暖かなぬくもりが在る。

 ──なのに。

 絶頂に達した瞬間、彼女のココロを守る理性の殻が音を立てて外れ去った。今は意識して魔力のやり取りはしていないけれど、一度作り上げられたパス自体はまだ存在している。互いを守る殻が消え去ると、その後に残されるのは剥き出しの精神だけだ。
 交合する肉を通して、衛宮士郎の自我が彼女の中に引きずられてゆくようだった。ごうごうと耳元で唸る風の音。爪の先まで快感に痺れていく肉体とは反対に、心は鋭利な刃物の切っ先のように凛と研ぎ澄まされていく。

 この先にあるものを、見たくなど無いのに。

 ……ああ。
 だけどその祈りはかなえられなくて、最後の一瞬、俺はいつも遠坂の中に幻を見る。

 そう。

 それは彼女のココロに、いつまでも消え残る光景。



 ──────無数の剣の丘に立つ、赤い騎士のはるかな背中。





Motherland




 ほんの数週間のあいだに、これまでの人生でそれなりに培ってきた常識というものが、根底から音を立てて崩れそうな大事件に立て続けに巻き込まれた、冬。
 聖杯戦争──今口に出してみても、何とも現実からかけ離れた響きだ──の終結も、もう半年も前のことになってしまった。
 あの戦いの中、目の前でイリヤを失い、自分のサーヴァントであったセイバーを見送り、そして遠坂凛という最高の魔術の師匠と、誰よりも大切な最愛の恋人を、衛宮士郎は同時にこの手に得た。
 それでも失くしたものは多く、肉体にも心にも傷は未だ深く、時に癒えない悪夢が蘇って眠れない夜もある。遠坂は俺よりも強いし、そう簡単に表に出すことは無いけれど、彼女だってきっと一緒だろう。あまり聖杯戦争の時の話は二人の間で出ないから、良くは分からないけど。
 それでも日常という歯車は絶えず回り続け、俺たちの背中を押して、ありふれた生活の繰り返しを休むことなく促し続ける。
 朝起きて、学校に行って、その後はバイトと魔術の鍛練。それが済めば時々は、その──恋人らしいこともしてみて、手を取り合ったまま眠りについて、そしてまた朝が訪れる。
 変わり映えないそんな日々も、カレンダーを一月過ぎる頃には、新しい季節の始まりを連れてくる。
 葉桜の時期も盛りを過ぎ、連なる街路樹は緑の色を濃くしていて、日差しも少しずつ強くなってきた。穏やかな春が終わり、初夏が巡ってくるのだろう。
 ──遠坂と二人で迎える、初めての季節。
 高鳴る期待と、僅かばかりの不安が入り交じった複雑な感情が、いっぱいに胸を満たしている。
「さ、少し急ぐか。遠坂を待たせちゃ悪いしな」
 今日はあまり忙しくなかったので、バイトを早めに切り上げて貰い、うちに待機している筈の彼女のことを思いながら、走るペースを上げる。靴底に響いてくる、アスファルトの固い感触が心地良い。
 日の長い時節だ。まだ夕焼けの兆しは無く、見上げた空は染み一つ無く澄み渡っている。
 汚れない青の色が、少しだけ目に痛かった。


「はい。じゃ、もう一度基礎を確認するわね。このランプを『強化』してみて」
 遠坂の言葉に、俺は思わずえ、と声を立てて眼前の彼女を見返した。遠坂は、──いいからやりなさい、と、見慣れた形のランプをこちらに手渡してくる。
「……遠坂?」
「質問は後よ。とりあえずやってみなさい」
 手渡されたランプを受け取り、意識を集中して魔術回路を稼働させつつも、俺は幾分不可解な気分に捕らわれる。
 ──遠坂と共に渡英することを決断してからというもの、学校が終わると、彼女は真っ直ぐに俺の家に来るのが日課になっていた。俺が居ない時でも、遠坂には合鍵を渡しているので、彼女は先に家に入って俺の帰りを待っている。まあ、種を明かせば別に色っぽい理由では無く、俺に魔術を教えてくれる為だ。
 遠坂には相当の時間を俺の為に削らせていて申し訳なくもあるのだけど、いつ勉強しているものやら、学校の成績はまったく落ちる気配が無い。魔術だけじゃなく、時には家庭教師まで頼みたい気分になる。
 晩飯を食べた後、藤ねえの乱入なんかが無ければ──最近は漸く俺と遠坂の関係を認めてくれたのか、一週間に一度くらいに回数が減った──場所を移して魔術の鍛練と相成る。
 何処でやるかはその時の鍛練の内容次第。大がかりな投影を行うようなものであれば、土蔵や道場を使うこともあるし、魔術理論の講義が中心なら、遠坂に提供している離れの部屋が教室となる。
 今日は、魔術回路が暴走した時のリスクと、その反動における実例を延々と講義された。なんて言うか、うん、……晩飯を抜いておけば良かったな、と思うほどにはえぐい内容だった。
「士郎は特に良く覚えておかないと。
 わたしも最初は気づかなかったけれど、アーチャーの固有結界を見て理解したわ。貴方の魔術は特別なのよ。
 結局、貴方の持つ『解析』の能力や、『強化』『投影』と言ったすべての魔術は、『剣を作る』というその固有結界から派生したものなの。だから、ひとたびコントロールを失えば、貴方は外側からではなく、内側から自分の魔術に殺される。それを絶対に忘れてはダメよ」
「──分かった」
 時々。
 無意識になんだろうけど、こうして遠坂は、あいつのことを引き合いに出して話を展開することがある。あの赤い騎士は、俺が自分の肉体と精神とを極限にまで磨き上げた姿なんだから、彼女がそれを俺の鑑にしようとするのも決して間違いじゃない。俺にとってのひとつの指針としても、絶対に俺が目指してはならない道としても、遠坂は奴のことを口にする。
 ──だけど、俺は。
 そのたびに、いつもは敢えて思い出さないようにしている、ひとつの光景を

 ────彼女の中に、見てしまう。

─────同調(トレース)開始(オン)
 それ以上の思考を辿るのをやめて、俺は遠坂から言い渡された課題に意識を切り換えた。
 自己を変節させる呪文は、魔術回路を起動させる鍵。昏闇にぽう、と白く灯る魔力の光が、自我に刻まれた基盤の道筋に添って、縦横無尽に指先の隅々まで満ちていく。
─────構成材質、解明
 手に取ったランプに魔力を流し、その構造を瞬時に『解析』する。
 解析映像を視覚化するまでも無い。ここ数カ月の遠坂の指導と、俺自身の鍛練によって、極めて構造の簡単なこの物質を解析─強化するのにかかる時間は、僅か数秒にまで短縮されている。あと一呼吸で、このランプは元の数倍の強度を持つ物質にいともたやすく『強化』される筈だ。
 ──だから、よけい分からない。
 ここ最近は、基礎中の基礎である単純な『強化』の魔術を遠坂から命じられたことは無かった。毎日の鍛練のひとつとして、準備運動代わりにやってはいるが、呼吸をするほどに肌に馴染んでしまったこの過程を、何故今更彼女は自分の目の前でやらせようと言うのか───

 ぱりん。

「……え、」
 酷く乾いた音がして、俺は半眼に閉じていた瞼を見開いた。その視界に飛び込んできた光景が一瞬信じられなくて、思わず眼前に立っていた遠坂の方を見る。
「あの──遠坂、ひょっとして何かした?」
 遠坂は口を引き結んだまま答えようとしない。ただ、厳しい表情でじっとこちらの方を睨み付けている。その視線の先を追って、俺も再び、その光景に目を向けた。
 俺の足元に、粉々に砕けたランプの破片が転がっていた。割れた硝子が、蛍光灯の光を受けて鋭い断面を白く浮かび上がらせている。見た限り、その残骸はさっきまでのただのランプのもので、強化を施された痕跡は無い。
「……っ、」
 指先に、じん、とした鈍い痺れが残っている。僅かではあるが、魔力の制御に失敗したようだった。魔術回路が開いていなかった聖杯戦争前ならいざ知らず、今頃になってこの程度の魔術をミスするなんて到底考えられないことだ。特に今は遠坂の前ということもあって、寸分の油断も無かったのだし。
「ひょっとして遠坂、俺の魔術になんか干渉したとか? 外部からの干渉を退けて、強化の魔術を完成させる課題だったのかな───」
「バカ言わないで。貴方の魔術に干渉? そんな真似出来る訳ないじゃない」
 叩きつけるような遠坂の言葉が、俺の声を遮った。
「固有結界は、術者の心象風景で世界を塗り潰す最大の禁呪よ。さっきも言った通り、強化であれ投影であれ、貴方の魔術はその一部なの。
 そんなものに、外部から簡単に干渉なんて出来るものじゃないわ。そもそも不可能に近いし、仮に干渉し得たとしても、それで変なふうに魔力が暴走したらどうなると思ってるの? 実例は今日散々講義した筈だけど?
 わたしはそんな危険な真似を、自分の弟子に間違ってもやらせたりしないわよ」
 押さえたような低い声で、一息に遠坂はそう言い放つ。眉間に深く刻まれた皺が、彼女の怒りのほどを示していた。こちらの言いがかりめいた問い掛けより、そんな危険な仮定を口にした俺に腹を立てているんだろう。
 ──うん。これは素直にこちらが悪い。
「──ごめん、遠坂。変なこと言って悪かった」
 ぺこり、と頭を下げる。彼女はしばらく黙っていたが、やがて壊れたランプの破片を拾い集め、机の上に片づけてから、俺の方に歩み寄ってきた。
「……士郎」
 椅子に座る俺の前に、少し身を屈めて遠坂が立つ。さらり、と長い黒髪が肩から流れ落ちて、息のかかるほどに彼女の顔が近づいた。青く大きな瞳の中に、何処か呆けたような俺の面が映っている。
 俺と目が合うと、遠坂は張り詰めた眼差しを緩め、穏やかな口調で尋ねてきた。
「体、どこかおかしい所は無い? 痛むとか、違和感を感じるとか」
「え──? いや、特に無いけど」
 指先に残る微かな痺れは消えていなかったが、気にするほどのものでも無い。彼女は少し首を傾げ、本当に? と念を押してきた。
「正直に言ってね。──貴方、強化の魔術に失敗したのよ。もし暴走した魔力が何処かを傷つけていたら、ちゃんと治療しないと影響を後に引きずるわ」
「…………」
 分かっていた事だけど、こうして遠坂から告げられると結構ショックだ。はぁ、と苦いため息を吐き出すと、独り言めいた呟きが勝手に唇からこぼれ落ちた。
「……何で、だろ」
「─────」
「回路の起動も巧く行ってたし、そりゃ──簡単な課題だとは思ったけど、特に油断もしてなかったつもりなんだ。
 なのに、どうして失敗したのかな」
「士郎」
 彼女の声に、俯いていた顔を上げる。魔術の師匠としての厳しい表情と、こちらを心配する一人の少女としての面差しの混じり合った複雑な顔で、遠坂は俺をじっと見つめていた。
「それはわたしが聞きたいわ。
 ──何かあったの? このところ、どうも貴方の様子がおかしく思えるのよ。うん──最初はわたしの気のせいかと思ったけど、その──夜、とかだって、なんか……士郎、別のひとみたいに乱暴な時があるし」
「あ──いや、その、ごめん」
「ううん、その、別に士郎ならイヤじゃないんだけど──って、そんな話じゃなくてっ」
 薄く頬を染めて、遠坂はぶんぶんと首を振る。照れる彼女は可愛いけれど、今はあまり閨の話を持ち出されたくない。彼女自身が恥ずかしがって言葉を切ったのを幸いに、俺は視線で続きを促した。
「……魔力の波動も、何か一定していない感じだったから、今日『強化』の魔術を見せて貰おうとしたんだけど──やっぱり貴方、出来なかったわね」
「─────」
 ──遠坂は、気づいていたのか。だから敢えて、彼女はこんな単純な基本の魔術を俺にやらせたんだ。彼女の疑念を確かめるためではなく、この身を以て自らの不調を俺に悟らせる為に。
 ──だけど。
「バイトの掛け持ちと魔術の鍛練で、少し疲れがかさんだのかしら?
 急いで無理をしても、いい結果にはならないわ。厳しいようなら、基本の鍛練を除いて、少しスケジュールを調整しましょう。遅れた分は、夏休みの間に取り返せばいいし」
 ──だけど、遠坂は肝心のところに気づいてない。

 ───俺が乱れているのは───他ならぬおまえ(・・・)の所為なのに。

 ふと。
 淡々と喋っていた遠坂が、言葉を止めて俺の指先に視線を落としてきた。微かに息を飲む音が、至近距離から直に鼓膜に響いてくる。
「士郎、怪我してる」
「え」
 遠坂の白い手が伸びてきて、少し冷たい柔らかな掌が、ふんわりと俺の右手を抱え込んだ。節くれだったこの人指し指に、僅かだが鮮やかな朱が滲んでいる。
 さっきから感じていた痺れはこれが原因だったのか。恐らく、割れたランプが手の中から落ちた弾みに、硝子の角で切ったのだろう。
「治療するから、じっとしてて」
 そう言って、掌に魔力を込める遠坂を押し止めた。
「ああ、かすり傷だから心配ないよ。こんなの明日には治ってるって」
 実際、大した痛みも無い。回復力だけは無駄にある頑丈な体だから、すぐに傷は塞がるだろう。
 それでも遠坂は、しばらく不安そうに俺を見ていたが、やがて。
「……ん、」
「お、おい、遠坂──?」
 つぷり──と。
 唇を開いて、俺の指先を染める血を、その舌先にぬぐい取った。