10-黒耀      <<Back  Index  Next>>

―― 前略 ――
 底なしの深淵のごとき公子の瞳が暗い光を放った。
「これまでの己のすべてを良しとしていると?」
「良いも悪いもありません。今まで経験してきたすべてが私を作っているんです。無理に記憶を偽れば私は私でなくなってしまう。この体も記憶の一部。見て、聞いて、触れて、味わい、嗅いできたものを覚えている。ですから……」
「その身に刻まれてきた恥辱すら己が物として捨て去る事を拒むか」
 言いながら公子がシェンを押し倒した。やわらかな和毛におおわれた葉はすべらかな花びらにも増して心地良くシェンの裸体を受けとめる。軽い衝撃に息を漏らしたシェンの唇に公子の唇が押しつけられ、舌が差し込まれた。
 シェンはその行為を黙って受け入れる。嫌悪も喜びもなく。
 それでも愛撫に慣れた体はシェンの指示などなくとも勝手に動く。舌で蠢く舌を追い、甘やかに鼻にかかった息を漏らした。指で擦られた乳首はすぐに色づいて勃ちあがり、もっといじってというように無意識に胸を反らす。太腿に手をおかれて自ら脚を開いた。陰茎を強く握られて腰を浮かし、肛口に指を突き入れられて苦痛だけではないものを感じさせる声で喘ぐ。複数の指で内部を掻き回されてほとんど触られてもいないのに屹立した雄から先走りをこぼし、もっと強い刺激を強請るように尻を振った。
 こんな乱暴でおざなりな愛撫にさえ淫らな反応を示す肉体。公子が言った<身に刻まれてきた恥辱>とはこの事か。確かに、昔のシェンは己の身を蹂躙される事を屈辱だと思っていた。ラシャドの思うまま、性の快楽を覚え込まされていく体を汚らわしいと思っていた。キリエに会うまでは。
「は……あっ……」
 引き抜かれた指を追うように腰が揺れる。
「欲しいか?」
 いつの間にか取り出されていた公子の肉棒の先端が尻穴の周囲をなでた。シェンは奥に疼きを感じるその部分が熱を欲してヒクヒクと動いているのを自覚する。彼の体はこの先の快楽をよく知っているから。いつもならここで<ください>と言うところだ。冷めた口調で、ためらいもせず。
 逆らってなどやらない。けれど求められている通りに恥じらいながら熱い眼差しでおもねる事もしない。与えられる快感を素直に受けとめて嬌声をあげ、生理的な涙を流しはするけれど、体が示す反応に羞恥を表す事もない。一人遊びの淫具でしかないようにラシャドを受け入れる。
 けれど今シェンを組み伏せているのはラシャドではない。あの男が見ている訳でもない。
「いらない、と言えばやめてくださるのですか?」
 白い肌をほのかな桃色に染め、長い睫毛の陰の切れ長の眼を潤ませているのに濡れた唇で、そう問う。瞳の色だけは冷ややかに。
「私は天邪鬼でな」
 言葉と同時にズンッと楔が打ち込まれた。
「んあぁあァっっ!」
 一気に奥まで貫かれた体が痛みに跳ねあがる。
「欲しいと言われればやめたかも知れぬ。それとも、それを悟って誘ったか? ひどく物欲しげな表情かおをしていたぞ」
「……っこまで、貴方を知りませ……んっ……はっ、んんっ……」
 習慣で公子の腰に脚を絡め、自ら腰を動かして銜え込んだ剛直を自身の善い所に擦りつける。両手はしだかれた花といっしょに大地をつかみ、相手が存在している事など念頭にないように。世界を閉め出すように目をつむって、ただ自分の快楽だけを追っていく。こうしてラシャドを愚弄してきた。
「んんっ……あっ、あああっ!」
 放たれた精でシェンの腹が濡れる。ぐったりと手足を投げ出して気だるさに酔った。初めて後ろの刺激だけでイッてしまった時には羞恥と屈辱に顔を歪め、歯を食いしばって悔し涙を堪えたものだけれど。
 自らは解放する事なく動きを止めた公子が問う。
「この快楽けらくを手放せなんだか?」
 やはりシェンにその身のあさましさを思い起こさせる為に犯したのか。それを嫌悪して? それとも他に思惑があって?
「さあ……?」
 悦楽の余韻に浸りながらうっすらと目を開けたシェンは横たわったまま肩をすくめた。
「それはわかりませんが、この体が私の思い通りに創りあげられたのだとすれば、そうなのでしょう。私はありのままの自分を望んだはずだから」
「ありのままのそなたとは何だ? ここにいるのはラシャドという魔術師に作りあげられた性欲処理用の自動人形ではないのか?」
「たとえそうだとしても、すべてあの男の設計通りに動く訳じゃない」
 瞬間きつい眼差しをしたシェンは繋がったまま膝にまたがるようにゆっくりと身を起こして公子の首に腕を回す。恋人にするように。そして感情を映さぬ美しい瞳を覗き込んだ。深い闇に吸い込まれそうになる。冷たい光に灼かれそうに。それでもシェンは目を逸らそうとはしないで不敵な笑みを浮かべた。
「むしろ仕上がりには大いに不服があるはずだ。そう仕組んだのは俺だから、今の俺は俺自身の作品でもある」
「俺、か……。敬語を使うのはやめたのか?」
「貴方は俺におもねって欲しい訳ではないようだから」
 最初からそれは感じていた。それでもいきなりタメ口をきいたりしなかったのは礼儀と習慣から。
 けれど一人称を俺に変えたのは公子の意向云々ではなくシェンがそうしたくなったから。望んで今のようになったのではないとしてもただ流されてきたのではなく、数多の分岐点で自ら舵を取ってきたのだと示したくなったから。川の流れを変える事はできなくとも、選んだ水路がどこへ続いているのか知らなかったとしても、進む先を決めてきたのはシェン自身だと。
「何故そう思う?」
「貴方の言葉を信じるなら、この世界では貴方が思うだけで全てその通りになる事になる。俺なら、そんなつまらない人生には耐えられないから。俺しか、貴方に逆らえる存在がいないようだから」
 微かに公子の表情が動いたように見えたのは気のせいか。
「私が望んでいるから私に逆らうと? そなたに逆らわれる事が望みなら、その望みに反するには……」
「今はパラドックスをもてあそびたい気分じゃない」
 言うなり公子の唇に吸いついた。応えてくれぬ唇から一旦離れて舌先で唇の輪郭をなぞる。上唇と下唇を交互に吸い、それでも開かぬ裂け目に舌先を潜り込ませようとしながら噛みつくように唇全体をおおった。
 途端、髪をつかまれて顔を引き離される。
「それほど飢えていたか?」
 凍てつく視線もシェンを臆させる事はできなかった。が、シェンは今更恥ずかしがっているかのような仕草で目を伏せる。
「セックスに飢えていた事なんて……ない」
 本当に。どんなに体が快感を覚えさせられても。はたからは求めているように見えていたとしても。
「貴方が欲しいだけだ。貴方だから……」
 しっかりと脚をからめ直したシェンが腰を揺らし始めた。その動きは最前の手前勝手な淫楽を求めるものとは違う。公子を感じさせようと意識的に締め付け、懸命に揺さぶっていた。だが公子はまるで反応を見せず、逆にシェンの息が乱れて甘やかな吐息が漏れ始める。
「これまで望んで抱かれた事はないと言うか?」
 シェンが自分の胸の裡を探る僅かな間。
「望んだ事は……ある。一度だけ。あの時は彼の奔放さに惹かれて……彼の飢えにひきずられた……んっ……心の底から快楽に浸る彼が……うらやましく……て……無心に乱れる彼……の美しさに……とらわれて……はっ、ァ……。
 だけどあの時はこんな気持ちじゃなかった。こんな……こんな……んっ……」
 自分の気持ちを表す言葉が見つけられない。なぜ、人ですらない存在に欲情したりするのだろう。
 一目見た時から公子に惹かれてはいた。非現実的な程に美しかったから。だがそれは恋とか、劣情とかいった感情とは違う。あえて喩えるなら宝石や美術品から目が離せないのと似ているかも知れない。
 公子の強烈な存在感オーラに呑まれたのでもない。それならシェンの姿がゆらいでいるはずだから。
 長い長い苦しみから彼を解放し、快感を与えてくれた存在に刷り込みされたのだろうか? ラシャドに散々似たような目に遭わされたとはいえ、あの苦しみはそれまで経験してきた苦痛が苦痛の入り口でしかなかったのだと思える程のものだったから。
 けれどそれも違う、とシェンの心が告げる。
 あえて理由をこじつけるとするならば、公子がシェンを欲しがらないから、という事になるのだろうか? 労せず与えられる物は欲しくないが、それが手に入れられないと思ったとたん欲しくなる子供じみた心理か? 自分を性の対象としてしか見ない者達につくづく嫌気がさしていたはずなのに、冷ややかな公子の心に情熱の炎を灯させてみたいという欲望を感じ始めている。厚い壁ほど打ち破りたくなるという挑戦欲? それとも征服欲、支配欲といった雄の本能と呼ばれるもの?
 いや、理由などいらない。そう気づいたシェンは艶やかに微笑んだ。
「俺は……貴方に……魔に魅入られたんだ」
「魅入られてしまっては逆らえぬであろう?」
「んっ、大丈夫……俺に魅入られたと言っていた……連中は誰も……俺の意にそってなどくれなかったから……」
「それで、強引に私を犯しているつもりなのか?」
「対等……っ……の立場で情を交わしていると言って欲しっ、んあっ!」
 中の物に動きを感じてシェンが言葉を途切れさせる。
「対等だと?」
「それともご主人様と呼んで欲しいか?」
 ピタリと動きを止めたシェンの瞳が冷たく光った。挑戦の輝きを帯びて。滅多に表に出さぬとはいえシェンが確かに持っている大貴族の傲慢さで。
「身のほど知らずな」
「うああああっ!!」
 突然シェンがのけ反った。公子に両腕をつかまれなければ大地に頭を打ちつけていただろう。激しい快感が楔を打ち込まれた後口から脳天まで ―― そして背中と同じように反り返った爪先までも ―― を貫き、全身が性器になってしまった気がした。
 神経を、快楽の中枢を直接支配されている。痛みを軽減する為に自分の神経系に幾ばくかの偽情報を流す術を覚えたシェンにはわかった。シェンの使うささやかで不確かな技とは違ってダイレクトな刺激が爆発するように全身を襲う。あまりの悦楽に精神を集中する事ができなくて、神経に送り込まれてくる信号を書き換えていくらか刺激を弱める事もかなわない。いや、そんな事をしようという意志さえ苦しい程の喜悦に呑まれて溶け崩れてしまっていた。
 快感カイカンかいかん……快感だけがシェンの全身を駆け巡る。筋肉という筋肉が痙攣し、悲鳴をあげる苦痛カイカン ―― 。捩れる筋肉と酸素の不足に内臓が締めあげられる狂喜いたみ ―― 。狂ったように血液が循環しているのに、なおエネルギーの不足に苛まれるめくるめく脳 ―― 。
 噴きあげるように射精を続ける。粘りけがなくなり、勢いがなくなり、出す物がなくなってもビクンビクンと精巣を搾り続ける屹立。このままではすぐに、赤いものがこぼれてくるようになるだろう。
 まばたきを繰り返す焦点を結ばない瞳から止め処なく溢れる涙。全開と半開きとの間を激しく行き来する口からはだらだらと涎がこぼれ、切れ切れに声が放たれる。
「ああっ……ああっ……ああっっはっ……うぐ……はっ……ぐぅわァあァあ ―― っ!」
 それはもはや嬌声などという可愛らしいものではなかった。理性を完全になくした獣の咆哮。
 間断なく閃き続ける苦悶かんきに気絶など許される訳もなく ―― 。
 神経が焼き切れる前に公子がシェンを解放してくれたのは僥倖と言うべきか。どんなに手酷く壊されたところで、また再生してしまうのだろうが、できればしたくない経験だ。いや、これ以上続けられていれば今度こそ精神が疵を受けて人としての形をなくしていただろう。
 闇に落ちていく意識を遮るものは何もなく、シェンは無を貪った ―― 。




―― 後略 ――

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