01-闇の衣      <<Back  Index  Next>>

 永遠に続くかと思われた激痛が去ると、無感覚という救いが訪れる。
 が、それも束の間。すぐに鈍い痛みが取って代わった。鈍い、といっても最前までの責め苦と比べての話。体中の骨が折れ砕け、多くの筋肉が切断され、あちこちの皮膚が裂けたうえ、内臓も無事ではない。
 彼の体をさいなむのはとてつもない痛苦。
 だが気を失う事は許されず、獣のような悲鳴をあげ続けて枯れ果てた喉から苦しげな息の音が漏れる。打ち捨てられた固く冷たい地面を感じる事も、時折彼を蹴りつけ、排泄物をかけていく異形の者達を見る事もなく、ただただ苦痛に耐え続ける。
 耐えたくはなかった。
 この場で彼の存在を消し去れるなら、喜んでそうする。だが、それは許されなかった。
 この異界には普通の意味での時がなく、そして真の意味での死がない。ひと時の死である眠りでさえ彼には与えられなかった。常の世界なら千回も死んでいる程に苛まれた彼の体は主観時間にして何千日も放置され、燃えるような苦痛を伴いながらゆるゆると再生する。
 そしてまた、無力な彼を玩具にしたたわむれが始まる。
 打たれ、引き裂かれ、噛まれ、えぐられ、焼かれ、犯されて、投げ出される。
 普通ならとっくに気が狂っている。
 人ではなく物に成り果てて己の形を忘れ、異界のちりとなっている。いや、この世界に投げ込まれたその瞬間に、この地の異質さにむしばまれて形を失っている。そう、彼は知らなかったが、その世界では精神が入れ物の形を決める。だから彼がかたくなに守り通した自己 ―― 人としての魂 ―― を手放しさえすれば、望んでやまない死 ―― 少なくともそれに類似したもの ―― を手に入れる事ができたのだ。
 だが、彼の精神は強靱きょうじんだった。あまりにも。
 その強靱さゆえにラシャドは幼かった彼を欲し、彼をだました。その強靱さゆえに彼はラシャドに取り込まれる事なく成長し、ラシャドの魔術わざを盗んだ。その強靱さゆえに彼はラシャドにだまされていた事を知り、ラシャドに挑んだ。
 そして破局 ―― 。
 彼の仇、彼の主人、彼の師である偉大なる魔術師ラシャドは彼を異界に送り込んだ。魔界と呼ばれる地獄へ。
 生身のまま彼の地に来たった人間は彼が最初だろう。ひょっとすると最後かもしれぬ。魔界への扉は魔物を呼び出す為に開くもので、人が行き来する為のものではない。
 呼び出される魔物にしても、まったき姿では人界に現れぬ。真の肉体を損なわぬよう魂のみを移動させ、人の世の塵あくた、あるいは生け贄を使って仮の肉体ころもをまとう。自らの肉体を伴って人界と魔界を行き来するのは、魔術師などにわづらわされぬ高位の妖魔のみ。その妖魔とて、その全力を振るえる真の姿では長くは人界に留まれぬ。
 彼はあらゆる意味において稀有な存在だった。
 その物珍しさのゆえか、魔界の公子ともいうべき強大なる存在が、長い長い間 ―― 公子にとっては束の間 ―― 下位の魔物共にもてあそばれていた彼に目をとめた。
 黒く、猛々しく、しなやかで美しい獣の姿をとっていた公子はグズグズの肉塊と化していた彼の臭いを嗅ぎ、固まりかけていた血をひと舐めすると、次の瞬間青年の装いをまとった。
 夜の闇よりなお黒く、それでいて輝く長い黒髪。きらめく星とも暗黒の深淵とも見える瞳。名匠の手になる白磁のごときなめらかな肌は透けるようで、されど艶めかしい血色の良さも持っている。顔かたちの美しさは言うに及ばず、指の一本一本、爪の一枚一枚に至るまで完璧な体躯を創りだした。華美ではないが貴公子らしい上品な黒い衣装を身につけた見目麗しい人型を。
「立て」
 足下の肉塊に命じると、それは見る間に全裸の若者の姿になって立ちあがった。
 肩下までのびた漆黒の髪には癖がなく、色白の肌や睫毛の長い切れ長の眼、男にしては繊細な感じの顎が女性的な印象を与える。だが、細くはあってもきりりとした眉と意志の強そうな口元が力強さを示していた。まだ二十歳にはなっていないだろう。細身ではあるが、鍛えられたしなやかな筋肉がついている。
「名は?」
 その冴えた青の瞳を公子に見つめられ、考える前に、だが臆することなく彼は答えた。
「シェン」
「まこと、自我を保っておるのだな。しかも我の眼をまっすぐに見返すとは……。面白い。ついて来るか?」
 唐突に、公子は問を投げかけた。シェンの運命の転換点となったその問を。意味をはかりかねて間抜けな言葉を発する事なく、<どこへ>とも<なぜ>とも<あなたは誰だ>とも訊かず、シェンは尋ねる。
「俺の自由になる事が、この魔界にもあるのか?」
「ありはせぬ」
 薄く笑んだ公子は、だがこう続けた。
「私がそれを許さぬ限り」
「ならば貴方と共に行こう」
 ためらう事なくそう言い切ったシェンの思いは如何様いかようだったか? ただひと時でも苦痛から逃れたかっただけなのか、生まれ持つ明晰な頭脳と辛苦によって身につけた聡明さから何かを推し量った結果なのか? 多分、その両方なのだろう。
 公子が、黙したまま目を伏せたシェンの体を自らのマントでおおうと、空間がゆらぎ、二人の姿が消え失せた。

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