主を待つように整えられた寝台の横に、小さな明かりがひとつだけ灯されていた。ぼんやりと滲む光に照らし出されて、無機質な硝子の向こうに閉じ込められた時計の針は、間もなく午前二時を指そうとしている。静まり返った室内に、規則的に刻を数える秒針の音が酷く大きく響いていた。 今宵の見回りを終え、街に異状が無い事を確かめて帰宅したのは、およそ半刻ほど前の事になる。夜ももう遅いし、そのまま休むのだろうと思っていた騎士の主は、彼女の私室であるこの部屋での待機を彼に申しつけた後で、扉の外へと姿を消した。夜風に晒されて冷えた肌を温める為に、湯浴みでもしているのだろうか。良く耳を澄ませば、時計の音に混じって、水の流れるざわめきが階下から聞こえているようだった。 屋敷の中にもまた外界にも、マスターと騎士自身以外の気配は無く、宵闇に紛れる敵の息遣いも今はまるで感じない。辺りを満たすのは澄み通った夜気。その穏やかな静寂は決して不快なものでは無かったが、戦いの合間に訪れた間隙は、いらぬ思惟までを呼び起こすようで、彼にしては珍しく落ちつかない気分にさせられる。 「──此処の所為か」 真紅を基調にした豪奢な部屋の中央に立って、男は周囲を見回した。 古風なランプを象った照明は、深いシェードに包まれている。普通の人間ならば視野のすべてを補うには足りない光量だが、弓兵たる彼にとって不足は無い。天蓋付きの寝台から、テーブルと椅子に揃いであしらわれた複雑な意匠、備えつけの本棚に収められた書物の表題の一つひとつに至るまで、騎士の目には余す所無く読み取れる。 そしてそれが、彼に眩暈をもたらす原因であった。 今回のマスターに初めて出会った日にも足を踏み入れてはいたが、乱暴な召喚の為に記憶が混乱しており、その時点では気づく事の無かった曖昧な既視感。だが召喚の衝撃も薄れ、徐々に全てを思い出し始めると共に、錆だらけになっていた筈の生前の情景までが、遠坂凛という少女のかたちを通して、鮮やかに蘇っていくのを感じずにはいられない。 「忘れてしまった──と、思っていたのだがな」 この部屋に。或いはこの部屋の主に覚える感情は、痛みに似た懐かしさだった。 騎士の無骨な手が、緩いカーブを描く椅子の背に添えられる。今は随分と小さく感じるが、あの頃はこれで丁度良かった筈だ。──あの頃? それがいつの事なのか、そもそも現実にあった事なのかを、彼はもう判別する事は出来ない。 ただ、覚えているのだ。 ──遠坂凛。 ずっと昔に、確かに自分はこの机で彼女と肩を並べ、手を取られて書を学んだ。魔術の腕を上げて褒められては、それを誇らしく思った事。触れ合うほど近くにあった彼女の黒髪と、微笑みかけてくる唇の柔らかなカタチ─── だがそれは何もかも過ぎ去った日の幻だ。今更それに心乱される事も無ければ、徒な感傷に囚われる事も無い。もしかしたらこの記憶さえも、未だ整理のつかぬ意識が見せた、ただの錯覚に過ぎないのかも知れない。また仮にそれが事実であったとしても、今の状況では何の意味も持たぬ事だ。色褪せた追憶に余計な気を取られていては、過酷な戦いの中で足元を掬われかねない。 軽く頭を振って椅子の背から手を離すと、纏わりついていた澱は消えた。ため息と共に肩を落とし、彼は部屋の中央に立ち尽くしたまま、主の帰還を一人待ち続ける。 恐らく、今後の方針に関して何らかの命があるのだろう。セイバーに負わされた彼の傷は決して浅くなく、まだ完治する兆候も見せていない。彼のマスターである少女は、その広範な知識で以て、あらゆる手段を嵩じ騎士の傷を癒そうとして来たが、どの試みも失敗に終わっていた。 「さて、どうしたものかな」 諦めず手探りで可能性を求め続けるマスターの姿に、僅かながら苦い思いが浮かぶ。騎士が一言真実を告げたならば、彼女に無駄な行為を繰り返させる事は無くなるだろう。 だがそれは同時に、何よりも隠しておかなければならない彼の真名を、凛の前にさらけ出すに等しい行いだ。今の彼女は未熟だが、しかし侮りがたく聡明な魔術師でもある。その子供っぽさをからかう事はあっても、騎士は決して自らのマスターを過小評価はしていない。例え虚実を織り混ぜながら話した所で、言葉の断片から真実を看破するだけの慧眼をあの少女は持っている筈だ。 凛が自分の真名を知ったら、どんな顔をするのだろう。そんな馬鹿げた考えが頭を過っていって、騎士は自嘲するように唇を歪ませた。 きっと彼女は口を極め、声を荒らげて怒り出すのだろう。 それとも、こんな愚かな末路を辿った男の事を笑うだろうか。 ──低い軋みを立てて、扉が開いた。 「随分と遅かったな、マスター」 外套の裾を翻し、騎士は扉から姿を現した少女の方に向き直る。夜着ではなく、赤の上衣と黒のスカートを纏った少女は、扉を後ろ手に閉めて足早に彼の元に歩み寄ってきた。 「そこに座りなさい」 そう視線で指し示された先に、彼女の寝台がある。特に考えもせず、凛の命に従ってその縁に腰を掛けた。夜気を吸ったシーツは、ひんやりとした感触を伝えてくる。 凛はベッドの傍まで歩いてくると、明かりを背にして彼の正面に立った。長い黒髪は、僅かに水を含んでいるように濡れた質感を帯びている。艶めく頬がうっすらと上気しており、湯浴みの熱をその肌に残しているようだった。 「アーチャー、傷の具合はどう?」 少女の身が屈められ、ほっそりとした指先が男の腹部に添わされる。予想通りの質問に、アーチャーは予め準備していた答えを澱みなく返す。 「残念ながら、未だ万全とは言えんな。だが君の魔力と、召喚陣から供給されるマナのお蔭で、この身は順調に回復している。後数日で、完全に傷も癒える事だろう」 「数日、ね」 凛の眉が微かに顰められた。時折見せる、魔術師としての冷たい横顔。抑揚の無い口調で、その唇から言葉が淡々と紡がれていく。 「ふん。数日なんて軽く言うけど、ランサーであれバーサーカーであれ、敵がわたしたちを仕留めるには十分過ぎるほどの時間よ。まして貴方がそれだけ弱っていると知られれば、敵は間違いなくわたしたちを真先に狙ってくる。 いい? アーチャー。わたしたちにはもう時間が残されていないの。後数日だの何だの、先ずその甘い考えを捨ててちょうだい。 敵と出会わなかった今夜が、貴方を癒す最後の機会と自覚しなさい」 凛の見解は正しく、またその意見は明瞭だった。彼女の考えを翻させる事は難しいだろう。腕組みをして目の前の少女を見上げると、アーチャーは静かに口を開いた。 「マスター。気持ちは分かるが、過剰な焦りは思わぬ隙を生むぞ。 戦いが始まったからと言って、直ぐに全力での潰し合いが起こる訳でも無い。ある程度敵の数が減るまでは、身を潜めているというのもひとつの戦略だろう」 「アンタ、それ本気で言ってるの?」 小手先の誤魔化しを、あっさりと少女は切り捨てる。呆れたように撥ね上げられた片眉が、彼女の焦慮を伝えてくる。 「冬木で起こる聖杯戦争に、管理者である遠坂の魔術師が参加するのは当然でしょう。言ってみればわたしたちは、今回の聖杯戦争における顔のようなものなのよ。現にわたしたちの存在は、もう複数の相手に知られてる。隠れ通すなんて戦略、通用する訳ないじゃない。 大体そういうの、わたし好きじゃないのよね。こそこそ逃げ回るなんて、わたしの性に合わないわ」 ふん、と腕を組んで顔を背ける凛の言葉は、如何にも彼女らしい潔さに満ちていた。少女の輪郭に眩しさを感じたのは、その背中から差す明かりの存在故だろうか。太陽を直視した時のような痛みに目を細めながら、騎士はこちらに向き直った少女の顔を見上げる。 凛は一度唇を開き──それからぎゅっと強く噛むように閉じて、吐息を飲み込んだ。気の所為か、湯上がりで火照っていた彼女の頬が、更に血の色を濃くしたように彼の目には映る。 「で、ね。 貴方の肉体は第六架空要素で出来てるんだから、十分な魔力の補充があれば、理論上その傷は塞がる筈なのよ。レイラインで供給されるわたしの魔力では足りなくても、外部から何らかの方法で注ぎ込んでやればいい。 でも治癒魔術もダメだったし、わたしの宝石を触媒に使っても、魔力を貴方に転移させられなかったでしょ。かと言って、人間の肉や魂を食らうような悪趣味な真似はごめんだしね。 それで、考えたんだけど」 言葉を切ると、少女は何かを決意したように深く頷いて、真っ直ぐにアーチャーの双眸を覗き込んできた。 「レイラインによらない方法で、直接魔力を感応させてみようと思うの。幸い性別も違うし、試みるのは簡単だわ」 「な」 彼女の言葉が指し示す意味はひとつだ。瞬間的にそれを把握して、半ば呆然と凛を見上げる。凛はむっとしたようにきつく口許を引き結んでいたが、その瞼は赤く色づいていて、少女らしい羞じらいを強靱な理性によって押さえつけている事が明白だった。 「君、自分が何を言っているのか分かっているのか」 低く呻くように問い掛けると、凛はますます不機嫌そうに眉をしかめた。 「そんなの当たり前でしょ。 性交による魔力供給を試すって言ってるのよ。後もう少しで、わたしの魔力が最高潮に高まる時間だしね。ちょうど良いわ」 「─────」 頭が痛い。 凛がその種の提案をしてくる事は、十分に考えられたことだった。今までの方法が全て失敗に終わったとなれば、他に少しでも効果を上げそうな手段は、確かに交合による魔力供給しか残っていない。だが意識の片隅で、それを考えないようにしていた事もまた事実だ。 遠坂凛という少女は、擦り切れた記憶の底に今も輝かしく残る眩しい存在であり、遠い日の少年にとって胸を焦がした憧れの象徴だった。だが、否──だからこそ、とうに果てた亡霊である自分が触れて良いものでは無いと、想像することすら禁忌であると、心の何処かで戒めていたのだ。 これが遠坂凛でなければ。一度肌を重ね、魔力供給を試してマスターが満足するのなら、その行為が無意味と理解していても、黙って提案を飲んだのかも知れない。もしくはセイバーと嘗て縁があった事を告げ、癒えぬ傷の理由を伝えた事だろう。 だが、彼女には── 逡巡のうちにさまよう視線が、少女のそれとぶつかった。緊張を湛え、しかし異議など聞かぬ強さでもって、凛と張られた蒼玉の瞳。 ──彼女には、そのいずれも許されない。 その清らかな輝きを汚すことも、自らの真実を少女に告げることもだ。 何処か不安げな顔でアーチャーの答えを待つ凛を、殊更に眉を顰めて呆れたように一瞥する。唇を開くと、冷やかな言葉は思ったよりもすんなりと口に乗った。 「正気か? マスター」 「う」 皮肉に直ぐ激昂するのは凛の悪い癖だ。たちまち睨み付けてくる少女に心中苦笑しつつ、投げつけられる罵倒を甘んじて受け止める。 「アンタね。それが、仮にもマスターに対してサーヴァントが取る態度なわけ?」 「む? マスターが浅慮としか呼べぬ行動を取った場合、それを諌めるのも、忠実な騎士たる者の役目と心得ているのだがね」 はあ、と凛が息を吐き出した。何を言ったものかと言葉を探している様子の彼女を牽制するように、少し語調を緩めて後を継ぐ。 「もう休んではどうだ? 明日も早いのだろう? 休息によって君の魔力が十分に充填されれば、自ずから君のサーヴァントである私の回復も早められる。 それが、今我々の選択し得る最良の方法だろう」 なるべく彼女を刺激しないように語彙を選んだつもりだったが、気の強いこの少女には逆効果だったらしい。薄明かりに照らされた玲瓏な面持ちに、隠し切れない苛立ちの色が浮かぶ。 だが、子供じみた喧嘩をするつもりは凛にも無かったのだろう。強張っていた両肩を、意識して緊張を解くように息を吐いてから、彼女は身を屈め、騎士の双眸を覗き込んできた。──あえて目は逸らさない。瞳は、人の意志を何より明瞭に映す鏡だ。言葉で屈せられないものを視線でねじ伏せるように、無言の抗議を込めて凛を見返す。 数秒の後、張り詰めた沈黙を破ったのは、思ったより冷静な少女の声だった。 「どうやら理解出来なかったようだから、ちゃんと初めから説明し直してあげるわ。 アーチャー。セイバーに受けた貴方の傷は、未だ全快する兆しを見せていない。今更わたしに言われるまでも無いと思うけど、サーヴァント同士の戦いともなれば、僅かなハンデすら致命的な弱点になる。 今の貴方は、セイバーやバーサーカーは勿論、ランサーにだって恐らく勝ち目は無いでしょう。万全の状態だったあの時でさえ、ほぼ互角だったんですものね?」 つ、と唇が笑みの形につり上がる。それが凛の挑発だと分かってはいるが、己の力量がマスターに軽んじられるのは些か面白くない。眉間に皺を寄せて凛を睨むと、アンタって変なところ子供っぽいわよね、と、今度は本当に楽しそうに笑われた。それもそれで面白くない。 「だが、マスター──」 「黙って聞きなさい。 わたしからの魔力供給は正常に行われているし、本来貴方は、もうとっくに回復していてもいい筈なのよ。サーヴァントの手傷は、パスを通じて送られるマスターの魔力によって速やかに癒されるもの。でしょ? だったら、貴方の容体が好転しないのには、何か別の要素が加味されてると考えるのが自然だわ。貴方はそれが何か、見当がついてるのかも知れないけど」 一度意図的に言葉を切り、少女の碧眼がはっきりとした疑念を帯びて、アーチャーのそれを射抜いてくる。譴責というより敵意に近いその眼差しを、無機質な鉄の虹彩でもって受け止めた。 だが、この優秀な魔術師は既に理解している。騎士が自分に何らかの隠し事を抱えており、またそれを引き出すのはどうやっても不可能だと、彼女は初めから分かっているのだ。彼に真実を求める為では無く、彼が真実を伝えられないだろう事を逆手にとって、凛の提案を飲ませようとする、それは息詰まるようなギリギリの駆け引きだった。 目の前で、少女が大きく息を吸う。長い黒髪が、屈んだ胸元からはらりと落ちかかり、騎士の肩口を擽った。払ってやろうとして手を伸ばしかけ、だが彼はそれを自制する。今の彼女に触れるのは禁忌だ。触れてしまえば、きっと── 重い石像のように動かない騎士に、主の顔が近づいた。端正な表情はいつにも増して厳しいが、ほんのりとした頬の赤みが、その冷たい印象を裏切っている。 「貴方を癒す為なら、どんな手でも試してみる価値はあるわ。 直接の肉体交渉を通して、互いの理性の殻を外してから貴方に魔力を送ってみる。 ──いいわね? わたしのものになりなさい、アーチャー」 「─────」 予想違わぬ凛の言葉に、ぐらりとした眩暈を感じた。まったくこの少女は、どうしてこうも肝心な所で、いつもトンデモない無謀をやらかすのか。本人がそれに全然気づいていないから余計にタチが悪い。 はあ、とため息を吐き出し、苛立たしげに銀髪をかき回して眼前の主を見やった。 「……口説き文句としては失格だな。それは男性が女性に言うべき言葉であって、女性から口にすべき類のものでは無い。──まあ、確かに君らしくはあるだろうが」 く、と皮肉を唇に乗せながら笑うと、彼女はたちまち顔を真っ赤に染め、怒りに満ちた罵声を投げつけてくる。 「な……っ! だ、誰が口説いてるってのよ! わたしはあくまで、マスターとしてアンタの傷を治す提案をしてるだけであって──」 「だとすれば余計失格だ。 確かに、性交は魔力を感応させる最も有効な手段のひとつだが、私と君は既にパスで繋がっている。例え我々がそうしたとしても、今現状で君から流れている以上の魔力提供を受けることは不可能だ。要するに、君の提案は無意味ということだよ」 むっとしたように凛が口を噤む。アーチャーの説明を受けるまでもなく、聖杯戦争のマスターであるこの魔術師にとって、そんな常識は百も承知の上だからだろう。 レイラインによるパスの接続は、最もロスの少ない優れた魔力の供給手段である。何らかの理由でパスを結べないマスターとサーヴァントが、性交によって魔力補給をする場合はあるが、アーチャーと凛の間にその事例は該当しない。 だが。その理論を、或いはサーヴァントである彼以上に理解した上で、敢えて凛は彼の承服を要求する。彼女は本気だ。先程からじくじくと体を追い立てる違和感は、それを示す令呪の圧力に違いない。腹の底から突き上げる痛みを帯びた熱は、少女の顔が近づくたびに酷くなる。くらくらと目眩がするのも、きっとその所為なのだろう── 「さっきも言ったでしょ? 本来なら、貴方の傷はとっくに治ってて然るべきなのよ。それを阻む原因が何か分からないなら、あらゆる手段を試してみる価値がある。それは決して、無駄でも無意味でも無いわ」 ほっそりとした手が伸びてくる。ぴとり、と男の輪郭を確かめるように頬に添えられた手は、湯冷めしたのかやけに冷たかった。もしかしたら、負った傷の所為で、彼の肉体が熱を持っているだけなのかも知れないが。その温度を凛も感じたのか、細い眉が心配げに潜められた。──熱いわね、と呟かれた言葉には、僅かな驚きの色が滲んでいる。 「貴方は何もしなくていいから。その寝台に横になって、じっとしていて」 命じると同時に、凛の手に意志がこもった。ぐ、とアーチャーの肩をベッドに押し倒そうとする彼女を、抵抗もせずに受け流す。膂力以前の圧倒的な体格差は、わざわざ主の手をはね除けずとも、無視するだけで十分にその力を殺す事が可能だった。今は、例え拒絶の為であっても、自ら凛の温もりに触れる禁忌を侵したくはない。 「マスター。生憎と、私は承諾の返事をした覚えは無いのだがね。 それに、君はこうした経験は無いのだろう? マスターが大抵の事に優秀なのは知っているが、如何に君と雖も、初めてではそう巧く行くとも思えないのだが」 ひく、と少女の顔が引きつった。繕うようにギリギリと微笑みを浮かべてみせるのだが、とても優雅とは言いがたい表情がそこにある。 その幼さや滑稽さすら懐かしく、──胸の奥にじわりと灯る火があるのを、漸くここに至ってアーチャーは認めずにはいられなかった。その熱は令呪の戒めばかりではなく、彼自身が少女の姿にかき立てられる、燃え尽きた筈の遠い情動であることも。 「じゃ、アーチャーがしてくれる?」 「悪いが、子供を相手にする趣味は無い。せめてもう少し、色香と優雅さと誘惑の手練を身につけてからにしてくれ」 「……ふん。子供で悪かったわね」 ふい、と凛が拗ねたように視線を逸らす。我知らず張り詰めていた神経が、それでやっと少しだけ緩んだ。凛に悟られぬよう、肺から空気を吐き出して、筋肉の緊張を解く。赤い外套の布地が、彼の動きにつれてさらりと衣擦れの音を立てた。 「─────」 彼の主は、厳しい顔で己の考えに没頭しているようだった。ある意味、他のサーヴァントと刃を交える時より過酷な精神の消耗を男に強いておきながら、彼女の方にその自覚は全く無いのだろう。 それでも本来ならば、性の誘惑など、騎士にとっては容易く退けられる類に入るものなのだ。平凡な人間から一人の戦士へ、そして一個の戦う精密機械へと自身を変質させてゆく過程の中で、とうに捨て去った筈の錆びた執着。まして、男と肌を重ねた事すら無い不慣れな少女の誘いになど、どうして心が揺れようか。 だが、彼の臓腑に爪を立て、その心臓を食い破って顔を覗かせようとしているのは、性の衝動などと言う生易しいものではない。 性欲を含め、嘗て、そして恐らくは今に至るまでこの少女に抱いていた感情のすべて──磨耗した一切を引きずったまま、まだアーチャーの奥底で死に切れずにいた『衛宮士郎』。そう呼ばれていた少年の存在が、彼の中で永い眠りから目を覚まそうとしている。 ぎり、と歯を噛んで、その不快な覚醒を押し殺した。 凛は甘い。衛宮士郎の命を救う為に、父親の形見をあっさりと擲ったように、アーチャーの身を癒す分の悪い賭けに、何のためらいも無く、彼女の持てる最も価値のあるものを張ってみせる。 あまりに甘く、あまりに鮮やかなその生き様に、確かに焦がれた日があったのだ。 その姿が、どうしようもなく思い出させる。呼び起こしてしまう。遠坂凛という少女への感情と、その感情を宿していた衛宮士郎の存在とを。 それは穏やかな親愛と言うより、──何処か憎悪にすら似た、狂おしい情動だった。 |