それは不思議な形をした時計だった。
普通の腕時計に地球儀と羅針盤とその他もろもろのダイヤル付の輪を加えたような複雑怪奇な時計。
そこに表記されている数値のほとんどの意味を読み取ることはできないが
辛うじて、現在の時刻を示しているらしい部分のみ解読することができる。
 数日前に開催されていたフリーマーケット。そこで、俺はこの時計を千円で買ったのだ。
安いかどうかはさておき、面白いデザインをしていたので買ったのだが
電池を入れる場所も、ねじ巻きも見当たらない。
これでは止まってしまった時にどうしたらいいのか分からない。
これは買ったのは失敗だったかななどと考えつつ、適当に時計をいじりながら俺は街中を歩いていた。
 比較的大き目のダイヤルをなんとなく回していると、不意に壁にぶつかった。
さっきまで人ごみにまぎれて歩道を歩いていたのに何で壁なんかがあるんだと思いながら、
腕時計から視線をはずし前を見上げてみると、自分が思い違いをしていたことに気づいた。
ぶつかったのは壁ではなく人だった。
 前を歩いていた人間が急に立ち止まったがためにそれに気づかず歩いていた俺はぶつかったのだ。
だが歩道の真ん中で急に立ち止まるのも迷惑な行為だ。
 若干気を悪くしながら、俺はその立ち止まったおっさんを避けて前に行こうとした。
だが、ここにきて俺はようやく異変に気づいた。
立ち止まっていたのはおっさんだけではなかった。
歩道を歩いていた人はもちろん、車道を走っている車までが止まっている。
最初に俺は、この先の交差点か何かで大きな事故か事件がおきたのかと考えた。
だがそれにしたって、いっせいに立ち止まった挙句にみんながみんな微動だにしないというのはおかしい。
車のエンジンすら止まっている…いや、物音ひとつしていないのだ。
 尋常じゃない…何かとてつもなく不可思議なことが起きている。
もしかしたら、自分は何か入り込んではいけない場所に、そういったオカルト的な世界に迷い込んでしまったのではないだろうか。
何もかもが静止してしまった世界に永久に閉じ込められる…考えるだけで恐ろしい。
 恐怖心から逃れるためにむやみやたらに走りまわる。
誰か、いや、人でなくてもなんでもいい、とにかく動いているものがないか探し回る。
だが何も見つからない。まるで何もかもが凍り付いてしまったかのように何一つとして動くものはない。
いや、
ひとつだけあった。
この世界に今自分以外に動いているものがひとつだけ。
そう、この腕時計だ。
この腕時計だけは、静止した世界の中で変わらず動いていた。
考えてみれば、今の現象が起きる直前に俺はこの時計をいじっていた。
すべての元凶はこの時計にあるに違いない。
俺はわらにもすがる思いで自分が動かしたダイヤルを元の位置に戻した。
途端に、俺の周りに喧騒があふれる。
立ち止まっていた人は歩き出し、止まっていた車は走り出し、風は吹き、歩行者用信号機の音楽が流れる。
なれひたしんだ雑然とした世界。
俺はそこに帰ってきた。

 それから直ぐに家に帰り
引き出しの奥に腕時計をしまい鍵をかけた。
今回は戻ってこれたものの
もしまた、何かの拍子にあのすべてが静止した世界に行ってしまい、そして戻れなくなってしまったら…
それを考えると俺はこの不気味な腕時計を持っていたくなかった。
かといって何をきっかけに作動するかも分からないこの時計を捨てることや壊すこともできず、
俺は机の中にしまいこんだのだ。

 それから数日、あの日のことを忘れようとしても忘れることはできなかった。
いったいあのすべてが静止した世界はなんだったのか。
そもそもあの腕時計はいったい何なのか。
考えても答えが出るはずもなく
気を紛らわすために俺は漫画を読んでいた。
そんな状況で読んでも内容が頭に入ってくるはずもなく
ぱらぱらと意味もなくページをめくる。
その時、ひとつの単語が目に留まった。
「時間停止」
この、さまざまな超能力を持つ人間たちによるバトル漫画の登場人物の一人に時間停止能力を持つものがいた。
そいつは自由に時間を操り、時間の止まった世界の中で誰にも感知されず行動していた。
……もしかして、この前のすべてが静止した現象は
なにやらあやしい世界に入り込んだりしたわけではなく
世界中の時間が止まっていたのではないのだろうか…。
そう考えると
あの不気味で恐ろしいとしか思えなかった静止した世界が
急に魅力的なもののように思えてきた。
誰にも邪魔されず、誰にも気づかれることなく
自分のやりたい放題にできる世界…。
例えば…映画館に無料で入れる!
いや、こんなどうでもいいことじゃなくて…
エロ本が人に見られないで買える!
…しょぼすぎる。
そもそも盗み放題なんだから買う必要すらない。
それどころか、本物を直接見られる。
いや…見るどころか、触ったりなめたり
…そう、誰にも気づかれることなく犯すことだって………。

…気づいたときには、俺は、引き出しの鍵を開けていた…。

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