今でもときどき夢に見る。
 もしオレがあの時、あの選択をしなければ、彼女の隣にいるのはオレだったかもしれないって。

 だけど、都合のいい「もしも」の世界なんて無いから。
 オレと彼女は二度とあの日に戻れない。
 思い描いた輝く未来は、紫煙の向こうに消えていった。








「メルキス、いつまで寝てるの! 早く起きなさい!」

 リーサラルド帝国の寒い朝、女の高い声が響き渡る。
 オレのささやかな楽しみの一つ、朝の惰眠は、シーツと一緒に奪われるのだった。

「う〜……あと5分。あと5分だけ……」

 体をくの字に曲げて、オレはしぶとくベッドに居座り続ける。だけど、

「ダメ!」

 そのミレイの一言で、そのささやかな願いすら聞き届けてもらえなかった。
 オレはしぶしぶと重い瞼をこじ開ける。目の前には、腰に手を当てて眉をつり上げている女の姿があった。
 ミレイ・フォルカー。ガキの頃からの幼馴染みだ。

「仮にも小隊長なんだからしっかりしてよ」

 ピンク色の唇を尖らせて、呆れたようにオレを揺するミレイ。
 体を揺すられるリズムがちょっと気持ちよくて、オレはまたうとうとしそうになる。

「……仮にもは余計だっつーの」
「いいから早く起きなさい。今日はネイル様がいらっしゃるのよ。午前一番に合同演習があること、まさか忘れたわけじゃないでしょう? あなたの隊の人だって自分たちの隊長がこなかったらどうするのよ!」
「あっ!」

 思わず飛び起きる。
 そうだ、今日は合同演習があるんだった。オレら小隊長は先に演習場に行かないといけない。

「まったく……」

 手元にぱさりと布が投げ置かれる。オレの制服だった。ミレイが先に用意していてくれたらしい。ありがてぇ……。

「ほら、早く準備して。シヴァとリューが食堂の席をとってくれてるの。いつまでも待たせられないでしょ」
「んなもん待たせときゃいいんだよ」
「またそんなこと言って!」

 寝起きで鈍いオレを尻目に、ミレイはきびきびと動き回り、朝の支度の手伝いをしてくれる。
 毎朝の光景。
 もう何年も変わらない、オレとミレイの「いつもの日常」だった。




 ミレイと並んで朝の廊下を歩く。
 早朝の済んだ空気の中、吐く息はほんのり白かった。


 ここ、リーサラルド帝国の朝は寒い。極寒の北国だからだ。
 北国といっても、リーサラルドは比較的暖かく、雪もあまり降らない。だから帝都として栄えているんだろうけど。
 オレ、メルキスと、オレの幼馴染みのミレイは、リーサラルド帝国軍の名誉ある騎士として帝国に仕え、この城で生活している。
 もっとも、オレと違ってミレイは正式な騎士じゃない。いわゆる見習い騎士ってやつだ。まだ騎士叙任の儀式が済んでないからな。
 自分で言うのもなんだが、オレは才能に満ちあふれた男だった。この騎士団に入団したのは15の頃、それから二年で小隊長の地位にまで上りつめた実績がある。
 ここにミレイが来たのはオレが騎士になって三ヶ月後のことだった。ミレイは何も言わなかったけど、多分オレを頼って入団したんだろう。


 ミレイは――天涯孤独だった。


 彼女は13の時に不慮の事故で両親を亡くした。兄弟も親戚もいないミレイの拠り所は、幼馴染みであるオレとオレの家族だけだった。オレの親が身寄りのないミレイを気の毒に思って引き取ったのだ。
 それから二年、オレとミレイは同い年ながら兄妹のように過ごした。最初はふさぎ込んでいたミレイも、少しずつ笑顔を取り戻していった。
 オレの家族はミレイをとても大事にしていたけれど、オレが騎士になるために家を出た後、やっぱりミレイは居辛いものを感じていたんだろう。すぐにオレを追うようにリーサラルド騎士団を訪れたのは、一年と7ヶ月前のことだった。
 リーサラルド帝国騎士団は女の入団を認めていないわけじゃない。現に、オレらの上司にはソフィア隊長という立派な女騎士がいる。男にも引けを取らない凄腕のソフィア隊長は、ミレイの憧れだった。
 だけど、見習い騎士のミレイを含めても、騎士団には女騎士は二人しかいない。ソフィア隊長とミレイだけだ。
 それはこの騎士団のレベルの高さ、ひいては厳しさを示していた。才能溢れる小隊長のオレでさえ演習や訓練には毎度ヒィヒィいってる。


 でも、ミレイは泣き言ひとつ言わなかった。


 はっきり言えば、ミレイは騎士に――戦事に向いてない。
 腕力があるわけでも、魔法を使えるわけでもない。剣術も、馬術も、入団する前はド素人そのものだった。
 当然といえば当然だ。ミレイはごく普通の女の子なんだから。
 オレより勉強はできるから、戦術や戦略なんかの頭を使う項目は得意だけど、実施演習はてんでダメだった。
 でもミレイは諦めなかった。どれだけ酷い成績でも、必死でかじりついた。
 だから、騎士団の中でミレイを馬鹿にするやつはいない。誰もがミレイを応援しているし、ソフィア隊長も真面目で一生懸命なミレイを可愛がってくれている。


 そして、ミレイはこうしてオレの世話をやいてくれていた。
 昔みたいに――お節介でがんばり屋なミレイと、不真面目でテキトーなオレという関係が続いている。
 その何気ない日常が、オレにとってはかけがえのない幸せだった。

「……どうしたの? ボーッとしちゃって」
「ぅえっ?」

 ミレイの呼びかけて我に返る。
 気付くと、ミレイが緑色の大きな瞳を見開いて、不思議そうにオレを眺めていた。どうやらオレは自分でも知らずのうちに足を止めていたらしい。

「いや……なんでもねぇよ」
「……? ヘンなメルキス」
「うるせー」

 少し熱くなった耳を誤魔化すように、オレはミレイに背を向けて早足になる。

「ちょっと、早いわよメルキス。待ってよ」

 背後から、ミレイの慌てたような声が聞こえてくる。

「ほらほら、早くしねーと置いてくぜ」

 オレは――ミレイのことが好きだった。
 いつから意識し始めたのかは覚えてない。多分、家を出る前にはもう惚れていたんだと思う。
 だからかな。騎士団に入団しようと思ったのは。腕を磨いて、立派な騎士になって、この国と一緒にミレイも守りたかった。
 ミレイがオレを追って騎士団に入った時は驚いたけど、本当はすごく嬉しかったんだ。
 もしかしたら――ミレイも、オレのことを好きでいてくれてるのかもしれないって。
 なんだかんだ言って、オレの後をついてきてくれるミレイを、オレは心からいじらしいと思っていた。
 なのに、照れくさくて、素直になれなくて。
 つい憎まれ口を叩いてしまうのも、わざと自堕落な生活をしてミレイを困らせるのも、こんな関係がもっと続いてほしいと思っているからなのかもしれない。
 オレ達はまだ若い。だから、焦る必要はないんだって――







「…………?」

 ふと気付くと、ミレイの表情が強ばっていた。

「どうした、ミレイ――」

 呼びかけてミレイの視線を追うと、数歩先に二人の若い男――見慣れない顔だ、制服からして兵士だろう――が立っていた。どちらも、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべながらこちらを見ている。

「おー、朝からボインちゃんを拝めるとはツイてるぜ。なぁホレス」

 男の片割れが大袈裟な口調で言う。その台詞で、オレは奴らがオレを見ていたんじゃなく、ミレイを見ていたことに気付いた。

「まったくだ。いや〜、今日も無駄にデカいねぇ。顔より先に視界に入っちまうんだから目のやり場に困る」

 ホレスと呼ばれた男が、片割れの男の言葉をうけて、ヘラヘラといやらしく口元を緩める。
 なんなんだ、こいつら……。
 オレの不機嫌さはモロに顔に出てたと思う。

「…………」

 一方のミレイは、オレの背後に隠れるようにして黙って佇んでいた。
 表情を堅くさせて、ぎゅっと唇を噛んでいる。

「あんだけデカいと肩凝ってしょうがねーんじゃねーの? かわいそー」
「それより俺は一緒に仕事する騎士の奴らに同情しちゃうね。考えてもみろって、あのデカ乳で剣を振り回されたらよ、ブルンブルン揺れるのが視界に入って集中するどころじゃねーや」
「ギャハハハハハハハハハハッ!! 確かにな!」

 ――こいつらはミレイのことをからかってやがるんだ!
 それを理解した途端、カッと身体の芯が熱くなった。

 リーサラルド帝国軍には、ざっくり分けて騎士団と兵士団がある。騎士はオレらで、いわゆる騎馬隊。兵士は殆どが歩兵だ。
 見下すつもりはないが、兵士は騎士より数が多いぶん(騎士の約5倍)、こういう得体の知れないチンピラみたいな連中も混じってる。もちろん兵士にも真面目なヤツはいるし、仲のいい顔見知りもいる。だけど騎士と比べると、君主への忠誠心の欠片も感じられないような柄の悪い奴らが多いことも事実だ。
 こいつら兵士を束ねるハリーフォード兵士長は素晴らしい人だ。オレらの直属の上司じゃないけど、兵士隊の各隊長にも立派な人は大勢いる。だが、兵士の数が多いだけに末端まで管理しきれていないのが現状らしい。
 だからこそ、こいつらみたいなゲスがのさばっているんだろう。

「それにしてもなんだ、もう二年くらい経つか? ボインちゃんがここに来てから」
「だな。それで未だに見習いだってんだから笑うぜ。知ってるか? あいつ教練の時間に一人で馬の世話ばかりやらされてるんだとよ」
「そりゃそうだ、いたって邪魔になるだけだもんな。才能ねーんだよ。本人は気付いてねぇみたいだけど」
「つーか女のくせに騎士を目指すとか馬鹿じゃねーのって話。どうせ乳揺らすんなら他にもっと向いた仕事があるだろっての。困るよなぁー、男の仕事場に女がでしゃばってくると」
「デカ乳にばっか栄養がいってっから頭たりてねぇんだろうよ。ま、おかげでオレらの目の保養になってるけど」
「朝っぱらから目に毒だけどな! あーやべっ、勃ちそう!」
「バーカ、変態かよ!」

 ゲラゲラと下品な笑い声が響いた。男二人はオレがいることを無視して、散々好き放題言っている。
 言わせておけばこの野郎……くだらねぇあだ名までつけやがって、ミレイを馬鹿にして……!
 こんなクソどものことだから、オレが騎士団の小隊長であることも知らないんだろうな。いい度胸だ、ぶっとばしてやる。
 自慢じゃないが、オレは気が短いので有名なんだよ。

「おいてめぇら! いいかげんに――」
「メルキス!」

 食ってかかろうとしたオレを、ミレイの驚くほど凜とした声が制した。
 オレは思わず口を噤む。ミレイはポーカーフェイスを保ったまま――だけど、とても冷たい目で前を見据えながら――静かに口を開いた。

「早く行きましょう。シヴァとリューが待ってる」

 オレも、そして兵士二人も、呆気にとられていた。
 ミレイはまったく動じる素振りをみせていなかった。
 そのままオレを追い越し、すたすたと歩いて行く。男二人には目もくれずに。

「おい、ミレイ……!」

 慌ててオレはその小さな背中を追いかける。
 さっきと立場が変わっていることに、この時オレは気付いていなかった。

「待てよミレイ、こいつら――」

 オレはまだこいつらに言いたいことがたくさんあるのに!

「いいのよ」

 ミレイは短く答える。そして、男達の横を通り過ぎる時、一瞬だけ連中に冷たい視線を送った。

「なにも、あなたまでこんな低俗な人達と同レベルに成り下がる必要はないわ」
「――――」

 男二人はさっきまでの勢いをなくしたかのように、虚を突かれた顔でミレイを見ていた。

「待てよミレイ、待てってば!」

 さっきよりずっと早足になったミレイを追いかけて、オレはその場を後にした。







 ミレイは何事もなかったかのように振る舞っている。
 だけど、オレは気付いていた。ミレイの整った顔に、一瞬ひどくつらそうな表情が浮かんでいたことを。


 泣けばいいのに。もっと、頼ってくれたらいいのに。これまでオレは何度もそう思った。
 どんなに強がったって、ミレイはかよわい女の子なんだ。
 なのに、ミレイは決して泣き言を言わないし、誰にも涙を見せない。
 わかってる。これはミレイの性格だ。どこまでも直向きで、生真面目で――

『女だからって見下されるのは嫌だから。いつでもメルキスの横に並んでいたいの』

 オレを追って騎士団に入ったミレイの第一声がそれだった。
 ミレイは絶対に弱みを見せず、誇り高く、オレと対等の関係であろうとした。
 両親を亡くし、悲しみにくれ――それでも彼女は、彼女なりに強くなろうとしたんだろう。

『寂しいなんて、思ったこと、ない』

 だけどオレは知ってる。
 ミレイは、本当はとても寂しがりやな女の子だってことを。
 毅然としながら、心の奥底に脆さを隠し持っている女の子だってことを。

(ゴメンな、ミレイ……)

 ミレイの後ろ姿、揺れる黒髪を見ながらオレは唇を噛んだ。
 オレがもっと強くなれたら。
 もっと背が伸びて、もっと逞しくなって、……もっと素直になって――『お前を守る』とハッキリ言えるほど相応しい男になれたら。
 お前に好きだって伝えるから。もう意地ははらないから。
 だからその時まで、もうちょっとだけ待っていてくれ。絶対幸せにしてみせるから――


 いつのまにか、吐く息がずっと白くなっていた。







 食堂の手前までさしかかった時、休憩所で知った顔を見かけた。
 ――ネイル様だ!

「ネイル様ぁ! おっはようございまーす!」
「あっ、メルキス! ちょっと……!」

 ミレイの制止の声もきかず、休憩所に飛び込んでいく。
 休憩所には煙草の煙が漂っていた。食堂は禁煙なので、ここは喫煙所も兼ねているのだ。

「ああ、おはようメルキス。ミレイも一緒か」
「お、おはようございます……」

 オレを追ってミレイも来たらしい。ネイル様の左右で色の違う瞳が、優しそうに細められた。
 ネイル様は騎士長で、文字通りオレたち騎士の頂点にいる御方だ。普段は北方鎮圧の遠征に出掛けているため、滅多に城にはいない。だけどリーサラルドの英雄として崇められている――人間離れした強さと、それと相反する穏やかさを持つ――ぶっちゃけオレたち騎士の憧れの的だった。
 ああ、タバコをくわえてるネイル様も絵になるなぁ……かっけーなぁ……。
 オレもハタチになったらタバコ吸おうかな――そんな風に考えた時、もう一つ煙が立ち上っているのが見えた。オレは今になってネイル様の隣にもう一人いたことに気付いた。
 ……って、この人は――――――!!

「ハ、ハリーフォード様、おはようございますっ!」
「おはようございます!」

 オレとミレイは慌てて頭を下げた。
 ネイル様の横で、同じように煙草を吹かしていたのは、兵士長のハリーフォード様だったのだ。
 騎士であるオレ達の直属の上司じゃないけれど、ハリーフォード様は兵士を統べるリーダーで、騎士長のネイル様と並ぶ帝国軍最高指揮官だ。なのに気付かず挨拶を忘れていたなんて、オレってやつは……!(ミレイもだけど)

「やぁ、おはよう。えっと、確かきみ達は……メルキス・ウェーバーとミレイ・フォルカーだったかな」

 ハリーフォード様は煙草を口から離して、おだやかに微笑んだ。オレたちの無礼に気を悪くした様子もない。
 ……って……え、名前?

「うん? どうした?」
「え、いや、あの……オレ達の名前、ご存知で……」

 オレがしどろもどろで答えると、ハリーフォード様は眼鏡の奥の目を一瞬きょとんとさせて――そしてすぐにハハハと笑った。

「もちろん知ってるさ。……まぁ正直に白状すれば、もし間違ってたらどうしようか、なんてちょっと自信がなかったのも事実だけどね」

 冗談めかした口調でそう付け加えるハリーフォード様に、オレは好感を抱いた。いい人なんだな。
 つられるようにオレも笑い、そして素直に嬉しく思った。今までの緊張感が少し和らいだ気がする。
 このお方は、自分の部下でもないオレ達の名前を知ってくれていたんだ。今まであまり関わることがなかっただけに、こうして話ができていることがちょっと誇らしく思えた。

 ハリーフォード・テレンス兵士長。彼はネイル様と並んでこの国の英雄だった。
 北方の遠征であまり城にいないネイル様にかわり、27歳という若さながら、その腕ひとつで帝国軍を統べている。オレらの上司のネイル様はどちらかといえば武闘派の軍人だけど、ハリーフォード様は戦事や政治にも大きく関わっている知性派軍人だ。
 といっても、もちろんこの人にもネイル様と同じくらいの数々の武勇伝がある。オレはまだ実戦を経験したことがないから目にしたことはないけど、戦場では鬼神のごとき強さを発揮するとかなんとか……。うーん、見てみたい。普段はおだやかで気さくな雰囲気だけに、とても想像できなかった。
 そしてオレは改めて思う。ネイル様もかっこいいけど、このハリーフォード様も負けないくらいかっこいい。悠々と煙草を吸う仕草がズルいくらい決まってる。しかもそれがわざとらしくなくて、なんていうかこう、自然なんだよな。
 ……そんで、背が高い。ネイル様より少し高いくらいだから、180以上は確実にある。あー羨ましい。何食ったらこんなに伸びるんだよ。やっぱ牛乳か、牛乳なのか!?
 オレもあと十年くらいしたら、こんなオトナの男になれるかな。
 そういえば、この二人って仲がいいんだな。年が近いし、立場もほぼ同じだし、気が合うんだろうか。
 そんなとりとめのないことを考えていると、

「相変わらず仲が良いんだなぁ、お前たち」

 紫煙をくゆらせながら、ネイル様がにやりと笑った。

「ちょ、違いますって! 今朝だってオレ、こいつに叩き起こされたんですよ。もう毎日うるさくってやんなっちゃいますよ」

 思わずまくしたてる。……本当はネイル様にそう言われて嬉しかったのに、いつもの悪い癖でつい憎まれ口を叩いてしまう。
 すると、ミレイはむっとした顔でオレを睨み付けた。

「うるさく言われたくなかったらちゃんと自分で起きなさいよ、バカ」
「バッ……バカだと!? 誰のことだそりゃ!」
「あら。今ここにあなた以外にバカがいると思って?」
「ミレイ、おまえなぁ〜!」
「あっはっはっはっはっは!」

 何がそんなにおかしいのか、オレ達のやりとりを見て声を上げて笑うネイル様。……あ、煙草の灰が落ちそうになってる。
 ハリーフォード様も口元に手を当てて、くっくっと笑いを堪えている様子だった。
 
「いやいや、若いカップルのやりとりは見ていて微笑ましいな。朝からあてられてしまったよ」

 灰皿のふちに吸い殻を押しつけながらそんなことを言う。
 へ? カップル?
 ……って、オレ達が〜〜〜〜!?
 理解した途端、一気に顔が赤くなるのを感じた。

「「ち、違います!!」」

 オレとミレイの声が見事に重なる。最初にどもるところまで一緒だった。

「オレたちカップルなんかじゃないです! たっ、ただの幼馴染みですから!」

 畳みかけるように言い募る。するとハリーフォード様は意外そうに目を丸くした。

「そうなのか?」
「はい。こいつとはガキの頃からの腐れ縁なんですよ」

 慌てて弁明しながら横目でチラリとミレイを見ると、真っ赤になってそっぽを向いていた。
 ……こいつ、照れてる。超照れてる。そしてオレも照れていた。あー顔が熱い。
 ほんとは、カップルだと勘違いされて嬉しかった。だけど実際こんなふうに言われると、なんだかすげー恥ずかしい。
 多分……ミレイもそうなんじゃねーかな。
 あれこれ考えていると、いきなりネイル様の腕が伸びてきて、ぐいっと肩を引き寄せられた。

「どうだハリー。このメルキスの瞳。見事な琥珀色だろう?」

 オレを捕まえたまま、したり顔で唐突にそんなことを言い出すネイル様。
 ハリーフォード様がオレの顔を――目を、しげしげと見つめていた。

「へぇ、これは……アンバル・オリオというやつか」
「そうそう」
「話には聞いていたが、実際に見るのは初めてだ。……美しいな」

 そう言われて、オレはちょっと得意になった。
 オレはアンバル・オリオと呼ばれる特殊な目を持っている。こいつは十何万人に一人の確率で現れる突然変異だそうだ。この琥珀色の瞳には、魔力を増幅させる力が秘められている。どういう仕組みでそうなっているかはまだ解明されてないが、とにかくこの目のおかげでオレは『魔法』が大の得意だった。オレは騎士だけど、実は剣術よりもこの魔法の方がレベルが高い。
 魔力を持つ人間は限られている。オレがこの若さで小隊長まで上りつめられたのも、「魔法を使える」というステータスが大きかった。
 オレの夢は、強い攻撃魔法や役立つ補助魔法をたくさん覚えて、いつか「魔法騎士」と褒め称えられる英雄になることだった。

「シヴァとリューを待たせてるわ。早く行かないと」

 ミレイが思い出したように耳打ちしてきた。
 ……そういえば食堂に向かう途中だったんだよな。

「そうだな。リューの野郎に朝から嫌味言われるのも癪だし、さっさと朝メシ食ってくるか」

 シヴァとリューはオレの同期だ。二人ともオレやミレイと同い年の若い騎士で、小隊長だった。
 シヴァは真面目で気の良いやつだけど、リューは何を考えてるのかわかんねぇ無口なムッツリ野郎だ。こいつだけは、どうもオレとソリが合わない。なのに気付けばミレイを混ぜていつも4人で行動していた。

「それじゃあネイル様、ハリーフォード様、失礼します!」
「失礼します」

 オレはぶんぶんと手を振り、ミレイは控えめに会釈する。

「ああ」

 気さくに手を振り返してくれるハリーフォード様。

「今日は合同演習だぞ、遅れるなよメルキス。小隊長が遅刻なんてカッコつかないからな」

 からかうようにそう言って、ネイル様は二本目の煙草を手に取った。

「はーい!」

 オレは元気よく返事した。こういう要領の良さが、オレが上司に可愛がってもらえる要因だ。愛想は大事だな、うん。
 朝からネイル様と話せて、ハリーフォード様にも褒めてもらえて、なんだか今日はラッキーな滑り出しだ。

「…………」

 すっかり浮かれていたオレは、ミレイの複雑そうな表情の意味に気付けなかった。




「なぁミレイ。オレさぁ、ハリーフォード様とあんなに話せたの初めてかもしれねぇ」
「私も」

 休憩所を出て、食堂に向かって歩き始めるオレ達。

「いい人だよな」
「そうね。それに大人って感じがする」

 話題はハリーフォード様のことだった。オレは褒めてもらえたこともあって少し興奮気味だったが、ミレイはわりといつも通りに見えた。まぁオレと違って、ミレイはあんまり喋ってなかったからな。

「メルキスとは大違いね」

 ミレイがくすっと笑う。それは憎まれ口でしかなかったけど、ミレイなりの冗談だとすぐにわかった。なにより、オレはミレイの笑顔が見られたことが嬉しかった。

「なんだよ。大体おまえだって……」

 オレも憎まれ口で返そうとして――そして、ふいにあることを思い出した。

「? どうしたの、メルキス」
「いや……ハリーフォード様は兵士長だよな」

 要領を得ない表情で首を傾げるミレイ。当たり前じゃない、とでも言いたげな顔。オレの思惑にまだ気付いてないみたいだ。

「うーんと、だからさ。ほらさっきの……ムカツク奴ら、いただろ。兵士の」
「……っ……」

 ミレイの表情がさっと曇る。ミレイにとって嫌な出来事を思い出させてしまった罪悪感を堪えながら、オレは続けて言った。

「せっかくハリーフォード様と話せたんだから、どうせならあいつらのこと告げ口してやればよかったなって」

 ハリーフォード様なら、きっとあいつらを戒めてくれたに違いない。そうすりゃオレとミレイの溜飲も少しは下がるってもんだ。
 だけど、ミレイは静かに首を振った。

「そんなこと、しなくていい」
「なんで! だって、おまえ……」

 あの様子だと、やつらは普段からミレイをからかっているに違いない。オレの知らない間もきっと――そう思うと、また怒りがわいてきた。

「本当にいいのよ。私、全然気にしてないし」
「けどよ、」
「それに……私なんかのことでハリーフォード様に余計な迷惑はかけたくないから」
「…………」

 ミレイ本人がそう言うなら、これ以上オレは口出しできない。
 さっきまでの浮かれっぷりが萎んでいくのがわかる。オレとミレイは黙って食堂に入っていった。
 休憩室で嗅いだ煙草の匂いが、まだ鼻孔を漂っているような気がした。







 次の日。
 昼の休憩時にブラブラしていると、食堂の隅の席で一人ぼんやりしているミレイを見つけた。

「よっ。どうしたよ、こんなとこでひとり黄昏れちゃって」
「…………」

『今は黄昏時じゃない』というツッコミ待ちだったのに、ミレイは無言でオレに一瞥くれただけだった。

「……どうかしたのか?」

 様子が変だ。いつものミレイとちょっと違う気がする。

「これ……私の部屋のドアに挟まってたの」

 そう言ってミレイがテーブルの上に置いたのは、飾りっ気のない無地の封筒だった。

「ん? 手紙……か?」

 思わず手に取る。裏にも表にも何も書かれてない。

「私宛ての手紙らしいんだけど、差出人の名前が書かれてないのよ。私に大事な話があるから、指定の場所に来てくれないかって……」

 ミレイの緑の瞳に陰が差していた。気味悪がっているのは一目瞭然だ。なんたって差出人不明の手紙だ、オレでさえ怪しく思う。

「なんだそりゃ、わけわかんねーな。……これ、オレが読んでもいいのか?」

 一応断りを入れると、ミレイは神妙な顔で頷いた。
 オレは封筒に指を差し込む。中には、封筒と同じ色の便せんが一枚入っていただけだった。


 ミレイ・フォルカー様

 あなたに大事なお話があります。
 明日の午後4時に、中庭の旧薔薇園に来てください。



 手紙には特徴のない字でそう綴られていた。
 たった二行の文面なのに、うさんくささ全開だった。差出人の名前もなければ『大事な話』とやらの内容についても書かれていない。しかも中庭の旧薔薇園といったら、今は誰にも手入れされてない、近々更地になる予定の人気<ひとけ>のないスポットだ。こんな陰気くさい場所に呼び出して大事な話もクソもない。

「どう思う?」
「どうって……」

 くだらねぇ。こんな手紙、イタズラ以外のなにものでもない。
 なのにミレイときたら、難しい顔をして考え込んでいる。

「怪しい手紙としか言いようがねぇよ。どう考えてもイタズラだろ。無視すりゃいいんだ、こんなもん」

 だからオレは忌憚ない意見を述べた。くそまじめなミレイを納得させるには、これくらいキッパリ言ってやった方がいい。

「……そう、ね。そうした方がいいわよね」

 頷きつつ、ミレイの表情は憂いを帯びていた。

「でも……もし本当に大事な話だったら」

 この期に及んで、まだこの手紙が気になるらしい。
 オレは呆れつつ、封筒と便箋を無造作にテーブルに放り投げた。

「あのなーミレイ、何をそう真面目に考え込む必要があるんだよ。こんなもん、100人中100人が口を揃えて『イタズラだ』って言うに決まってるぜ」
「わかってるけど……」

 目を伏せて言いながら、ミレイはご丁寧に便箋を封筒に戻した。丸めて捨てちまえばいいのに。
 それから、ふっとオレを見上げて。

「ねぇメルキス。一緒についてきてくれない?」
「えっ?」

 思いがけない一言だった。

「私一人で行くのは不安なの。でもメルキスが一緒なら……」
「ミレイ……」

 いつもなら自分一人でなんでもこなそうとするミレイ。そんなこいつが、珍しく素直にオレを頼ってくれている。まるで、昔みたいに。
 オレは戸惑っていた。戸惑いつつも、嬉しく感じていた。だけど――

「……わりぃ、明日はムリだ」

 オレの返事に、ミレイが悲しげに眉根を寄せる。
 でもオレには断らざるを得ない理由があった。何も意地悪したくてこんなことを言うわけじゃない。

「明日から魔導研究所の合宿があるんだよ」

 そう、既にオレのスケジュールは埋まっているのだ。
 オレは魔法が得意だ。だけど、生まれつきなんでも魔法が使えるってわけじゃない。きちんとした魔導士の元で学び、習得するのがこの世界の通例だ。
 騎士になるために魔法は必須ではない。だが、魔法が使える人間はどこでも重宝される。全体の人口に対して圧倒的に比率が少ないからだ。
 魔力を持つものは、帝都から少し離れた魔導研究所で宮廷魔導士の特別講義を受けることが出来る。オレは定期的に研究所に通い、メジャーな攻撃魔法から珍しい特殊魔法まで、いろいろな魔法を習得していた。さっきも言ったが、魔法を使える人間は帝国軍内でも重宝されている。そんなわけで、オレは特例として魔導研究所に通う許可を得ているのだった。
 といっても、今回オレが挑戦しようとしているのは、攻撃に役立つ魔法じゃなくて興味本位のマイナーな特殊魔法だ。だから合宿をキャンセルしようと思えばすることもできる。できるけど――

「……そう。それなら仕方ないわね」
「ごめんな、ミレイ」

 やっぱり探求心と好奇心には勝てなかった。
 葛藤がないわけじゃなかった。でも、オレは迷った末に魔道研究所での合宿の方を選んだ。

「ううん、いいのよ」

 小さく首を振り、苦笑するミレイ。……少し、胸がズキズキした。

「生真面目すぎるんだよ、おまえは。どうせイタズラなんだから気にすんな。いいか、絶対に行くなよ」
「……うん」

 まだすべてを納得したわけではなさそうだったが、それでもミレイは素直に頷いた。
 そうだ。ミレイだってもう子供じゃない。この怪しい手紙を無視すればいいだけの話なんだから。
 いちいちオレがついてやる必要もないだろう。







 この選択を、オレは後で死ぬほど後悔することになる。







 どうしてオレはあの時、ミレイの相談にもっと親身になってやれなかったのか。
 そうすれば、あんなことにはならなかったはずなのに――――