(01/03)
 妻との出会いは、随分昔の事になる。
 妻は仮に「鈴木ハナエ」としておく。

 都会育ちではない僕と妻は同じ地元で学生時代を過ごした。片田舎の学生時代などどこも似たようなものだろうが、小中高と似たような顔ぶればかりで、他県から転校してくる生徒がいればちょっとした話題になるほどだった。大体の学友の親達がどこかで顔見知りであったり、多くの学友同士が幼馴染であったりご近所であったり、そんな狭い世界で終始している学生時代だった。
 人の輪というものが狭い世界なので、彼女の存在は一応は知っていた。存在を知っていただけというのが正しいのかもしれない。同じクラスになった事は無かったし、話した事も無い。学校の廊下ですれ違った事がある程度といった感じだ。
 僕はなんとか三流大学に進学したが、その大学に彼女もいた。そこで初めて「同郷の好(よしみ)」といった程度で話をする機会が出来たのだ。

 彼女は大学に入学するまでは非常に地味な存在だった。目立たないタイプで、遊び歩くようなタイプではなく、非常に真面目な性格だった。彼女はかなり人見知りをする用心深い性格でもあったので、「同郷の好」でなければ僕も彼女と話をする機会には廻り逢わなかっただろう。
 大学でも真面目な性格は変わらず、僕は三流大学の奔放な雰囲気にも流されない彼女の真面目に安心感を感じ、彼女も真面目さが災いして友人が出来なかったからか僕を頼るようになっていった。数ヵ月後、僕と彼女は自然と付き合っていた。そして僕は彼女で童貞を捨て、同時に彼女は僕で処女を捨てた。

 彼女との結婚は、大学を卒業した数ヵ月後だった。
 中小企業に就職して生活が安定してくると、彼女との時間が作りにくくなっていったし、二人別々に生活していくのも面倒が多かった。周囲からも「若いうちに結婚したほうが後々楽だ」などとそそのかされ、結婚したくない理由も無かったし、彼女の両親も「他に変な虫が付くよりはまし」と結婚する事を認めてくれた。

 そうして彼女は僕の妻となった。

 結婚してすぐに妻は妊娠し、娘が生まれた。
 娘は仮に「鈴木ミキ」としておく。
 育児は妻に任せっきりであったが、その大変さは娘の相手をするたびに思い知らされた。動きたいだけ動き、疲れると眠る子供のマイペースさは、真剣に相手をすればどれほど体力があっても僕のほうが先に疲れ果ててしまう。手がかからなくなるまでの数年間は「若いうちに結婚していて良かった」と痛感する日々だった。

 妻は専業主婦としてよく働いてくれた。もともと真面目な性格であったから家庭の事は妻に任せて置けば安心であったし、娘が出来た後も僕の事をよく構ってくれていた。「夫婦円満」と言っても過言ではなかったと思う。
 夜の営みのほうも、娘がいるので何時でもというわけにはいかなかったが、僕が求めれば妻も喜んで応じてくれた。毎日のように妻のほうから「愛してる」という言葉を言われてもいる。

 そんな幸福な生活を10年以上も続いていたので、僕は妻が浮気をしていたという事実をうまく理解できなかった。

(02/03)
 娘に一人部屋を与えようという事と、安い物件が見つかったからという事で、普段は頼み事などしない妻の強い要望で引越しをした時の事だった。
 荷物の中に、ひとつ、怪しい段ボール箱があった。

 引越し荷物の中にひとつ見慣れないダンボールがある事に気付いたのは、妻が平静を装いながらもその箱から離れないようにしていた所為だった。それに、たかが段ボール箱と言っても、業者が用意したものでもなく、元々あったものでもない段ボール箱というのは案外と目立つ。

 その時には片付けなどで忙しく、その中身を見る事はできなかったが、真面目な妻が僕に秘密にしている荷物がある事が興味深く、妻が娘と買い物に行っている時にこっそりとその段ボール箱を探した。それはなかなか見つける事が出来なかったが、まさかと思って点検口から覗き込んだ天井裏に、その段ボール箱はあった。

 好奇心より不安が高まり、その中身を見る事を躊躇ったが、意を決して箱を開けた。
 中にはCD−ROMや小型HDDが入っていた。
 CD−ROMのラベルには「鈴木ハナエ・性奴隷契約 平成××年×月×日」と書かれていた。

 僕の手が、まるで壊れた機械のように大袈裟にがくがくと震えて止まらなくなった。
 あまりのショックに呼吸が出来なくなり、動悸が激しくなって、気を失いそうになった。
 ……しかしあまりに予想外の事だったからか、何故か「このままダンボール箱を出したまま倒れてはいけない」と思えてしまい、気を失う事も出来なかった。

 5分か10分か、僕はがたがたと震えたまま動く事が出来なかった。
 妻はとても浮気をするような性格ではなかった。間違いなく処女は僕が奪っているし、それから結婚までもさほど長い時間はかかっていない。真面目な性格だし、少々地味なタイプでもある。男遊びに興じるような派手なタイプとは真逆とさえ言える。僕以外の男に興味を示した事もなかったし、精神的に僕に依存しているようなところさえあった。

 そんな妻が、他の男と、「性奴隷契約」だなんて……。

 どうしてよいのかわからないまま、僕は段ボール箱を元の場所に隠そうと思った。頭の中は真っ白になっているが、身体はなんとか動く。恐る恐る他のCD−ROMを手にとって見ると、「鈴木ハナエ・調教呼び出し15回目」「鈴木ハナエ・アクメ調教」「鈴木ハナエ・野外調教」などと書かれていた。その文字は妻の書いた筆跡ではなかった。
 ふと僕は、妻はパソコンなど機械類は苦手であった事を思い出した。USB接続の小型HDDを妻が隠し持っている事が奇妙に思えた。

 そろそろ妻が買い物から帰ってくる時間だろうと思ったが、僕は小型HDDの中身を自分のノートPCにコピーした。中身が気になるが、見る勇気は湧かなかった。ファイルのコピーが済むと段ボール箱を点検口から天井裏の元の場所に戻した。

(03/03)
 それから暫くの時間を、ベッドで横になって過ごした。
 妻と娘はなかなか買い物から帰ってこない。

 僕は必死に冷静になろうと勤めたが、頭の中は「どう妻を問い詰めよう」とか「有利に離婚するにはどうすれば」などといった事がぐるぐると廻り、結局何も考えはまとまらなかった。

 長年一緒にいた妻なのに、僕の知らない事があっただなんて……。
 そんなショックが拭えなかった。
 ノートPCにコピーしたファイルも、見たい気分にならない。なる筈も無い。
 それを見てしまえば、もう取り返しが付かなくなる気がしたからだ。

 結局その日は妻が買い物から帰宅する前に僕が家を出た。
 妻から電話とメールでしつこく心配されたが、僕は「会社で仕事を手伝わなければならなくなった」と嘘をつき、ノートPCの入った鞄を抱えて街を彷徨った。

 (あの真面目な妻が、僕以外の誰かと不貞を働いていただなんて……)

 あてもなく彷徨い歩き、疲れて見知らぬ喫茶店に入り、コーヒーの湯気が冷めて消えるのを呆然と眺め続けた。

 ……ふと僕は、自分の感情に違和感を感じた。
 僕はどうやら妻が僕を騙して不貞を働いた事に腹を立てていないようだったのだ。むしろ僕は、妻が僕を騙していたとは思っていないような感じだった。

 (あの真面目な妻が、僕以外の誰かと、どうしてそんな事になったのだろう?)

 妻については学生時代から知っている。真面目で人見知りだった彼女がどうしてそんな事をしているのかという事が気になり始めた。僕は彼女を妻に娶りながら、彼女の事を何も知らなかったのではないか? もしかすれば、僕の知らない彼女の姿のほうが本当の彼女なのではないか?

 僕の気持ちは信じたい気持ちと理解できない現実で揺れた。僕は冷めたコーヒーを飲みながら、何かを理解しようとした。
 僕が感じているジェラシーは、不貞の事実ではなく、それが僕不在で成り立っていた事にあった。僕の存在に関係なく見知らぬ誰かの玩具になっていたのであれば、僕と妻との10年以上の歳月は全くの無価値だったという事になってしまう。では僕が見てきた妻の姿は全部偽物だったという事なのか?

 つまり……僕はこれからどうするか、妻を問い詰め、娘の親権を争い、慰謝料を争い、親族に離婚の報告を伝える前に……僕は妻の事を知らなければならないのだ。