作・飛田流
――十二月二日、午後九時三十八分。
勇一が北平駅の改札を出てすぐに、真っ向から身を切るような鋭い風が襲い掛かってきた。
「……さむ、っ」
マスクをしていても、鼻がちぎれそうなほどの痛みを感じる。
ビジネスバッグを右手に提げ、早足で駅前アーケードを抜けた勇一の足音が、街灯にぼんやりと照らし出された夜道に寒々しく響き渡った。
――『あのさ……今日はいつもと違う店で飲まね? “例の件”も田上に相談してえし』
――『……あ、うん』
そのあとの出来事を思い出すだけで、奥歯がまたカタカタと震えてくる。
(落ち着こう……とにかく落ち着かなきゃ)
いま自分にできることは一刻も早くアパートに帰り、今後のことを考える、それしかない。
知らず知らずのうちに、何者かに背中を押されているかのように足の運びが速くなる。アスファルトを踏みしめる靴に、さらに力を込めようとした時、
「……え」
右手の上方で、住宅の屋根を照らし出すように、禍々しく瞬く赤い光が目に入った。勇一のアパートがある方向だ。
予想もしていなかった光景に、足がいったん止まる。呆然として数秒立ちすくんだあと、
「……!!」
すかさず弾かれたように勇一は駆け出し、角を曲がった。
アパート前の道路には近所の住人らしき人だかりができて、赤色灯を点滅させたパトカーが停まっている。野次馬たちの向こうで、誰かと話している警官の姿がわずかに見えた。ざわめきの中で途切れがちに聞こえてくる相手の声は男で、かつ太い。
(……まさか)
心臓を素手で鷲掴みされたような衝撃が走り、考える間もなく、勇一は見物人の後ろから割り込んでいた。
「すみません、ちょっと通してくださいっ」
人垣の手前で、勇一の行く手を阻むように爪先立ちしている、ピンク色のダウンジャケットを羽織った小柄な老女に声を掛けた。
「なによぉ」
栗色の髪の頭頂部に白いものが覗く彼女は、顔をしかめて振り返った。
「あらっ」
勇一と気付いた途端に、目の前の丸顔から渋みが抜ける。このアパート「コーポ北平」前の一軒家に住む大家、卜部
「……!」
勇一はマスクを外してコートのポケットに入れ、大きく眉をつり上げて口を開き掛けた彼女に、すかさず『申し訳ありません』と唇の動きだけで謝る。そのまま卜部の表情は見ないよう顔を伏せ、人を掻き分けて前に進んだ。
人垣からようやく抜け出そうとした時、右足の爪先が誰かの体と引っかかり、
「っ……と」
バランスを崩しかけた勇一の目に、警官と対峙している男の足元が飛び込んだ。
(……あっ)
長い間穿き続けて、ところどころが擦り切れているジーンズの裾。
踵を半分踏みつぶしたスニーカー。
「だから! あんたもわかんねえ人だな!」
悪役俳優のようにだみのかかった、低く太い怒鳴り声。
血が凍る思いとともに、ためらいながらも勇一は顔を上げた。
そこにいたのは。
前のめりで拳を固め、警官に啖呵を切っている、巨躯の男――安岡大吾だった。
――そのひと月前、十一月七日、午後十二時十四分。
昼休みに突然、勇一は上司の谷越に、老舗料亭「小だま」へ連れてこられた。
「ごゆっくりおくつろぎくださいませ」
牡丹の蒔絵が施された漆塗りの座卓に、松花堂弁当と、湯呑み茶碗がすでにあった。土瓶で茶を注いだ着物姿の仲居は、三つ指をつき六畳ほどの和室を出た。灯篭型の間接照明に薄暗く照らし出された店内通路の奥にある、小茶室風の個室である。
ともすれば、ここが都会のビルの二階であることを忘れてしまいそうなほどの入念な「高級感」の演出に完全に呑まれた勇一は、向かい合って座る谷越に、多少引きつり気味の微笑を浮かべるしかなかった。
「――まずは」
香ばしい茶のかおりが漂う室内で、谷越は瞬きを多くして、何か言いたげな様子を口元に漂わせたが、わずかに目を伏せると、
「料理をいただこうか」
と、紙の帯が巻き付いている、手前の箸を持ち上げた。
「……はぃぃ」
乾ききった勇一の喉からは思いがけず、どこか気の抜けたため息のような声が漏れる。上司の目の前での失態に、顔が一気に熱くなった。
谷越に続いて勇一も箸を手に取ったものの、紙帯の処理に迷いが生じ、そっと谷越の手元を盗み見た。谷越は箸の側面を持ち、慣れた手つきで帯を外している。勇一も何食わぬ顔で箸帯を滑らせた。
次に勇一の目は、馥郁とした香りと湯気を立ち上らせている手前の茶へと吸い寄せられた。琥珀色の液体を一気に飲み下すのを想像して、思わずごくり、と喉が鳴る。しかし、谷越は湯呑み茶碗に手を付けていない。
(……我慢しよう)
勇一は箸を持ち直し、まずは最も無難と思われる、漬け物から口に入れた。ぽりぽりと咀嚼する音をなるべく抑えつつ、味を感じる前にそれを飲み込む。谷越もいまだ話を切り出すことなく、黙々とお造りを口に運んでいた。
二人とも無言で食べ始め、数分が経った。
(もう、いいかな……)
食事を続けている谷越の気配を窺いつつ、勇一がそっと茶に手を伸ばし、数センチほど持ち上げたその時、
「田上君は、営業に戻る気はあるかい」
「……は?」
呼吸が一瞬止まる。
「――え、営業? ですか」
思わずなりかけた友達口調を、すかさず軌道修正した。
勇一が今年の三月まで、入社以来六年間在籍していた営業部では、成績が下位の者を罵倒に近い言葉で上司が追い込む「詰め」が日常的に横行していた。そんな殺伐としたかつての職場と、常に平穏なFD部とでは、どちらが居心地が良いかは比べるまでもない。しかし、上司との摩擦を除けば、営業の仕事はそれなりにやりがいもあり、二度と戻りたくないということでもなかった。
ただ、いずれにしても、即答できる話ではない。
「今すぐにはちょっと……申し訳ありません」
谷越は「そうか」とひとつうなずいて口を引き結び、考え込む表情を見せてから、
「私としては――」
そのあとにこう、続けた。
「君を失いたくない」
「……えっ」
無料体験版はここまでです。この続きは製品版でお楽しみください。