人類は知らない。凡人には到達し得ない未知の領域に、天と魔の世界が存在することを……
遥か昔、未開の領域のうち天に属する光に満ちた世界に、途方もなく壮大な聖樹がそびえていた。
想像できるだろうか? 一本の樹木を中心に、そこから伸びる根を土台として十数キロ四方の島が形成されている光景を。
途方もなく巨大でありながら慈愛に満ちたその聖樹の根本に、ひとりの少女が産み落とされる。彼女は祖天使と呼ばれる原初の天使で、その後も聖樹の根本から生誕する天使たちを導き、やがて天の世界に発展と秩序をもたらし、この領域を『天界』と定義した。
祖天使の導きの元、天界には最高機関として『天城』が設置され、発展を続ける天界を正しき世界に導く議論を行う場として『円卓』が設けられる。
以降、各分野を代表する12名の天使と祖天使の直属にあたる4名の天使が『十六大天使』として円卓で議論を重ね、天界を高度な発展へと導くことになる。
その頃、人間界で覇権を握る人類は、他の生態系を圧倒的に凌駕する知性をもってして、文明を徐々に発達させていた。
文明の発達と共に人々は豊かさを手に入れたが、文明が高度になるにつれ思想の異なる者たちが覇権を求める時代となり、より効率的に命を奪う武器が発明され、人類の歴史は血で染められた。
数多の戦士、更には罪もない民らが争いによって命を落とし、渦巻く怨念や執念はやがて空間の狭間を越え、人類は知り得ない『魔の領域』に蓄積されてゆく。
これらはやがて瘴気となり、蓄積された瘴気は後に『魔王』と呼ばれる存在を魔の領域に降誕せしめた。
瘴気から生まれた存在である魔王は、その権能をもってして魔の種族を創造した。瘴気から生成されるこの種族は、時に醜い化け物を、時に知性の高い妖者を形作った。
魔の種族は、もとはと言えば人間界で失われた命の残留思念である。そんな種族がひしめく魔の領域で紛争が勃発するのは当然として、その混沌とした世界に創造されたひとりの妖者は比類なき力と才能を有しており、長きに渡る争いの末に、彼は魔の種族で頂点に立つ覇者となった。
これに魔王は悦んだ。これで先の数千年は退屈せずに済むだろうと。覇者に対して魔王が積極的に干渉することはなかったが、覇権を手にした恩恵として魔の領域に安定した気候をもたらした。
それでも魔の領域の半分は生命の繁栄に適さない極寒の地であったが、覇者は過酷な環境下で魔の者たちを導き、恐怖政治に頼りつつも一定の秩序を形成した後、この領域を『魔界』と、魔の者たちを『魔族』と定義する。

覇者は魔界の領域の中心部に巨大な宮殿を築城する。魔界の政治機能を司るこの宮殿は『魔宮』と呼ばれ、覇者と彼の側近からなる独裁的な秩序が魔界を統治した。
過酷な環境にある魔界は食料の確保が難しく、魔物が増えすぎ飢餓が発生するなど度々大きな波乱に見舞われたが、食料の生産管理に加えて魔物の発生メカニズムの研究と個体数の調査、管理などが大規模に行われ、長い年月をかけながら種族の繁栄と安定が成し遂げられていった。
この間に並大抵の魔族は幾度の世代交代を経験し、魔族を統治する覇者がかつてどのように呼ばれていたか、知るものは殆どいなくなった。
今は『老魔』の呼び名で崇められる彼は、魔界における魔族の繁栄にいよいよ限界を見出し、新世界の開拓を企てる。
時を同じくして、人間界を支配する人類の文明は飛躍的な進歩を見せていた。
火器や蒸気機関の発明と進歩により人類史は新たな時代へ突入し、世界秩序は高度に文明の発達した国と行き遅れた国に、絶対的な力の差を生じさせた。
老魔はこの状況を憂慮した。彼は、元を辿れば魔族の根源は人間界にあり、人間界こそ魔族が到達するべき新世界だと考えていた。しかしこのまま文明が発達し続ければ、人類は魔族が敵わない領域へと達することになる。
だが裏を返せば、今なら十分な勝算がある。人類の文明を魔族の文明として塗り替えられるだけの勝算が。
斯くして魔界全域から魔族が招集され、人間界へと繋がる狭間に向けて進軍を開始した。故郷であり、新世界である人間界を目指した、数十万にも及ぶ魔物と妖魔の大行軍である。
人類と魔族の全面戦争が危ぶまれたこの危機に、それまで天界から監視を続けていた天使が動く。
天使は元々、異種族への不干渉を掟として人間界と魔界を監視する立場であった。異種族同士が干渉しあう事態への抑止力でもあり、立場上から『狭間の番人』とも呼ばれる。
魔族の進軍を察知した天使らは、最高機関である『天城』において直ちに円卓議会を招集し、十二大天使らの議論と四大天使による全員賛成の可決を経て、『戦使』の精鋭部隊投入を決定する。
天界、人間界、魔界、この三界を繋ぐ最大規模の狭間『ギガ・ホール』から魔界に展開した精鋭の戦使大隊は、同じくギガ・ホールを目指して進軍する魔族の先遣部隊と対峙した。
天界、魔界、双方の歴史において初となる異種族との軍事的な衝突…、『天魔会戦』がここに勃発し、その初戦は天使側の圧倒的な勝利によって飾られる。
地を這う魔族に対し光の翼で飛行する天使の優位性は論じるまでもなく、被害がほぼ皆無な天使の軍勢に対して、その十倍以上、およそ一千の兵力から構成された魔族の先遣隊は全滅に近い大打撃を被ったのである。
その後も双方の衝突は繰り返され、その度に魔族の部隊は壊滅し続けた。幾度も、幾度も壊滅し、ギガ・ホールに接続する『狭間の丘』には数万の魔物の死体が放置され、酷い悪臭を放った。
天界にとって、この圧倒的優勢は当然に想定内である。しかし幾度と壊滅を繰り返しても魔族が侵略を一向に諦めないことは、大きな誤算であった。
天界の目的はギガ・ホールの主権確保による魔族の侵攻阻止であり、異種族に対する不干渉の掟から、魔界に進攻して武力による鎮圧を目指すプランは当初から存在しなかったのである。
圧倒的優勢にある天界側が落としどころを見出せず、双方が無益な衝突を繰り返す中で、ある時、前線に展開する戦使たちを翼をもつ魔物が急襲した。
グレムリン……、翼を持つこの魔物は一匹なら非力な雑魚であるがとにかく数が多く、瘴気の堆積した魔界の上空において天使族が飛行できる高度より上空から襲来するため、地味ながら会戦の終結まで天使らを苦しめた存在であった。
この頃には魔族の主戦力であるオークらが持つ弓の性能も向上し、グレムリンとの交戦で低空に追いやられた戦使らが待ち伏せしていたオークの毒矢で撃ち落とされる被害が報告されはじめる。
狭間の丘全域に小規模な陣地が構築され、据え置き型の投射兵器『弩砲』は射程内に入った天使を一撃で撃ち落とす程の威力を有した。
戦局が混迷するにつれて、当初は紳士的に行われていた円卓での議論も次第に紛糾し、制圧へのアプローチに向けて意見の対立が目立つようになる。
ギガ・ホールの防衛はいまだ天使側が圧倒的に優位な状況にあるが、敵は着実に兵器と戦術を進歩させている。魔族の野望を潰やす上で魔界中枢への武力行使を視野に入れるのであれば、狭間の丘の要塞化が途上である今が優位に進攻できる最後のチャンスであった。
グレムリンの出現以降、十二大天使の中では武力行使に賛成する天使が半数を上回る情勢となり、最終的な決定権を持つ四大天使らも人間界への侵略を停止させる目的に限定して武力行使を容認する流れで調整に入る。
その最中、ある報告が天界に激震を与えた。
ギガ・ホールを謎の巨大生物が襲撃し、展開していた戦使の部隊を僅か数時間で半壊させたのだ。
部隊が徹底抗戦し辛うじてこれを撃退したものの、この戦いで多くの戦使が死傷した。負傷者の多くは重傷であり、それまでグレムリンの爪やオークの毒矢による軽微な負傷者ばかりを収容していた天使側の陣営は、阿鼻叫喚の様相を呈した。
後の調査で「キメラ」の名が知られたこの生物は、生け捕りにされた天使の生体を用いて非道な技術で生成した代物であることが判明した。
魔族が呼ぶところの『魔獣』の出現によって、天使が圧倒的優勢を維持するパワーバランスは終結を迎えることになる。
魔獣の個体数は限られており襲撃は散発的であったが、いつ魔獣が現れるともしれない状況は前線の戦使らに莫大な精神的負担を生じさせた。一度魔獣が現れると命あるいは手足を失うほどのダメージを受けた戦使らが次々と後送され、治療にあたる天界の天使たちにも精神を病む者たちが現れ始めた。
魔獣への対応に追われる中で狭間の丘の要塞化は進み、武力行使による解決はより困難な情勢となる。
魔族は負傷により墜落した天使を陣地に連れ去り、見せしめとして処刑するようになった。
天使の統率を乱す目的で行われたこの処刑は大いに成功し、激昂した戦使らが制止もきかずに陣地に突入して弩砲の一斉射撃で返り討ちに遭うなど、開戦当初の魔族の杜撰さを天使陣営が真似てしまう光景が度々繰り広げられた。
戦局が悲惨な状況に進む中で、魔族に対しては当然のこと、天界の最高機関である天城、ひいては円卓に対する不満も徐々に高まりを見せる。
そんな中で、十二大天使のひとり『煌天使ミハエル』が前線に投入された。
厳密に言えば、自ら前線に赴いたというのが正しいだろう。彼女の投入は彼女の意思によって決められ、四大天使による可決を待たずして前線へと向かったのだ。
それまで十六大天使は円卓において議論し政治的に方針を決めるための存在であり、戦場とは無縁だと考えられていた。
しかし、戦局に関する判断で大きな意思決定権を持つ煌天使が自ら前線に出向いたことで、魔族と対峙する戦使らの指揮は大きな高まりを見せた。
この数日前に前線は魔獣の襲撃を受けたばかりであり、負傷した戦使らの一部が魔族によって拠点へと連れ去られていた。この事態に対処すべく前線に繰り出した煌天使ミハエルは、巧みな戦術と圧倒的な権能を以ってして複数の敵拠点を速やかに制圧し、処刑寸前にあった戦使たちの救出に成功する。
その後も煌天使ミハエルは前線を立て直しに貢献しつつ、戦使らの再教育にも尽力した。カビが生えるほど古びた戦術をアップデートし、戦使らの報告も反映しつつ脅威となる敵拠点への対処法を編み出したのだ。
魔族に傾きかけていた優勢をたちまち押し戻した煌天使ミハエルの活躍は魔宮にも報告され、老魔とその側近たちに強い焦りを生じさせた。開戦当初から優位にあった天使と違い、魔族の優位は夥しい犠牲を積み上げてようやく手にした好機である。
天使側が勢いづく前になんとしても煌天使を排除するべしとして、魔族は実験段階にあったとある魔獣の投入を決定した。
この魔獣は『管理番号-028』の名称しか存在しない実験段階にある巨大有翼魔獣であったが、戦線投入プロセスの経過で制御不能となり暴走状態に陥ってしまう。
当時最大規模であった魔獣の管理施設を跡形もなく破壊し、同施設に所属する魔族一千余りと管理されていた魔獣を片っ端から食い荒らした後に、028は植え付けられた本能に従いギガ・ホールへと飛来した。
敵味方の識別すらないこの巨大魔獣は進路に存在するものなら魔族の拠点さえも破壊しながら前線に飛来し、その場にいた全ての者たちに畏怖を抱かせた。
そんな中で煌天使ミハエルは怯むことなく魔獣に立ち向かい、これに鼓舞される形で戦使らも続く。丸二日に及ぶ激戦の末に、028は辛うじて無力化されたが……
魔獣の襲撃により天使の陣営も深刻な打撃を被り、煌天使ミハエルもまた致命的な傷を負ってしまう。
この時ミハエルの最期を看取ったのが、彼女の側近である上級天使マヤであった。マヤは他の誰よりもミハエルを敬愛し、ミハエルもまた誰よりもマヤを信頼し、万が一の継承者として彼女を指名していた。
十二大天使および四大天使の権限継承は二通りの方法で行われる。生前に後継者が指名されていればその後継者に、指名されていなければ権限を持つ者の魂が大聖樹に還った時に、最も素質ある者に継承される。
つまり、指名による継承は大聖樹の神告に匹敵する極めて神聖なプロセスであり、その決定には円卓さえ介入が許されない。
これにより継承を受けたマヤは熾天使としての権能が覚醒され、十二大天使のひとり『熾天使マヤ』がここに誕生したのである。
熾天使の権能は圧倒的な力を有し、それは先代のミハエルをも凌駕する程であった。
熾天使マヤはミハエルの意思を引き継ぎ前線に立ち続け、魔獣襲撃の傷が癒える前に攻勢をかけようと企む魔族の拠点を次々に制圧。敵の動きを牽制した後にギガ・ホール周辺に新たな陣地と訓練場を構築し、瘴気に満ちた魔界での戦闘に適応するための実地訓練を可能とした。
この時、天魔会戦の開戦から既に十年余りが経過していたが、未だ天界では魔族を過小評価していた時代の風潮が抜けきらず、これが前線の体制を立て直す上で大きな障壁となっていた。
故に十二大天使でありながら円卓ではなく前線に身を置き改革を進めるマヤの存在は非常に重要で、ミハエルを失い悲観的なムードに陥っていた戦使たちの士気を再び奮い立たせる。
実地訓練を積み戦術が適切にアップデートされた戦使たちは、熾天使の力に頼らずとも敵拠点の制圧を成功させてみせた。
更にはそれまで持ち腐れ気味になっていた諜報部隊の天使たちも戦力として投入され、活躍の場を得た諜報員たちの果敢な偵察活動が、有益な情報を続々ともたらした。
これらの成果を元に熾天使マヤは魔界中枢への進攻プランを作成し、円卓へと提出する。しかしこの時、円卓ではある問題が取り沙汰されていた。
円卓での議論による政治的統治を伝統的に重んじていた他の十六大天使らは、円卓を軽視して前線で独自の改革を進める熾天使マヤに対して、反発を露わにしていたのだ。
これは先代のミハエルが前線に出た時から問題視されていた話ではあるが、魔獣襲来の際にミハエルの存在無しに脅威を食い止められなかったであろう事実や、彼女が尊い犠牲となった事もあり一度は沈静化していた。
しかし継承者であるマヤがミハエルの意思をそのまま継いだことで、不満が再び噴出したのである。
中には前線にマヤが滞在する戦術的有用性を理解し支持する立場に回る者もいたが、それでも依然として逆風は強かった。尤もマヤは、強大な力を司る熾天使として『前線の戦使と共にある』ことを重視したわけで、イコールで円卓を軽視したとは言い難いところがある。
つまりは円卓側が慣例的で杓子定規な考え方に囚われていた面もあるのだが、マヤが政治的な駆け引きを苦手としていたことが軋轢に拍車をかけ、円卓の紛糾はしばらく続いた。
肝心の進攻プランも最終的な決定権を持つ四大天使全員が無謀だと一蹴し、そのまま膠着状態に陥ってしまう。
戦局は明らかに強行的なプランを必要としていたが、これを承認に押し切るあと一手が足りなかった。
これまで諜報に重きを置いていなかった天使側にとって魔族の戦力は未知数な部分が多く、特に重大な脅威となり得る魔獣戦力については円卓でも様々な憶測が飛び交って、議論をより困難にしていた。
この間、熾天使マヤは前線への参加を禁止された一方で、魔族側の前線には軍師級の最上級妖魔が現れて、戦使による拠点襲撃を巧みな戦術で迎え撃つようになった。
被害の急激な増加で天使側の攻勢が頓挫したことで戦線は両者の睨み合いとなり、マヤ不在のまま魔獣襲撃を危惧する天使側の陣営は、精神的な疲弊が蓄積してゆく。
幸いにもミハエルの死後、魔獣による襲撃が完全に途絶えていたが、これを魔族による大攻勢の準備段階だと推察する戦使も多く、前線には再び重苦しく不穏な空気が満ちていた。
そんな中で着々と戦果を挙げていた諜報部隊の天使たちは、活躍の場を与えた熾天使マヤのためなんとか報いようと、進攻プランを後押しする情報を絶え間なく収集し続けた。
魔界中枢への進攻ルート開拓、敵戦力の分析、破壊工作による後方の攪乱……、様々な作戦が敢行される中で、プランを後押しする最も価値のある情報が円卓にもたらされる。
煌天使ミハエルの命を奪ったかの巨大魔獣、それの暴走により魔獣の管理施設が壊滅していた事実が、この時初めて天界に伝えられたのだ。
畏怖の対象であるが故に憶測で様々語られていた魔獣の存在が、実は完全な機能不全に陥っていた…、この事実は無謀と言われ続けた進攻プランに大きな光明を与える。
もちろん、敵も無策なまま時を過ごしているわけではない。魔獣管理施設は再整備が急速に進み、魔族側の軍師による諜報への警戒令が魔界全域に発出されたことで、偵察活動に伴う被害が増えつつあった。
現状を進攻の最後の好機と判断した諜報部は、敵の魔獣戦力が壊滅している現状を「前線で散った煌天使ミハエルが遺した好機」として大々的に喧伝し、これに同調した天使たちの中で進攻プランの決行を望む声が高まりを見せた。
この頃には円卓内でも議論に変化が生じ、十二大天使の中でも合理的見地から進攻プランに反対していた者は、勝機が十分にあるのなら進攻を容認するべきだと擁護の立場を取りはじめる。
依然として決定権を持つ四大天使はプランの承認に消極的であったが、このまま好機を逃すことを良しとしない熾天使マヤは、苦肉の策として円卓での可決を待たずに独断で進攻作戦を開始した。
諜報部が行った喧伝の甲斐もあって、この作戦には補給や後方支援も含めると数万の天使が志願した。先にも後にも天界史上最大の作戦である。
この状況を受けて円卓は、作戦の認可は出さないがマヤを止めることもしない、つまりは黙認のスタンスを取った。そうせざるを得なかった、というのがより正確だろう。
かくして天界の勢力はついに魔界へ逆進攻を仕掛けたが、熾天使マヤの力をもってしてもこれは容易なことではなかった。
綿密な偵察によりルートが開拓されたとはいえ、この作戦には多大な犠牲が伴った。魔族側の軍師が天使の攻勢を見越して進攻ルートの防御を徹底的に固めていたのも要因のひとつだが、そもそも殆どの天使は数百㎞もの距離を飛行して敵陣に攻め込むような訓練は受けていない。
瘴気による浸食と疲労が相俟って実力を発揮できないまま負傷、離脱する天使は後を絶たなかった。
それでも熾天使マヤ率いる精鋭部隊はルート上の要所を着実に制圧し、半月後には魔宮の外周を囲うように聳える『要塞山』に到達する。
高度に要塞化された山脈は魔宮を攻略する上での最後の砦であり、この時点で熾天使マヤの率いていた二千余りの精鋭を、要塞山に集結した数万の魔族が迎え撃つ。
対する熾天使マヤは神剣レヴァンテインの権能を発動し、山脈を断裂するほどの破滅的な損害を与えると、続く精鋭たちは魔宮目指して一斉に突撃した。
オークやゴブリンなど下級魔族を中心とした道中の防衛戦力とは異なり、魔宮の領域に展開するのは妖魔や淫魔といった上級魔族ばかりであり、ここでの戦いは凄惨を極めた。
特に脅威となったのが飛行能力を持つ『使い魔』と呼ばれる淫魔たちで、これは従属の呪いにより魔宮の領域内でしか活動できない制約を受けるが、その戦闘力は卓越していた。
更には老魔の一人娘であり次席に君臨する『姫』に、各地から招集された領主らも加勢し、天界の軍勢は要塞山まで後退を強いられる。
しかしマヤたちが激戦を繰り広げている間に、十二大天使のひとりであり戦使たちの総司令官でもある天使長アリアが救援に駆けつけていた。彼女の率いた援軍が半壊状態にあった要塞山を制圧し兵站を構築、これを足場に熾天使マヤ率いる精鋭たちはじわじわと戦線を押し上げていく。
いよいよ追い詰められた魔族の上層部は姫を中心に籠城による徹底抗戦の構えを見せていたが、城下町や要塞山で反攻を試みる部隊の指揮は完全に崩壊していた。
これ以上の戦いは無用な犠牲しか生まないと判断したのだろう、要塞山の陥落から四日後、防衛の指揮をしていた軍師級の上級妖魔『キサラギ』から停戦の申し入れが行われた。
、停戦が魔族の総意であったかは定かでないが、少なくとも停戦協定の締結は円滑に進み、これにより十数年もの長きに及んだ天魔会戦は終戦へと至る。
人間界への侵略作戦の放棄、ギガ・ホール周辺に展開している部隊の完全撤収、狭間の丘を緩衝地帯とする合意、天使の肉体を用いる外道技術の放棄、捕虜として拘束している天使の解放など…、天界の提示した全ての協定案が受け入れられ、天魔会戦は事実上『天界の勝利』で幕を下ろした。
長きに渡る戦いに終止符を打ったことで、熾天使マヤは英雄となった。
しかし、凱旋する彼女の表情は英雄と呼べるほど晴々としたものではなかった。これから始まるであろう円卓による責任追及も一因ではあるが、何よりもこの戦いで負った犠牲があまりにも大きすぎたのだ。
決戦となった魔宮への突入では率いた精鋭のうち半数近くが死亡、あるいは行方不明となり、円卓でマヤの作戦を支持し続けていた天使長アリアは、作戦の最中に要塞山を奪還しようと急襲を仕掛けた姫から兵站を守り命を落とした。
十数年もの時間、天と魔の軍勢が小競り合いを続けた狭間の丘は、放棄された拠点が残るばかりの荒廃した大地と化した。弔われることなく朽ち果てた亡骸の死臭が染みついたこの地を、天と魔の両陣営はいつしか『死の荒野』と呼ぶようになっていた。
終戦の処理が完了した後、熾天使マヤの責任が円卓において追求された。
天界の勝利に多大な貢献をしたとは言え、円卓の可決を待たずに大規模な攻勢に出た行為は、円卓に対する反逆行為にも等しかった。
しかし規律の問題以前に、数千年の歴史があると言われる天界の発展は円卓の指針と常に共にあり、十六大天使の中には謂わば議会主義的な考えを持つ者が多い。絶大な力によって天使らの支持を得る熾天使マヤの存在そのものを危険視する意見も相次いだ。
当の熾天使マヤは作戦強行を決定した時点でその責任を取る覚悟もしており、十二大天使としての地位を返上する意向を示していた。しかし前線でマヤと共に戦った戦使を中心に多くの天使らが熾天使マヤへの処分に反対し、最終的に処分は保留とされ、マヤもまた円卓に残ることを決断する。
以降、政治的な対立を避けたいマヤは円卓における議会への出席を最低限に留めて、魔界の調査体制の強化、天魔会戦の経験に基づいた戦使たちの再教育、そして未だ魔界に囚われ非道な実験に使役されている天使たちの救出に従事した。
停戦協定には捕虜とされた天使の解放が定められていたにも関わらず、帰還が叶ったのは魔宮その他主要な施設に囚われていた天使のみであった。魔界に点在する実験施設の多くに、捕虜となった天使の多くが未だ囚われ続けていたのだ。
魔界に通じる狭間はギガ・ホール以外にも無数に存在し、救出にはこれが用いられた。これらの狭間は一度に数名しか転送できない小規模なものであったが、天使の囚われた小規模施設をピンポイントに襲撃する程度であれば、熾天使マヤ率いる少数の精鋭でも対処可能であった。
先の停戦協定では魔族側からの要望で天使による魔界への干渉停止も盛り込まれていた。しかし解放されなかった捕虜や協定違反の施設の存在について『各施設が独断で秘匿したものであり魔宮からの指示ではない』のスタンスを取っていた魔族側は、熾天使マヤの救出作戦についても批判できる立場ではなかった。
天魔会戦はひとつのピリオドとなったが、局地的な小競り合いはそれからも続いた。魔族による協定違反の調査、あるいは囚われ続ける捕虜の救出に部隊が送り込まれ、これが連鎖的に未帰還となる事例が散発した。
マヤは基本的に戦使の養成や作戦の立案に尽力していたが、より難易度が高く危険が伴う作戦においては、自ら救出部隊の指揮して魔界へと赴いた。
彼女が目指すのは全ての天使の奪還……、それは崇高な意思として多くの同胞から支持を集めた。
しかし天魔会戦の終結から二十年、三十年と時が経過し、救出作戦で芳しい成果が見られなくなると、全ての天使の奪還など不可能だと悟る者も次第に増え始めた。
いくら天使が人を超越した強さを持つと言っても、魔界に数十年も監禁されていれば無事で済むはずはない。正気を失っている程度ならまだマシな方で、多くの場合は実験体として培養液に漬けられているのが実情であった。
それでもマヤは救出を諦めなかった。もちろんそれには相応の理由がある。
天使が天命を全うするとその魂は大聖樹へ還るわけだが、異界で朽ちた者の魂は誰かが導いてやらないと、そのまま異界に囚われ続けてしまう。
故にマヤは救出対象がどのような状態であろうと救出に赴く。無念を抱き朽ちた同胞と弔い、その魂を救済することも、彼女にとって重大な任務であった。
だが、天界の世論は必ずしもマヤの考えに同調するわけではない。いくら同胞のためとは言え助かる見込みのない者の為に危険な任務を行うことへの懸念が少なからず存在した。
無論、魔界での任務は仲間の救出だけに限らず、停戦協定に対する違反行為への調査と対応も含まれる。主に非人道的な技術研究がこれに該当するが、一部の派閥からはこれらの監視活動も全て停止し、魔界へは一切干渉するべきでないとの意見も散見されるようになる。
未だにマヤを支持する同胞は多数派であるが、しかし名声や栄誉というのは時の経過により風化するもので、英雄的な活躍よりも天魔会戦の悲劇が繰り返されるのではと懸念する声も次第に増えてゆく。
もちろん、殆どの天使たちは熾天使マヤに争いを望む意図が無いことを理解している。とはいえ時が経つにつれて天魔会戦が『栄誉ある勝利の歴史』から『凄惨な犠牲の歴史』へと変化しつつある中で、実力行使の解決が戦争を誘発するという懸念が生じるのは必然でもある。
この頃になると、議会や世論に目に見える対立が生じ始めた。厳密に言えば、マヤの方針を疎ましく思う派閥が、必要以上に世論を焚きつけていたというのが正しいか。
いくら懸念があるとはいえ、同胞の救出を完全に諦める決断には、大きな反発が伴ってしまう。なので世論に働きかけて不安を煽ることで、反発を最小限にする土壌を整えようとの目論見だ。
そんな最中、諜報部の情報を元に敢行されたある救出作戦が、思いもよらない結果を招く。
綿密な打ち合わせにより立案された作戦であったが、あろうことか襲撃対象は食料の生産と保管を行う施設だったのだ。
食料施設にしては厳重な防御態勢、作戦が知られていたとしか思えないほど完璧なタイミングでの迎撃など、不審な点も多々存在していた。
しかし激しい迎撃を受け止むを得ずマヤが権能を発動したことで不可解を証明する証拠は失われてしまう。魔族側は力に溺れた熾天使の蛮行であるとして、この作戦を厳しく非難した。
これが初歩的なミスであったのか、魔族が巧みに欺瞞したか、あるいはマヤの存在を疎ましく思う者たちの陰謀であったか、様々な憶測が飛び交ったものの正確な経緯は最後まで明らかになることは無かった。
不幸中の幸いだったのは、原因は解明されないまでも殆どの天使はマヤの潔白と作戦の正当性を疑わなかったことだろう。
とは言え攻撃の事実はあるわけで、加害性のない施設に対する攻撃に魔族は猛反発し、武力による徹底抗戦も辞さない構えであった。
円卓の議論が紛糾する中で、魔族の要請に応じて天界の最高権力である四大天使が魔宮に出向く事態にまで発展した。
魔宮で行われた協議で魔族側は『魔界における天使の武力行使の停止』を求め、四大天使側は妥協案として武力行使の必要な作戦に関するより慎重な審議と、可能な限り対話で解決を図る妥協案を提示する。
武力行使という選択肢を完全には排除しなかったものの、魔族にとって極めて有利な協定であることは言うまでもないだろう。
この協議と並行して、水面下である密約が交わされていた。天界側が責任をもって、今回の襲撃を行った熾天使マヤに相応の処罰を与えるよう求める取り決めである。
処罰についての詳細までは指定されなかった。というより、熾天使マヤの存在が天界にとって切り札のひとつであることから、厳重な処罰を行うかわりにその内容については秘匿とする案が採決された。
この密約に応じて天界が行った主な処罰の内容は「熾天使マヤの人間界への左遷」「熾天使としての権能の一部封印」であるが、このうち前者は天魔会戦の後に保留されていた処罰の執行と公表された上で、魔界にこの情報が漏れないよう緘口令が敷かれた。
後者については熾天使マヤを敬愛する勢力から強い反発が出ると想定され、側近など近しい立場の者にだけ伝えられた以外は、秘密裏に執行された。
処罰の内容は、これでも擁護派の主張によって譲歩されたものであった。十二大天使の一部はマヤの肉体と魂を天城に幽閉し、円卓に従属させるべきだとさえ主張していたのだから。
これらの処罰について熾天使マヤは不服を申し出ることなく認めたが、十二大天使の座を明け渡す判断については後任を政治的な論争に巻き込む可能性が高いことから、明確に否定した。
こうして熾天使の権能はその一部が封印され、監視任務の名目で人間界への左遷が決定する。熾天使マヤの指揮していた精鋭部隊は側近である大天使ミアに引き継がれ、マヤについては円卓での議会など必要最小限で人間界から召喚される形に落ち着いた。
***
ところで、天使は異種族への不干渉を掟としている。
その天使がなぜ、人間界に送り込まれるのか…、理由は幾つかあるが、主な任務は人間界に侵入した魔族の監視である。
天魔会戦より以前から、少数の魔族が人間界に潜伏し、情報収集などの任務に従事していた。天使による人間界での活動も、これに対する抑止力として始められたのが起源である。
その後、天魔会戦での敗北を受けて、魔族は人間界への侵略作戦を停止した。しかしそれは行軍を伴うような大規模な作戦だけで、少数の魔族を人間界に潜伏させる侵略作戦は続行されていたのだ。
ギガ・ホールの主権は天界が握り、その他脅威となりえる規模の狭間についても監視下に置いて、必要であれば封印などの対処をしている。しかし狭間の中には未完全であるが故に魔界と人間界だけしか繋がない厄介な特性のものもあり、魔族の人間界侵入を完全に防ぐことは不可能であった。
これについて魔族の上層部は知らぬ存ぜぬを貫いていた。計画的な侵略行為であることは明らかだが、魔物や妖魔は条件さえ揃えば極めて稀に人間界で自然発生することもあり、魔族側はこれを口実に言い逃れを繰り返す。
尤も、ギガ・ホールの主権を握られている上に、天魔会戦以降は更なる文明の発達により単純な軍事力では人間界が魔族より優位に立つなど、魔界の立場は非常に厳しい状況にある。
人間界に送り込まれた妖魔らは巧みな欺瞞で社会に浸透し、ある者は人の心を惑わして魔に誘ったり、またある者は人間界で意図的に魔物を発生させる研究に従事した。
一方の天使は対応に苦慮を強いられる。人間界に潜伏する魔族の捜索は干し草の山から針を探すようなもので、かといって人類や魔族に比べて天使の個体数は圧倒的に少ないことから、かけれる人員は限られている。
それに相手が不当に侵略を企てる魔族とはいえ、天使が人間界でおおっぴらに戦う事には反発が非常に強かった。魔族を的確に見定めて排除しても人目を完全に避け続けることは難しく、天使の存在が露呈しすぎれば力の行使を伴わずとも人間界に大きな影響を与えてしまう可能性がある。
唯一の解決策として提示されたのは、人間界を支配する人類自身に、魔族を排除する術を授けることであった。
彼らの呼び名は時代と共に変化した。馴染みあるところでは『悪魔祓い』の呼称だが、彼らにとって魔に侵された人間の浄化は表の顔であり、夜の闇に紛れて魔族の暗殺にも従事した。
ところが悪魔祓いの存在が世間に知れるうち、次第に天使の祝福を受けていない者が悪魔祓いを名乗るようになり、特にならず者がこれを名乗る場合は必ずと言っていいほどトラブルが付きまとった。
更には健常な者に私的な因縁で悪魔や魔女の烙印を押すことで、私刑が横行する社会的問題も生じた。
そして最大の問題となったのが、人間界で戦う者たちと力を授ける天使との性差である。天使の大多数は女性であるが、当初の悪魔祓いは過酷な戦いに耐えねばならないとの理由で男性が大多数であり、彼らは与えられた天使の祝福に適性が低かった。
これが原因で魔族を的確に察知できず、無関係の一般人を加害してしまうケースが散見されたのである。
近代以前は杜撰な戦術でも誤魔化しがきいたが、情報社会の発展に伴い任務の失敗が事件化するリスクが高まったところで、天界側は全面的な作戦の見直しを迫られた。
多くの議論が交わされた後、天使の代行者となるのは魔力への適性が高い10代後半の女性が望ましいと結論付けられ、また代行者となる者と各々が任務にあたる地域を緻密に管理するシステムが構築された。
こうして、現代においては天使の祝福を受けて魔族と対峙する『フェレスティア』が誕生したのである。
***
人間界に滞在する天使らは、フェレスティアの管理と魔族の捜索、あるいは監視、そして人間界における情報収集を目的として、地域ごとに少数が配備されている。
熾天使マヤは表向きこの役目を担って人間界に送られたが、担当地域の割り当ては行われず、フェレスティアや魔族に対する積極的な接触も行わないよう厳令された。
ところがマヤが人間界に降り立ったまさにその日、人間界で活動する魔族を管理していた上級妖魔が偶発的に接近し、市街地で両者は対峙した。
上級妖魔とその護衛を相手に慣れない人間界での戦いを強いられた熾天使マヤとその側近は、戦力的優位にあったものの妖魔に逃走を許してしまう。
この時、逃走する妖魔の行く手に、ひとりの少女が身を潜めていた。
交戦自体は適正であった。対峙した妖魔は護衛を引き連れており、人間界で自然発生した個体でないことは明らかだ。
夜間とはいえ人口密集地に近い公園での交戦であったことから、周辺には不可視の結界が展開された。これは人の侵入を物理的に防ぐものではないが、感覚に強く作用して危機感を増幅することで、力場の内部に人が入ることを防ぐものだ。
しかしそれでも悲劇は防げなかった。好奇心旺盛な少女は危機感を抱きながらも結界の内部に侵入し、戦いに巻き込まれてしまったのである。
妖魔の放った一撃は、生身の少女に致命的な深手を負わせた。
天使の回復魔法は天の祝福を受けし者にのみ作用するもので、凡人が相手では痛みや苦しみを緩和する程度がせいぜいであった。
少女を争いの渦中に引き込んだのは、実在すると信じた正義のヒロインへの憧れだった。天使もフェレスティアも秘密裏の行動を徹底しているがやはり限界もあり、世間的にその存在はまことしやかに噂されている。
無垢な少女はその噂を信じ、都市伝説的な存在を追い続けていた。そしてようやく出会えた憧れの存在……、天使たちに見守られる中で、同時に訪れた不運により儚い命を終えようとしている。
もはや迷っている余地など無かった。己の指揮下で多くの同胞を犠牲にしてきた熾天使マヤは、腕の中でいま再び犠牲になろうとしている少女を救うため、ある決断を下す。
――フェレスティアと呼ばれる天使の祝福を受けし少女たちは、何も無作為に選ばれているわけではない。身体的な適正に加えて素性の調査なども行われ、総合的な評価を元に天界の最高機関『天城』が承認することで、初めてフェレスティアとしての力を授けられる。
だが、命の危機にある少女に承認を待つ余裕など残されていない。だからこそ熾天使マヤは決断したのだ。未承認のまま少女に天使の祝福を授けることを。
この決断により少女は一命を取り止め、それと同時に憧れの存在であった戦うヒロインとして生まれ変わったのである。
未承認のまま天使の祝福を授ける行為は、天界の掟における重大な違反行為である。天使らの目的はあくまで人間界にのさばる魔族の排除であって、人類の命を尊んでいるわけではない。故に、本来であれば少女ひとりの命よりも天界の掟が尊重される。
この不測の事態において幸いだったのは、少女にフェレスティアとしての適性があったこと、そして優秀な側近と未だマヤを慕い続ける同胞たちの尽力によって、この騒動を巧みに隠蔽できたことであろう。
それともうひとつ、『柊 結衣』の名を持つこの少女は幼くして両親を失い、親戚から仕送りを受けて一人暮らししている身であったため、同居という形ではあるが熾天使マヤに住居を提供することができた。
命の恩人である熾天使マヤに、結衣はできうる限りの恩返しをした。住居だけでなく、人間界の娯楽や美味な食事も提供した。その中でマヤの印象に特に残ったとある洋菓子の名にちなんで、フェレスティアとしての結衣は『フェレスティア・ショコラ』と命名された。
様々な困難を経て、人間である結衣との同棲という奇妙な形ではあるが、熾天使マヤにとって平穏な日々が久々に訪れた。天魔会戦の勃発後、常に軍事的、あるいは政治的な争いの渦中に身を置いていたマヤにとって、人間界への左遷はそれらの争いからの解放を意味していた。
結衣がよく面倒をみたのもあって、マヤはまるでひとりの人間かのように人間界での生活を謳歌した。マヤを支える立場にある側近たちでさえ、彼女が天界に戻って再び渦中に放り込まれるくらいなら、人間界での平穏な日々が続いて欲しいと願っていた。
一方で、フェレスティアとしての力を得た結衣は、人間界での魔族との戦いに赴くことになった。
フェレスティアの戦闘力は器である少女の身体能力と、祝福を授ける天使の能力によって左右されるが、結衣の身体能力はフェレスティアの素質を受ける者たちの中でもSランクに分類されるほど素晴らしいもので、そこに天界の最高戦力である熾天使が祝福を注いだとなれば、その実力はまさに一流であった。
戦闘訓練もマヤが直々に行い、その教えを土壌の如く吸収したフェレスティア・ショコラは、実戦においてたちまち頭角を現すようになった。
新米フェレスティアの主な任務は妖魔が人間界で実験的に発生さる『ダークマター』と呼ばれる触手生物の排除であるが、ショコラは初陣からこれを難なくこなした上に、時にはイレギュラーで遭遇した妖魔でさえ圧倒するほどの勢いで排除した。
妖魔の討伐任務は、本来であれば一年以上の実戦経験を積んだフェレスティアにのみ発令されるものである。それを半年足らずでこなすようになったショコラの成長は目を見張るものがあった。しかし、優れた実力を持つことで生じうる問題が存在する。
慢心…、それは時に伝説として語り継がれるほどの強者にさえ敗北をもたらす劇薬であるが、実際に敗北に瀕するまでその恐ろしさを自覚できないところが、実に厄介な問題である。
天魔会戦の折に見下していた魔族相手にどれだけの痛手を負わされたか、犠牲を教訓として背負い続ける熾天使マヤはショコラに慢心が芽生えることを何より気にかけていたが、この懸念は的中してしまう。
大きな戦果を挙げて実績を積むたびに、フェレスティア・ショコラは次第に己の強さに陶酔していった。
彼女の実力はダークマター程度なら寄せ付けないほどである。しかし問題は妖魔の存在だ。妖魔の実力にはかなりの個体差があり、なにより粗暴な性質しか持たない魔物と違い、妖魔は相手の心理を読み、隙を突けるだけの知能がある。
妖魔の狡猾さを良く知るマヤは、訓練の中でも繰り返し教育してきた。相手が妖魔ならもちろん、ダークマターのような下級の魔物であっても、油断だけは決して見せてはいけないと。
その念の入れようは相当なもので、ショコラの実戦を陰から窺うこともしばしばであった。己の実力に自信を持つショコラは時に説教じみて行われる慢心への戒めを嫌ったが、それでもマヤの熱意が伝わったか、実戦に際して隙を見せない立ち回りを心掛けるようになる。
ショコラのパートナーとして共に戦うフェレスティア・ハルカの存在も大きかった。彼女は沈着冷静な思考と優れた魔力の制御能力を持ち、猪突猛進なショコラの戦いを絶妙にサポートしてみせた。
プライベートでのふたりの関係も実に良好であり、両者の信頼関係とハルカの冷静さをマヤは信頼した。
いつまでも初心者じゃない、そんなショコラの言い分も理解していたマヤは、戦いの在り方をふたりの判断に委ねるようになっていった。実際、ショコラとハルカのペアは絶妙なコンビネーションでもってマヤの信頼に応える好成績を収めていた。
だが、悲劇は突如として訪れる。
熾天使マヤに対する円卓からの招集令…、それ自体は既に何度かあった話で、マヤも特に危惧するでもなく天界に向かった。
しかし不運にも、時を同じくしてフェレスティア・ハルカが単独での任務中に手練れの淫魔と遭遇し、徹底的に痛めつけられてしまう。
幸いにも一命は取り止めたが、当面は介護を必要とするほど痛ましく変わり果てたハルカの姿を見て、結衣は憤慨した。
かけがえのない存在であるハルカを痛めつけた淫魔への怒り、そして報復の大義は、年頃の少女から冷静さを容易く奪う。
報復の初戦は、フェレスティア・ショコラの鮮やかな勝利で飾られた。しかしこの戦いの相手はハルカを痛めつけた淫魔ではなかった。
翌日、遂に姿を現した仇の淫魔と対峙するショコラ。指令には交戦を慎重に判断することと記されていたし、ショコラ自身も油断しているつもりは無かっただろうが、前日の鮮やかな勝利は僅かながら確実に、少女の慢心を招いていた。
数多の修羅場を掻い潜ってきた淫魔からすれば、慢心を抱き大義に燃えるフェレスティアの振舞いは、実に隙だらけであっただろう。
華々しい勝利から一転、淫魔の放った目にも止まらぬ一撃で意識を奈落に落とされたフェレスティア・ショコラは、仇敵の眼前で小便を垂れ流す無様な完全敗北を喫してしまったのである。
天界から戻った熾天使マヤがショコラ敗北の一報を知ったのは、事態から既に丸一日近くが経過してからであった。
要請に応じて駆けつけた側近のシルヴィアと共に連れ去られたショコラ捜索を開始するが…、探索や追跡に長けるシルヴィアの助力があっても、慣れない人間界での追跡は困難を極めた。
一方で、ショコラを敗北に追い込んだ淫魔は人間界で長らく潜伏してきた手練れであり、狡猾なだけでなく知能も優れていた。
ショコラの持つ非凡な魔力の性質に逸早く気付いた妖魔は、偵察によって熾天使マヤの動きを察知した。これによりフェレスティア・ショコラこそが熾天使マヤの祝福を受けた『器』であると判断し、この事態を速やかに魔界へ報告する。
熾天使マヤとシルヴィアは必死の追跡によって淫魔の隠れ家を突き止めたが、既にもぬけの殻であった。
報告を受けた魔界はフェレスティア・ショコラに対する魔宮への護送を直ちに決定し、その身柄はマヤたちが到着する数時間前に狭間を抜けて魔の領域へと連れ去られていたのである。
事態は極めて深刻であった。ショコラはただのフェレスティアではない。熾天使の力を宿した器であり、その魔力が外道技術によって抽出されれば、天魔のパワーバランスさえ揺るがしかねない危険性を秘めている。
連れ去られた聖少女を待つのは天使でさえ正気を失う外道技術による搾取拷問。所詮は人の器であるショコラの精神や肉体は苛烈な搾取に到底耐えられないだろうし、天魔のパワーバランスを覆す可能性が少しでもあるなら、魔族はあらゆる手段を使って搾取した魔力の戦力化に注力するはずだ。
現状を天城に報告し、救出作戦について円卓の可決を得るとなれば、順調にことが運んでも更に数日の遅れを取ることになる。
尤も、円卓には熾天使の更なる失脚を望む勢力が今なお存在することを考慮すれば、救出作戦の可決が順調に行くかさえ怪しいのが現実だ。特にマヤが未だ自由でいることを良しとしない連中は、救出作戦の承認と引き換えに円卓への強制的な従属を求めるだろう。
いや、全ては自分で蒔いた種なのだから、これによってどのような処罰をされても甘んじて受ける覚悟をマヤは持っていた。しかし、救出の前に処罰が来れば、ショコラの身の安全は保障されなくなる。
仮に救出作戦が可決されても、種族としては同胞でないフェレスティアへの救出作戦は『魔族に優位を与える懸念の払拭』であり、円卓が主導するならショコラが無事に人間界に戻れるか否かは一切考慮されないのだ。
ショコラの安否は諦めて円卓の判断に全てを託すか…、あるいは、こうして苦慮している間も傍に付き従い指令を待つ部下たちと共に、自らショコラ奪還に動くか。
ふたつにひとつの決断を迫られたマヤは、後者を選んだ。
かくして、少数精鋭による魔界の正面突破という、前代未聞の救出作戦が幕を開けたのである…