
――魔界南部地域
魔界全域のうち、魔族の総本山にあたる『魔宮』の南側に位置する地域で、『魔王』の存在がもたらす高濃度な瘴気に満たされた北部地域から最も離れていることもあり、広大な密林や水源など自然資源が豊富に存在する地域である。
気候や生態系は人間界と似通ったところがあるとは言え、上空は瘴気の雲に覆われてどんよりと黒ずんでおり、分厚い雲を通じて降り注ぐ『魔王の威光』により照らし出されたその風景は、まぎれもなく魔族の領域である。
魔界の南部地域は温暖な気候で、かつ最大の狭間「ギガ・ホール」を有することから魔族の活動が最も活発な地域である。要塞や基地といった防衛拠点はもちろん、農場や食料の備蓄施設、そして技術的な研究施設が点在しており、その殆どの権限を『姫』と呼ばれる最上級妖魔が統括している。
かつて『天魔会戦』と呼ばれる総力戦が繰り広げられた地域でもあり、それはまさに地獄絵図と呼ぶに相応しい全面戦争であった。
魔界南部・狭間の丘。もっとも、その呼び名は天魔会戦以前の景観に基づいており、現在は専ら『死の荒野』と呼ばれる。
天魔会戦で天使と魔族が主権を争ったギガ・ホールはこの地に存在し、その規模は一千の兵力を一瞬で異界に送り込める程で、人間界の支配を目論む魔族と、それを阻止する天使とが、十数年の長きに渡って攻防を繰り広げた。
過酷な戦火により緑は根こそぎ焼き払われ、丘は消し飛び、地表が抉られ、文字通り荒野と化した大地におびただしい量の魔物や妖魔、そして天使の血が流された。
死体の殆どは弔われることもなくこの地で朽ち果て、強烈な死臭が未だ漂うことからつけられた地名が「死の荒野」である。
ショコラ奪還のために編成された救出部隊はギガ・ホールを抜けて、凄惨な歴史が刻まれた忌々しい荒野へと降り立った。
熾天使マヤを筆頭とした大隊は熾天使に隷属する精鋭部隊から200名余り、側近である大天使ミアが主力の指揮を補佐し、情報収集や後方支援の指揮担当には秘書官シルヴィアが担当する。
加えて十二大天使のひとり天使長エミリアが、選りすぐりの精鋭を率いて急遽参戦し、これも含めた救出部隊の戦力は総勢300名ほどである。
救出部隊を待ち受ける魔族の戦力は数十万、あるいは百万を超えるやも知れない。熾天使の権能無くして成り立たない作戦であり、その頼みの綱である熾天使の力も万全とは言い難い極めて厳しい状況であるが、それでも不安を口にする者はひとりもおらず、結果がどうであれマヤと運命を共にする決意を胸に、救出部隊は進行を開始する。

見渡す限りの荒野には身を隠すような場所など殆どなく、ましてや光の翼で飛行移動しているともなれば、その存在はたちまち魔族の監視に知られるところとなった。
報告を受けた『狭間の要塞』主力守備部隊は、フェレスティア・ショコラの捕獲に伴って魔宮から熾天使襲来の警戒態勢を取るよう指示を受けており、慌てるどころかむしろ高揚した様子で、人員配備を進める。
山間の谷を塞ぐ形で構築された強大な防護壁からなるこの要塞は、天魔会戦においては連なる山脈を要塞化した難攻不落の防衛線であった。
大戦の最中、最前線に投入された熾天使マヤが権能を行使したことで防衛線は一瞬にして崩壊し、そこに渓谷が形成されたのである。
現在の要塞の守備は、大戦を生き延びた手練れの妖魔たちと、それの率いる大規模な守備隊、加えて数多の弩砲、更には火山の熱を魔力に変換する『溶岩魔獣・ボルケノ』によって固められていた。
魔獣・ボルケノ。数多の怨念と無念を喰らい、マグマの煮えたぎる火口から吐き出された規格外の大蛇、外道魔術の集大成とも言うべき邪悪かつ凶悪な存在……
かつて狭間の丘において無敵の守備力を誇ると謳われた山脈要塞は熾天使の権能により一瞬にして灰塵と化し、狭間の丘の守備を担っていた妖魔たちは屈辱的な敗北感に打ちのめされた。
雪辱を果たすため、熾天使マヤへの復讐を誓い火山口に身を投げた妖魔ら58名。加えて捕虜の天使ら116の尊い命が生贄として火口に投げ込まれ、煮えたぎる溶岩は高濃度の魔力と怨念を宿した。
斯くして生み出された燃え盛る大蛇は、生贄に捧げられた魂を永遠に焼きながら、岩石さえ瞬時に蒸発させる灼熱の炎を吐き続ける。
――マヤ率いる精鋭部隊が死の荒野に進出した、およそ2時間後。
天魔会戦の遺恨を晴らそうと天使の襲来を待ち構えていた守備隊は、双眼鏡を通して見る数キロ先の遠方に、救出部隊を視認する。
その直後、双眼鏡のレンズに一閃の煌めきが映り、それは間も無くして地響きと轟音を伴う熱波の津波と化して、ただ立ち尽くすばかりの守備隊もろとも一瞬にして要塞を吞み込んだ。

熾烈な熱波は溶岩から生まれた魔獣ボルケノさえ蒸発させるほどで、妖魔らの怨念と断末魔もろとも要塞は跡形もなく吹き飛ばされる。
魔獣の体内に幽閉され灼熱に焼かれ続けていた天使らの魂は、長年の苦しみからようやく解放され、天界へと昇っていった。
灰塵と瓦礫の山と化した要塞を通過した救出部隊は、厳しい訓練により鍛えられた飛行能力により『狼の密林』地帯を一気に突破すると、『迷宮渓谷』への侵入ルートを固める南部第二要塞にさしかかる。

魔獣こそ配備されていないものの、山脈に防御陣地を構築し地の利を活かした要塞は、かつて難攻不落と言われ続けていた狭間の要塞と同様に鉄壁の布陣が施されている。
そして最大の脅威となるのが火砲の存在だ。魔界では未だ数少ない火薬を用いた大砲がこの要塞に集中配備されており、散布式砲弾と呼ばれるブドウ粒ほどの鉄球を広範囲に飛散させる砲弾が装填されている。従来の弩砲を遥かに凌ぐ加害範囲を持つ兵器として、諜報部レポートでも高い脅威度評価をなされている代物だ。
狭間の要塞が跡形もなく粉砕された一報は既にこの地にも届いていたが、要塞に配備された数千の魔族からなる守備隊は熾天使の存在に恐怖を抱くどころか、むしろこの機を逃すなと言わんばかりに、我先にと火砲や弩砲の砲座に着いていた。
天界最強の熾天使とて、その力は無尽蔵ではない。行使する権能が強大になるほど、次の一手には相応の準備時間が必要となる。
天魔会戦の戦訓からもそれは実証されており、同胞の仇はここで討つと守備隊の士気は高揚を見せていた。
救出部隊の出現を今や遅しと待ち構える敵要塞に対して、先陣を切ったのは天使長エミリアと彼女が率いる親衛隊だ。
天使長エミリア。熾天使マヤとは古くからの仲であり、実戦における戦術はもちろん、議会のコントロールにも秀でた頭脳派の大天使だ。
天魔会戦において十二大天使のひとり天使長サリウスの側近を務め、当時からマヤの戦友でもあったエミリアは、サリウスの死後に天使長の座を継承して以来、円卓の内部からマヤの動きをお膳立てしてきた。
また、天使長として戦使の養成を管理する立場にある彼女は、天魔会戦で要塞攻略に苦戦した経験から、熾天使マヤのような弩級戦力に頼らずとも要塞を攻略するための戦術を研究し続けていた。
光翼から閃光の帯を引き、急降下で要塞に突撃するエミリアと親衛隊。対する守備隊も自慢の火砲を用いてこれを迎え撃つ。
……しかし一直線に突撃するエミリアに対して、火砲から射出される砲弾は全く届かない。否、射程は十分だが、俯角……、つまりは下方向に対する射角が足りていないのだ。
エミリアの戦術は飛行能力の優位性によって上空からの突破を試みる従来の定石を覆し、あえて地表を撫でるような低空飛行を行うことで、砲の『死角』を突く発想であった。
要塞に設置された砲は上空を狙うために仰角こそ広く取られているが、天使が徒歩で攻め込んでくるなどまず有り得ないため、下方に対する俯角は考慮されていない。
懐に飛び込んだ天使に対して下方を狙えない砲はあまりに無力であり、撃てども撃てども低空を飛ぶ天使の頭上をすり抜けるばかりで、全く用を為さなかった。
もちろん、低空を飛べば地上に配備された通常戦力から反撃を受けるリスクも高まるが、鬱蒼と生い茂る密林の存在が地上からの視界を遮り、低空で侵入する天使らに地の利を与えた。
慌てた守備隊は弓を手にしたが時既に遅く、エミリア率いる親衛隊は守りの手薄な通用口から要塞内部への侵入に成功する。
天使の侵入により魔族の守備部隊は混乱に陥り、迎撃に配備されていたオークやゴブリンらが慌てて場内に戻ろうとしたことで、多くの通用口はすし詰め状態の大混雑を引き起こした。
数千もの兵力が配備された強固な要塞の内部に、僅か数十名の侵入者。にも関わらず彼らがここまで混乱するのには相応の理由があった。
火砲が集中配備されているこの要塞には至る所に火薬庫が設置され、要塞を粉砕してなお余りある程の火薬が貯蔵されていたのだ。
間も無くして要塞内部に点在する火薬庫のひとつが爆破されると、連鎖するように他の火薬庫も次々と爆発し、山脈の地盤は完全に崩壊。強固な要塞は脆くも崩れ去り、上空で待機していた熾天使マヤ率いる精鋭部隊の追撃により、無力化された守備隊の残党らは成すすべなく駆逐された。
南部第二要塞を攻略した後、天使長エミリアは自らの配下である親衛隊の戦使らと負傷者数名を引き連れ、天界へと帰投した。
天界上層部『天城』に悟られないよう、彼女は演習の名目で部隊を招集していた。故に、必要以上の長居は禁物である。
もちろん、此度の救出作戦が天城に知られるのは時間の問題であろう。エミリアの役目はこれで終わりではない、あたかも本作戦とは無関係を装って円卓の招集に参加し、救出部隊の帰還を政治的にサポートするのだ。
帰投するエミリアらに礼を告げて見送った後、熾天使マヤ率いる精鋭部隊は制圧した要塞の内部でしばしの休息に入る。
ギガ・ホールの通過から僅か半日余りで第二要塞を攻略できたのは大きな成果であった。天魔会戦の際には不慣れな要塞の攻略に加えて長距離飛行による疲労や補給の問題が重なり、この要塞の攻略に丸二日を費やしたのだ。当時と比べればまさに革命的な進歩と言えよう。
一度混戦に陥れば熾天使の権能を行使するのは困難となり、戦局はより悪化する。かつての苦い経験から、会戦の終結後も魔族の防衛戦術に対する研究と訓練は重要な課題であった。
その中でも地味ながら大きな成果を挙げているのが飛行訓練の実施である。天魔会戦の当時は天使が当たり前に持っている飛行能力をあえて訓練する考えは無かった事から、大規模攻勢において個々の飛行能力の差が露呈し、隊列の崩壊や被害の拡大に直結した。
会戦の後に熾天使マヤの隷下に結成された親衛隊は、側近である大天使ミアが戦闘訓練を担当していた。彼女もまた天魔会戦において飛行能力に起因する問題点を痛感したひとりであり、長距離行軍に必須の体力訓練はもちろん、消耗を最小限にして効率的に飛行する技術など、様々な観点から精鋭部隊の飛行能力に磨きをかけた。
ミアの作成した飛行訓練のカリキュラムは実に素晴らしいもので、今では全ての戦使に対して必修科目として課されているほどだ。しかしどれだけ訓練を積んでも体力や魔力は有限であるし、魔宮に到達しショコラの救出を成し遂げるためにも、今は十分な休息が必要であった。
この先で救出部隊の行方を阻む迷宮渓谷は、文字通り山脈が迷宮のように入り組んだ複雑な地形で、地上には鬱蒼とした密林が広がっている。
密林に潜むのは魔物だけでなく、弩砲の配備された防衛拠点が無数に点在しており、飛行による移動でも決して油断はできない。
南部第二要塞から北上した先に、ショコラ救出を阻む次なる関門が存在する。
魔界南部第五要塞。直線距離で見ればギガ・ホールと魔宮の中間地点に位置するこの要塞は、魔宮への最短ルートを防御する要所として相応しいだけの防衛力を有している。
既にふたつの要塞が惨敗を喫した事態を受けて、第五要塞には迷宮渓谷に配備されている全守備隊の大半が緊急招集された。
指揮する上官らの危機感は深刻だった。たとえ熾天使の進攻を食い止められないとしても、せめてその戦力を損耗させなければ、救出部隊の魔宮到達が現実味を帯びてしまう。
熾天使率いる救出部隊が休息により英気を養う最中、守備隊は要塞の周囲に弩砲を増設し、不必要な通用口は全て埋め固め、要塞の防御を更に強固なものにしてゆく。
迷宮渓谷にて稼働している魔獣の研究施設からは、増援として要塞魔獣・ゴーレムが集中投入された。
文字通り、動く要塞とでも言うべき強固で強大なこの魔獣は、驚異的な握力により破砕した岩石にて広範囲の投石攻撃を行い、飛行している天使さえ容赦なく叩き落す。それが弩砲など比べ物にならない脅威であることは想像に容易いだろう。
時同じくして、マヤの側近であり秘書官を務めるシルヴィアは、休息地点からしばし北上した地点で大地に耳を押し当てて精神を集中していた。
類稀な諜報能力を持つシルヴィアは、大気中や地面に伝わる僅かな振動で、およそ半径1kmの範囲内にいる敵や施設の位置を感知することができる。
対象が大型の魔獣や数千もの兵力の移動であれば、その探知可能範囲は数十倍にも増幅した。
諜報能力をいかんなく発揮して敵戦力を分析したシルヴィアは、例え熾天使マヤ率いる精鋭部隊の実力を以ってしても、第五要塞の通過には相当な消耗を強いられる可能性が高いと結論付ける。
この結論を以ってして最善の策として彼女が提案したのは、少数精鋭の機動力を活かした『迂回』であった。
およそ8時間の休息を終え、救出部隊は魔宮に向けて進攻を再開する。
部隊は一度北上した後、西北西の方角へ急激に転進し、要塞を大きく迂回するルートを選択した。

迂回ルートの移動距離は最短ルートの倍以上になるが、部隊の損耗を抑えて後の戦いに温存できるのであれば、戦術的価値は十分にあるとマヤも判断したのだ。
聡明なる秘書官が迂回を提示したのには、もうひとつ大きな理由があった。
救出部隊の転進はおよそ15分の後に要塞にも報告され、迷宮渓谷の全域に緊急配備の警報が発信される。
しかし第五要塞の威信をかけた防衛戦に備えて渓谷全域の砦や拠点から兵力が総動員されており、迂回する救出部隊の行く手を阻めるような守備部隊は、もはやルート上のどこにも存在しなかった。
『救出部隊は一直線に魔宮を目指す』この考えに囚われていた魔族側は最短ルートの防衛に固執しすぎたあまり、迂回の可能性を全く考慮せずに戦術を立てていたのだ。
本来であれば密林に秘匿され厄介な障害になるはずの拠点もその一切が沈黙する中、救出部隊一行は標高が比較的低いエリアを縫うように飛行し、難所の山脈を悠々とすり抜けて行く。
この迂回においても飛行訓練の成果は遺憾なく発揮された。最短ルートから大きく迂回したにも関わらず時間の浪費は最小限で食い止められ、作戦はまさに完璧とも言える成功を収めた。
その驚異的な機動力に対して配置転換の猶予さえ得られなかった魔族側は、戦力を大量動員した判断により図らずも天使らの進攻をお膳立てする形となり、指揮官クラスの上級妖魔らは各地の観測所から次々と寄せられる救出部隊通過の報告を受けながら、奥歯を軋ませ地団駄を踏むことしかできなかった。
――フェレスティア・ショコラの敗北からおよそ72時間後
熾天使マヤ率いる救出部隊は、闇夜の如き漆黒の中で無数のかがり火によって不気味に照らし出される『地獄の大門』を正面に見据えていた。

「報告には聞いていたが……、実際に目の当たりにするとまさに圧巻だな」
熾天使マヤと肩を並べる側近のミアも、この時ばかりは魔族への憎しみさえ忘れて、眼前に待ち受ける異様な光景にただただ感嘆するしかなかった。
「魔族の矜持の集大成ってところだろうね。なんせ、彼らにとって天使と同じ土俵で戦う唯一の手段が『如何に高い要塞を作るか』なんだから」
地獄の大門。それは要塞ではなく『壁』という表現が適切かもしれない。

山脈の切れ目を接続するように聳える長大な防壁は、その頂を高濃度な瘴気によって覆われており、まるで地上から空まで立ち塞ぐ一枚の壁である。
無論、その防御は非常に厳重だ。防壁は魔宮への進攻ルートに対して三段の階層を設けている。つまりは高低差が数十メートルもある階段のような形状をしているわけだが、それぞれの階層に弩砲と弓兵を配置することで火力の投射能力を飛躍的に向上させている。
報告によれば頂上付近でも防壁の厚さは20メートル以上、最下部に至っては200メートル以上とされ、魔族の往来はトンネルを通じて行われる。
防壁の素材として現地で採掘される魔晶石を不活性化して練り練り込んでいるとのことだ。従来の要塞に比べて魔法攻撃に対しての防御力は飛躍的に向上しているだろう。
「まったく、天魔会戦でマヤが半壊させた時よりだいぶ積み増したようだな……」
「それはどうだろう。確かに積み増してはいるけど、前に来た時に比べて空が随分と"低く"なってるみたいだよ」
地上から上空までを絶ち塞ぐ壁の存在……、その異様な光景を創り出す要因は、『魔晶鉱脈』と呼ばれる一帯の地質に起因していた。
山脈の地下には魔晶石が豊富に存在し、それが放つ高濃度な瘴気が地表から滲み出す形で、山脈全体から絶えず放出されている。
これが上空に滞留することでただでさえ低い魔界の空は更に高度が低下し、いつしか魔晶山脈の頂はもちろん、要塞の頂までもが瘴気の雲で覆われるに至ったのだ。
「あの頂上……、光の翼で越えられると思うか?」
「うーん……、マヤの翼なら行けるかにゃー」
「それはつまり我々の翼では難しいということだな?」
「うーん……、ミアの特訓次第?」
「……瘴気の中で飛べるかどうかは特訓以前の話だと思うがな……」
呆れるほど圧倒的な存在感を見上げるふたりの元に、後方から上がってきた秘書官シルヴィアが合流する。
「地獄の大門……、報告には聞いてましたが、実際に目の当たりにすると凄まじい威圧感ですね」
「ああ、なんとか上空を通過できればと考えていたが、思いのほか厄介な状況になっているな」
「シルヴィはあの瘴気どう分析する?」
そう言ってマヤが指差す防壁の頂を見遣ったシルヴィアは、口元に手をあててしばし考えてから……
「瘴気の濃度レベルは7~8程度、私やミア様の翼であっても、あの瘴気に包まれて飛行するのは数十秒が限度といったところでしょうか」
「それみろマヤ、やはり特訓どうこうの話ではなかろう」
「勝ち誇ってる場合じゃありませんよミア様。これはこちらにとって著しく不利益な状況なんですから……」
「そ、それくらい言わずともわかっている!!」
瘴気の濃度レベルは10を上限とした基準で、5を超えると魔力の行使に影響が現れ、濃度7で数分、濃度8になると数十秒で光の翼が蝕まれて飛行能力を喪失する。
濃度9になると戦闘力への影響が著しいため交戦を避けた通行のみが原則とされ、濃度レベルが10を超える地点は作戦範囲として考慮されない。
仮にではあるが、魔晶鉱脈から放出される瘴気を数値化すれば濃度20程度とされ、魔族ですら長期的に吸入すれば心身を蝕まれると言われている。
「東の凍土エリアからの大回りで迂回するのはどうだ?」
「直近で報告された凍土エリアの気温は氷点下20~30℃、おまけに吹雪が吹き荒れていてとても飛行できる状態にはありませんね」
「はぁ……、となるとやはり、この壁を越えるしかなさそうか」
「できるの? ミア」
「……防壁を越えることは可能だ。だが、戦使の翼では防壁の頂上まで辿り着くのも精一杯といったところだろう。あれほど高濃度な瘴気の中を上昇するんだ、回避機動を取れる余裕はない」
「んー、それじゃ完全に狙い撃ちのマトだね」
「その通り。越えることは可能だが、安全に通るのなら突破口を開けてお膳立てしないとな。例えば、熾天使の権能で壁を部分的に吹き飛ばすか……」
「権能は使えるけど……、ここで使えば魔宮の攻略に少なからず響く可能性があるにゃー」
地獄の大門を越えた先には、魔宮を取り囲むように聳える『要塞山』と、更に魔宮の防衛部隊との交戦も控えている。
特に厄介なのが、魔宮に隷属する『使い魔』の存在だ。奴らは隷属の呪いに縛られており魔宮の領域……、つまりは要塞山より外に出ることはできないものの、高い知性と上級妖魔に匹敵するほどの実力を備え、飛行能力まで持ち合わせている強敵だ。
天魔会戦で魔宮に突入した部隊のうち、死傷者のおよそ7割程度が使い魔による被害であった。救出の成功はこの使い魔を上手く封じ込められるかにかかっていると言っても過言ではないだろう。そのためには緻密な戦力の分配と温存が必要不可欠だ。
「ま、温存したいのは山々だけどこの壁を越えられなきゃ意味無いからね。かるーく吹っ飛ばす程度ならなんとか……」
「お待ち下さいマヤ様、ミア様。……この難所を突破する選択肢は、他にもあります」
ふたりの視線が向けられた先で、肌身離さず持ち歩いている魔導書を掲げるシルヴィア。
「聖典"セイクリッド・インデックス"ここに蓄積された魔力を解放すれば、この難所に突破口を開くだけの力を得られるでしょう」
「魔法攻撃か…? いや、シルヴィアの攻撃魔法は何度も見てるし、優れているのは否定しないが……」
さすがに一介の天使が魔法攻撃で突破口を開くのは無理だろう…、そう言いたげなミアを魔導書から迸る淡い光が遮った。
「な……ッッ!? こ、こんな魔力、どこから……!? うぉあ……?!?!」
「今は秘書官としての立場に甘えていますが、私もかつては諜報部隊の主力を担った身……、幾度と窮地を切り抜けた実力、今こそお見せしましょう」
魔導書から迸る膨大な魔力は隣にいたミアを圧倒して身構えさせ、熾天使であるマヤにすら踏ん張るためにより力強い羽ばたきを強いるほどの威圧であった。
「なるほど……、その魔導書に、少しずつ魔力を蓄積させてたんだね」
その地道な努力は、少なくともシルヴィアがマヤの直属についた時には、日課として行われていた。
毎日小一時間ほど精神統一を行い、魔導書に少しずつ魔力を蓄積させる……
魔導書は法器の中でも特に多くの魔力を蓄積する性質を持つが、それは一朝一夕で成し遂げられる話ではない。一度に大量の魔力を蓄積させようとすると負荷に耐えきれず、容易く崩壊してしまうからだ。
何十年……、あるいは百年単位の時間をかけた蓄積でなければ、これほど高濃度の魔力を魔導書に宿すことは不可能だろう。
しかしシルヴィアは、それをやってのける逸材であった。
そして長い年月をかけて地道に用意した切り札を、切るべき時に切れる秀才でもあるのだ。
「準備はいいですか、ミア様」
「あ、ああっ!! 総員、突撃準備!! 突撃準備だ!! 前衛班、白兵戦に備えろ!! 後衛の通る道に何ひとつ脅威を残すな!!」
号令が発せられ、聖剣、あるいは聖槍を携えた天使たちは緊張した面持ちで突撃に備える。
と、その時だった。マヤ、ミア、シルヴィア、3人の表情に緊張が奔り、互いが互いを見合わせる。
3人が同時に緊張を感じた時点で、言葉を交わすまでもなく『それ』は確かなものであった。
「ミア様!! 後方から第五要塞の守備隊が大挙して接近中との事…!!」
「敵には魔獣ゴーレムもいます…!! 追い付かれる前に突撃しましょう!!」
命令を躊躇うミアの視線に、シルヴィアは小さく首を振る。
「違う…、ゴーレムなんかより、もっと大きな……」
「……来るよ!! 迎撃用意!!」
マヤの号令が響いた直後、上空に立ち込める厚い雲を突き破り、規格外の巨体が姿を現した。

「な、なんなの、このデタラメなバケモノは…!?」
「突っ込んでくるぞ!! 散開だ!! 散開してかわせ!!」
一度に百人は丸呑みにできるであろう大口を開いて突っ込んでくる『それ』は、地獄の大門と同様にあまりに圧倒的かつ、異様な存在であった。
散開し、辛うじて丸呑みを逃れた天使たちを掠めるように通過するそれは、鎧のような分厚い鱗に覆われた数十メートルはあろうかという長大な巨体を不気味に軋ませ、巨大なヒレで宙を掻きながら一団のそばを悠々とすり抜けると、上昇に転じてそのまま瘴気の雲に消えていった。
「ちぃっ……、魔族の連中、今度は何を引っ張り出して来たんだ……!?」
「天魔会戦でもあれほどの個体は見なかったけど、魔獣だってこと確かだね。体長は50m以上で……」
「ホエールです。魔獣ホエール……、以前から瘴気の雲を泳ぐ巨大魔獣の存在が諜報局に数例ほど報告されてましたが、いずれも情報の精度が低かったことから疲弊した諜報員が流動的な雲の動きを魔獣と錯覚したケースとして処理されていました」
「言われてみれば確かにクジラ……ってまた来るぞ!! 総員、迎撃用意!! 焦るなよ、引き付けてから一斉攻撃だ!!」
逃げ回るだけでは埒があかない。ミアの号令を受けて戦使たちは一斉に光の弓矢を構える。
直後、瘴気を掻き分けて出現した魔獣ホエールは、開口することなく猛然と戦使の隊列に突撃した。
(さっきより速い……!! それに体格も心なしか小柄に……、こいつ、まさか……!?)
変則的な攻撃にタイミングを狂わされながらも戦使たちは果敢に攻撃を仕掛ける。
しかし余程に体表が分厚いのだろうか、入射角の浅い矢は尽く体表で弾かれ、辛うじて数本の矢は刺さったものの、その程度では臆する様子さえ見られない。
攻撃後、戦使らは素早く散開してホエールの体当たりを回避するが、直撃を免れてもこれだけの巨体になると通過に伴う気流の渦すら相当なもので、隊列の維持すら困難を極めた。
突撃した勢いのまま急降下したホエールは、半円を描くように大きくターンして再び戦使の隊列に迫る。
「弓撃隊!! 今度は目を狙って一斉攻撃よ!!」
前衛班の中隊長が散らばった戦使らを招集して迎撃に備えた、その時だった。
「そいつは別個体だ!! 上から来るぞ!!!」
下方に弓を構えていた戦使たちが頭上を見上げた時、雲間から現れ大きく口を開いた『地獄の入り口』は目前まで迫っていた。
「はぁああああああ!!!」
今にも中隊が丸ごとホエールの大口に呑まれる直前、赤い閃光が中隊とホエールの間に割って入り、直後、強烈な熱波が炸裂する。
「グォオオオオオオ!!!」
地響きのような唸り声をあげたホエールは咄嗟に巨体を180度反転させ、同時に巨大な尾ヒレが戦使の隊列に襲来する。
「みんな、散らばって……!! きゃぁぁぁ!!?」
辛うじて直撃は避けたものの、至近距離をかすめた尾ヒレは猛烈な暴風を巻き起こし、隊列は一瞬にして散り散りに吹き飛ばされてしまう。
下方から迫っていた別個体のホエールも隊列の目前で急旋回し、乱れる戦使の隊列に尾ヒレの薙ぎ払いで追撃を加えた。
ホエールの起こす暴風気流で隊列が乱れたのを好機と見たか、防壁では鐘が鳴り響き、救出部隊めがけて弩砲による一斉射撃が開始される。
「マヤ様……!! このままでは隊列ごと弩砲の射程に押し込まれます!!」
熾天使の放った強烈な一撃が、ホエールの警戒心を呼び起こしたようだ。
それまで獲物を丸呑みにしようと突進を繰り返していた二頭は、巧みに連携しつつ尾ヒレによって絶え間なく暴風を巻き起こし、天使らをじわじわと防壁へ押しやっていく。
「くそっ、このままじゃマズいな……、別個体は私がなんとかする、デカブツの方は任せたぞ、マヤ!!」
そう言い残したきりマヤの応答を待つことなく光翼をはためかせたミアは、降下してゆく別個体のホエールを急降下で追跡した。
一方でマヤは難しい選択を迫られる。先の一撃は防御の弱い口内に直撃したため出力を絞っても有効打となったが、警戒して口を閉ざしたこのデカブツを墜とすには、相当な出力の発揮を強いられるだろう。
ここで魔力を浪費すれば魔宮での戦いに影響が出ることは避けられない。とはいえ考えている猶予も……
「みんな備えて!! デカいのが来るよ!!」
降下する別個体と入れ替わる形で、瘴気の雲から姿を現したデカブツが突っ込んでくる。
その軌道を冷静に見定めたマヤは……、何かに気付いたようだ。
「シルヴィ、魔力を解放する準備をして!!」
「承知しました……、しかし対象は…!?」
「ホエールにお願い。合図したら、とびっきりの一撃を喰らわせてやって!!」
「あ、合図……!?」
「シルヴィならわかるよ!!」
そう言い残して隊列から離脱したマヤは、あろうことか弩砲の掃射めかげて一直線に飛び込んで行ったではないか。
更には隊列の目前に迫っていたホエールまでもが進路を転換し、マヤの背後を追跡する。
「シルヴィア様……、これは一体……!?」
ふと下方に視線を向けると、光翼を羽ばたかせるミアが別個体のホエールと死闘を繰り広げている。
「なるほど……、そういうことですか、マヤ様……!!」
先程まで執拗に隊列へ猛攻を仕掛けていたホエールたちは、今やマヤとミアだけに攻撃対象を絞っている。
この二人の共通点……、それは今この場で他の誰よりも、ホエールにとっての脅威となりえていることだ。
ホエールの軌道を注意深く観察していたマヤは、最初は隊列を組み密集した戦使たちを狙っていたホエールが、カウンターの一撃を浴びせて以降は固まっているターゲットよりもマヤに狙いを定ていることに気付いたのだ。
規格外の巨体から繰り出される範囲攻撃を、誰しもが無差別的な攻撃行動と認識していたが……、離脱したマヤをホエールが追跡していることからも、奴らが攻撃対象に優先度が存在するのは明らかであった。
「支援部隊は私の援護を!! 前衛は今のうちに態勢を整えて、ホエールの再来に備えて下さい!!」
「了解です、シルヴィア様!!」
戦使たちに命令を下したシルヴィアは、魔導書を掲げて精神を集中する。
一方でホエールを引き付けて防壁に接近するマヤは、弩砲の掃射を華麗な回避軌道でかわしながら一気に高度を上げると、そのままの勢いで上空を覆う瘴気の雲に突入したきり、姿が見えなくなった。
ホエールもそれを追う形で瘴気の雲に飛び込み、その巨体は完全に視界から消えてしまう。
(頼みましたよ、マヤ様……!!)
マヤの作戦を信じ、魔導書に蓄積された魔力を練り上げるシルヴィア。
掲げられた魔導書は淡い光を放ち、次々とページが捲れ、激しい荒ぶりを見せる。
「シルヴィア様!! 下方からホエールが接近中!!」
戦場に突如現れた強大な魔力反応を『新たな脅威』と認識したのだろう。低空でミアと一騎打ちを繰り広げていた別個体のホエールが、向きを変えシルヴィアめがけて猛進する。
その体表にはミアのレイピアで切り裂かれたであろう傷が無数に刻まれているが、しかし致命傷には及んでいないようで、未だ健在の飛行能力でもって精神統一するシルヴィアの元に急速で接近した。
「私が狙うのはこの個体ではありません!! 皆さん、絶対に食い止めて下さい……!!」
「はい!! 弓撃隊、攻撃用意!! 今度こそ確実に奴の目を射抜くよ!!」
隊列を組んだ弓撃隊はホエールの帯びる赤黒い眼光に狙いを定めて、素早く光の弓を引き絞る。
攻撃が唯一通用するであろうホエールの眼球……、その僅かな的に対してチャンスは一度きりであるが、彼女らが熾天使の下で積んできた厳しい訓練は、この僅かなチャンスを逃さないためのものであった。
「撃てぇぇ!!!」
号令と共に放たれた無数の矢が、猛進するホエールの眼光に次々と命中する。
「オォオオオオオオオ!!!!」
たまらず咆哮を響かせ、巨体を大きく仰け反らせるホエール。その背後から、眩いほどの閃光を纏うレイピアを片手にミアが斬りかかった。
「貴様の相手はこの私だ!!」
大きな隙を見せたホエールに対して、振るわれたレイピアの一太刀は分厚い体表を貫き、骨格に到達するほどの深い斬撃でホエールの胸ビレを斬り捨てた。
それとほぼ同時に、地獄の大門の上空から再び姿を現した熾天使マヤが、防壁を撫でるほどギリギリの軌道で一気に急降下してくる。
(今だ!!)
魔導書から放たれた膨大な魔力は雷となり、今まさにマヤの後を追って瘴気の雲から姿を現したホエールの巨体を、幾度と打ち据えた。
「グオオオオオオ!!!」
強烈な雷撃は鱗の装甲を貫通し、ホエールの巨体に致命的な感電状態を引き起こす。深刻なダメージにより浮力を失い墜落する巨体の真下にいたのは、防壁の守備を担う数百の魔物たちである。
『ギャアアアアアア!!!』
地獄の大門……、その名に相応しい断末魔が渓谷に響き渡る。
この瞬間、一体どれだけの魔物がホエールの巨体に押しつぶされただろうか。しかしそれだけでは留まらず、防壁の頂上に墜落したホエールは逃げ惑う魔物を蹴散らしながら激しくもがき、挙句に防壁から滑り落ちると、階段のようにせり出した二段目、三段目の階層まで次々と巻き込み、ゆうに一千を超えるであろうオークやゴブリンを道連れに数百メートル下の地表に叩きつけられた。
「この機を逃すな!! 一気に突っ込むぞ!!」
墜落するホエールの直撃を受けて一部の守備が崩壊した上に、ホエールの巨体が巻き起こした乱気流によって防壁上空の瘴気が乱されたことで、被害を免れた弩砲や守備隊も著しく視界を奪われていた。
この好機は、少数精鋭の部隊が通過するには十分な突破口である。
先陣を切るミアとそれに続く前衛班に隊列へ復帰したマヤも加勢し、拓かれた突破口へ一斉に斬り込む。
「熾天使だ!! 熾天使がいるぞぉ!!」
「弩砲隊!! 貴様らは持ち場を離れるな!! 離れるなと言ってるだろうが!!」
防壁の守備隊は大混乱に陥っていた。ホエールの墜落でパニックを起こして逃げ出そうとする者、熾天使マヤがいると知り手柄を立てようと殺到する者、その双方が互いを押し合い、防壁の頂上はもはや満足に身動きすら取れない有り様だ。
「さぁ、おいで!! キミたちの欲しがってる熾天使の首がここにあるよ!!」
神剣レヴァンテインを振るう熾天使は、蝶のように身軽に舞いながら、押し寄せる魔物を次々と肉塊に変えてゆく。
功を急いで殺到したオークはしかし、片っ端から切り刻まれる同胞の姿に恐怖し慌てて退こうとするも、格の違いも考慮せずに殺到する愚かな同胞によって前へ前へと押し出され、呆気なく血飛沫となり散っていった。
一方でマヤの背後では、ミア率いる前衛隊の戦使たちが剣を振るい、突破口を塞ごうと殺到するオーク共を果敢な猛攻で押し返す。
「ミア様!! 前方から巨大な敵影が接近中!! トロールです!!」
「ふん、無駄な足掻きを……、槍撃隊、下がれ!!」
進路上の魔物をなぎ倒しながら狂ったように暴走する巨体は、トロールと呼ばれる半魔獣だ。
知能は殆ど持たず、それ故に恐怖から解放されたトロールは、ただ植え付けられた本能に従い、オークの倍はあろうかという屈強な肉体を武器に、感知した獲物を殲滅するまで襲い狂う。
「来るぞ!! 槍撃隊、構え!!」
前衛隊の中でも特に槍術に長ける槍撃隊の戦使たち。剣より長く、弓より強靭な槍という武器は、総力戦において最前線で敵を迎え撃つことに適している。
一方で剣が交わるような乱戦の最中にもその有用性は失われない。弓を引くほどの隙を晒せない状況にて、新たに生じた脅威を剣の間合いまで接近させずに排除することも、槍の重要な役目である。
「今だ!! 放て!!!」
槍撃隊が放った光の聖槍は寸分の狂いもなくトロールの弱点……、つまりは頭部、喉、左胸を集中的に貫く。
それでも屈強な肉体は獲物めがけて走り続けたが、それはもはや惰性で動く操り人形も同然で、間もなく脚をもつれさせたかと思うと周囲の魔物を弾き飛ばしながらゴロゴロと転がり、ミアの眼前にて断末魔と共に最期の息を吐き出した。
「マヤ様!! 支援隊の通過が完了しました!!」
そう報告する支援隊の殿には、膨大な魔力の行使により一時的に意識を失ったシルヴィアが抱きかかえられていた。
「ミア!! ここは私が引き受けるよ!! 前衛を連れて先に進んで!!」
「よし、前衛隊、支援隊の後を追え!! 殿は私が務める、最後まで気を抜くなよ!!」
「承知しました!! みんな、行くよ!!」
交戦の隙を見て防壁から飛び降りる戦使たちは、瘴気の雲を抜ける高度まで落下してから素早く光の翼を展開し、滑空によって地獄の大門から離脱した。
殿を務めるミアは魔力によって増幅されたレイピアの刃で群がる敵をまとめて薙ぎ払い、最後の戦使たちが離脱できるよう隙をつくる。
「マヤ、前衛隊の離脱は完了だ!! あまり遅れるなよ!!」
そう言い残してミアもまた防壁から離脱すると、前衛隊によって食い止められていた魔物の波が、最後に残された熾天使マヤを挟みこむように殺到した。
が、しかし……、おびただしい数の魔物の『残骸』に囲まれながらコスチュームに汚れひとつ残さず神剣を構える熾天使を前にして、自ら残骸の仲間入りしようとするほど奴らも愚かではないようだ。
「どうしたのキミたち? これは千載一遇のチャンスなのに……、まさか怖気づいて見す見す熾天使を逃したなんて、上官に報告するつもりかな?」
熾天使の挑発を受け、一団の中でも特に重装な鎧を身に纏う恐らくはリーダー格であろうオークが大剣を構えたその時、辺りに年季の入った声が響いた。
「構わん、行かせろ」
声の方に視線を向けると、数多の守備隊らが左右に一歩退いて作る道を、老齢の妖魔が威厳を纏って歩み寄ってくる。
「貴様らが束でかかっても毛ほどの魔力さえ消耗させられん。無論、ワシがやっても同じだ。これ以上、命を無駄にするでない」
「……へぇ、随分と物分かりのいい妖魔もいたもんだね」
言葉に偽りはないようで、妖魔に騙し討ちの意図など無いことは、マヤの目から見ても明白であった。
とはいえ、諦めや落胆といった感情は見受けられない。自分の為すべき任務を理解し、それを最大限やり遂げたかのような、満ち足りた表情さえ伺わせていた。
「……熾天使マヤ、貴様の瞳はどこまで見通している?」
しわがれた声がマヤに問いかける。
「私が見通す先にあるのは勝利への道筋……、ただそれだけだよ」
「その道が絶たれた時に待つのが地獄でも、ひたすら進み続けるというのか?」
熾天使と妖魔……、静かに向かい合うこの両者の周囲では、今まさに再開されるやもしれない凄惨な殺戮の可能性を危惧する魔物共が、固唾を吞んで武器を握りしめている。
「……魔獣が墜とされ守りが崩れた時、私たちを止めることはできないとキミは悟ったはずだ。それでも、止められないとわかっていながら、兵を差し向けた」
「……確かにその通りだ。しかしな、優秀な上官というものは盲目的に勝利を目指さない。引き際を弁えることも肝心だ」
「なら、私も同じだね」
武装した数多の魔物に、臆することなく背中を向ける熾天使マヤ。
その無防備に対して誰一人斬りかかる者はいない。神秘的なほど輝かしい翼が展開される光景を、ただ眺めることしかできなかった。
「キミにとっての引き際がここでも、私にとってここは引き際じゃない……、それだけの話だよ」
優雅に滑空してゆく熾天使の姿は、間もなくして瘴気の雲の向こうに消えていった……