「きゃあああっ!!」
「な、なんだ!? 何があった!!」
「敵襲です!! 後方から敵襲!!」

 甲高い悲鳴が幕開けを告げた敵襲はあまりに突然のことで、隊列の中間で警戒にあたっていたマヤたちが振り向いた時には既に、支援部隊の直掩に就く前衛三班が近距離での交戦状態に入っていた。
 しかし何より一同を愕然とさせたのは、背後からの襲撃者の、その姿である。

「あのコスチューム、まさか……!? ショコラ様の……!!」

 コウモリのような特徴的な黒翼に、魔宮へ仕える者の証である漆黒のコスチューム……、それらは幾度か目にしてきた使い魔の姿であったが、しかしその使い魔の群れに交じって、鮮やかな青の映える聖少女のコスチュームを纏った姿があるではないか。
 紛れもなくフェレスティア・ショコラの出で立ちを纏った数匹の使い魔たちは、他の使い魔たちと連携しながらクレスケンスに似た射撃武器まで駆使している。

「くそっ、伏兵か……!! 総員、支援隊の援護に回れ!! 何が何でも被害を食い止めるんだ!!」
「はっ!!」
「くそ……、こいつら一体どこから……、使い魔の気配など全く感じなかったぞ……!!」
「……城壁で炊かれていたあの煙幕でしょう。シビレソウを燃やしたのは毒性に注意を向けることで伏兵の気配を隠すためでしたか……、私としたことが迂闊でした」
「とにかくまず使い魔を叩くよ!! ミアと私は"青の使い魔"を優先して排除、シルヴィは負傷者の手当てをしながら隊列を立て直して!!」
『了解!!』

 初動で支援部隊を狙った使い魔どもはしかし、戦使らが反撃に転じると一斉に散開して、迎撃にあたる戦使らの隊列を着実に崩していく。
 分散を強いられる戦使らは各々で防戦に応じているものの、ただでさえ素早い飛行能力にショコラの力まで得ている『青の使い魔』を相手に翻弄されつつあった。
 青の使い魔たちがクレスケンスに酷似した武器で光線を連射し、想定外の射撃攻撃で戦使の二人一組の連携が乱れたところを、黒の使い魔が追撃にかかる。実に巧妙な連携である。
 ただでさえ厄介な使い魔であるが、フェレスティア・ショコラの力を得てその脅威度は格段に跳ね上がっていた。

「みんな落ち着いて!! お互いを援護しつつ隊列を固めて下さい!! 隊列の再編後、一気に攻勢へ出ます!! それまでは守りを固めて、戦力の損耗を最小限に止めること!!」

 シルヴィの号令の下、一行は防戦一方になりながらも隊列を組みなおしてゆく。
 その最中、ひとりの戦使が声を張り上げた。

「シルヴィア様!! 小隊長が逸れました!! 敵を引き付けるため単独で向こうに!!」

 指さす先を見ると、隊列からかなり離れた地点に使い魔と一騎打ちをする戦使の姿がある。
 いや、それだけではない。奇襲の際に隊から逸れてしまった数名の戦使が、使い魔たちの格好の餌食となっていた。

「総員、隊列を維持してこの場で待機!! 救援はミア様に任せます!!」

 できることなら自ら救援に向かいたいのは山々だが、誰かがこの場で隊列を再編しなければ、現状の混乱は一向に収まらないだろう。
 口笛を吹き、今しがた青の使い魔を一匹追い払ったミアの視線を引き付けたシルヴィアは、手信号で逸れた仲間の存在を伝える。
 すぐに事態を把握したミアは、光の翼を力強く羽ばたかせた。







「キャハハッッ!! 活きのいい天使サマ、つっかまえたー!!」
「くそっ……!! 放せっ!! 放せぇぇッッ!!」


 接戦の末、背後を許し使い魔に羽交い絞めされてしまった小隊長の天使は、必死にもがいて脱出を試みていた。
 支援部隊から使い魔を引き離すためにデコイを買って出たものの、青の法衣を纏った使い魔の戦闘力は想像を遥かに超えるものであった。
 身を捩らせ、翼を羽ばたかせてみても、敵の腕力から逃れることができない。

「それじゃ、いただきまーす!」

 大きく口を開いた使い魔は、白肌の美しい首筋に鋭い牙を突き立てる。

「あぁああああああああッッッ!!!!」

 絶叫を響かせながら暴れる躯体は、しかし急激に抵抗力を失っていき、やがて二度三度と全身を痙攣させるとそれきりぐったりと脱力してしまう。
 焦点を失った瞳、口元から滴る涎、股間からは糸引く愛液がトロトロと滴る。
 使い魔が体内に持つ強力な媚毒は、天使さえ容易く絶頂に追いやるほど強力であった。

「捕まえたはいいけどどーしよっかな……。まあいいや、生きてたら後で可愛がってあげるね!」

 脱力した天使を無情にも放り出した使い魔は、次の獲物を見定めようと辺りを見回し、ようやく急接近してくるミアの存在に気付いたようだ。

「わわっ、なんだコイツ!!?」

 滑空するミアは放たれるクレスケンスの光線を最小限の動きで回避しながら、慌てて逃げようとする使い魔の懐に素早く潜り込む。そして……

「遅い!!」

魔力を纏ったレイピアの一撃は、使い魔の纏う偽りのコスチュームを容易く引き裂き、多量の鮮血を辺りに迸らせた。

「ぎゃああああ!!」

 悲鳴を上げながら墜落してゆく使い魔を背に姿勢を反転させ、小隊長の天使を追って真っ逆さまに急降下してゆくミア。
 それはまさに間一髪、地上僅か十数メートルのところで小隊長の身体を抱きこむように捕獲したミアは、眼下で怒声をあげるオークたちには目もくれずに隊列に引き返した。

***

 一方、上空では熾天使マヤも隊列から逸れた仲間たちの救助に追われていた。

「はぁぁぁッッ!!」

 孤立した戦使を追い回す使い魔を捕捉し、神剣を構えて突撃する。
 しかしマヤの気配を察知した使い魔は寸前で身を翻して上昇に転じ、素早く高度を上げていった。
 置き土産の不快な笑い声と共にクレスケンスの光線を撃ち出してきたが、守るまでもなく熾天使のコスチュームはその光線を吸収する。

(やっぱりこいつら、ショコラの魔力を……)

 コスチュームに吸収された魔力からは、確かにショコラの面影が感じられた。疑いが確証に変わったその瞬間、マヤは込み上げる怒りを奥歯で噛み締める。

「あ、ありがとうございます、たすかりました、マヤ様……」
「間に合ってよかったよ。怪我は大丈夫?」

 マヤが窮地を救ったのは、槍撃隊に属する若手の戦使だった。彼女の纏うコスチュームには焼け焦げたような穴が幾つも開き、所々血が滲んでいる。

「奴らの放つ光線、何故か防御魔法を貫通して……。ですが、怪我は大したことありません!! まだ……、まだ戦えます!!」
「……わかった。ここは私に任せて、支援部隊を探して合流するんだ。念のため傷の回復と、それが済んだら支援部隊の掩護を」
「承知しました!」

 少女がその場を離れてから、上空に退避した使い魔を見上げる熾天使マヤ。
 この事態を想定していなかったわけではない。しかしそれは、想定しうる中でも最悪に近い事態であった。
 ショコラが人間界で敗北し連れ去られてから僅か三日余り……、魔宮に連れ込まれてからは恐らく二日と経っていないだろう。
 魔族はこの短期間でショコラの魔力を戦力化し、実戦配備したのである。

 ……魔族の技術力とその実態を知るため、マヤは自らの救出作戦で救い出した天使たちから一対一で話を聴き、情報を収集してきた。
 もちろん、情報といっても捕らわれた者の体験はその殆ど全てが凌辱の記憶だ。
 思い出したくもない記憶を他人に話すには無理があるが、しかしマヤを信頼しているからこそ、マヤにだけ口を開く者も多かった。
 その中のひとり、諜報部に所属していたとある天使は、このような体験をマヤに語った。

 類稀な才能を持ち、魔族の極秘情報を幾度と天界に齎してきた彼女は、捕らわれてすぐに魔宮へと連行されたらしい。
 そこで彼女を待っていたのは股間にペニスをはやされる凌辱、そして有無も言わさず魔力をシゴき取る無慈悲な搾取拷問であった。
 台に手足を拘束されひとしきり魔力を『搾り出された』あとは、魔宮の上階にある部屋に連れ込まれたという。
 そこで待っていたのは、魔宮に仕える使い魔たちとの強制的な交尾であった。
 使い魔の体液に強烈な催淫効果があることはよく知られているが、彼女は濃厚な接吻で無理矢理にペニスを勃起させられ、数十匹の使い魔たちに代わる代わる犯され続けたのである。
 魔力が尽きれば肛門に座薬式の回復薬を注入され、回復した魔力をまた搾られてゆく……
 彼女はその時の感覚を『魔力だけでない、理性も自尊心も、自分の全てが奪われていくようだった』と語った。

 凌辱の末に何度も意識を失い日付の感覚も定かではなかったが、数日ほどした頃になり、自分と同じコスチュームを使い魔たちが身に着けるようになったと言う。
 自分の力を奪った使い魔たちに犯されるその背徳感に、彼女はプライドをズタズタに引き裂かれた。

 ……魔族への怒りと共にこの体験談を記憶に刻んでいたマヤは、ショコラの身を案じると共に救出するなら五日以内だと考えていた。
 それ以上時間をかければショコラの力は間違いなく実戦利用される、そう踏んでいたのだが、魔族の技術は想像より遥かに進歩していたようだ。
 抽出した魔力によるコスチュームの再現、そして直接的な搾取による魔力性質の体得……。
 慈悲など微塵もない外道技術の集約こそが、ショコラのコスチュームを纏いクレスケンスを操る忌々しい使い魔たちであった。
 目視しうる範囲でショコラのコスチュームを纏う使い魔は十体ほど、この程度の数ならまだ辛うじて対応できるか……。少なくとも、放置しておくには危険すぎる相手である。
 いや、奴らがこの力を得るためにショコラへ与えた苦痛を考えれば、仮に脅威にならずとも必ず滅ぼさねばならない相手だ。
 殺気に満ちた視線を向けられ、ロングヘアーの使い魔は甲高い笑い声を響かせる。
「お久しぶりですわね、熾天使マヤ。このコスチュームを御覧になって。貴女のかわいい、かわいいメスネコちゃんの力ですわよ。本人を会わせることはできませんけど……ふふっ……まぁ、これも感動の再会というやつですわね」
「……言葉を選んで喋った方がいいよ。キミたちはこれから命乞いをする間もなく殺されるんだからね」

 神剣に込められた殺意が魔力の波動となって迸る。
 いくらショコラの力を吸収しているとはいえ、熾天使であるマヤと使い魔との間には圧倒的な力の差が存在する。
 にも拘わらず、眼前の使い魔は不気味なほどに不敵な笑みを浮かべてマヤの姿を見下ろしていた。

「マヤ、後ろだ!!」

 辺りに響くミアの声。もちろんマヤもその気配に気づいていた。
 振り向きざまに振るった神剣から熱波が広がり、背後からの奇襲を企てていた使い魔たちをたちまち蹴散らす。

「あちちち!! 無理だよこんなのぉ!!」
「おい!! マヤがこっちくるぞ!!」

 怯んだ使い魔たちの合間を、目にも止まらぬ速さで赤い影が過ぎ去ってゆく。
 直後、翼を切り落とされた二体の使い魔たちが悲鳴を上げながら墜落していった。

「どう、そっちの状況は?」

 使い魔たちを追ってきていたミアは、熾天使の相変わらずな無双ぶりに苦笑いを浮かべて見せる。

「使い魔はなんとか抑えてる。シルヴィアが隊列を再編してるが、青の奴らがチマチマと妨害してくるおかげでもう少しかかりそうだ……」

 身を寄せ合いひそひそ話をしている使い魔たちを見て、ミアは怪訝そうな表情を見せる。

「厄介な連中だな。まさかショコラの魔力を使いこなしてくるとは……」

 ミアとシルヴィアにもこの可能性については話をしていた。もしかすると、敵は既にショコラから奪った魔力を戦力化しているかもしれない、と。
 その可能性についてシルヴィアは特に懐疑的であった。確かに魔族は天使の魔力を戦力化する技術を有しているが、過去の報告から推察するとその能力はあくまで『模倣』の域を出ないとされていたのだ。
 ましてやショコラの持つ魔力の特性は純粋な光の特性であり、本来なら魔族が扱える属性ではない。
 しかし現に、敵は光の特性が混じった光線をクレスケンスから放っている。天使の防御魔法を貫通しているのがその証だ。
 恐らく……、いや、物証が伴っている以上は間違いなくと言っていい、数多の天使たちの肉体を貪った結果、使い魔の肉体は光属性の魔法に適合するよう特性が変化したのだろう。

 とは言えミアやシルヴィアほどの実力があれば十分に太刀打ちできる敵だが、問題は敵が大物狩りではなく戦力の分断を狙っていることである。
 もはや一刻の猶予もない。こうして戦力化が進んでいる以上、直ちに魔宮に攻め込みショコラの身柄を確保したいところであるが、この厄介な敵を放置しておくわけにもいかない……
 特に青の使い魔、救出を成功させるためにも、こいつらは一匹でも多く排除しておく必要があった。

「こうしてると思い出すな。かつては戦いに赴く度、互いに倒した敵の数を競ってみたものだが……」
「にゃはは……。懐かしいけど、私もう二匹倒しちゃったからね。悪いけど勝負にはならないよ」
「案ずるな、私も既に一匹は排除してる。少数戦での大天使ミアの強さは改めて言うまでもあるまい」

 誰よりも勇敢で、そして誰よりも好戦的で……、出会った頃から、ミアはいつもそうだった。
 自信満々でレイピアを構えるミアの姿に頼り甲斐だけでなくどこか懐かしさも感じながら、マヤも神剣を握りなおす。

「消耗は抑えたいから極力魔法は使わない……、逃げた敵はミアに任せるよ」
「了解だ。あらかた片付いたらマヤは魔宮襲撃を先導してくれ。私もすぐに……、ん……? 信号弾………!?」

 それまでマヤとミアの出方を伺うばかりだった青の使い魔たちが突如撃ち上げた魔力の信号弾を、マヤもまた静かに見上げることしかできなかった。

「まさか、魔宮からの援軍を……」
「……なるほどな、報告に聞いてた数より随分少ないとは思ってたが……、ハナから攪乱した所を狙って挟み撃ちにする狙いだったか」

 諜報部の報告によれば、魔宮には60匹余りの使い魔がいると報告されている。背後からの奇襲を敢行した使い魔たちだけでは数の帳尻が合わないことは、ふたりとも薄々感づいていた。
 それにしても、魔族らしい実に単純明快な、しかし効果的な作戦である。

「向こうにはシルヴィアがついてる。隊列を整え正面から対峙すれば使い魔相手に遅れは取らないだろう」
「……とは言っても、あまり時間はかけてられないね。さっさとこいつらを片付けて、増援が来る前に隊列に戻らなきゃ」

 油断できない事態ではあるものの、魔宮に乗り込む以上はこの程度の危機を想定していないわけではない。
 どのような危機にも対応できるよう、選りすぐりの精鋭部隊を招集してきたのだ。
 緊迫したマヤたちの表情にもしかし、仲間たちへの信頼に裏付けられた自信が見て取れた。
 そこに血相を変えて飛んできたシルヴィアの報告が、事態を急変させる。

「マヤ様!! ミア様!! 魔宮より援軍の使い魔がおよそ三十体、うち半数ほどが青のコスチュームを着用しております!!」
「なっ……、ば、馬鹿な……!? そんなこと……」

 言葉を失うミアの隣で、マヤの表情にも明らかに動揺の色が伺える。
 今まで相手にしていた青の使い魔ですら、ものの二日でショコラから力を得たと考えるには多すぎる程であった。
 にも拘わらず、敵にはまだショコラの力を吸収している使い魔がいるというのだ。
 にわかには信じられないような報告であるが、冷静沈着の面影もなく切迫しているシルヴィアの様子が事態の深刻さを物語っている。

「見て見て!! 熾天使サマが焦ってるよ!!」
「ホントだー!! さっきまで自信満々って感じだったのに、急にどーしたんだろうねー?」

 癪に障る声が頭上から響いてくる。
 なんの打開策も出せないまま唸ることしかできないミアは、はしゃぐ使い魔たちに殺意の視線を突き付けた。

「きゃー!! あの天使サマこわーい!!」
「このままここにいたら私たちも殺されちゃうよー」
「そうだねー!! こいつらは後にしてさ、逃げる天使たちをおいしくいただこうよ!!」
「さんせー!! どうせこいつらもうすぐ逃げ出すからね!!」

 瞳を血走らせ、飛び去ろうとする使い魔を追おうとするミアの腕を、マヤが掴んで制止した。

「……ッッ!! 放せマヤ!! 今すぐ奴らを皆殺しにし、ショコラへの、そして我々天使たちへの侮辱を清算させるのだ!!」
「感情に流されないでミア!! 深追いすれば奴らの思う壺だ!!」
「情になど流されてない!! マヤのほうこそ怖気づいたのではないか!? 仲間を信頼してるなら……」

 そこまで口にしたところで、白手袋に包まれた手の平がミアの頬を力強く打ち据えた。

「な、何をッ!! ………ッッ!?」

 マヤの肩は怒りに震え、下唇には血が滲んでいた。その姿を見て、ミアはようやくその心情を理解する。

「私だって……、私だって気持ちは同じだよ、ミア……。ショコラを連れ去られて、嬲られて、大事な仲間を侮辱されて……、一度の死では釣り合わないほど奴らを憎んでる。でも私の……、私たちの使命は、仇討ちなんかじゃない……」

 堪えきれない怒りに震えるマヤの言葉を神妙な面持ちでもって聞いていたシルヴィアは、マヤの心中を全てを悟っている様子であったが、それでも改めて指示を仰いだ。

「マヤ様、次の作戦は……?」
「……退却する。残念だけど、敵の戦力が想定よりも高すぎる。これ以上のリスクは冒せない……」
「ま、まだわからんぞ……!! 援軍の奴らはショコラのコスチュームを複製しているだけかもしれない……!! ただの使い魔なら勝機は十分ある……!!」
「……確かに一理あります。目視だけでは敵の脅威度を確実には判断できません」
「ミアの言う通り敵の罠かもしれない。でもそれがわかるのは交戦してから……、もし敵の戦力が嘘偽りないものだった時、こちらにはもう退却のチャンスは残されてない……」

 空中での機動力は使い魔の方が優位である。つまり、一度でも交戦状態に入れば離脱は極めて困難になるのだ。万が一にも援軍の使い魔たちがショコラの力を得ていれば、甚大な被害は免れない。
 退路には広範囲に展開した青の使い魔たちが待ち受けている。最悪は部隊の半壊……、いや、全滅もあり得るだろう。
 その最悪を免れる唯一のチャンスが、今この場での退却であった。
 しかしもちろん、退却にも大きなリスクを伴う。それが……

「敵は私が引き受けるよ。退路を塞ぐ使い魔を排除し、追跡する援軍をその場で食い止める」

 退却は、囮としてマヤが脱落することを意味していた。
 要塞山を越えてからの快進撃にはやはり裏があった。敵はあえて魔宮の領域の奥深くまでこちらを誘い込み、容易に追撃から逃れられないタイミングになってから切り札を差し向けて来たのだ。
 今すぐ退却したところで、目前に迫った使い魔を振り切って魔宮の領域から抜け出すことは不可能だ。誰かが残り、食い止める他に手立てはない。
 そして十分に囮をこなせるのは、この状況下においてマヤだけであった。

「……くそッッ!! マヤを……マヤを残すなんて……!! ……ぐぅぅぅッッ!!」

 視線を落としたミアは、代わりを買って出ようにもそれができない自分の無力さと悔しさに、ただただ打ち震えた。
 ミアの戦闘力は少数を相手にする状況で無類の強さを発揮するが、多勢を引き付けて相手にできるだけの魔法攻撃は有していない。
 それに増援の青の使い魔がもし『本物』であれば、シルヴィアの攻撃魔法を以ってしても一撃で無力化することは困難だろう。
 青の使い魔相手でも十分な打撃を与え、部隊が無事に撤退できるだけの足止めをしうる戦力は、今この場にマヤ以外存在しないのである。

「ミアは部隊の指揮を執って、シルヴィはその補佐を。地獄の大門は既に防衛体制を再構築してる。シルヴィの"切り札"を使うタイミングは慎重にね」
「……承知しました」

 そう短く答えるシルヴィアの頬を、涙が一筋伝って落ちる。

「皆には、私は殿を務めるとだけ伝えて。増援が到達する前に、速やかに総員離脱を……!!」
「……了解した。皆を天界に連れ帰り、そして必ず……、この場所に戻ってくる。絶対だ……!!」

 伝令の天使が、敵の増援が魔宮の結界を超えたことを報告しに来る。
 彼我の距離は時間にするともはや数分しか残されていなかった。

「総員退却……!! 退却の指示を全員に伝えて!!」
「た、退却……、はいっ……!! 承知しましたシルヴィア様っ!!」

 退却の決断を伝えたシルヴィアは様々な感情を込めた視線を残して、マヤから離れ隊列へと戻っていった。

「マヤ、本当にいいのか? 私とシルヴィアがこの場に留まる選択も……」

 ミアの心配を遮る様に、マヤは首を横に振った。

「あいつらはミアとシルヴィアに任せるにはちょーっと荷が重いかな。それにショコラのこともあるから、直接お灸を据えないとどうにも気が収まらなくてね」
「……ふははっ!! いかにもマヤらしい強がりだな。こちらも、天界にはマヤだけじゃないところを奴らに存分見せてやるとしよう」

 そう言い残して飛び去ろうとするミアの背中に、マヤが呼びかける。

「ミア!!」
「………?」
「……ひとつだけ、いくらこのマヤ様でも今回はなかなかしんどそうだから……、救出のほう"なるはや"で頼むにゃー」
「……ああ、任せてくれ。天城では既にエミリアがお膳立てを始めてるはずだ、そう待たせないだろう」
「……それと私もひとつ、さっきは取り乱して済まなかった。あのビンタ、なかなか効いたぞ」

 せめて最後は自然な笑みで仲間を見送ったマヤは、その表情を一変させて退路を塞ぐように展開する使い魔たちを睨む。
 隊列のほうでは、ミアとシルヴィアの統制の下で天使たちの退却が開始されていた。

「あら、天使ちゃんたちもようやく気付いたようですねー、自分たちがどれだけ不利な状況になってるのか」

 オカッパの使い魔がのんびりと言った。

「はっ! そう簡単に逃がすかよ。ココで捕まえた天使はそのまま貰えるらしいし、奴隷にした数がどっちが多いか競争しようぜ!」 

 その横にいるショートカットの使い魔が、牙を剥き出しにして嗤う。

「いいですねー。あっ、でもでもー、熾天使サマは絶対に捕らえろっていう話でしたねー。逃がしたらお仕置きされちゃいますしー、まずはみんなで熾天使サマを狙いましょうよー」

 マヤの正面にいる使い魔、恐らくは一団のリーダー格と思われるそれは大胆不敵にマヤを見下ろし、そして一段と大きくハッキリした口調で言い放つ。

「もっといい手がありますわよ。雑魚天使と、フェレスティアの力を得たわたしたち。どちらが速いかは明らかですわ。前菜の取り巻きを一匹ずつ墜としていき、メインディッシュとして熾天使サマをじっくりと料理しましょう。仲間を失って必死に逃げる、天界の最高戦力とやらをね」
「ギャハハッッ!! そいつはイイや! リーダーに賛成だぜ!」
「泣きべそかいちゃう熾天使サマ……あはぁ、楽しみですねー」

 ……実に愚かで、相手を貶めることしか考えていない魔族らしい発想だ。だが……

「残念だけど、私は逃げないよ。……そしてキミたちは褒美に有り付くことも、お仕置きを受けることもない……」

 携えられた神剣レヴァンテインに、魔力が満ち溢れてゆく。

「キミたちはここで燃え尽きるんだ。……消し炭も残さずね!!」

 直後、上空に向かって突き上げられた神剣から、紅蓮の大華が咲き乱れた。

「……ッッ!! アレはまずい! 散開よ! みんな散らばりなさい!」
「煉獄の炎よ、醜悪なる魂の化身共を……、一片残さず焼き尽くせ……!!」

 次の瞬間、大華は無数の炎弾となり、そして炎弾は巨大な竜の頭を模し、展開する使い魔たちを狙って大口を開いて襲来した。
 ある者は立ち尽くし、ある者は急降下で逃げ切ろうとするも、火竜の頭は意思を持っているかのように正確に使い魔たちを追尾し、煉獄の口内に一匹ずつ丸呑みにしてゆく。
 あまりの灼熱に一瞬で焼き尽くされたのだろう。断末魔が響くことはなく、火竜の消滅した後には唯一焼け残ったショコラのコスチュームだけが虚しく宙を漂っていた。

「退路は開けた!! 総員速やかに退却!! 退却だ!!」

 ミアの号令に戦使たちが続く。中には使い魔との交戦で負傷し抱きかかえられている者も数名見受けられた。

「マヤ様!! 我々の力が及ばす、申し訳ありません……!!」

 そう声をかけてきたのは、先ほどマヤが窮地を救った槍撃隊の戦使であった。

「ううん、謝るのは私の方……、こんな無茶な作戦につき合わせちゃって、本当にごめんね」
「いいんです、皆本望で参加してますから! ところで、殿を引き受けるとのことで……」
「ああ、あいつらやたらすばしっこいからね。ここで少し足止めしてから、みんなと合流するよ」
「……そうですか。……あ、あの……!!」
「さぁ行って!! 敵がそこまで迫ってるのに小隊長がモタモタしててどうするの? ほら、急いで!!」
「……わかりました!! どうかご武運を!!」

 彼女が本当に言いたかったのは、もっと違う言葉だったろう。どうやらマヤの真意に気づいていたようだ。
 最後に、支援部隊とそれを援護するシルヴィアが、マヤの隣を通り抜けてゆく。
 ふたりの間に、もはや言葉を交わす猶予はなかった。視線を送り、力強く頷いてから通り抜けていったシルヴィアの背後には、三十~四十程の使い魔たちが大挙して押し寄せていた。
 報告の通り、うち半数がショコラのコスチュームを身に纏っている。

「熾天使の野郎、ふざけやがって! いまので何人ヤられたんだよっ!?」
「あっ! アレを見てくださーい。あそこに熾天使サマがいますよー!」
「でかした! おい、みんな! 熾天使はあっちだ!! 絶対に捕まえて、ボコボコにしてやれ!」
 マヤを発見した使い魔たちが殺到するように集まってきてくれたことは、マヤにとって最後の幸運であった。







「悪いけど……、ここは通さないよ……!!」

 掲げられた神剣レヴァンテイン。その切っ先に集中した魔力が灼熱の熱波となって瞬時に拡散し、それはまるで津波のような炎の壁となって使い魔たちに押し寄せた。





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