春の匂いが、まだ残っていた。
体育館の隅、柔らかな光が差し込む場所で、僕は一人、鉄アレイを握っていた。
新品のバレーボールシューズが、床にわずかに軋む音を立てる。
誰もいない時間を狙ってここに来るのが、僕の日課だった。

男子バレー部に入ったばかり。
けれど、体格はおそらく、全学年でいちばん小さい。
女子バレー部の1年生よりも細い――という現実は、鏡の前で痛いほどよくわかる。

だから、せめて…
せめて筋肉くらいは、人並みに鍛えようと決めていた。
本や動画で学んだトレーニング法、栄養管理。
その成果は、少しずつだけど出てきていた……気がしていた。

「ねぇ」

唐突な声が、背後から僕を包んだ。

びくりと肩を震わせて振り向いた先に、彼女がいた。

赤いバレーユニフォームに身を包んだ長身の少女。
光沢のある太腿が、ユニフォームの裾から滑らかにのびている。
肩で切りそろえた栗色の髪。穏やかな茶色の瞳。
一見するとモデルのように整った顔立ちだったけど――それ以上に、“大きさ”が、僕の視線をとらえて離さなかった。

「それ、筋トレしてるの？」

彼女――ソフィーは、興味深そうに僕の持つ鉄アレイを見つめていた。

「あ、うん……そう、だけど……」

しどろもどろに返事をすると、彼女はぱっと笑った。
まるで日差しのように、明るくて、温かくて――でも、どこか圧のある笑顔だった。

「すごいね。ちゃんとやってる人、あんまり見ないから」

ソフィーはそう言って、僕の隣にしゃがみ込んだ。
動作一つとっても、体幹がしっかりしていて、無駄がない。
近くで見ると、その腕や肩の筋肉が、ユニフォーム越しにもはっきりわかる。

だけど、意外な言葉が返ってきた。

「でも、私、あんまり筋トレってわかんなくて。鉄アレイとか使ったことないの」
「今度、教えてくれる？」
ソフィーはちょっと恥ずかしそうに僕を見つめて言った。
「バレー、一緒に頑張ろうね♡」

そう言って、ソフィーは笑顔のまま立ち上がり、軽やかな足取りで体育館の中央へと向かって歩いていった。
ユニフォームに包まれた背中は広く、太腿は太くて美しく、まるで何かの彫刻のように完璧だった。

その後ろ姿を、僕はただ見つめていた。
目を逸らすことができなかった。

――もし、僕にもあんな体格があれば。
もっと自由に、もっと堂々と、コートの上を走れるのかもしれない。
バレーは、もっと楽しいものに思えたのかもしれない。

小さな手の中で、鉄アレイがきゅっと鳴った。
その音だけが、静かな体育館に、ぽつんと響いていた。






部活の練習が終わった体育館には、もう誰の姿もなかった。
照明の落ちたコートの中央が、うっすらと夕焼けに染まっている。

僕はいつものように、体育館の隅にマットを敷いて、鉄アレイを手にしていた。
肌に吸いつくシャツ。重みを感じる器具。その感触に、少しずつ心が落ち着いていく。

「やっぱり今日もやってたんだね」
声がして、顔を上げるとソフィーが立っていた。

昨日と同じ、赤いユニフォーム。けれどどこか、それ以上に彼女の存在がくっきりと感じられる。
ソフィーは静かにこちらへ歩いてきて、僕の隣に腰を下ろした。
その動作だけで、床がわずかに沈んだ気がする。

「昨日のこと、ちゃんと覚えてたよ。筋トレ、教えてくれるって」

「……うん」

「じゃあ、これ持ってみるね」
そう言ってソフィーは、鉄アレイを両手で握りしめる。

だが、その構えはぎこちなく、手首もやや外を向いていた。
僕はそっと口を開く。

「肘は、曲げすぎない方がいいよ。肩から上に持ってくるイメージで。あと、背筋も真っ直ぐ」

「へえ、なるほど……」
ソフィーは僕の言葉に素直に頷き、ゆっくりと鉄アレイを構え直す。

「じゃあ……持ち上げてみるね」

慎重に、腕を動かすソフィー。
筋肉がしなやかに動いて、器具は静かに肩の高さまで上がった。

「……わ、結構ずっしり来る。でも……ふふ、意外と気持ちいいかも」

彼女は肩で小さく笑った。
僕はその横顔をちらりと見て、思わず言葉を飲み込んだ。

――片手で、軽々と。

僕がいつも、両手で全力を込めて持ち上げていた鉄アレイ。
それを、初めて触れた彼女が、いとも簡単に片手で。しかも、笑いながら――。

その事実に、胸の奥がじわりと熱くなった。
悔しさか、憧れか、焦りか、自分でもわからない。

ただひとつ確かなのは、
自分が「なにかに追いつけない場所」に立っている気がしたことだった。


【この続きは本編で】

