冷徹宰相は捨てられた令嬢を逃がさない
～婚約破棄を仕組んだのは、あなたでした～
著者　齋藤あいり

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＃１　断罪の夜

「セラフィーナ・アルヴェイル公爵令嬢。貴様との婚約を、この場で破棄する」

シャンデリアの光が、一斉にこちらを向いた気がした。

王宮の大広間。建国記念の夜会。楽団の音が途切れ、三百人分の視線がわたし一人に集まる。手にしたグラスの中で、葡萄酒の面だけが、何も知らずに揺れていた。

正面に立つのは、わたしの婚約者――王太子レナード殿下。その腕には、男爵令嬢ミレーヌ様がすがりついている。濡れた瞳で、震えて、庇われて。零れる涙の粒まで、灯りを受けて綺麗だった。泣き方の練習をした人の、泣き方だった。

ああ、と思った。

これは、舞台だ。

幕はとっくに上がっていて、配役も台本も決まっていて、わたしだけが知らされていなかった。

「殿下。理由を、うかがっても?」

声は、震えなかった。

こんなときでも震えないように、わたしは造られている。十年かけて。夜明け前に起こされて、三か国語の朝読を済ませ、笑顔の角度を鏡で測り、毒見の作法と、外交文書の書式と、決して感情を先に出さない話法を叩き込まれて。王太子妃教育というのは、要するに、人間を陶器に焼き上げる窯だ。

焼き上がったわたしを、人々は氷人形と呼んだ。

「白々しい!

貴様がミレーヌに階段で狼藉を働き、毒を盛ろうとした証拠は挙がっている!」

狼藉。毒。

知らない単語を並べられているみたいだった。わたしはミレーヌ様と階段で言葉を交わしたことすらない。毒に至っては、どこで、いつ、何を。

「身に覚えがございません」

「往生際が悪いぞ。手紙が残っている。貴様の筆跡でな!」

殿下が掲げた紙が、遠目にも上等な便箋だとわかった。

アルヴェイル家の若草色の封蝋。わたしの筆跡。わたしの封蝋。わたしの、書いていない手紙。

背筋が冷えていくのに、頭の芯だけが妙に静かだった。十年。王太子妃教育に費やした十年が、便箋一枚の重さで秤から落ちていく。

広間のどこかで、抑えきれなかった笑い声が、ひとつ弾けた。

それが合図だったように、ざわめきが広がる。扇の陰の囁き。躾けられた憐憫の顔。去年の園遊会でわたしがドレスの裾を貸した伯爵令嬢が、真っ先に一歩、わたしから遠ざかるのが見えた。

「お父様――」

振り返った先、群衆の中に父がいた。

目が合った。

父は、逸らした。

それだけで、全部わかってしまった。公爵家は娘より体面を取る。抗弁の場は与えられない。この広間の三百人の中に、わたしの味方は一人もいない。

……いいえ。正確に言おう。

この広間の三百人の中に、わたしの味方は、最初から一人もいなかったのだ。今夜はただ、それが可視化されただけ。十年間、笑顔の角度を測ってきた相手の全員が、わたしの落下を、余興として観ている。

「セラフィーナ・アルヴェイルの王宮への出入りを禁ずる! 連れ出せ!」

衛兵に両脇を挟まれて歩く間、囁きが雨みたいに降ってきた。

――まあ、あの完璧なセラフィーナ様が。

――お可哀想に、ミレーヌ様。

――所詮は氷人形ですもの。

氷人形。笑わない、隙のない、完璧なだけの女。

ええ、そうよ。笑う暇なんてなかったの。あなたたちの誰よりも早く起きて、誰よりも遅くまで、この国の妃になるためだけに生きてきたんだから。

その全部が、たった今、要らなくなった。

広間の出口で、わたしは一度だけ振り返って、完璧な淑女の礼をした。膝の折り方、首の傾き、指先まで。教育の全部を込めた、最初で最後の、誰のためでもない礼。

ざわめきが、一瞬だけ止んだ。

いい気味だと思った。焼き上がった陶器は、割られる瞬間まで、陶器なのだ。

王宮の外は雨だった。

付き人はいない。迎えの馬車もない。実家の紋章の入った馬車は、わたしを乗せずに走り去ったあとだった。徹底している。今夜のうちに、わたしという存在ごと消してしまいたいのだろう。

ドレスの裾が石畳の水を吸って、一歩ごとに重くなる。宝石を売れば、当座の宿くらいは。いいえ、追放令嬢に部屋を貸す宿が、王都のどこにある?

修道院。国境。頭の中で地図を広げて、どの道も三歩で行き止まりになった。

雨は、教育の外だった。

傘のない夜の歩き方だけは、誰もわたしに教えなかった。

――ここまでか。

そう思った、そのとき。

目の前に、音もなく一台の馬車が停まった。

黒塗りに、銀の獅子の紋章。見間違えるはずがない。宰相府の――ヴィンセント・グレイル侯爵の馬車。

扉が内側から開いて、雨の膜の向こうに、その人はいた。

夜より黒い髪。灰青の瞳。氷の宰相と呼ばれる、この国で王の次に恐れられている男。政敵を三人、表情を変えずに失脚させたという噂の男が、わたしを見て――笑った。

薄く。ほんの少しだけ。

「ずいぶん濡れましたね」

「……宰相閣下。どうして、ここに」

「あなたを拾うのは私だと、決めていましたので」

差し出された手は、手袋を外した素手だった。

雨の中で、その手のひらだけが熱かった。

行く場所のないわたしに、選択肢なんてなかった。ただ――馬車に乗り込んで気づいたのだ。座席には膝掛けが用意されていて、それがわたしの一番好きな、勿忘草の青だったことに。

どうして。

この人が、わたしの好きな色を知っているの。

疑問が形になる前に、扉が閉まった。

雨音が遠くなる。

こうしてわたしは、断罪の夜に、氷の宰相に拾われた。

――いいえ。

ずっとあとになって、わたしは知ることになる。

拾われたのではなく、この夜のために、三年かけて「落とされた」のだと。


＃２　檻の内装

馬車の中で、宰相閣下はほとんど口をきかなかった。

雨音と、車輪の音。向かいの席で長い脚を組み、窓の外を見ている横顔は、噂通りの氷でできているみたいだった。さっき手のひらだけが熱かったのは、気のせいだったのかもしれない。

わたしはこの人のことを、噂でしか知らない。

三十を前に宰相の椅子に座った俊英。先代からの重臣を三人、汚職の証拠ごと静かに葬った男。夜会に出ても踊らず、縁談を全部断り、笑った顔を見た者がいない――社交界の百科事典には、そう書いてある。その男の馬車に、追放されたばかりの令嬢が乗っている。どんな筋書きの何幕目なのか、当事者のわたしが、いちばんわかっていなかった。

「……あの、閣下。わたしは」

「ヴィンセントで結構です。着きましたよ」

グレイル侯爵邸は、夜の底に沈む石造りの城だった。

深夜だというのに、玄関の燭台は全部灯っていて、使用人が両脇に並んでいた。雨に濡れた追放令嬢を見ても、誰ひとり眉を動かさなかった。驚きも、好奇も、侮蔑もない。まるで、今夜わたしが来ることを、最初から知っていたかのように。

……いいえ。「かのように」ではないのだ、たぶん。

この整列は、予定表の顔をしていた。

「お部屋へご案内いたします」

年配の家令が先に立つ。セドリックと名乗った。主人によく似た、感情の読めない声だった。


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――続きは、製品版で。

『冷徹宰相は捨てられた令嬢を逃がさない』～婚約破棄を仕組んだのは、あなたでした～
著者　齋藤あいり　／　X　@NotHumanDesire