氷の若頭は三年逃げた花嫁を諦めない
～彼はあの一夜のわたしを、まだ全部覚えていました～
著者　齋藤あいり

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＃１　佐倉みお

「佐倉さん、ラスト一名いいですかー」

「はい、大丈夫です」

佐倉。

三年で、すっかり自分の名前になった。

定食屋「みなと」は、駅から歩いて十五分、県道沿いにある。夜の九時半。看板の灯を落とす三十分前。厨房の奥では大将が明日の仕込みを始めていて、油と出汁の匂いが混ざって漂っている。

この匂いを、わたしは三年かけて躰に染み込ませた。

三年前まで、わたしの手は白かった。

今は荒れている。指の付け根に包丁の胼胝、爪は短く切って、色は塗らない。洗剤で皮が剥けて、冬になると水が沁みる。

悪くない手だ、と思う。

自分で稼いだ金で食べて、自分で借りた部屋に帰る。誰の娘でもない、誰の女でもない、ただの佐倉みお。二十四歳、住み込みのアルバイト。

自由だった。

自由で、空っぽだった。

常連さんは、みんな親切だ。長距離の運転手さん。工場帰りの人たち。「みおちゃん、今日も可愛いね」と、意味のない褒め言葉をくれるおじさんたち。わたしは笑って、水を注いで、皿を下げる。

誰も、わたしが何から逃げてきたかを知らない。

知られたら、この人たちは一秒で消えるだろう。だから、話さない。三年、話さなかった。

――言いたくなった夜も、あったけれど。

暖簾が、揺れた。

カウンターの隅に、客がひとり座る気配。わたしは顔を上げずに、水を汲んだ。

「いらっしゃいませ。おしぼり、どうぞ」

返事がなかった。

それだけなら、よくあることだ。疲れた客は喋らない。

でも、何かが違った。

店の空気が、変わっていた。厨房の音が遠い。大将が仕込みの手を止めているのが、背中でわかる。

水のグラスを置いた手が、止まった。

目の前に、黒い革靴があった。

磨き上げられた、上等な靴。この店に、そんな靴は来ない。

視線を上げていく。細身の黒いスーツ。ネクタイ。皺ひとつない襟元。骨張った、大きな手。左手の甲に、見覚えのある古い傷。

――やめて。

顔を、見たくなかった。

見なくても、わかっていた。躰のほうが先に、思い出していた。指先が冷たくなって、膝が笑い始めて、心臓だけが馬鹿みたいに走っている。三年間、一度も鳴らなかった警報が、全身で鳴っていた。

「……ご注文は」

声が出たのが、自分でも不思議だった。

男は、メニューを見なかった。

「見つけた」

低い声だった。

三年ぶりに聞く声。あの夜、耳のすぐそばで聞いた声。

わたしは、顔を上げてしまった。

柊蓮司が、そこにいた。

三年前より、痩せていた。目の下に翳がある。それ以外は、何ひとつ変わっていない。冷たく整った顔。感情の映らない黒い瞳。氷の若頭、と呼ばれる男。

わたしの夫だった男。

いいえ。

――籍だけは、まだ入っている。

グラスが、指から滑った。

床で割れる音が、やけに遠くで聞こえた。


＃２　三年、探した

「佐倉さん!? 大丈夫か!」

厨房から大将が飛び出してきた。

わたしは動けなかった。足元にガラスの破片が散って、水が広がっていく。三年間、一度も落としたことのないグラスだった。

「すみません、あの、わたし……」

「お怪我は」

蓮司が、静かに言った。

その一言で、大将の足が止まった。この人は声を荒げない。荒げなくても、人が止まる。三年ぶりに、その理由を思い出した。

「……お客さん、お知り合い?」

大将が、わたしと蓮司を見比べている。

わたしは口を開いた。他人です、と言うつもりだった。言えば、この人はきっと引き下がってくれる。この店で騒ぎを起こす人ではないから。

言えばよかった。

「……はい」

なぜ、そう言ったのか。

三年考えても、たぶんわからない。

◇

裏口から出た。

県道沿いの空き地に、黒塗りの車が停まっていた。運転席から降りてきた若い男が、わたしを見て、それから泣きそうな顔で頭を下げた。

「……お嬢。お帰りなさい」

大和くんだった。三年前、まだ十代だった若衆。背が伸びて、肩が厚くなって、それでも顔は昔のままだった。

「大和くん」

「……三年、お待ちしてました」

声が震えていた。

この子はいつもそうだ。感情を隠せない。この世界に向いていない、と昔からずっと思っていた。

わたしは、逃げようとした。

本気で。三年間ずっと、その日が来たら走ろうと決めていた。国道に出て、コンビニに入って、人のいるところへ――

手首を、掴まれた。

息が止まった。

熱かった。三年ぶりの体温。骨が軋むほど強く、けれど痣にならない絶妙な力で、蓮司はわたしの手首を握っていた。

「離して」

「離さない」

「……人を呼ぶわよ」

「呼べばいい」

その返事に、わたしは何も言えなくなった。

この人は、そういう人だった。脅さない。ただ、事実を言う。呼んでも意味がないと知っているから、呼べばいいと言う。

顔を上げた。

街灯の下で、三年ぶりに、まともにこの人の目を見た。

――違う。

何かが、違った。

三年前、この目は氷だった。祝言の夜、わたしを組み敷いたときも、この目は少しも揺れなかった。事務の目だった。書類に判を押すのと同じ目で、この人はわたしを抱いた。だからわたしは逃げたのだ。

いまの目は。

燃えていた。

凍った表面の下で、何かが煮えていた。

「三年、探した」

蓮司が言った。

声が、掠れていた。

「北海道から、沖縄まで。……ここが、四十七県目だ」

わたしは、笑おうとした。

嘘でしょう、と。組の面子のために、逃げた花嫁を連れ戻したいだけでしょう、と。

笑えなかった。

だってこの人の手が、震えていたから。

◇

車の中では、一言も交わさなかった。

高速に乗って、二時間。窓の外を、見覚えのある山の稜線が流れていく。三年ぶりの帰り道だった。逃げるときは五時間かけて歩いた道を、帰りは二時間で戻る。

隣で、蓮司は前を見ていた。触れてこない。話しかけてこない。ただ、わたしと反対側のドアに、大きな躰を寄せているだけ。

逃げようと思えば、信号待ちで飛び降りることもできた。

しなかった。

なぜ、と自分に訊いても、答えは出なかった。

組屋敷の門を、車がくぐった。

黒い塀。手入れされた松。玄関に灯る、あの提灯。三年前と何ひとつ変わっていない。

迎えに出てきた女中頭のトキさんが、わたしを見た瞬間、袂で口を押さえた。

「……お嬢さま」

「トキさん」

この人が、三年前、わたしを裏口から逃がしてくれた。あの夜、震える手で草履を揃えてくれた人。

「よくぞ、ご無事で」

トキさんは深く頭を下げて、それきり、顔を上げなかった。肩が震えていた。

わたしは、この人たちに何をしたんだろう、と初めて思った。

◇

通されたのは、離れの奥の部屋だった。

襖を開けた瞬間、わたしは立ち尽くした。

三年前のままだった。

わたしの部屋が。

鏡台。読みかけの文庫本が、栞を挟んだまま伏せてある。壁に掛かった、あの日着るはずだった白無垢――いえ、着た白無垢。畳んで、桐箱に。窓辺の花瓶に、季節の花。

埃ひとつ、なかった。

「毎日、掃除させていた」

背後で、蓮司が言った。

「花も、毎朝替えさせた。……君が、白い花しか好まないから」

振り返った。

襖の前に立ったまま、彼はそれ以上、部屋に入ってこなかった。三年前も、この人はいつもそうだった。わたしの部屋の敷居を、勝手に跨がない。

「……三年よ」

わたしは言った。

「三年、こんなことを続けたの?」

「ああ」

「わたしが死んでいたかもしれないのに?」

「その可能性は、考えなかった」

平坦な声だった。

「考えたら、探せなくなる」

息が、詰まった。

この人は、こういう言い方をする。感情を語らない。ただ、事実だけを、そのまま置く。三年前のわたしは、それを冷たさだと思っていた。

――いまは。

わからなくなっていた。

「柊さん」

三年ぶりに、名前を呼んだ。

彼の肩が、わずかに動いた。

「なぜ、探したの」

「…………」

「組の面子のため? 逃げた花嫁を野放しにしたら、示しがつかないから?」

答えなかった。

長い沈黙のあと、蓮司は言った。

「……最初は、そうだった」

最初は。

その言葉の意味を、わたしはまだ知らない。

「今は?」

訊いてしまってから、後悔した。

彼が、初めてこちらを見た。黒い瞳が、廊下の灯りを映して揺れている。

そして、言わなかった。

言えないのだ、と、そのときのわたしにはわからなかった。

「風呂の支度をさせる」

彼は、それだけ言って、襖に手をかけた。

「三年前と、同じ湯加減で」

「……覚えているの」

「全部」

襖が閉まる寸前、低い声が落ちた。

「――あの一夜のことも、全部」

襖が、閉まった。

わたしは、畳の上に座り込んだ。

全部。

義務で抱いた女の、何を、全部?


＃３　一度で覚えた

湯は、熱かった。

熱すぎず、ぬるすぎず。肩まで沈めて、三十秒で額に汗が滲む温度。

――三年前と、同じだった。

わたしは湯船の縁を掴んで、しばらく動けなかった。

湯加減なんて、誰も覚えていない。母でさえ、わたしの好みの温度を知らなかった。それを、あの人は。

義務で娶った女の、湯の温度を。

◇

部屋に戻ると、鏡台の前に白い襦袢が畳んで置いてあった。

三年前と、同じものだった。あの夜、着るはずだった――いいえ、着せられて、脱がされた。

袖を通す指が、震えた。

襖の向こうに、気配があった。

いつからそこにいたのか、わからない。この人はいつも音を立てない。

「……入っていいか」

低い声。

わたしは息を呑んだ。

入っていいか。訊いた。

この屋敷の主が。若頭が。逃げた花嫁を四十七県かけて狩り出した男が。

――襖ひとつ、勝手に開けない。

拒めた。

拒めばよかった。あの人は、きっと引き下がる。三年前も、この人はわたしの部屋の敷居を勝手に跨いだことがなかった。

なのに。

「……どうぞ」

言ってしまってから、自分を呪った。

違う。会いたかったんじゃない。

――確かめたかったのだ。

「全部覚えている」の、意味を。

襖が開いた。

蓮司は、上着を脱いでいた。白いシャツ。ネクタイはない。襟元がわずかに開いて、鎖骨の下から、青と朱の線が覗いている。和彫り。三年前、一度だけ見た。

彼は敷居の内側に一歩だけ入って、そこで止まった。

「三年ぶりだ」

「……ええ」

「怖いか」

わたしは、答えなかった。

怖かった。でも、怖いのはこの人ではなかった。この人の目の中で煮えている何かが、怖かった。

彼が近づいてきて、畳に膝をついた。

手を伸ばして――止まった。

わたしの頬の、指一本ぶん手前で。

「……触れていいか」

また、訊いた。

わたしは、笑ってしまった。笑いながら、目の奥が熱くなった。

「三年前は、訊かなかったくせに」

「ああ」

「訊かずに、抱いたくせに」

「……そうだ」

否定しなかった。

この人は、嘘をつかない。だから、余計に。

わたしは、自分から顔を寄せた。

彼の指に、頬を押しつけて。

その瞬間、彼の呼吸が、はっきりと乱れた。

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――続きは、製品版で。

三年ぶりの夜が、ここから始まります。
そして彼女は知ることになる。義務で抱いたはずの男が、あの一夜の全部を、覚えていたことを。

『氷の若頭は三年逃げた花嫁を諦めない』～彼はあの一夜のわたしを、まだ全部覚えていました～
本編 約3万字／全12節／濡れ場5場面
著者　齋藤あいり　／　X　@NotHumanDesire