﻿氷の執事は名を呼ばない
〜一度でいいの、私の名前を呼んで〜

齋藤あいり

※これは体験版です。本編の冒頭のみを収録しています。

・本作品には成人向けの性的表現が含まれます。18歳未満の方の閲覧はできません。
・無断転載・無断複製を禁じます。


＃１　いつもの朝

「お目覚めでいらっしゃいますか、雪乃お嬢様」

　声より先に、匂いがわかる。
　扉の向こうに桐生が立っている。ノックは三度。決まって同じ間隔で、決まって同じ強さ。七年間、一度も乱れたことのない律動だ。

「起きてる。入って」

　扉が開く。朝の光がまだ薄い部屋に、白い手袋をした男が入ってくる。
　桐生慧。わたしの執事で、この屋敷でただ一人のαだ。

　背が高い。黒い燕尾に、隙のない銀縁の眼鏡。表情というものを、この男はほとんど持たない。持たないことを、七年かけて完成させた人だ。

「本日の抑制剤です。いつもの時刻に」

　銀のトレイに、水と、白い錠剤がひとつ。
　わたしはそれを、彼の手から受け取らない。トレイごと、サイドテーブルに置かせる。指が触れないように。触れれば、匂いが濃くなる。それを七年、二人で避けてきた。

　わたしはΩだ。
　高瀬の家に生まれた、女主人で、Ω。この矛盾を、世間はうまく飲み込めない。Ωは番になるもので、主になるものではないと、みんなが思っている。だから父は死ぬ前に、αの執事をひとり雇った。わたしを守るためではなく――わたしを、律するために。

「桐生」

「はい」

「今日の予定は」

「午前が財団の書類、午後に来客がお二方。夜は空いております。ヒートの兆候が出た場合に備え、私は屋敷を離れません」

　淀みなく答える。まるで、わたしの体の予定まで彼の管轄であるかのように。
　実際、そうなのだ。わたしのヒートは、桐生が管理している。薬の量も、周期の記録も、部屋の温度も、匂いを吸う空気清浄機の稼働も。発情期のわたしがみっともなく崩れないよう、この男が全部、整えている。

　傅く、という言葉がある。
　桐生の仕草には、いつもそれがある。皿を置くときも、扉を引くときも、わたしの前では必ず、視線がわたしより低い位置にある。αなのに。生物としては、この屋敷でいちばん上に立てるはずの男なのに。

　わたしはそれを、ずっと不思議に思ってきた。
　そして最近、その不思議が、少しずつ息苦しくなってきている。

「――かしこまりました、では」

　一礼して、桐生が下がる。
　扉が閉まる音。三度のノックと同じ、乱れのない静けさ。

　わたしは、飲まなかった錠剤を見た。
　白い、小さな、なんの変哲もない粒。これを飲めば、今日も「主」でいられる。Ωの本性を薬で押し込めて、財団を回して、来客に頭を下げられる側でいられる。

　飲む。
　喉の奥が、少し焼ける。

　鏡の中の女は、二十四歳。まだ、崩れていない顔をしている。


＃２　主従の距離

　桐生が高瀬の家に来たのは、七年前の春だ。

　わたしが十七で、父が病で床に就いた年。屋敷の使用人が次々に辞め、Ωの娘だけが遺されると噂が立ちはじめた頃だった。財団を狙う親戚が、わたしを「番わせて」家ごと手に入れようとしていた。Ωの当主など、婿に食わせるための器でしかない――そう思われていた。

　その中に、桐生は来た。

　紹介状も、経歴も、不自然なほど整っていた。前の雇い主のことを、彼は多くを語らない。ただ、面接の日にひとつだけ、父に約束したという。

「お嬢様を、番にはさせません。誰の、とも」

　αが、Ωを番にさせない。
　それは、自分自身にも課した誓いだと、後から知った。

　執事のαは、珍しい。傅く仕事は、序列の上に立つαの本能に反する。だから雇う側も雇われる側も、たいていそれを避ける。なのに桐生は、自ら望んで、Ωの主に仕える側を選んだ。

　なぜ、と一度だけ訊いたことがある。

「性に、向き不向きはございません」

　答えになっていない答えを、彼はした。
　銀縁の眼鏡の奥で、その目は、いつもより一瞬だけ遠くを見ていた。

　わたしはそれ以上、訊かなかった。
　訊けば、この均衡が崩れる気がした。傅く男と、傅かれる主。この距離があるから、わたしたちは七年、うまくやってこられた。

　午後の来客が帰ったあと、桐生が紅茶を運んできた。

「お疲れさまでございました。親戚筋の圧は、当面かわせるかと」

「あなたがいなかったら、とっくに誰かの番にされてた」

「私がいなくとも、お嬢様はご自身で立っておられます」

　嘘だ、と思った。
　わたしが立っていられるのは、この男が半歩後ろで、崩れる前に全部支えているからだ。財団の書類も、親戚の圧も、Ωの体も。桐生がいなければ、わたしはとっくに、番という名の所有物になっていた。

「桐生」

「はい」

「あなたは、疲れないの。ずっと、下に立ってて」

　カップを置く手が、一瞬だけ止まった。
　ほんの、まばたきほどの間。

「――下に立っている、とは思っておりません」

　それだけ言って、彼は一礼した。
　視線は、やっぱりわたしより低い位置にある。


＃３　薬が効かない

　異変は、周期の狂いから始まった。

　いつもなら、抑制剤を飲めば匂いは十分で消える。喉の奥が焼けて、体の芯が冷えて、それで「主」の体に戻る。七年、そうだった。

　その朝は、消えなかった。

　飲んで、十分待って、二十分待って、それでもうなじの奥が、じくじくと熱を持ったままだった。鏡の前で、自分の首筋を見る。番の腺が、薄く発赤している。誰にも触れられていないのに、内側から熱を持って、腫れている。

「……なんで」

　もう一錠、飲もうとした。
　規定量を超える。わかっている。でも、この熱を消さないと、今日の来客の前に立てない。

　錠剤を手のひらに出した、そのとき。

「おやめください」

　声がした。
　振り向くと、扉の隙間に桐生が立っていた。ノックは、なかった。七年で初めて、この男がノックなしで入ってきた。

「桐生、あなた」

「匂いが、いつもと違います」

　彼が近づいてくる。白い手袋の手が、わたしの手のひらから、二錠目の錠剤をそっと取り上げた。指は、触れなかった。錠剤だけを、器用に。

「規定量を超えれば、腺が焼けます。三倍量を五年続けて腺を潰したΩの例を、私は知っております。二度と、番の匂いを出せなくなる」

「それの、何が悪いの」

　言ってから、自分でも驚いた。声が、掠れていた。

「番の匂いなんか、出なくなればいい。Ωじゃなくなれるなら、腺なんか焼けたって」

　桐生が、動きを止めた。
　銀縁の眼鏡の奥で、その目が、初めてまっすぐわたしを見た。低い位置からでは、なく。

「――そのようなことを、おっしゃいますな」

　声が、低かった。
　いつもの、傅く声ではなかった。


＃４　越えない夜

　その夜、ヒートが来た。

　薬が効かないまま、周期が暴走した。夕方から体が熱くなって、夜には立てなくなった。ベッドの上で、シーツを握って、自分の吐く息が甘いのがわかる。番を、呼んでいる匂い。七年、押し込めてきたものが、堰を切っていた。

「お嬢様」

　桐生が入ってくる。今度はノックがあった。三度。でも、いつもより間隔が乱れていた。

「近づかないで」

　わたしは言った。この男に、この匂いを嗅がせてはいけない。αに、発情したΩの匂いを。それがどういうことか、七年一緒にいればわかる。

「解熱剤と、冷却材をお持ちしました。触れずに、処置いたします」

　彼は、手袋の上にもう一枚、布の手袋を重ねていた。
　二重の布越しに、わたしの額に冷却材を当てる。首筋に、そっと。指は、絶対に触れない。触れないように、この男は自分の手を布で二重に封じてきた。

　それでも。

　冷却材を当てる手が、震えていた。

　わたしは、熱に浮かされた目で、それを見た。七年、一度も乱れなかった桐生の手が、今、微かに震えている。額に触れる布越しの手の甲に、うっすらと汗が滲んでいる。

「……桐生」

「お喋りにならず。体力を消耗なさいます」

「あなた、いま」

「――処置に、集中させてください」

　声が、掠れていた。
　この男も、耐えている。αとして。発情したΩの匂いの中で、傅く自分を保とうと、全身で。

　わたしの熱が、彼の理性を焼こうとしている。
　わたしは、それに気づいてしまった。

　布越しの手が、わたしの鎖骨のあたりで、一瞬、止まった。

　布越しの指が、鎖骨の窪みで止まったまま、動かない。
　わたしは、熱に浮かされた手で、その手首を掴んでいた。

「桐生」

「……いけません」

「布、越しなら。……いいでしょう」

　自分でも、何を言っているのかわからなかった。ヒートの熱が、言葉から理性を溶かしていた。掴んだ手を、そのまま胸元へ引く。二重の布越しの掌が、寝間着の上から、乳房を包む形になった。

「っ……お嬢様、私は」

「触って。布の、上から、だけでも」

　彼の指が、一度、震えた。
　それから、意志に反するみたいに、ゆっくりと動いた。寝間着の薄い布越しに、乳房の丸みを辿る。布と、二枚の手袋。三枚も隔てているのに、触れられた場所から、熱が背骨まで走った。尖った乳首が、布を押し上げているのが、自分でもわかる。そこを、布越しに掠められただけで、腰の奥がびくりと跳ねた。

「……あっ」

「――このような、ことは」

　言いながら、桐生の息が乱れていた。七年、一度も乱れなかった呼吸が。発情したΩの匂いの中で、この男の理性が、音を立てて軋んでいる。

　わたしの脚の付け根は、もう、どうしようもなく濡れていた。まんこが、布の下で、切なくひくついている。何も挿れられていないのに、番を欲しがって、この男を欲しがって、蜜口が奥から潤んでいくのがわかる。

「桐生、お願い、もっと……」

　その、もっと、が、いけなかった。

　桐生の手が、びくりと止まり――次の瞬間、自分の意志で、乱暴に引き剥がされた。まるで、火にでも触れたように。

「――申し訳、ございません」

　掠れた、その一言だけが聞こえた。それから、衣擦れの音が、遠ざかっていく。素肌には、指一本、触れさせないまま。三枚の布の壁を、この期に及んで、守り抜いたまま。
　わたしは、熱に霞む視界の中で、その黒い背中を追いかけることも、できなかった。

　気づけば、桐生はいなかった。

　扉が、静かに閉まっていた。冷却材だけが、シーツの上に残されている。
　わたしは、まだ熱い体を持て余したまま、天井を見ていた。

　あの手の震えを、見なかったことにはできない。
　傅くだけの男だと思っていた。序列を捨てて、下に立つことを選んだ、感情のない執事だと。

　違った。
　この男は、七年、耐えていたのだ。


＃５　気づいてしまう

　翌朝、桐生はいつもどおりだった。

「お目覚めでいらっしゃいますか、雪乃お嬢様」

　三度のノック。乱れのない間隔。銀縁の眼鏡。昨夜の手の震えなど、なかったかのように、彼はトレイを運んでくる。

　でも、わたしはもう、気づいてしまった。

　この男の完璧さは、無感情なのではない。
　感情を、完璧に押し込めているのだ。七年かけて完成させた「表情のなさ」は、耐えることの果てにある無だった。

　それに気づくと、もう元には戻れなかった。

　紅茶を注ぐ手の、指の角度。扉を引くときの、視線の低さ。わたしの前で必ず半歩下がる、その位置。全部が、意味を持ちはじめる。傅いているのではなくて、この男は、傅くことで自分を律している。

　わたしに触れたい本能を、傅く仕草で、上書きしている。

「桐生」

「はい」

「昨日の夜のこと」

「――お忘れください」

　即答だった。
　いつもより、半拍早い即答。それが、忘れられていない証拠だった。

「忘れない」

　わたしは言った。熱はもう引いている。だから、これは発情ではなく、素面のわたしの言葉だ。

「あなたの手が、震えてた。あれを見て、忘れろっていうの」

　桐生が、紅茶のポットを置いた。
　置く音が、いつもより硬かった。

「私は、執事です」

「知ってる」

「お嬢様に仕える者が、お嬢様に、そのような感情を持つことは」

「持ってるの?」

　訊いた。
　訊いてはいけない、と七年間避けてきた問いを、とうとう口に出した。

　桐生は、答えなかった。
　答えないことが、答えだった。

　沈黙が、部屋に満ちる。
　この男は、嘘をつかない。だから、否定できないときは、黙る。七年、その黙り方を、わたしは何度も見てきた。今、その黙りが、いちばん雄弁だった。

　わたしは、立ち上がった。
　主として、ではなく。一人のΩとして、この男との距離を、初めて自分から詰めた。

「桐生」

「……お嬢様」

「わたしの名前を、呼んだことがないでしょう。七年も、一度も」

　彼は、いつも「お嬢様」と呼ぶ。雪乃、とは呼ばない。名前を呼ぶことを、自分に禁じている。

　名前を呼べば、主従ではなくなる。
　対等になる。対等になれば、この男は、傅くことで押し込めてきたものを、押し込められなくなる。

　わたしは、彼の頬に手を伸ばした。
　白い手袋の男が、逃げなかった。逃げられなかった、のかもしれない。

　背伸びをして、唇を、重ねた。
　七年、主従の距離を保ってきた唇に、自分から触れる。桐生の体が、石みたいに固まった。それでも、突き放さない。突き放せない。その硬直が、答えだった。

　薄く唇を開いて、誘う。数秒の躊躇のあと、桐生の唇が、応えた。
　最初は、触れるだけ。次に、確かめるように。そして、堰が切れたように、深く。舌が、遠慮がちにわたしの舌を搦め捕り、上顎の裏を辿る。七年ぶんの飢えが、そのキス一つに滲んでいた。喉の奥で、わたしのほうが、甘く鳴いてしまう。

　白い手袋の手が、わたしの腰に回った。
　引き寄せられて、体が密着する。燕尾の下の、思ったより硬い体。その手が、迷いながら、部屋着の裾から中へ滑り込んできた。手袋の、なめらかな革の感触が、素肌の太腿を這い上がる。

「……桐生」

「――お許しを」

　許しを乞いながら、指は止まらない。手袋越しの指が、脚の付け根に届く。ヒートでもないのに、そこはもう、はしたないほど濡れていた。革越しに、蜜口の浅いところを撫でられて、腰が跳ねる。

「あ、っ……」

「……こんなに」

　彼の声が、掠れた。指が、割れ目をなぞる。くちゅ、と濡れた音が、静かな部屋に響いて、わたしは羞恥で顔を伏せた。真っ白な手袋が、わたしの蜜で濡れていく。この男の、汚してはいけないものを汚している――その感覚に、なぜか、頭の芯が痺れた。

　革の指先が、花芯を探り当てて、円を描く。膝から力が抜けて、桐生の腕に、すがるように体を預ける。もう少しで、指が、奥に――

　その寸前で。
　桐生の指が、ぴたりと止まった。
　重ねた唇の隙間から、彼の、詰めていた息が、震えて漏れた。

　唇が離れて、桐生が半歩下がった。
　いつもの、傅く位置に。でも、その半歩は、もう七年前の半歩とは違っていた。

「――申し訳、ございません」

　彼が言った。
　何に対する謝罪なのか、二人ともわかっていた。触れたことにでは、ない。途中で、引いたことにだ。

　わたしたちは、もう、元の距離には戻れなくなっていた。


＃６　一度だけ、と

　それから数日、桐生は必要以上に喋らなくなった。

　仕事は完璧だった。むしろ、完璧すぎた。トレイの角度も、紅茶の温度も、扉のノックの間隔も、一分の隙もない。隙を作れば、そこから崩れるとわかっているから、この男は完璧さの中に逃げ込んでいる。

　わたしは、それを見ているのが、つらくなってきた。

　ある夜、書斎で書類を片づけていると、桐生が最後の紅茶を運んできた。屋敷は静まって、使用人もみな下がった時間だった。二人きり。

「桐生」

「はい」

「座って」

「使用人は、主の前では」

「命令。座って」

　彼は、少し迷って、向かいの椅子の、端に浅く腰かけた。傅く姿勢のまま、座ることすら遠慮する。その律儀さが、いまはもどかしい。

「わたし、あなたに命令ばっかりしてきた」

「それが、主従でございます」

「うん。でも、今日は、命令じゃなくてお願いがある」

　わたしは、カップを置いた。
　七年で、いちばん勇気のいる言葉を、口にする。

「一度でいいの」

「……お嬢様」

「一度でいいから、わたしの名前を、呼んで」

　桐生の、銀縁の眼鏡の奥の目が、揺れた。
　はっきりと、揺れた。七年、無だったその目が。

「それは」

「呼べないでしょう。呼んだら、主従じゃなくなるから。傅けなくなるから。あなたが、自分に禁じてきたことだから」

　わたしは、立ち上がって、彼の前に立った。
　見下ろす位置。主の位置。でも、乞うているのは、わたしのほうだった。

「わかってる。わかってるの。だから、一度でいい。一度だけ、対等になって。――そのあとは、また執事に戻っていいから」

　嘘だった。
　一度、対等になってしまえば、もう戻れない。それを、わたしもこの男も、わかっていた。

　桐生が、ゆっくり立ち上がった。
　初めて、わたしと同じ高さに、その目が来た。七年、必ずわたしより低い位置にあった視線が、今、正面から、わたしを見ている。

「……雪、乃、お嬢様」

「お嬢様は、いらない」

「――雪乃、様」

「様も」

　彼が、目を閉じた。
　最後の一線を、越えるための、深い呼吸。

「雪乃」

　名前を呼ばれた瞬間、体の芯が、熱くなった。
　ヒートでは、ない。この熱は、七年待った、わたし自身の熱だ。


＃７　決壊

　名前を呼んだ桐生は、もう、いつもの桐生ではなかった。

　銀縁の眼鏡を外す。手袋を、脱ぐ。七年、わたしとの間に置いてきた布の壁を、一枚ずつ、自分で取り払っていく。素手が、現れる。大きくて、節の目立つ、αの手。この手を、この男はずっと布で封じてきた。

「雪乃」

　もう一度、名前を呼ぶ。呼ぶたびに、彼の声から、執事の敬語が剥がれていく。七年ぶんの敬語の下に、こんな声が眠っていたのかと思うほど、低くて、飢えた声だった。


――体験版はここまでです。
この続きは、製品版でお楽しみください。

齋藤あいり（@NotHumanDesire）
