﻿氷の支配人は番を作らない
〜跪かせる側のあの人が、「欲しい」と懇願するまで〜

齋藤あいり

※これは体験版です。本編の冒頭のみを収録しています。

・本作品には成人向けの性的表現が含まれます。18歳未満の方の閲覧はできません。
・無断転載・無断複製を禁じます。


＃１　十回目の申込

「――十回目ですね、桜庭様」

　受付の声に、嫌味はなかった。事実の確認だけがあった。

　会員制サロン〈カージュ〉。
　薬に頼らず、Ωの本能を「訓練」で制御する、都内でここだけの場所。紹介制で、審査があって、そして、わたしは九回落ちている。

　理由は、一度も開示されなかった。

　わたし、桜庭栞、二十五歳。食品メーカーの経理部で働く、戸籍どおりのΩ。
　周期が読めない体質で、抑制剤は年々効きが鈍くなっている。会社に隠しごとはしていないけれど、言っていないことがひとつだけある。――半年前、社内で波が来かけた。給湯室で膝をついて、スカーフの下のうなじが内側から熱を持って、あと五分遅かったら、と思うと今でも指先が冷たくなる。
　薬を増やす道は、医者に止められた。これ以上は腺が保たない、と。
　だから、ここしかなかった。薬でも、根性でもなく、「命令と服従」でΩの本能を飼い馴らすという、半分都市伝説みたいなこの場所しか。

　十回目の今日、通された部屋は、これまでの面談室ではなかった。
　黒い扉。分厚い絨毯。窓のない、静かな部屋。

　その中央に、男が立っていた。

「久遠と申します。当サロンの、支配人です」

　背の高い男だった。三つ揃いのスーツに、銀の腕時計。年は三十半ば。声に、体温がなかった。低くて、正確で、こちらの内側まで測ってくるような声。

「本日より、あなたの担当を、私が務めます」

「……支配人が、直々に、ですか」

「ご不満でしたら、十一回目の抽選をお待ちいただいても」

「受けます」

　即答した。九回落ちた人間に、選ぶ権利はない。

　久遠は頷いて、一枚の契約書を、テーブルの上を滑らせた。

　規約は、簡潔だった。
　サロン内でのみの関係であること。外で会っても他人であること。感情の持ち込みは禁止。素肌の接触は段階制。中断の言葉は「檻」。そして最後の一行に、太い字でこうあった。

　――いかなる場合も、番行為（項部への咬傷）は行わない。

「これだけ、罰則が重いんですね」

「当然です」

　久遠は、初めてわたしの目を見た。

「私は、番を作らない。作らせない。それが、この檻の唯一の掟です」


＃２　檻の作法

　最初のセッションに、性的なことは何もなかった。

「跪いて」

　命じられて、絨毯の上に膝をつく。それだけだった。

「呼吸を数えて。四つで吸って、四つ止めて、八つで吐く」

　声に従う。従うと、不思議なことが起きた。ざわついていた体の内側が、静かになっていく。ヒートの前触れでいつも荒れる呼吸が、あの人の声の枠に、収まっていく。

　部屋には、時計がなかった。
　代わりに、メトロノームがひとつ、棚に置いてあった。振り子は止まっている。「必要になったら使います」と、あの人は言った。呼吸が数えられなくなる夜が、Ωには来るから、と。
　命令の声は、いつも同じ高さから降ってくる。近づきも、離れもしない。三歩ぶんの距離。それが最初の契約の、素肌より遠い距離だった。

「Ωの本能は、消せません」

　久遠の声が、頭の上から降ってくる。

「消せないものは、檻に入れる。命令と服従は、そのための枠です。薬は波を殺すが、枠は波を、飼い馴らす」

　わたしは、二十五年間、薬で波を殺してきた。
　殺しても殺しても、波は来た。職場で、電車で、真夜中に。増やした薬で胃を壊して、それでも来る波に、いつも負けそうだった。

　だからここに来た。九回、断られても。

「上手だ」

　ふいに、声の温度が、半度だけ上がった。

　たったそれだけで、背中が痺れた。
　命令に従って、認められる。それだけのことが、こんなに、体に効くなんて。

「続けます。……そのまま、膝立ちに」

　絨毯の上で、膝を起こす。三歩先の革靴は、動かない。今日はまだ、一度も触れられていない。最初の日から、一度も。

「目を伏せて。私の靴の先だけを、見る」

　視界が、狭くなる。声の出どころが見えなくなると、声は、耳からじゃなく、皮膚から入ってくるようになった。

「膝を、拳ひとつぶん、開く」

「……っ」

「聞こえませんでしたか」

「……開き、ました」

　スカートの中の膝を、拳ひとつぶん。誰にも見えない。この部屋には二人しかいなくて、あの人は三歩向こうから動きもしない。なのに、開いた、という事実だけで、脚の付け根に、熱が点った。

「閉じて」

　閉じる。

「開いて」

　開く。閉じるより、開くほうが、従順さが要る。それを知っていて、この人は命じている。

「呼吸が浅い。数え直し。四つ、止めて、八つ」

　数える。数えるほど、体の表面は静かになって、静かになった底のほうで、静かじゃないものが、熱を上げていく。

「顔を上げて。私を見る」

　目が合う。灰色の、温度のない目。その目が、わたしの喉から胸元へ、検分みたいに降りて、戻る。

「脈が、上がっていますね」

「……はい」

「怖い?」

「……いいえ」

「では、なぜ」

　答えられなかった。答えは、もう、下着の内側にあった。命令されて、従って、認められる。その往復のたびに、脚の奥が潤んでいくのが、自分でわかっていた。触れられていない。指一本、届いていない。声だけで、わたしは、濡れている。

　それが、恥ずかしくて。
　恥ずかしいのに――次の命令を、待っている。

「最後に、ひとつ」

　声が、半度だけ、低くなった。

「体に起きていることを、隠さないこと。報告は要りません。隠さない。それだけです」

　知られている。
　三歩の距離から、この人は、全部、見ている。

「返事は」

「……はい」

「――よく、できました」

　その六文字が、今日いちばん、深いところに届いた。

　セッションが終わると、久遠は何事もなかったように、手帳に何かを記した。

「次回は三日後に。……よく、できました」

　その一言を、家に帰ってからも、何度も思い出した。
　思い出すたび、胸の奥が、変な音を立てた。

　感情の持ち込みは、禁止。
　契約書の一行を、わたしは頭の中で、三回なぞった。


＃３　九回の理由

「桜庭さんの担当、支配人なんだって?」

　サロンの待合で、顔見知りになった会員の子が、目を丸くした。

「久遠さん、担当持たない人だよ。もう何年も。教える側の、そのまた上の人。……というか、あなた、九回落ちたって言ってたよね」

「うん」

「うちの審査、落ちる人ほとんどいないよ。書類と健康診断だけだもん」

　初めて、聞いた。

「担当の割り振りも、抽選って建前だけど、最後は支配人の決裁。――つまりあなた、九回、あの人に断られて、十回目にあの人が自分で取ったの」

　意味が、わからなかった。

　九回、断った人が、十回目に、自分で。

　帰り道、九回ぶんの不合格通知を思い出した。定型文の、体温のない三行。あれを九回、あの人は自分の指で送っていたことになる。
　断られるたび、わたしは申込書を書き直した。志望動機を変え、診断書を新しくして、写真まで撮り直した。滑稽だ。落としていた本人が、十回目に、黙って担当欄へ自分の名前を書くなんて。
　……どうして、と考えかけて、やめた。考えると、契約書のあの一行――感情の持ち込みは禁止――が、遠くなる気がした。

　次のセッションで、訊いた。

「わたしを九回落としたのは、あなたですか」

　久遠の手が、一瞬だけ、止まった。
　ページをめくる、その途中で。

「……審査基準は、非公開です」

「答えになってません」

「答える契約も、していません」

　声は、いつもどおり正確だった。
　でも、わたしはもう知っていた。この人の「正確」が、半度だけ揺れる瞬間があることを。

　いまのが、それだった。


＃４　波

　四回目のセッションの途中で、波が来た。

　予定より、十日も早かった。ヒートの前触れ。体の芯が疼いて、呼吸の枠が、内側から壊れていく。

「……すみません、今日は、帰りま」

「跪いて」

　声が、被さった。

「呼吸。四つ、止めて、八つ。――私を見て」

　命令の枠が、波に、上から被さっていく。

　久遠は椅子から立って、わたしの前に片膝をついた。手袋をした指が、顎を持ち上げる。目が合う。灰色がかった、静かな目。

「波は、敵ではない。数えなさい。波の間隔を。私の声で」

　言われるまま、数えた。
　波は消えなかった。でも、溺れなかった。あの人の声が、浮き輪みたいに、わたしを水面に留めていた。

「処置に移ります。服の上からのみ、触れます。……同意を」

「し、ます……」

「言葉が崩れたら、中断します。中断の言葉は」

「……『檻』」

「結構」

　手袋の指が、うなじの、髪の生え際に置かれた。

　革一枚。それだけの隔たりで、人の指が、初めて腺のそばに触れている。二ヶ月、声だけだった人の指が。

「熱いですね。腺が張っている。……波の頭が来たら、声に出して、一、と数えなさい」

　指が、うなじの輪郭を辿る。右。左。ゆっくり、測るように。

「ん……っ、一……」

　波の頭が来る。腰の奥から突き上げる疼き。いつもなら、ここで溺れる。でも今日は、数えろと言われている。数える、というたった一本の柱が、波の中に立っている。

「よくできました。次が来るまで、呼吸」

　手袋の指が、背骨を下りていく。ブラウスの上から、骨をひとつずつ確かめるように。触れられた場所から、熱が皮膚の下に溜まっていく。

「に……っ」

「間隔は」

「みじかく……なって、ます……」

「なら、頂点が近い。怖がらない。波は、上がりきれば、必ず下りる」

　腰の窪みに、手のひらが当てられた。服越し、手袋越し。なのに、そこから体の芯まで、まっすぐ響いた。お腹の奥が、きゅう、と締まって、愛液が溢れていくのが自分でわかる。下着はもう、役に立っていなかった。

「あ……っ、くおん、さん、わたし、へん……」

「変ではない。正常な波です。……三つ数えたら、いちばん高いところに出る。そこで、止まろうとしないこと。越えなさい」

「こわい……」

「私の声が、あります」

　断言だった。

「一」

　うなじの指が、腺の際を、円を描いて押した。

「二」

　腰の手のひらが、背骨の下端を、ゆっくり撫で上げた。体中の熱が、一点に集まる。触れられてもいない脚の間で、花芯が、痛いくらいに膨らんでいる。

「――三。越えなさい」

　声が、背中を押した。

　波の頂点で、わたしは、達した。

　服の上から、うなじと腰に手袋の指を置かれただけで。撫でられてさえいない場所が、何もない空気を締めつけて、びく、びく、と痙攣する。声にならない声が、喉から漏れた。

　……その、いちばん高いところで。

　うなじの指が、一瞬、迷った。

　円を描いていた指先が、軌道を外れて、腺の中心へ、半ミリ、寄った。押すのでも、撫でるのでもなく、ただ、寄った。まるで、口づける場所を、探すみたいに。

　一瞬だった。

　指はすぐに正確さを取り戻して、離れた。手のひらも、離れた。三歩ぶんの距離が、戻ってくる。

「……呼吸。四つ、止めて、八つ」

　声は、いつもの高さだった。
　でも、わたしは聞いてしまった。数えるその声の、最初の一音が、ほんの少し、掠れていたのを。

　波が、引いていく。
　引いた砂浜みたいに静かになった体の真ん中に、達した余韻と、あの半ミリの迷いだけが、残っていた。

　波が引いたあと、久遠は手袋を、外さないまま言った。

「……薬の量を、記録に。今日は、送迎を付けます」

「大丈夫です、ひとりで」

「命令です」

　それは、セッションの外の言葉だった。
　契約の枠の、外側から出た声だった。本人が、気づいているかは、わからない。

　帰りの車の中で、わたしは自分の指を見た。
　あの人の指は、波のいちばん高いところで、一瞬だけ、迷った。

　完璧な支配人の指が、迷った。
　それを見てしまったことを、わたしは、誰にも言えない。

　迷い、という言葉を、あの人の辞書から探しても、たぶん載っていない。載っていないものを、わたしは見た。
　それは秘密というより、預かりものに近かった。落とし主に返す日まで、誰にも見せてはいけない類の。


＃５　檻の外

　偶然だった。

　日曜の昼、書店の文庫の棚で、久遠玲に会った。

　スーツじゃなかった。灰色のニットに、眼鏡。手袋も、していない。文庫を三冊抱えて、値札を見て少し眉を寄せている、ただの男の人だった。

「……久遠、さん」

　呼んでから、契約書の一行を思い出した。外で会っても、他人であること。

　久遠は、わたしを見て、二秒、黙った。
　それから、小さく頭を下げて、他人の顔で、通り過ぎようとした。

「その本」

　気づいたら、声が出ていた。

「わたしも、持ってます。……最後、泣きますよ」

　久遠の足が、止まった。
　長い沈黙のあと、彼は振り返らずに、言った。

「……結末を言うのは、規約違反です」

「そんな規約、ないです」

「今、作りました」

　それだけ言って、彼はレジに歩いていった。
　耳が、少しだけ赤かった。

　レジに並ぶ背中を、見るともなく見た。
　スーツを脱いだだけで、あの人は五つくらい若く見えた。文庫を三冊まとめて買う人。眼鏡を押し上げる癖のある人。日曜の書店で、結末を知りたくない人。
　檻の中のあの人しか、わたしは知らなかった。知らないままでいることが、契約だった。

　わたしは棚の前に立ったまま、しばらく動けなかった。
　感情の持ち込みは、禁止。禁止。禁止。――三回なぞっても、今日は、効かなかった。

　その夜、規約を最初から読み返した。
　外で会っても、他人であること。……他人は、耳を赤くしない。他人は、「今、作りました」なんて言わない。
　条文の隙間にあの人の素顔が挟まって、抜けなくなっていた。


＃６　十年前の咬み痕

　教えてくれたのは、サロンのオーナーだった。老婦人で、久遠を「玲」と呼ぶ、唯一の人。

「あの子の担当を受けたのね。……珍しいこともあるものだわ」

　お茶に呼ばれた席で、彼女は静かに言った。

「玲がなぜ、番行為だけをあれほど禁じるか。聞いていないでしょう」

「規約だと、しか」

「十年前、あの子には恋人がいたの。Ωの子。……その子のヒートの夜に、玲は、理性を落とした」

　湯呑みの中で、お茶が、揺れた。

「同意なく、噛んだ。番にしてしまった。αの本能というのは、そういうものよ。相手の子は、番の枷に三年苦しんで――最後は、自分の腺を焼いたわ。番を、切るために。体を壊して、あの子の前から消えた」

　声も出なかった。

「玲は、探したの。三年かけて。謝るためじゃないわ。償える形がひとつでもないか、それだけのために。……見つけたときには、その子はもう遠い土地で、別の名前で暮らしていた。あの子は、会わずに帰ってきたのよ。自分の顔を見せることさえ、加害だと思って」

「玲はそれから、二度と番を作らないと決めた。自分の本能を檻に入れる技術だけを、十年、磨き続けた。あの子の『支配』はね、欲望じゃないの。……罰よ。自分に科した、いちばん重い罰」

　オーナーは、窓の外に目をやった。

「このサロンはね、七年前に、玲が持ち込んだ企画なの。Ωを薬漬けにしない訓練を作りたい、自分の技術を全部注ぐから、と。……最初は断ったのよ。αが本能の檻を教えるなんて、猛獣が檻の設計士になるようなものだもの」

「どうして、引き受けたんですか」

「設計士としては、猛獣がいちばん優秀だからよ。檻の弱いところを、全部知っているから」

　湯呑みを置く音が、小さく鳴った。

「あの子はこの七年、何十人ものΩの波を鎮めてきたわ。誰にも触れず、誰も傷つけず、完璧に。……でもね、私は知っているの。完璧というのは、治った人の顔じゃない。まだ血が出ている人の、包帯の巻き方よ」

　オーナーは、わたしをまっすぐ見た。

「九回断られたそうね。なぜだと思う?」

「……わたしが、審査に落ちたから」

「あの子が審査で落とすのはね、一種類だけ。――自分の檻を、壊しそうな子だけよ」


＃７　檻を叩く

　オーナーの話を聞いてから、三日、眠りが浅かった。

　罰として支配する人。跪かせることで、十年、跪いて詫び続けている人。……あの完璧さの正体を知ってしまったら、もう、従うだけのsubには戻れなかった。
　壊したいわけじゃない。ただ、檻の中にいるのが技術じゃなくて生身のあの人だと知って、確かめずにいられなくなった。

　次のセッションで、わたしは、訊いてはいけないことを訊いた。

「久遠さんは、わたしを噛みたくなったこと、ありますか」

　部屋の空気が、止まった。

「……契約外の質問です」

「答えてください」

「桜庭さん」

「栞、です」

　立ち上がって、あの人の前に立った。跪く側が、立った。それだけで、この部屋の秩序は、音を立てて軋んだ。

「九回、わたしを落としましたよね。壊されそうだったからですか。わたしに、檻を」

「――座りなさい」

「嫌です」

　初めての、不服従だった。

　久遠の目の色が、変わった。灰色の静かな目の、いちばん奥で、何かが、鎖を引いた。

「……もう一度だけ言います。座りなさい」

「嫌です」

　次の瞬間、三歩の距離が、消えていた。

　壁に、背中が押しつけられる。両側に腕が突かれて、檻の格子みたいに、わたしを囲った。いつも三歩向こうにあった顔が、息のかかる距離にある。

「九回」

　声が、低かった。命令の声より、ずっと下から出ていた。

「九回落としたのは、会わないためだ。書類の名前を見るたび、二年前の夜の匂いがした。会えば、檻が保たないと、わかっていたから」

「……保たないと、どうなるんですか」

　訊いてはいけない質問を、わたしはまた、した。


――体験版はここまでです。
この続きは、製品版でお楽しみください。

齋藤あいり（@NotHumanDesire）
