﻿最後の残業
〜退職届を出した夜、社長が初めて私を名前で呼んだ〜

齋藤あいり

※これは体験版です。本編の冒頭のみを収録しています。

・本作品には成人向けの性的表現が含まれます。18歳未満の方の閲覧はできません。
・無断転載・無断複製を禁じます。


＃１　退職届

「今月末で、退職させていただきます」

　白い封筒を、デスクの端に置いた。

　御影征士郎社長は、決裁書類から顔を上げなかった。万年筆の音だけが、二十二時の社長室に続いている。七年間、聞いてきた音だ。この人の署名は、いつも一定の速さで、一度も途切れたことがない。

「理由は」

「結婚を、考えている人がいます」

　ペン先が、止まった。

　七年間で、初めて。

「……そうか」

　三秒の沈黙のあと、署名の続きが書かれた。少しだけ、線が濃かった。

「引き継ぎの資料を、今週中に。後任の選定は人事に任せてある。君は――」

　顔を上げた社長の目は、いつもどおりだった。冷静で、正確で、わたしという秘書の向こうにある業務だけを見ている目。

「最終日まで、通常どおり頼む」

「かしこまりました」

　一礼して、退室する。扉を閉める瞬間まで、万年筆の音は、もう乱れなかった。

　七年間、この人の隣で働いた。出張の手配を千件、スケジュールの調整を万回。その七年で、御影征士郎がわたしを呼んだ呼び方は、二つだけだ。「君」か、「雨宮」か。

　下の名前は、一度もない。

　わたしがいなくなっても、この部屋は何も変わらない。それを確認するための、七年だった気がした。


＃２　最後の残業

　最終勤務日は、雨だった。

　定時で送別の花束をもらって、それで終わるはずだった。二十時、社長室に呼ばれた。

「株主向け資料の最終照合を。……最後の仕事だ」

「かしこまりました」

　最後まで秘書として使うのだ、この人は。花束をロッカーに置いて、わたしは資料の山に戻った。それでいい、とも思った。七年間の最後が仕事なら、それはそれで、わたしたちらしい。

　二十三時。数字の照合が、あと三ページ。

　こめかみの奥が、鈍く痛みはじめていた。雨の日は、いつもそうだ。誰にも言ったことのない、古い頭痛。

　目の前に、音もなく、白いカップが置かれた。

「……あの」

「アールグレイ。ミルクは多めだろう」

　社長は、それだけ言って自分のデスクに戻った。

　湯気の向こうで、わたしは少し、混乱していた。この人にお茶を淹れたことは千回ある。淹れてもらったことは、一度もない。そして――ミルク多め。給湯室でしか作らない、わたしの飲み方だ。

　カップの横に、小さく、頭痛薬の錠剤が二つ、置かれていた。

　……なぜ、知っているの。

　訊けないまま、薬を飲んだ。資料は、あと二ページ。壁の時計が、二十三時四十分を指していた。


＃３　二十三時五十七分

「終わりました。全件、相違ありません」

　ファイルを閉じると、社長は頷いて、決裁の判を押した。これで本当に、最後の業務が終わった。

「七年間、お世話になりました」

　頭を下げた。顔を上げたとき、社長は書類ではなく、わたしを見ていた。

「式は、いつだ」

「……式?」

「結婚すると言った」

「考えている人がいる、と申し上げました。……親が勧めてきた、お見合いの相手です。まだ、お会いして二回で」

　沈黙が、落ちた。

「――まだ、決めていないのか」

「はい」

　社長が、立ち上がった。デスクを回って、応接のソファの前、わたしの二歩手前で、止まった。七年間、保たれてきた距離より、一歩、近い。

「決めていないことを、退職届を出してから言うのか。……それを七年間黙っていた私に言うのは、残酷だな」

「……七年間、って」

　訊き返した声に、社長は答えなかった。代わりに、壁の時計を見た。

　二十三時五十七分。

「雨宮。三分だけ、そこにいてくれ」

「……は?」

「三分で、君の退職が正式に成立する。日付が変わるまで、君はまだ私の秘書で、私は君の上司だ。――上司として最後に命じる。三分、動くな」

　意味がわからないまま、わたしは、動けなかった。
　社長は退職届の封筒を手に取って、中の書類に、受理の判を押した。

　秒針の音だけが、部屋に響いた。


＃４　午前零時の告白

「これは、受理する」

　判の押された退職届が、テーブルに置かれた。

「……はい」

「明日から君は、私の秘書ではない」

　社長は、時計を見た。
　午前零時を、三分過ぎていた。

「そして私は、もう君の上司ではない」

　ネクタイの結び目を、指が緩めた。七年間、一ミリも緩んだところを見たことのない結び目を。

「だから――紗和」

　心臓が、止まった。

　七年間、一度も呼ばれなかった名前が、その声で発音される。低く、確かめるように、ずっと前から言い慣れていたみたいに。

「ここからは、命令ではない」

「……しゃちょ、」

「その役職は、三分前に君との関係を終えた」

　二歩の距離が、一歩になった。

「七年だ、紗和。君の退勤時刻を七年、把握していた。アールグレイのミルクの量も、雨の日に隠している頭痛も、金曜だけ髪を下ろすことも。……秘書として引き止める資格は、私にはない。有能すぎる君を、七年も私用の理由で側に置いた。その罰だ」

「私用の、理由……」

「わからないなら、言い直す」

　男は、初めて、わたしの目の高さまで顔を伏せた。

「好きだ。七年前の、面接の日からだ」


＃５　命令ではなく

　雨の音が、遠くなった。

「……どうして、今まで」

「君が完璧な秘書だったからだ。手を伸ばせば、君は職場を失う。私は、君の隣にいる方法を、雇用契約しか知らなかった」

　情けない話だ、と男は笑った。七年間、見たことのない種類の笑い方だった。

「帰るなら、送る」

「……帰らなかったら?」

「七年間言えなかったことを、全部言う」

「……言葉だけ、ですか」

　自分の口から出た声に、自分で驚いた。

　男の呼吸が、初めて、乱れた。


――体験版はここまでです。
この続きは、製品版でお楽しみください。

齋藤あいり（@NotHumanDesire）
