﻿番契約は午前零時まで
〜契約が切れた瞬間、無愛想なαが「まだ終わらせない」と私を抱き寄せた〜

齋藤あいり

※これは体験版です。本編の冒頭のみを収録しています。

・本作品には成人向けの性的表現が含まれます。18歳未満の方の閲覧はできません。
・無断転載・無断複製を禁じます。


＃１　契約終了まで、あと六時間

　荷物は、鞄ひとつに収まった。

　半年暮らした部屋なのに、と思いかけて、やめる。当然だ。ここはわたしの部屋ではない。契約書にそう書いてある。

　――乙（水瀬結月）は、契約期間中、甲の屋敷に居住するものとする。
　――本契約は、本日より六ヶ月後の二十四時をもって終了する。

　仮番契約。周期の壊れたΩの発作を、適合するαの匂いで鎮めるための、医療目的の契約。世の中にはそういう制度があって、わたしのような「薬の効かないΩ」と、高遠家のような「跡取りの世間体に契約歴が傷にならない家」の間で、静かに結ばれている。

　階下に降りると、高遠怜司はいつもどおり、居間の定位置で書類を読んでいた。

「今日で、契約終了です。半年間、お世話になりました」

「――二十四時に、車を用意する」

　それだけだった。

　書類から、顔も上げない。無愛想は今にはじまったことではないけれど、最後の日くらい、と思うわたしの方が、たぶん契約を読み違えている。

　これは、そういう契約ではないのだ。最初から。


＃２　触れる理由

　半年間で、この人がわたしに触れた回数なら、数えられる。

　十一回。すべて、発作の夜だ。

　周期の読めないわたしの発作は、前触れなく来る。薬は効かない。効くのは、適合するαの匂いだけ。だから発作のたび、怜司はわたしを腕の中に抱き込んで、自分の手首の腺を、わたしのうなじに寄せた。匂いが、波を上から押さえていく。溺れる人を、岸から引き上げるみたいに。

　その十一回、彼は必ず、灰色の絹手袋をしていた。

　発作で汗ばんだわたしの額を拭うときも、乱れた髪を直すときも、素手は一度もなかった。夜を同じ屋敷で過ごして、寝室は廊下の端と端。食事は向かい合って、会話は業務連絡。

　一度だけ、聞いたことがある。手袋、暑くないですか、と。

「――契約ですから」

　答えは、それだけだった。

　わかっている。手袋は、線だ。これは処置であって、それ以上ではないという、あの人の引いた線。わたしを欲しがっていないことの、いちばん丁寧な証明。

　半年、その線に守られて、その線に、少しずつ削られてきた。


＃３　本物の番候補

　最後の荷造りの途中で、それを見つけてしまった。

　居間のローテーブル。怜司が読んでいた書類の束が、そのままになっていた。片付けようとして、一番上の一枚が、目に入った。

　――番適合検査結果通知。適合率、九一・二％。

　知らないΩの名前と、経歴と、写真。高遠家の便箋で、縁談、という文字。

　……ああ、と思った。思っただけで、音は出なかった。

　そうか。九一・二。

　わたしは、自分の適合率を知らない。仮番契約は発作処置の実績だけで組まれるから、正式な適合検査は、していない。する必要が、なかった。半年で終わる契約に、数字は要らない。

　この人には、ちゃんとした続きが用意されている。九一・二％の、正式な相手。契約歴が傷にならないよう、わたしとの半年は書類の上で「医療協力」になって、静かに閉じられる。

　最初から、全部、そういう設計だった。

　だったら――零時を待つ理由も、ない。

　わたしは書類を元に戻して、鞄を持って、玄関へ向かった。二十三時五十分。十分早いだけだ。誰も、困らない。


＃４　午後十一時五十八分

「どこへ」

　玄関ホールの照明が、点いた。

　振り返ると、階段の上に怜司が立っていた。書類も読まず、腕も組まず、ただ、まっすぐこちらを見ていた。半年間で、初めて見る目だった。

「契約終了の、少し前ですが。ご縁談の書類、見てしまいました。お相手がいらっしゃるなら、わたしは早く出た方が」

「契約は」

　声が、階段を降りてくる。

「まだ、二分残っている」

「……二分待ったところで、何も変わりません」

「変わる」

　わたしの正面、一歩の距離で、彼は止まった。

「私には、その二分が必要だ」

　意味がわからなかった。わからないまま、動けなかった。彼は触れなかった。一歩の距離のまま、手袋の手を、体の横に固く下ろして、壁の時計だけを見ていた。

　秒針が、回る。

　二十三時五十九分。

　この人は、最後の一秒まで、線を守るつもりなのだ。触れない。引き止めない。契約のαのまま、正しく終わる。……それが、この二分の意味なのだと思った。

　思っていた。

　零時の音が、鳴るまでは。


＃５　午前零時の告白

　柱時計が、零時を打った。

　怜司は、上着の内側から折り畳まれた書類を出して、わたしに差し出した。仮番契約書。半年前、二人で署名したもの。破られてはいない。皺ひとつ、なかった。

「契約は、終了した」

「……はい」

「これでもう、私に、君を引き止める権利はない」

　だったら、と鞄を持ち直した、その手から。

　鞄が、消えた。

　彼がわたしの荷物を取り上げて、玄関の床に、静かに置いた。そして、言った。

「――まだ、終わらせない」

「……契約は、終わったのに?」

「終わったからだ」

　初めて聞く速さの、声だった。

「契約の間、君に触れるのは義務だった。求めるのは、違反だった。だから半年、一度も求めなかった。……零時を過ぎた今、ここから君を求めるのは、義務じゃない」

　彼は、わたしの前に、膝をついた。

　高遠家の跡取りが。命令することはあっても乞うことのない側の人が。玄関の冷たい床に、迷いなく。

「縁談は、断る。あの書類は、父が勝手に取り寄せたものだ。九一・二がなんだ。……数字で選ばれるのは、もう、君だけでいい」

「わたしの適合率、測ってもいません」

「要らない」

　即答だった。

「半年、隣で暮らした。発作の夜を十一回、腕の中で数えた。私の体は、とっくに答えを出している。数字は、後追いの証明書にすぎない」

　顔を上げた男の目は、無愛想のままだった。無愛想のまま、飢えていた。

「頼む。……契約でも、義務でもなく。私の意思で、君を選ばせてほしい」

　そして怜司は、右手の絹手袋の指先を、左手で摘まんだ。

　半年間、一度も外されなかった線が、指先から、ゆっくりと剥がされていく。


――体験版はここまでです。
この続きは、製品版でお楽しみください。

齋藤あいり（@NotHumanDesire）
