﻿代役の番
〜「本物の姉が戻ったから解消する」と告げられた零時、二年間わたしを代役として抱いた夫が「代わりだと思ったことはない」と離してくれなかった話〜

齋藤あいり

※これは体験版です。本編の冒頭のみを収録しています。

・本作品には成人向けの性的表現が含まれます。18歳未満の方の閲覧はできません。
・無断転載・無断複製を禁じます。


＃１　返却期日

「姉さんが、帰ってきたそうです」

　夕食の途中で、わたしがそう言うと、東雲湊はグラスを置いた。

「知っている。昼に、連絡があった」

　やっぱり。この人のところに先に行くのが、順番として正しい。姉は、この人の婚約者だったのだから。

「では、契約どおりに」

「――ああ」

　二年前、綾瀬家の長女・冴子は、婚約の三日前に姿を消した。駆け落ちだった。相手は家の反対を押し切った、まったくの平民。

　名家同士の縁談が、破談寸前になった。

　そこで、わたしが立てられた。次女の千夏、当時二十二歳。姉と同じΩで、同じ顔をしていると言われる程度には似ていた。

　――冴子が戻るまでの代役として、番になりなさい。

　そう言った父の隣で、東雲湊は、何も言わなかった。断らなかった、というだけの話だ。

　契約書には、こう書いてある。
　『長女・冴子の帰還が確認された場合、本契約は当該日の二十四時をもって終了する』

　返却期日。二年間、わたしはずっと、その一行を暗記していた。

　署名した日のことは、よく覚えている。

　綾瀬の応接間で、父は一度もわたしの顔を見なかった。話は全部、東雲家の側に向けられていた。冴子が見つかるまでのこと、体裁を保つための形式であること、次女には荷が重いかもしれないが我慢してもらうこと。

　母は、廊下でわたしの手を握って、「ごめんなさいね」と言った。

　謝られた時点で、答えは出ている。これは、誰かのために誰かが差し出される話で、差し出される側がわたしだというだけの、単純な話だ。

　あの日、東雲湊だけが、わたしに直接、聞いた。

「――綾瀬千夏さん。あなたは、それでいいんですか」

　いま思えば、二年間でいちばん、この人らしくない質問だった。

「解消の手続きは、こちらで進める」

　湊は、いつもと同じ声で言った。二年間、一度も乱れたことのない声で。

「今夜の零時で、君は自由だ」

　わたしは、「はい」と答えた。

　それ以外に、代役が言えることは何もない。


＃２　代役の二年

　勘違いしてほしくないのだけれど、この二年、わたしは冷遇されてなどいない。

　むしろ逆だ。

　東雲湊は、わたしを丁寧に扱った。食事の好みを覚えて、仕事から早く帰り、体調を崩せば一晩中そばにいた。

　そして――抱いた。

　番なのだから、当然といえば当然だ。Ωの発情期は番のαがいなければ荒れる。彼はいつも、わたしの周期を正確に把握していて、その夜には必ず家にいた。

　うなじの咬み痕は、二年前に彼がつけたものだ。何度も重ねられて、いまも薄れない。

　手順は、いつも同じだった。

　周期の三日前になると、彼の帰宅が早くなる。冷蔵庫に消化のいいものが増えて、寝室の加湿器が入れ替わって、翌週の予定が調整される。当日の夜、彼は寝室の扉を三回叩いて、「入っても」と聞く。わたしが「はい」と答えてから、初めて入ってくる。

　波が引いたあとは、必ず水を持ってきた。汗を拭いて、髪を直して、それから自分の部屋に戻っていく。朝までいたことは、二年で一度もない。

　几帳面な人だ、と思っていた。

　いま思えば、あれは几帳面なのではなく――線だったのだけれど、そのときのわたしには、区別がつかなかった。

　それでも、わたしにはわかっていた。

　この人は、わたしにキスをしない。

　抱いても、どんなに深いところまで暴いても、唇にだけは絶対に触れない。二年間、一度もだ。

　名前も、呼ばない。「君」としか呼ばれたことがない。

　姉と同じ顔で、姉と同じ匂いで、姉の代わりに抱かれている女に、唇と名前を与えないこと。

　――ああ、この人は、誠実な人なんだ。

　わたしはそう理解して、二年間、それを納得の形にして飲み込んできた。

　本物が戻ってきたら、返す。そういう約束の女に、彼は、姉のものを一つも使わせなかった。


＃３　二十三時四十七分

　荷物は、鞄二つに収まった。

　二年住んだ家なのに、わたしのものはほとんどない。買い与えられたものは、全部置いていく決まりだ。

　玄関に鞄を置いて、リビングに挨拶に行った。

「二年間、お世話になりました」

　湊はソファに座っていた。契約書の控えを手に持ったまま、こちらを見た。

「まだ、十三分ある」

「……はい?」

「二十四時までは、契約が生きている」

　声が、わずかに掠れていた。二年間、この人の声が掠れるのを、わたしは聞いたことがない。

「座ってくれ。……最後に、一つだけ聞かせてほしい」

　わたしはソファの端に座った。三人掛けの、いちばん遠い位置に。

「この二年、辛かったか」

　――ずるい質問だ。

　辛かったと言えば、この人を責めることになる。辛くなかったと言えば、二年間の全部が嘘になる。

「……代役として、できることはしたつもりです」

「そうか」

　湊は、時計を見た。二十三時五十五分。

「あと五分だ」

「はい」

「五分経ったら、私は君の夫でも、番でもなくなる」

　わたしは、膝の上で手を握った。冷たかった。

　零時が来る。そうしたら、この人は姉のところに行く。二年前にそうなるはずだった順番に、世界が戻るだけだ。

　それだけのことなのに、どうして、こんなに息ができないんだろう。

　柱時計が、鳴った。


＃４　午前零時

　一つ、二つ、と鐘が数を刻んでいく。

　十二個目が鳴り終わった瞬間、湊が立ち上がった。

　三歩で距離が消えた。

　顎を掬われて、上を向かされて――唇が、塞がれた。

　二年間、一度も、触れなかった場所に。

「――っ、ん……!?」

　思考が止まった。抵抗する手が、彼の胸を押す前に、掴まれて指を絡められる。深く、角度を変えて、二年分を取り立てるみたいなキスだった。

　息が続かなくなって、ようやく離された唇の間で、彼は言った。

「千夏」

　名前を。

　二年間、一度も呼ばれなかった、わたしの名前を。

「……なんで」

　声が、震えた。

「なんで、今」

「契約が終わったからだ」

　湊の目が、間近にあった。二年間、いつも凪いでいたその目が、いま、燃えていた。

「契約が生きているうちは、君に触れるのは全部『番の義務』になる。代役として抱かれている女に、義務でキスをして、義務で名前を呼ぶ男を、私は自分に許せなかった」

「……代役、でしょう。わたしは」

「代わりだと思ったことは、一度もない」


――体験版はここまでです。
この続きは、製品版でお楽しみください。

齋藤あいり（@NotHumanDesire）
