﻿白い結婚は午前零時まで
〜「跡継ぎは弟の子で構わない」と言われた白い結婚が零時に無効になった瞬間、辺境伯が「今夜から本物にする」と朝まで孕ませてきた話〜

齋藤あいり

※これは体験版です。本編の冒頭のみを収録しています。

・本作品には成人向けの性的表現が含まれます。18歳未満の方の閲覧はできません。
・無断転載・無断複製を禁じます。


＃１　婚姻無効申請

　婚姻無効申請書の「妻」の欄に、自分の名前を書いた。

　セシリア・ヴァレンハイト。二十二歳。ヴァレンハイト辺境伯夫人――今夜の零時までは。

　この国の法は、こう定めている。
　『婚姻より三年、夫婦の実がないと認められる場合、当事者の申請により、当該日の零時をもって婚姻は無効とする』

　白い結婚。

　わたしとグレイ・ヴァレンハイトの三年間は、法の言葉でそう呼ばれる。

　執務室の扉を叩くと、いつもの低い声が「入れ」と応じた。

「申請書に、署名をいただきに参りました」

　夫は書類から顔を上げた。銀に近い灰色の髪、氷のような目。北の辺境を十年守ってきた男の、感情の読めない顔。

　三秒。

　それだけの沈黙のあと、彼はペンを取って、迷いなく「夫」の欄を埋めた。

「……手続きは、家令に任せる」

「はい」

「零時をもって、君は自由だ」

　わたしは深く礼をして、退室した。扉を閉めるまで、彼はもう一度もこちらを見なかった。

　――先月、義弟のユリウス様に、お子が生まれた。

　その報せを受けた日、グレイ様は家臣たちの前で、こう言ったのだ。

「跡継ぎは、弟の子で構わない」

　三年間、わたしがこの家にいる理由は、たった一つだった。世継ぎを産むこと。
　その一つが、いらないと言われた。

　なら、わたしがここにいる理由は、もう、どこにもない。


＃２　触れられない三年

　勘違いされたくないので、先に書いておく。

　この三年、わたしは冷遇されてなどいない。

　むしろ逆だ。ヴァレンハイト辺境伯は、わたしを丁重に扱った。冬には南方の果物を取り寄せ、雪の日は暖炉の薪を切らさず、体調を崩せば王都から医師を呼んだ。領民の前では必ずわたしを隣に立たせ、誰かがわたしを軽んじれば、その場で目を細めた。

　ただ、夜だけが、なかった。

　初夜の晩、彼は寝室の扉の前まで来て、そこで止まった。

　扉越しに、「今夜は休んでくれ」とだけ言って、去った。

　翌日も、翌週も、翌年も。

　――時々、夜中に目が覚めると、扉の向こうに人の気配がすることがあった。

　息を殺して待っていると、しばらくして、靴音が遠ざかっていく。それが三年、何十回あったか、わたしは数えるのをやめた。

　政略で押しつけられた娘を、義務で丁重に扱い、けれど寝室には入らない。

　――要するに、わたしはこの人に、女として見られていないのだ。

　そう理解するのに、三年もかかった。理解してからは、早かった。


＃３　二十三時四十分

　荷物は、鞄二つに収まった。

　三年住んだ部屋なのに、持ち出せるものは少ない。嫁入りの品と、この三年で自分の手で買ったものだけ。贈られたものは、全部、置いていく。

　最後に広間へ降りると、暖炉の前に、彼がいた。

「まだ、起きていらしたのですか」

「――座ってくれ」

　振り返った顔を見て、わたしは足を止めた。

　氷のような目が、赤かった。

「零時まで、あと二十分ある」

「……はい」

「それまでは、私はまだ君の夫だ」

　彼は暖炉に薪を足して、それから、わたしから三歩離れた椅子に腰を下ろした。三年間、いつもそうだった距離だ。

「セシリア。三年、辛かったか」

「……務めは、果たしたつもりです」

「果たさせなかったのは、私だ」

　薪が、爆ぜた。

「……あの、グレイ様」

「零時まで、そこにいてくれ」

　それきり、彼は黙った。

　暖炉の火が、彼の横顔を照らしていた。三年、この人の顔をこんなに長く見たことはなかった。いつも、目を合わせる前に逸らされていたから。

　鐘楼の鐘が、鳴りはじめた。


＃４　午前零時

　一つ、二つ。

　十二の鐘が、北の空に落ちていく。

　鳴り終わった瞬間、椅子から立ち上がる音がした。三歩の距離が、消えた。

　気づいたときには、腕を掴まれて、引き寄せられていた。

「――え」

「これで、無効だ」

　彼の声が、耳のすぐ上にあった。

「私はもう、君の夫ではない。三年間、君に触れないという私の誓いは、たったいま、守る対象を失った」

「……誓い、?」

　わたしを見下ろす目が、燃えていた。氷ではなかった。三年間、氷の下でずっと燃えていたものが、いま、表面に出てきていた。

「セシリア。君が嫁いできた年、王都の医師が私に言った」

　掴まれた腕が、痛いほどだった。

「『奥方は、心の臓が弱い。懐妊と出産は、命に関わる』と」

　息が、止まった。

「跡継ぎを弟の子にすると言ったのは、君に世継ぎを産ませないためだ。夜に君の部屋に行かなかったのは、扉を開けたら、自分を止められないと知っていたからだ。……三年、扉の前で引き返した。何十回も」

　あの、靴音。

「わたし……知りませんでした」

「言えるものか」

　彼は、掠れた声で笑った。

「君に『お前は子を産めない』と告げて、そのうえで隣に置き続ける残酷さを、私は選べなかった。……だから、丁重に扱った。君が私を嫌って、自分から出ていく日まで、そうするつもりだった」

「……嫌ってなど」

「知っている。だから、余計に堪えた」

　彼の指が、わたしの頬に触れた。

　三年で、初めてだった。素手で、直接。

「今夜、君は無効の申請に署名した。私は、望みどおり君を自由にした。……ここまでが、夫としての私の最後の務めだ」

　顎を持ち上げられる。

「ここから先は、夫ではない男の話だ」

「グレイ、様」

「三年前、私は君の命を選んだ。今夜は、選ばない」


――体験版はここまでです。
この続きは、製品版でお楽しみください。

齋藤あいり（@NotHumanDesire）
