﻿氷の将軍は捨てた女を許さない
〜七年前に婚約を破棄したのはわたしなのに、戦から帰った将軍に「許すつもりはない」と閨に運ばれて、朝まで奥に注がれ続けた話〜

齋藤あいり

※これは体験版です。本編の冒頭のみを収録しています。

・本作品には成人向けの性的表現が含まれます。18歳未満の方の閲覧はできません。
・無断転載・無断複製を禁じます。


＃１　凱旋

　王都が、七年ぶりに晴れていた。

　北方戦役の終結を告げる鐘が、朝から鳴りやまない。大通りには花が撒かれ、屋根という屋根に人がいて、みんなが同じ名前を叫んでいる。

　――アイゼンリンク将軍。

　わたしは、その音のいちばん外側にいた。仕立て屋の裏口で、納品の荷を抱えたまま、鐘の音が体を通り抜けていくのを待っていた。

　ユリア・アシュレイ。二十五歳。かつては伯爵家の娘で、いまは、針一本で弟の学費を稼いでいる女。

　クラウス・アイゼンリンク。二十九歳。七年前、わたしが自分の口で婚約を破棄した男。

　その日の夕方、金貸しのマルサから呼び出しの手紙が来た。

　封を切って、わたしは指先が冷たくなるのを感じた。返済期日の話ではなかった。

　――貴女の債務は、譲渡されました。新たな債権者の指定する場所へ、明朝、出頭されたし。

　指定されていたのは、王都の北、貴族街のいちばん奥。

　凱旋将軍に下賜されたばかりの屋敷の、住所だった。

　◇

　鉄柵の門は、開いていた。

　従僕に案内された広間は、まだ人の気配が薄かった。壁には調度が置かれておらず、暖炉の火だけが、この屋敷の唯一の生活の証だった。

　扉が開いた。

　背が、伸びていた。それが最初に思ったことだった。七年前、士官学校を出たばかりの彼は、細い体に軍服を着せられているような頼りなさがあった。いまは、逆だ。軍服のほうが、この体に合わせて仕立て直されている。

　黒に近い濃い髪を短く刈って、灰色の目をしていた。左の手の甲に、火傷の痕が引きつっている。

　顔立ちは、覚えているものと同じだった。同じなのに、目だけが、まるで違った。

「アシュレイ嬢」

　声も、低くなっていた。

「よく来た」

「……アイゼンリンク将軍。ご凱旋、おめでとうございます」

　膝を折って礼をする。それが、いまのわたしと彼の身分の差だった。彼は将軍で、わたしは債務者だ。

「アシュレイ家の債務は、私が買い取った。総額、二千三百七十四ゴルド。利息を含む」

　彼はテーブルの上に、証書の束を置いた。マルサの署名、その前の債権者の署名、その前の――七年分の、家が崩れていく音がそのまま紙になったものだった。

「これは、無効ではない。譲渡が成立しただけだ。つまり」

　灰色の目が、わたしを見た。

「今日から、君の債権者は、私だ」

「……ご冗談を」

「冗談で二千ゴルドを出す男に見えるか」

　見えなかった。

「返済の方法は、こちらで指定する。第一に、君は今日からこの屋敷に住む。第二に、勝手に出ることを禁じる。第三に――」

　彼は、証書の束をわたしの側へ押し出した。

「弟の学費は、こちらで払った。今期のぶんも、来期のぶんも」

　息が、止まった。

　オリヴァーの名前は、この人には教えていない。七年前、あの子はまだ五つだった。

「なぜ」

「返済能力を保全するためだ。君ひとりでは、あの額は返せない」

　合理的な言葉だった。合理的すぎて、何ひとつ本当ではないことだけが、わかった。

「……将軍。ひとつ、伺ってもよろしいですか」

　顔を上げた。七年ぶりに、この人の目をまっすぐ見た。

「なぜ、わたしなんですか」

　暖炉の薪が、爆ぜた。

「七年前、君は私を捨てた」

　クラウスは、表情を動かさずに言った。

「私はそれを、許すつもりがない」

「……はい」

「だから、返してもらう。時間も、体裁も、私が失ったものは全部だ。……逃げれば、弟の学籍が消える」

　脅されている。それは間違いなく脅迫で、この人はそれを、少しも隠さなかった。

　わたしは、深く頭を下げた。

「かしこまりました」

　当然だ、と思った。

　わたしが捨てた男が、七年かけて力を手に入れて、報復に来た。何ひとつ不思議なことはない。むしろ、遅すぎたくらいだ。

　――そう思っていた。


＃２　七年前

　七年前の春、アシュレイ家は、静かに死にかけていた。

　父が王家の造船事業に出資して、それが沈んだ。文字通り、船ごと。残ったのは、伯爵位と、屋敷と、返せない額の借金だった。

　母は臥せっていた。オリヴァーは五つだった。

　そこへ、フォルスト侯爵が来た。

　うちの債権をいちばん多く握っていた男で、四十をいくつか過ぎていて、二度の妻を早くに亡くしていた。彼は父に、ひとつの提案をした。

　――ご息女をいただけるなら、猶予は差し上げましょう。

　条件は、ひとつだけだった。

　わたしには、婚約者がいた。クラウス・アイゼンリンク。子爵家の三男で、士官学校を出たばかりの、少尉。財産も、後ろ盾もない。持っていたのは、真面目さと、剣の腕と、わたしを見るときのまっすぐな目だけだった。

　父は、わたしに何も言わなかった。母も言わなかった。誰も言わないまま、屋敷の空気だけが、少しずつ、わたしの背中を押した。

　だからわたしは、自分の口で言った。

「――あなたでは、釣り合いません」

　王立公園の、噴水の前だった。

「わたしはフォルスト侯爵に嫁ぎます。あなたと結婚しても、わたしが得るものは何もありません」

　嘘だった。ぜんぶ嘘だった。

　この人と結婚できないのなら、この先の人生に得るものなど何もないと、そのときのわたしは本気で思っていた。

　クラウスは、何も言わなかった。

　言い返してくれれば、わたしはたぶん、そこで崩れていた。理由を問い詰めてくれれば、全部話していた。そうなれば、この人は侯爵に喧嘩を売って、少尉の身分では勝てるはずもなく、破滅していた。

　だから、彼が黙っていてくれたことに、わたしは感謝すらした。

　彼は一度だけ、深く頭を下げた。

「……お幸せに」

　それが、七年前に聞いた最後の言葉だ。

　◇

　結末を言えば、わたしは何も守れなかった。

　フォルスト侯爵との縁談は、三月と経たずに流れた。侯爵は、うちより格上の、もっと若い娘のいる家を見つけたのだ。債権はそのまま、猶予もそのまま――つまり、なくなった。

　父は翌年に死んだ。母はその冬に死んだ。屋敷は売った。

　残ったのは、借金と、オリヴァーと、わたしだけだった。

　自分で捨てた男の名前を、それから七年、戦報の中で何度も見た。

　北の要塞を守った少尉。中隊を救った大尉。師団を退けた大佐。名前が上がるたび、わたしはその紙を、誰にも見られないところで、指で撫でた。

　――わたしのしたことは、正しかった。

　この人はわたしと結婚しなかったから、こんなに遠くまで行けた。

　そう思うことだけが、七年間の、わたしの唯一の慰めだった。


＃３　将軍の館

　馬車で運ばれたわたしの荷物は、鞄ひとつだった。

　使用人部屋を想像していた。あるいは、物置に近い部屋を。皿洗いか、洗濯か、下働きとしてこき使われるのだろうと、覚悟していた。

　案内されたのは、二階の南の角部屋だった。

「……あの、部屋を間違えていませんか」

「間違えておりません」

　答えたのは、侍女長のマルタという年配の女性だった。

「将軍のお部屋の、隣でございます」

　絨毯は新しく、寝台には天蓋があり、鏡台には見たこともない銀器が並んでいた。衣裳部屋を開けると、わたしの寸法で仕立てられた服が、季節ぶん掛かっていた。

　背筋が冷えた。

　――辱めるためだ。

　着飾らせて、隣に置いて、いつでも呼びつけられるようにしておく。そういう趣味の報復なのだと、わたしは自分に説明した。そう説明しておかないと、別の可能性を考えてしまいそうだったから。

　夕食は、広間で二人きりだった。

　クラウスは、ほとんど喋らなかった。ただ、給仕がわたしの皿に白身の魚を置いたとき、彼は一瞬だけ手を止めて、それから何も言わずに食事を続けた。

　わたしは、川魚が食べられない。七年前の話だ。

　食後、彼は「明日は屋敷から出るな」とだけ言って、書斎へ消えた。

　◇

　その夜、廊下でマルタとすれ違った。

「奥様――と、お呼びしてもよろしゅうございますか」

「やめてください。わたしは、債務者です」

「左様でございますか」

　彼女は目を細めて、それから、こう続けた。

「あのお部屋は、屋敷を賜ったその日に、将軍が最初にお決めになったお部屋です」

「……はい?」

「調度も、寝台も、鏡台も。あの部屋だけ、先に整えさせました。他の部屋は、ご覧のとおり、まだ何もございません」

　わたしは、広間の壁を思い出した。絵も、燭台も、何もない壁を。

「将軍は、こう仰いました。あの部屋は七年前から決まっている、と」

　――七年前から。

　その夜、わたしは天蓋の下で、一睡もできなかった。

　報復にしては、丁寧すぎる。丁寧すぎて、意味がわからない。

　わからないまま、朝が来た。

　◇

　それから数日、屋敷での暮らしには、ひとつの規則があった。

　朝、六時半に、隣の部屋の扉が開く。廊下を歩く靴音が、わたしの部屋の前で、必ず一度止まる。三つ数えるくらいの間があって、それから、階段のほうへ遠ざかっていく。

　最初はたまたまだと思った。三日目に、数えるのをやめた。

　昼のあいだ、彼は王城に上がっているか、書斎にいた。わたしは屋敷を出ることを禁じられていたので、することがなかった。使用人たちはわたしに仕事をさせない。皿を下げようとすれば取り上げられ、廊下を掃こうとすれば箒を奪われた。

　仕方がないので、わたしは鞄の底から、針箱を出した。

　七年、これで生きてきた。屋敷を売ったあと、王都の裏通りの仕立て屋で、日に十二時間、他人のドレスの裾を縫って、弟の学費と、母の薬代を稼いだ。指の腹には、いまも針の痕が残っている。

　中庭の陽の当たる場所で、綻びかけた自分のショールを繕っていたら、影が落ちた。

　クラウスだった。

　その日は早く帰ってきていた。彼は、わたしの手元をしばらく見ていた。何か言われるのだと思って、わたしは針を止めた。

「――続けろ」

　それだけ言って、彼は向かいの椅子に座った。書類を広げて、それきり、何も言わなかった。

　わたしが縫って、彼が書類を読む。それだけの午後が、日が傾くまで続いた。

　夕食のとき、給仕がわたしの手元に、小さな革の包みを置いた。

　開けると、針が入っていた。仕立て屋のものより、ずっと細くて、上等な鋼のものが、十二本。

「……これは」

「王城の帰りに、寄った」

　彼は、パンを割りながら答えた。

「君の指が痛まないほうがいい」

　わたしは、その晩も眠れなかった。

　報復に来た男が、女に上等な針を買って帰る。そんな話は、聞いたことがなかった。


＃４　罰の夜

　三日目の夜、わたしは自分から、書斎の扉を叩いた。

「入れ」

　クラウスは、地図を広げていた。北方の、まだ雪の残る地形だ。戦は終わったのに、この人はまだ、その紙を見ている。

「将軍。……お願いがあります」

「言え」

「罰を与えてください」

　ペンが、止まった。

「わたしは、あなたを捨てました。あなたはそれを許さないと仰いました。……それは、当然のことです」

　声が震えないように、腹に力を入れた。

「なのに、この三日、わたしには何もされていません。部屋を与えられて、服を着せられて、弟の学費まで払われて。……こんなのは、報復ではありません」

「君は、報復されたいのか」

「そのほうが、楽です」

　言ってしまってから、これが本音だったと気づいた。

　罰されれば、七年前のわたしは間違っていたことになる。間違いなら、悔いていい。

　この人が優しいままだと――わたしは、あの日の自分を、どう始末すればいいのかわからない。

　クラウスは立ち上がった。

　机を回って、わたしの前で止まった。三歩の距離が、一歩になった。七年ぶりに、この人の体温を、空気越しに感じた。

　顎を、掬われた。

　火傷の痕のある左手ではなく、右手の、指の腹で。

「――なるほど。楽になりたいのか」

　声が、耳に落ちてくる。

「では、教えてやろう」

　親指が、わたしの唇をなぞった。

「罰なら、もう七年、与えている」

「……え」

「私にな」

　唇が、重なった。

　衝撃に備えて、わたしは目を閉じていた。噛みつかれる。奪われる。七年分の憎しみを、叩きつけられる。そう、覚悟していた。

　――触れたのは、羽根みたいなキスだった。

　触れて、離れて、確かめて、また触れる。壊れ物の縁を辿るような、祈りに近い丁寧さで。憎まれている女にするキスでは、なかった。

「……っ、なんで」

「黙っていろ」

　声だけが、低く軋んでいた。声と、指先が、噛み合っていない。顎を支える指は、震えるほど優しくて、その優しさが、わたしの胸を、刃物より深く抉った。

　舌が、唇を割って入ってきた。

　ゆっくり、わたしの舌を探り当てて、絡める。七年前、婚約者だった頃でさえ、この人はこんなキスをしなかった。手の甲への口づけと、額へのそれが、あの頃の全部だった。七年経って、初めて知る、この人の舌の熱さだった。

「ん……っ、ふ……」

　膝が、崩れた。逞しい腕が、腰を抱きとめる。書斎の壁に、背中がそっと――そっと、押し当てられた。壁に打ちつけることも、この人はしない。後頭部に、大きな手のひらが先に差し込まれていた。

　軍服の上から、手のひらが、わたしの輪郭を辿りはじめた。

　肩。二の腕。腰の細さを確かめて、一瞬、彼の呼吸が乱れた。

「……痩せたな」

「……っ」

「七年前より、ずっとだ」

　責める言葉ではなかった。責める言葉のほうが、ずっと楽だった。

　手のひらが、服の上から、胸のふくらみに触れる。布越しに、ゆっくりと形を確かめて、その丁寧さに、体の芯が疼いた。疼いてしまうことが、赦されない気がして、わたしは唇を噛んだ。

「あ……っ」

「声を、殺すな」

「だって……っ」

　だって、これは罰のはずだ。罰なら、感じてはいけない。感じていいのなら、これは、罰ではない何かになってしまう。

　わたしは、彼の軍服の襟を掴んだ。

「――もっと、乱暴にしてください」

　彼の手が、止まった。

「憎いのでしょう。七年、許せなかったのでしょう。なら、そのように扱ってください。髪を掴んで、突き飛ばして、憎い女にするみたいに……っ、こんな、こんな触り方をされたら、わたし……」

「無理だ」

　即答だった。

「無理だ。……七年、考えなかった夜はない。君をこの手に取り戻す夜のことを。北の天幕で、雪の壕で、何百回も想像した。その想像の中でさえ、私は一度も、君を乱暴に扱えなかった」

　灰色の目が、間近で燃えていた。

「憎むために思い出す顔が、毎晩、綺麗で困った。……わかるか、ユリア・アシュレイ。私は君を、乱暴にできるほど、憎めたことが一度もない」

　息が、できなかった。

　彼の唇が、また落ちてくる。今度は、首筋に。ドレスの襟の際、素肌のいちばん端を、熱い唇がゆっくり辿る。歯は、立てない。吸い上げて、痕を残すことすら、しない。触れるだけ。触れるだけの口づけが、肌の上に、一つずつ積まれていく。

「あ……っ、や……」

　布越しの手が、胸の先端を、掠めた。尖ってしまっていたそれを、指の腹が、布ごとそっと転がす。丁寧に。丁寧に。丁寧さが、拷問だった。

　乱暴にされたかった。乱暴にされれば、七年前のわたしは正しく罰されて、この疼きは苦痛の顔をしていられた。丁寧にされたら、駄目だ。丁寧にされたら、これはただ、七年待った男に触れられて悦んでいる女の体だ。

「クラウス、さま……っ、お願いです、から……」

「その名で、呼ぶな」

　声が、初めて、割れた。

「いま、その呼び方をされたら――私は」

　彼の腰が、わたしに押しつけられていた。軍服の布越しにも、はっきりわかるほど、硬く張り詰めたものが、そこにあった。七年分の飢えの、隠しようのない形が。

　わたしが、それに気づいたことに、彼も気づいた。

　次の瞬間、彼は、自分からわたしを引き剥がした。

　二歩。三歩。机の縁に手をついて、背中を向ける。広い背中が、肩で息をしていた。軍服の下で、震えているのが、離れていてもわかった。四日雪の中で動かなかった男の背中が、女ひとつ抱き損ねて、震えている。

「……クラウス様」

「来るな」

　絞り出す声だった。

「いま近づいたら、止まらん。止まらないやり方で君を抱けば、私は七年前の君と同じことをすることになる。……相手のためだと言い張って、相手の心を置き去りにする」

　机の上の地図が、彼の拳の下で、くしゃりと音を立てた。

「――出ていけ」

　荒い呼吸のまま、彼は、振り向かずに言った。

　追い出された廊下で、わたしは扉に背を預けたまま、しばらく動けなかった。

　罰されなかった。

　罰されないことが、こんなに苦しいなんて、知らなかった。

　扉の向こうで、何かが倒れる音がした。重い、机ごと薙ぎ払うような音だった。それきり、朝まで、書斎の灯りは消えなかった。


＃５　氷の将軍

　従卒のルカは、十七歳の、まだ声の高い少年だった。

　中庭で銀器を磨いていたわたしの隣に、勝手に座って、勝手に喋りはじめる。北方の話を、聞いてもいないのにしてくれるので、わたしはそれを止めなかった。

「将軍は、氷の将軍って呼ばれてるんです」

「……そう」

「怒鳴らないし、笑わないし、負けないから。三年前の冬なんて、雪の中で四日、動かずに待って、それで敵の補給を一晩で焼いたんですよ。四日ですよ? 誰も凍死しなかったのが奇跡だって」

　少年は誇らしげだった。

「あと、女の人を、絶対に近づけないんです」

　銀器を磨く手が、止まった。

「戦地って、その、いろいろあるじゃないですか。将校のところに来る人とか。将軍のところにも何度も来たんですけど、全部、追い返して。士官学校の同期の方が『お前は石か』って笑ってました」

「……ご立派なことね」

「でも、俺、知ってるんです」

　ルカは声をひそめた。

「将軍、毎晩、手紙を書いてたんです」

　風が、中庭の木を鳴らした。

「消灯後に、蝋燭一本つけて。俺、伝令だったから何度も見ました。……でも、一度も出さないんですよ。書いて、封をして、それで箱にしまうんです。ぜんぶ」

「……宛先は」

「書いてありませんでした。ずっと、白いままで」

　わたしは、銀器を落としそうになった。

「一度だけ、聞いたことがあるんです。将軍、それ誰に書いてるんですかって」

「……なんて」

「『生きているうちに読ませる気のない相手だ』って」

　少年は、意味がわからないという顔で笑った。

　わたしには、意味がわからなかったのではない。

　わかりたくなかった。

「あ、そうだ。ひとつ、変な話していいですか」

　ルカは、思い出したように言った。

「将軍、手袋を片方だけ、ずっと持ってたんです。女物の。古くて、指のところが擦り切れてて」

　息が、浅くなった。

「戦のあいだも、荷物の中に。俺が『それ何ですか』って聞いたら――」

「……なんて」

「『落とし物だ』って。それだけ」

　七年前の春、噴水の前。あの日、わたしは手袋を片方、落とした。

　拾ってくれた人がいたことを、わたしは覚えていない。あの日のわたしは、彼の顔を見ないようにして、逃げるように帰ったからだ。

　――ずっと、持っていたのか。

　七年、戦場に。

「奥様?」

「……奥様じゃないわ」

　わたしは、銀器に映った自分の顔を見た。ひどい顔をしていた。

　この七年、わたしがしていたことといえば、他人のドレスの裾を縫いながら、月に一度、王都の広場に貼り出される戦報を読むことだけだった。

　名前が載る。生きている。それを確認して、また裏通りに帰る。

　――わたしたちは七年、同じことをしていた。

　別々の場所で、相手が生きていることだけを確かめて、それを誰にも言わずに。

　◇

　その晩、夕食の席で、わたしはワインをこぼした。

　手が震えていたからだ。給仕が布を持って駆け寄る前に、クラウスの手が伸びて、わたしの手首を掴んだ。

「熱いか」

「……いえ」

「なら、なぜ震える」

　わたしは、この人の顔を見られなかった。

「将軍」

「なんだ」

「戦地で、手紙を書いておられたと聞きました」

　空気が、止まった。

　クラウスは、わたしの手首を離さないまま、しばらく黙った。それから、いつもの平らな声で言った。

「――ルカを、明日から厩舎に回す」

「お待ちください、あの子は何も」

「冗談だ」

　冗談を言う人ではなかった。少なくとも、七年前は。

「気にするな。戦地では、誰でもおかしくなる」

　彼は手を離して、食事に戻った。

　その手が、わたしの手首の骨のかたちを、一度だけ確かめるように撫でたことに、たぶん本人は気づいていなかった。


＃６　白い封筒

　書斎に忍び込んだのは、卑怯だったと思う。

　でも、わたしはもう、三日眠れていなかった。

　クラウスは午後から王城に上がっていた。マルタは買い出しで留守だった。わたしは扉を開けて、机の脇の、古い遠征用の木箱に手をかけた。

　鍵は、かかっていなかった。

　――束が、入っていた。

　白い封筒が、隙間なく、詰まっていた。麻紐で括られた束が、いくつも。数えようとして、諦めた。百では、きかない。

　どれにも宛名がなかった。

　いちばん上の一通を手に取った。封は、してあった。開けようとして、指が止まった。開けたら、もう戻れない。

　わたしがそれでも封に爪をかけたとき、背後で扉が開いた。

「――何をしている」

　振り返る前に、手首を掴まれた。

　手紙が、床に落ちた。

「返してください」

「返す?」

　クラウスの声が、初めて、明確に荒れていた。

「それは君の物ではない」

「わたし宛てでしょう!」

　言ってしまってから、心臓が跳ねた。

　彼の目が、暗くなった。

「――誰が、そう言った」

「……ルカが」

「あれは何も知らん」

「では教えてください。あなたが七年、誰に書いていたのか」

　わたしは、彼の軍服の胸を掴んでいた。自分でも、いつそうしたのかわからなかった。

「教えてくださらないなら、わたしはこの箱を、毎日開けます」

「……ユリア」

　七年ぶりに、名前を呼ばれた。

　その一秒で、わたしの膝から力が抜けた。

　崩れかけた体を、彼の腕が抱きとめた。

　抱きとめて、そのまま――机の上に、乗せられた。

　地図が払われ、ペンが床に転がる。あの几帳面な男が、書類の散る音を、気にも留めなかった。

「……ユリア」

　もう一度、名前が落ちてくる。

「ひ……っ」

　たった三文字で、体の芯が跳ねた。七年、誰にも呼ばれなかった呼び方だった。アシュレイ嬢でも、債務者でもない。噴水の前より昔の、わたしの名前。

「七年ぶりに口にして、わかった」

　彼の唇が、耳朶に触れる。

「この名は、口の中で、こういう味がするのだったな。……ユリア」

「や……っ、呼ばない、で……」

「なぜ。呼ぶたびに、君の体が跳ねるのに」

　気づかれている。名前を呼ばれるたび、腰の奥が甘く痺れて、膝が震えることを。

　ドレスの襟が、緩められた。今夜は、布の上からではなかった。素肌に、直接、大きな手のひらが触れる。鎖骨を辿り、胸のふくらみを掬い上げて、七年分の飢えと、軍人の正確さで、形を覚えていく。

「あ……っ、あ……」

「柔らかいな。……想像より、ずっと」

「そ、想像って……っ」

「七年分の想像だ。詳細は、墓まで持っていく」

　露わになった胸の先端を、指の腹が転がした。尖りきったそれを摘まれ、軽く引かれ、それから、熱い口に含まれる。舌先で押し潰されて、吸われて、わたしは机の縁を掴んだ。

「んっ、あ……っ、だめ、そこ……」

「ユリア」

　乳首を口に含んだまま、名前を呼ばれた。声の振動が、直接、体に響く。

「あ……っ!」

　びくん、と腰が跳ねて、達しかけた。触れられてもいない脚の奥が、じゅわりと熱を溢れさせるのが、自分でもわかった。名前だけで。名前と、胸だけで。

「……いまのは、達しかけたな」

「ち、ちが……っ」

「軍で覚えた特技を教えてやろう。……嘘を見抜くのが、早い」

　スカートの裾から、手が入ってきた。太腿を撫で上げて、脚の付け根に、指が届く。下着越しに触れられただけで、くちゅ、と濡れた音がした。

「……よく濡れている」

「言わないで、ください……っ」

「七年待った男への、これが君の返事なら――受け取っておく」

　下着が、膝から抜かれた。机の上で、脚を開かされる。書斎の灯りの下、いちばん恥ずかしい場所が、この人の目に晒されていた。

「や……っ、見ないで」

「見る。七年分だ」

　長い指が、秘裂をなぞった。溢れた蜜を纏って、ゆっくり往復して、膨らんだ花芯を探り当てる。指の腹で、円を描くように転がされて、目の前に火花が散った。

「あっ、あ、そこ……!」

「ここか。……ユリア」

「ひ、あぁ……っ!」

　名前と同時に花芯を押し潰されて、一度目が、弾けた。腰が跳ね、太腿が震えて、彼の手首を、内腿が挟み込む。達している最中も、指は止まらなかった。蜜口に、指が一本、沈んでくる。

「……熱いな。それに、狭い」

　彼の声が、掠れていた。

「んっ、あ、いま、いったばか……っ」

「知っている。……中が、まだ震えている」

　二本に増えた指が、内側のいちばん弱いところを探り当てて、押し上げた。親指は花芯に添えられたまま。中と外、同時に責められて、二度目の波が、あっけなく迫り上がる。

「ユリア。……ほら、また来る」

「や……っ、名前、呼びながら、しないで……っ、おかしく、な……っ」

「なればいい。……七年、私はずっとおかしかった」

「あ、あっ、いく、いっちゃ……っ、ユリア、って、呼ばれると……!」

「ユリア」

　二度目が、弾けた。

　一度目より深くて、長かった。まんこが指をきつく食い締めて、蜜が机の天板まで滴る。声にならない声を上げて仰け反ったわたしを、彼の腕が支えていた。

　快感の霞の向こうで、わたしは、彼の軍服の前が、苦しいほど張り詰めているのを見た。

　手を、伸ばした。

　その手首を、掴まれた。

「……だめだ」

「でも、あなたは……っ、あなただけ、ずっと」

「これ以上は」

　彼は、わたしの手を、自分の唇に持っていった。指先に口づけて、それから、静かに言った。

「――許した女にしか、しない」

　線だった。この人が自分に引いている、最後の線。

　名前を呼んで、素肌に触れて、達かせて、それでも、自分だけは満たされないまま終える。七年、戦地で女を追い返し続けた男の、痩せ我慢の続きだった。

　彼は、乱れたわたしのドレスを、丁寧に直した。襟を戻し、裾を下ろし、外れた髪飾りを、几帳面な指で挿し直す。脱がせたときの飢えた手つきと、同じ手が。

　最後に、額に、口づけが落ちた。

「――まだだ」

　熱の残る声で、彼は、それだけ言った。

　まだだ、の意味を、わたしはその夜ずっと考えていた。

　まだ許していない、という意味なら、わかる。

　でも、あの声は、そう言っていなかった。

　まだ、渡せない。まだ、確かめていない。まだ――そんな響きだった。

　床に落ちた手紙は、いつのまにか回収されていた。木箱には、翌日から鍵がかかっていた。


＃７　凱旋の夜会

　王城の大広間に足を踏み入れた瞬間、視線が刺さった。

「アシュレイの娘よ」
「まだ生きていたの」
「侯爵に捨てられて、今度は将軍に拾われたそうよ」

　扇の陰の声は、聞こえるように出されていた。聞こえるように出すのが、この世界の作法だ。

　わたしは、七年前に着ていたどのドレスよりも上等な絹を着せられていた。クラウスが仕立てさせたものだった。それが、余計に、みんなの舌を滑らかにした。

　そして、フォルスト侯爵夫人が来た。

　七年前、わたしの代わりに侯爵家に入った、三つ年下の令嬢。いまは扇を持つ手に、うちの屋敷が三つ買える指輪をしていた。

「まあ、ユリア様。ごきげんよう」

「……ごきげんよう」

「将軍閣下は、ご趣味がお優しいのね。落ちぶれた女を、慈善で置いてくださるなんて」

　笑い声が、輪になって広がった。

　わたしは膝を折って、黙って耐えた。耐えるのには慣れていた。七年、それしかしてこなかった。

　――そのとき、背中に手が置かれた。

　広間の空気が、変わった。

　クラウスが、わたしの隣に立っていた。

「フォルスト侯爵夫人」

　低い声だった。広間の端まで届く声だった。

「私の連れに、何か」

「あ、いえ、旧交を温めておりましたの。ユリア様とは、その、いろいろとご縁が」

「縁」

　彼は、その一語を、氷の刃のように置いた。

「七年前、貴家がアシュレイ家の債権を握り、令嬢との婚姻をちらつかせて猶予を約し、三月で反故にした件を、縁と仰るか」

　広間が、静まり返った。

　わたしは、息が止まった。

　――知っている。

　この人は、知っている。全部。

「あ、あの、それは父の代の話で」

「私の記憶では、証書に署名したのは貴女の夫だ。……もっとも、その債権はいま、私の手にある」

　侯爵夫人の顔から、色が抜けた。

「返済が滞れば、私は貴家の名を裁判所に出す。……もちろん、そのようなことは望まないが」

　彼は、わたしの腰を抱いた。

　人前で、公然と。

「この女は、私が七年かけて取り立てている、私の債務者だ。誰の慈善でもない」

　誰も、何も言えなかった。

　クラウスはわたしを伴って、そのまま広間を出た。

　◇

　馬車の中は、暗かった。

　車輪の音だけが、石畳を叩いていた。わたしはずっと、膝の上で拳を握っていた。

「……知っておられたんですね」

「三日で調べがついた」

　彼は、窓の外を見たまま答えた。

「君に捨てられた翌日、私は君の家の帳簿を調べた。フォルストの動きも、猶予の条件も、全部だ。……三日だ、ユリア。三日でわかることを、君は一人で抱えて、私に嘘をついた」

「――だって」

「私は少尉だった。侯爵に喧嘩を売れば、潰されるとわかっていた。君はそれを承知で、私を守った」

　わたしの喉が、鳴った。

「……ご存じなら、なぜ」

　なぜ、許してくださらないんですか。

　その言葉を、最後まで言えなかった。

　クラウスが、わたしの手を取ったからだ。手袋越しではなく、素手で。

「知っていることと、許すことは、別だ」


――体験版はここまでです。
この続きは、製品版でお楽しみください。

齋藤あいり（@NotHumanDesire）
