第3話「私にも敬語使ってよ」


翌日の放課後
修一はいつもより少し早くパソコン部の部室に顔を出した
早紀の言葉が、頭から離れない。
『先輩もいるし』
あの一言が、妙に引っかかっていた。
昨日の帰り道。二人きりになったこと。早紀の飲みかけのレモンティーを分けてもらったこと。そして、何度もからかわれたこと。
（いや、ただ部室が気に入っただけだろ）
そう自分に言い聞かせながらも、早紀が自分に向けた笑顔を思い出してしまう。
『私の飲みかけ飲めて嬉しかったんですか？』
「っ」
修一は思わず顔を覆った。
（あれは、反則だろ）
三年生にもなって、一年生の女子にあんなに振り回されるなんて。自分でも情けないと思う。
それでも――。
修一は昨日の夜のことを思い出していた。
部屋の電気を消して布団の中で。スマートフォンの画面に浮かんだ早紀の顔。あの、からかうような笑み。飲みかけのペットボトルの唇。そして。
（やめろ）
修一は頭を振った。
朝の部室で、何を考えているんだ。
しかし一度思い出してしまうと、止まらなかった。あの時の感覚。早紀の声。『先輩』と呼ばれるたびに、背中がぞくりとした。
「佐伯せんぱーい！」
結衣の明るい声が響く。
「あ、お疲れ」
修一は慌ててヘッドセットを外した。
その後ろから、早紀が入ってくる。
「お疲れー。今日もゲーム？」
「は、はい……」
「ふーん。相変わらずだね」
早紀は修一の隣まで歩いてきて、画面を覗き込んだ。
その瞬間、修一の目は自然と早紀の唇に向かった。
（……）
昨日、あの唇がペットボトルに触れていた。間接的に、自分も同じ場所に触れた。その記憶が、生々しく蘇る。
「昨日もずっとやってたよね。そんなに面白いの？」
「……はい。まあ……」
修一は必死に視線を画面に戻した。
「へえー」
早紀は興味なさそうに頷いた。
そのやり取りを見ていた結衣が、不思議そうに首をかしげた。
「……ん？」
二人を交互に見る。
「ねえ、なんか二人、距離縮まってない？」
「え？」
早紀が振り返る。
「だって早紀、普通にタメ口じゃん。先輩は敬語だし」
「あー、うん」
早紀は何でもないことのように答えた。
「昨日からだよ」
「えっ、そうなの？」
結衣は目を丸くした。
「ちょっと待って。あの後なんかあったんですか？」
修一は困ったように笑った。
「い、いや……別に……」
「本当に？」
結衣が顔を近づける。
その時、修一の視線は結衣の脚に向かった。
（――っ）
結衣は今日、ショートパンツを履いていた。白くて、細くてしかしどこか柔らかそうな太ももが、椅子に座る姿勢で惜しみなく露出している。
修一は慌てて目を逸らした。
（何を見てるんだ、僕は）
「……はい」
「ふーん」
結衣は修一と早紀を交互に見た。
「怪しいなー」
「何もないって」
早紀が笑う。
「ただ先輩が私に敬語使ってくれるようになっただけ」
「えっ何それ！」
結衣が声を上げた。
「先輩のほうが三年生なのに？」
「うん」
「なんで？」
「だって、先輩の敬語って面白いんだもん」
早紀がさらりと言った。
修一は少し恥ずかしくなった。
（面白いからって）
すると結衣が何かを思いついたように笑った。
「じゃあさ、私も先輩にタメ口でいいよね？」
「……え？」
「だって早紀だけずるくない？」
「い、いや……でも……」
「何もないのにタメ口でいいってことは、私もいいってことでしょ？」
修一は返答に困った。
「それとも……」
結衣はわざと不満そうに唇を尖らせた。
「早紀のほうが好きだから？」
「ち、違っ……！」
「えー違うの？」
早紀が横から口を挟む。
「昨日は私のほうがタイプって言ってくれたのに」
「それは……！」
結衣が笑った。
「あはは！　先輩、顔真っ赤！」
修一は何も言えなくなった。
「じゃあ、決まりー！」
結衣が早紀に手を差し出す。
「イェーイ！」
二人は嬉しそうにハイタッチした。
修一の返事など、最初から必要なかったようだった。
結衣が両手を後ろで組み、少し顔を近づけた。
「先輩は私たちに敬語ね」
「……え？」
「早紀には敬語なんでしょ？　だったら私にも使ってよ」
「い、いや……」
隣では早紀が楽しそうに笑っていた。
「先輩、結衣にもちゃんと敬語使ってあげなよ」
「あ、はい……」
「あはは！　もう敬語になってる！」
「ほんとだ！」
二人が声を上げて笑った。
修一は顔を赤くした。
（しまった）
二人がタメ口を利くのは単に親しくなったという話だ。けれど自分だけが敬語を使うのは、少し違う気がする。
（これじゃ、僕のほうが後輩みたいじゃないか）
「よし！」
結衣は満足そうに頷いた。
「じゃあ、よろしくね。先輩♡」
「……はい」
「ふふっ、いい返事！」
早紀が笑った。
修一は苦笑いした。
（……僕、三年生なんだけどな）
今さら言い直すのも気まずかった。何より、二人の楽しそうな笑顔を前にすると、強く言い返す気になれなかった。
昨日まで二人は自分に「撮ってください」「お願いします」と言っていた。
それが今では、「撮って」「持って」「敬語使って」に変わっている。ほんの一日で。
（……仲良くなったってことなのかな）
修一はそう考えることにした。
その時、早紀がこちらを見てふっと笑った。
「先輩、なんか今日、目が泳いでるね」
「えっ」
「さっきから、私たちのことチラチラ見てるし」
「そ、そんなこと……」
「ふーん」
早紀はそれ以上追及しなかった。しかし、その口元には何かを知っているような笑みが浮かんでいた。
（まさか、気づいてる……？）
修一の背中に冷や汗が流れた。
しかし結衣は気にした様子もなく、スマートフォンを取り出した。
「そうだ、先輩。今日お願いがあるんだ」
「何ですか？」
「昨日の動画、編集してアップロードしたいんだけど」
「……編集？」
「うん。カットしたり、字幕入れたり音量調整したり。そういうの」
早紀が横から続ける。
「先輩、パソコン得意でしょ？」
「……まあ多少は」
「じゃあお願い」
「……え？」
結衣が修一のパソコン画面を覗き込んだ。
「今日は動画編集の日にしよ！」
「……え？」
「先輩ゲーム終わりね」
結衣は当然のように言った。
早紀が横から顔を覗き込む。
「先輩、お願い。今日中に投稿したいんだ」
「今日中、ですか？」
「うん。昨日撮ったやつ、早く上げたいし」
「……でも、編集ソフトとか……」
「先輩ならできるでしょ？」
早紀がにっこり笑った。
「パソコン部なんだから」
結衣も頷く。
「そうそう。ゲームばっかりじゃなくて、たまにはパソコン部らしいことしなよ」
修一は返答に詰まった。
確かに、部室のパソコンを使ってゲームばかりしているのは事実だった。もっとも、だからといって後輩のSNS動画を編集する義務があるわけではない。
（でも、まあ）
動画編集は少し調べればできそうだった。
それに――。
（二人に頼られるの、悪い気はしないな）
「分かりました。ちょっとやってみます」
「やったー！」
結衣が嬉しそうに手を叩いた。
「さすが先輩！」
「頼りになるね」
早紀も笑顔で褒めてくれた。
修一は照れくさそうに頷いた。
（頼りになる、か）
その言葉が、妙に嬉しかった。
修一はゲームを終了した。画面に残っていた試合結果も確認せず、動画編集ソフトを探し始める。
結衣はその様子を見て、早紀に小さく笑いかけた。
「ほんとにちょろいよね、先輩って」
二人は顔を見合わせて笑った。
修一には、その会話が聞こえていた。
けれど、聞こえないふりをした。
「先輩、編集よろしくねー♡」
「頼りになるー♡」
修一は無料の動画編集ソフトを起動した。昨日の撮影データをパソコンに取り込み、編集を始める。
最初は結衣と早紀も隣に立っていた。
「ここ切ってほしい」
「字幕は可愛い感じにしてね」
「あと、音楽も入れて」
二人は次々と注文を出す。
「……分かりました」
修一は言われた内容を確認しながら作業を進めた。
「先輩、ここの文字ピンクにして」
「……はい」
「あと、ハートとか入れられる？」
「……調べてみます」
「じゃあお願い」
修一は一つずつメモを取りながら作業を進めた。
しかし、十分もすると。
「ねえ早紀、こっちで写真撮ろ！」
「いいねー！」
二人は窓際へ移動してしまった。
「先輩、編集よろしくねー！」
「……はい」
修一は一人で画面に向き直った。
背後から二人の楽しそうな声が聞こえてくる。
「結衣、こっち向いて！」
「待って、髪直す！」
「可愛い！　それいい！」
カシャッ。
カシャッ。
修一は動画のタイミングを調整しながら、時折そちらを振り返った。
（……楽しそうだな）
自分も会話に入りたい。けれど、編集を終わらせなければならない。
その時、振り返った拍子に結衣の脚が目に入った。
（――）
窓から差し込む夕日が結衣の太ももを柔らかく照らしていた。座り込んだ姿勢で、ショートパンツの裾が少しめくれ上がっている。
修一は慌てて前を向いた。
（何度も見るな、僕）
しかし、一度意識してしまうともう遅かった。
早紀が笑うたびにその唇が目に入る。結衣が動くたびに、その脚が視界の端に映る。
（……昨日の夜のせいだ）
修一は自分に言い訳した。あんなことを思い出したから、変に意識してしまうんだ。
（早く完成させよう）
修一は作業の手を速めた。
ふいに「先輩ー！」
結衣が声をかけた。
「……はい？」
「まだ終わらない？」
「もう少しかかります」
「えー、遅いー」
「すみません」
「ふふっ、謝らなくていいよ」
結衣は笑った。
「でも早くしてね」
「……はい」
は再び画面に向き直った。
（……僕、何でこんなに急いでるんだろ）
二人は写真を撮ったりおしゃべりしたりしている。自分だけがパソコンに向かって作業している。しかも、少しでも遅いと催促される。
（これ、僕の仕事じゃないよな）
一瞬そう思った。
けれど。
「先輩、頑張ってー♡」
早紀の声が聞こえた。
「……はい！」
修一は思わず返事をした。
その瞬間、二人が笑った。
「ねえ早紀、先輩ってほんと便利だね」
「うん。使いやすい」
修一は画面を見つめたまま、顔を赤くした。
（……使いやすい、か）
三年生の自分が、一年生の後輩にそんな風に言われている。少し複雑だった。
それでも――。
（でも、それってつまり……仲がいいってことだよな）
修一はそう解釈することにした。
一時間ほど経った頃。
「できました」
修一が声をかけると、二人はすぐに駆け寄ってきた。
「ほんと？　見せて見せて！」
結衣が椅子の背もたれに手を置き、画面を覗き込む。早紀も反対側から顔を近づけた。
二人に挟まれ、修一は思わず背筋を伸ばした。
（……近い）
早紀のポニーテールが、修一の肩に触れそうな距離にある。結衣の腕が、修一の背もたれに触れている。
修一は必死に画面へ意識を集中させた。
動画が再生される。
「……んー」
結衣が首をかしげた。
「ここ、ちょっとカットして。間延びしてる」
「……はい」
「字幕、このタイミングで入れてほしい」
「……分かりました」
「音、もう少し大きくできる？」
「……はい」
早紀も画面を指さした。
「ねえ、ここ私の顔暗くない？」
「明るさ、少し上げられる？」
「……やってみます」
修一は一つずつ修正していく。
二人はすっかり監督気分だった。
「先輩、そこじゃない」
「あ、すみません」
「もうちょい前」
「……ここですか？」
「そうそう」
結衣が後ろから覗き込んでくる。
その拍子に、結衣の胸元が修一の肩に触れた。
（――っ）
柔らかい感触が一瞬だけ伝わって、すぐに離れる。
修一は息を止めた。
「先輩、ちゃんと分かってる？」
「はい。大丈夫です」
「ほんとにー？」
早紀が笑う。
「先輩、さっきから『はい』しか言ってないじゃん」
「あ、いや……」
「ふふっ、怒られてるみたい」
結衣が楽しそうに笑った。
修一も曖昧に笑い返した。
（実際、ちょっとそんな感じなんだけど）
バイト先で先輩から指示を受けている時と、どこか似ている。ただ一つだけ大きな違いがあった。
隣にいるのが、可愛い後輩二人だということだった。
「ここはもう少し間を取ったほうがいいと思います」
修一が自分から提案すると、早紀が画面を覗き込んだ。
「へえー。そんなこともできるんだ」
「……はい」
「やっぱり先輩、詳しいんだね」
早紀が感心したように言った。
「いえ、それほどでも」
「ふふっ。褒められると嬉しそう」
「そ、そんなこと……」
「顔に出てるよ？」
修一は慌てて画面に向き直った。
その様子を見て、結衣と早紀はまた笑った。
修一の胸の奥で、小さな火が灯った。
（やっぱり、少しは……）
「先輩、アカウントもお願いね」
編集が一段落すると、結衣が満足そうに伸びをした。
「助かったー！　先輩いなかったら絶対できなかった！」
「そうですか」
「ねえ早紀、そう思うよね？」
「うん。まあ、暇そうだしね」
早紀が軽く笑った。
「どうせゲームしかしてないんだから、ちょうどいいでしょ」
修一は一瞬、返事に詰まった。
（暇そう……）
確かに、ゲームばかりしているところを見られている。否定はできない。
「……ありがとうございます」
修一はそう言って、曖昧に笑った。
「じゃあ、アップロードしよ！」
結衣がスマートフォンを取り出した。
「先輩、LINE交換しよ」
「……え？」
修一は思わず顔を上げた。
「LINE。まだ交換してなかったでしょ？」
「あ、はい」
「ほら、QRコード出して」
修一は慌てて自分のスマートフォンを取り出した。手元が少し震える。
たった二日で可愛い後輩二人と連絡先を交換できた。修一にとっては、それだけでも十分すぎる出来事だった。
「はい、登録できた！」
結衣が画面を見せる。
「よろしくね、先輩♡」
「……はい。よろしくお願いします」
「ふふっ、固すぎ！」
結衣は笑いながら、動画の投稿用データを送ってきた。
「これ、動画のアカウントね」
「……はい」
「アップロードまでお願いしていい？」
「……え？」
「だって先輩が編集したんだし、そのまま上げたほうが早いじゃん」
「……ああ、確かに」
修一が頷くと、早紀が自分のスマートフォンを取り出した。
「私も先輩とLINE交換しとこ」
「……えっ」
「だって、これから編集のお願いとかするかもしれないし」
「あ、はい！」
修一は慌ててQRコードを表示した。早紀が読み取る。
「はい、できた」
「……ありがとうございます」
「ふふっ。連絡先交換しただけなのに、そんな嬉しい？」
「い、いえ……」
「顔に出てるよ？」
修一は何も言えなくなった。
（そんなに分かりやすいかな……）
その後、結衣が投稿用アカウントへの招待を送ってきた。
「先輩、これで投稿できるようになるから」
「あの、本当に僕が投稿していいんですか？」
「え？　いいよ」
結衣はあっさり答えた。
「先輩、変なことしないでしょ？」
「もちろんです！」
「じゃあ大丈夫じゃん」
早紀も頷く。
「先輩のこと、信用してるし」
「！」
修一の胸が高鳴った。
（信用してる、って）
それが単に編集作業を任せるための言葉だとは、頭では分かっている。
それでも、嬉しかった。
「……分かりました。ちゃんとやります」
「よろしくー♡」
二人は満足そうに笑った。
修一は投稿内容を二人に確認してもらい、動画を公開した。
投稿が完了すると結衣が手を叩いた。
「やったー！　これで終わり！」
「先輩、お疲れー！」
早紀が修一の肩をぽんぽんと叩いた。
「よくできました♡♡」
「あ、ありがとうございます」
修一は恥ずかしくなって俯いた。
（……自分のほうが先輩なのに）
そう思いながらも、早紀に褒められたことが嬉しくて仕方なかった。
そして、結衣が何気なく言った。
「ねえ先輩、次の動画も編集お願いね」
「……え？」
「だって、もうやり方分かったでしょ？」
「まあ、はい」
「じゃあ決まり！」
結衣が嬉しそうに笑う。
「これから動画撮ったら先輩に送るね！」
「あ、はい」
早紀も頷いた。
「じゃあ、先輩は撮影と編集担当ね」
「そうですね」
「ふふっ。役割分担できたじゃん！」
二人は満足そうにハイタッチした。
修一は苦笑いした。
（いつの間に決まったんだろ）
自分はパソコン部の三年生。二人は一年生。しかも、そもそも二人はパソコン部員ですらない。
それなのに。
いつの間にか自分が二人の動画制作を担当することになっていた。しかも、報酬はない。
（……まあ、LINEも交換できたし）
修一は自分にそう言い聞かせた。
二人の連絡先が入ったスマートフォンを、そっと机に置いた。
「ふぅー、喉渇いたねぇ」
結衣が椅子に座りながら言った。
「ねー」
早紀も頷く。
そして、二人の視線が自然と修一に向いた。
「？」
修一は二人を見た。
「ね、先輩♡」
早紀が微笑む。
「あ、はい」
「昨日のレモンティー、おいしかったなー」
修一は一瞬、動きを止めた。
（昨日のレモンティー）
昨日、早紀の飲みかけを分けてもらったことが頭をよぎる。あの時の距離感。早紀の笑顔。そして。
『私の飲みかけ飲めて嬉しかったんですか？』
からかわれたことまで、鮮明に思い出してしまう。
「先輩？」
「は、はい！」
「どうしたの？　ぼーっとして」
「……いえ、何でもないです」
「ふーん」
早紀は楽しそうに微笑んだ。
「で、レモンティー飲みたいな♡」
「……買ってきましょうか？」
言ってから、修一は自分でも驚いた。
（……あれ？）
早紀はまだ、買ってきてとは言っていない。ただ、飲みたいと言っただけだ。なのに、自分から申し出てしまった。
「え、いいの？」
早紀が嬉しそうに笑った。
「ありがと」
結衣がすかさず口を挟む。
「あ、私も！」
「……はい」
「私、ミルクティーね！」
「……分かりました」
「やったー！」
結衣は早紀に向かって笑った。
「ねえ、先輩ってほんと都合いいよね」
「うん。言えば何でもしてくれる」
早紀も微笑んだ。
修一は少し照れくさくなった。
（都合いい……まあ、頼られるのは悪くないけど）
昨日も二人に奢った。今日も、当然のように自分が買うことになっている。
（まあ、ジュースくらいなら）
そう考えていると、結衣が早紀に小さく囁いた。
「ねえ、先輩って何でも言うこと聞いてくれるね」
「ね。しかも自分から言ってくれたし」
「ちょっとちょろすぎない？」
「ふふっ、ほんと」
二人はくすくす笑った。
その声は、修一にも聞こえていた。
（……聞こえてるんだけどな）
少しだけ、胸の奥が引っかかった。
自分は便利に使われているだけなのかもしれない。本当なら、自分のジュースくらい自分で買ってほしい。
そう思わないわけではなかった。
けれど――。
昨日の帰り道。早紀から渡されたレモンティー。
（……今日も、もしかしたら）
修一はすぐにその考えを打ち消した。
（何を期待してるんだ、僕は）
「先輩？」
早紀が首をかしげた。
「あ、はい」
「大丈夫？」
「……はい。買ってきますね」
「ありがとー♡」
「先輩、よろしくー！」
二人の声に見送られ、修一は部室を出た。
扉が閉まる。
「ねえ早紀、先輩ってさ」
結衣はしばらくドアを見つめてから、早紀のほうを向いた。
「ねえ早紀」
「ん？」
「先輩、マジで買いに行ったね」
「うん」


修一は校内の自動販売機の前に立っていた。
財布から小銭を取り出す
ガコン。
ガコン。
二本のペットボトルが落ちてきた。
修一はそれを拾い上げ、少しだけ考えた。
（また二人分、買っちゃったな）
昨日も今日も二人は財布を出そうともしなかった。しかも今日は、動画編集まで頼まれている。
（……僕、何やってるんだろ）
少しだけ、そんな気持ちになった。
しかし、早紀の笑顔を思い出す。
『先輩のこと、信用してるし』
それに結衣とも早紀ともLINEを交換できた。二人のSNSアカウントの投稿まで任せてもらった。
以前の自分なら、こんなことは考えられなかった。
（少しは仲良くなれてるのかな）
修一は二本のペットボトルを握り直した。
（早紀さん、喜んでくれるかな）
そう考えると、自然と足取りが軽くなった。
部室に戻れば、また二人が笑顔で迎えてくれる。それが楽しみだった。
（もしかしたら……本当に、好かれてるのかも）
自分のいない部室で、二人が何を話しているのかも知らずに。
修一にとっては、可愛い後輩からの信頼。
結衣と早紀にとっては、頼めば何でもしてくれる便利な先輩。
そして二人は、修一が思っているよりもずっと早く、その便利さに慣れ始めていた。
修一はまだ、自分から申し出るようになったことの意味に気づいていない。
昨日は、早紀に頼まれてジュースを買った。
今日は、頼まれる前に自分から買いに行った。
明日になれば二人が何も言わなくても、欲しいものを察して動くようになるのかもしれない。
それを修一は、仲良くなれた証拠だと思ってしまうのだろう。
（だって、信用してるって言ってくれたし）
（LINEも交換したし）
（動画のアカウントも任せてくれたし）
（これって、つまり……）
廊下を歩きながら、修一の顔は緩んでいた。
自分でも気づかないうちに、口元がほころんでいた。


修一は両手にペットボトルを持って部室へ戻ってきた。
「あ、先輩おかえりー！」
結衣がスマートフォンから顔を上げた。夏の名残の日差しが窓から差し込み、彼女の鎖骨のラインをうっすらと浮かび上がらせている。制服のシャツは第一ボタンが開き、首筋から胸元へかけての白い肌が、修一の目に飛び込んできた。
「買ってきました」
「やった！　ミルクティー！」
結衣は椅子から立ち上がると、弾むように修一へ近づいた。受け取る瞬間、彼女の指先が修一の手の甲に触れる。ほんの一瞬。だが、その柔らかさが妙に生々しく残った。
「ありがと、先輩♡」
早紀も椅子に座ったまま修一へ手を伸ばす。伸ばした腕の先で、制服の袖が肘までずり上がり細く白い前腕が露わになる。彼女は受け取ると同時に、少しだけ上目遣いに修一を見た。
「先輩、私のは？」
「あ、はい。レモンティーです」
「ありがと♡」
早紀はペットボトルを受け取り、キャップを開けた。その仕草の一つ一つが、なぜか修一の視線を引き寄せる。唇がボトルの口に触れる瞬間、彼女の喉がわずかに動いた。一滴の雫が、唇の端で光った。
修一はその様子を何となく見つめていた。
（……今日も、レモンティーか）
昨日の帰り道が蘇る。
『じゃあこれ飲みます？』
早紀が差し出してくれた、飲みかけのレモンティー。彼女の唇が触れた場所に、自分の唇を重ねた。あの瞬間の、甘酸っぱい味とほのかな温度。
そして。
『そんなに嬉しかったんですか？』
あのからかうような笑顔。細められた目。少しだけ開いた唇。白い歯。
（……今日も、少し分けてくれたりするのかな）
そんな期待が頭をよぎった。早紀の唇が触れたボトル。間接的にでも、そこに触れられるかもしれない。
けれどさすがに自分から頼むのは恥ずかしい。修一は何も言わず自分の席に戻った。椅子に座っても、視線は自然と早紀のほうへ向いてしまう。
二人は窓際の席で投稿した動画の反応を確認していた。結衣がスマートフォンを覗き込む姿勢になり、制服のスカートが太ももで少しめくれる。修一は慌てて目をそらした。
「ねえ早紀、もうコメント来てる！」
「ほんと？　見せて！」
早紀が身を乗り出す。結衣の隣に並ぶと、二人の肩が触れ合った。早紀のポニーテールが揺れ、うなじが露わになる。汗ばんだ肌が、夕方の光を受けてつやつやと光っていた。
「結構伸びてる」
「やったー！」
修一はゲームを再開しようとしたが、なかなか集中できなかった。視線が、何度も早紀のほうへ向いてしまう。
早紀はレモンティーを一口飲んだ。唇がペットボトルの口に触れ、ゆっくりと喉を鳴らす。白い首筋が、嚥下の動きに合わせて微かに動いた。修一はその線を、無意識に目で追っていた。
慌ててパソコンに目を戻す。
（何を期待してるんだ、僕は）
昨日はたまたま分けてくれただけだ。今日も同じことが起こるとは限らない。というか、あるわけない。
そう分かっているのに、気になってしまう。あの唇が触れたところを、また……。
「ねえ、先輩」
突然、早紀の声がした。
「は、はい！」
「さっきから、何見てるの？」
「えっ……」
早紀はこちらを見ていた。手には、まだ半分ほど残ったレモンティー。窓からの逆光で、彼女の輪郭がうっすらと光の膜を纏っている。制服のブラウス越しに、胸のふくらみが柔らかく揺れた。
「い、いや、別に……」
「ふーん？」
早紀は小さく首をかしげた。その動作だけで、ポニーテールがふわりと揺れる。
「私じゃなくてこっち？」
そう言って、ペットボトルを軽く持ち上げる。口が触れていた部分が、修一の目の前に来る。透明な樹脂越しに、彼女の指の跡がうっすらと残っていた。
修一の心臓が跳ねた。下腹部が、わずかに熱を持つのが分かる。
「……え？」
「レモンティー」
早紀はにっこり笑った。唇の端が、いたずらっぽく上がる。
「先輩、これ欲しいの？」
「っ」
修一は答えられなかった。
欲しい。
昨日みたいに少しだけ分けてほしい。彼女の唇が触れた場所に、自分の唇を。
そう言えばいいだけだった。
けれど、早紀の顔を見た途端言葉が出なくなった。彼女の目が、じっとこちらを見ている。まるで、修一の思考を全部見透かすように。
「い、いや、その……」
「欲しくないんだ？」
「そっか」
早紀はあっさり頷いた。その瞬間、彼女の視線がほんの一瞬だけ修一の下腹部あたりをかすめた。気のせいだろうか。
その隣で、結衣がスマートフォンから顔を上げた。
結衣は修一を一度見てそれから早紀の手元に視線を移した。口元が、わずかに緩んでいる。まるで何かを知っているかのような笑みだった。
（……結衣さん、何で笑ってるんだろ）
修一は急に恥ずかしくなった。自分の視線が、どこを追っていたのかバレている気がした。
早紀はレモンティーを口元へ運んだ。
ごくっ。
修一は思わずその様子を目で追ってしまった。白い喉が動く。唇が、ボトルの口を含む。その光景が、妙にゆっくりと感じられた。
（あ）
早紀はペットボトルを下ろした。
まだ少し残っている。
修一はほっとした。
（まだ、残ってる）
しかし、早紀はそのままキャップを閉めなかった。ボトルを手に持ったまま、何かを考えるように修一のほうを見ている。
修一は口を開きかけた。
けれど結衣がこちらを見ていることに気づいてしまう。
結衣は何も言わない。ただ面白いものを見るように、にやにやと笑っていた。その視線が、修一の頬を熱くさせる。
（……二人とも僕を見てる）
急に言葉が喉につかえた。
修一は画面に目を戻そうとした。
けれど、できなかった。
ペットボトルの中身が少しずつ減っていく。早紀が飲むたびに、彼女の唇がボトルに触れる。そのたびに、修一の喉が乾いていく。
残りわずか。
そして、最後の一口。
早紀は途中で一度ペットボトルを下ろし、修一のほうをちらりと見た。視線が、ほんの一瞬だけ交わる。彼女の目が、何かを問いかけるように細められた。
修一は反射的に視線をそらした。
（今なら、まだ……）
しかし、何も言えない。
早紀はもう一度ペットボトルを傾けた。
ごくっ。
ごくっ。
最後まで飲み干すと、空になった容器を軽く振った。
「ごちそうさま」
修一の口から、小さな声が漏れた。
「あ」
早紀が顔を向ける。
「ん？　どうしたの、先輩？」
「い、いえ」
「何か言いたかった？」
修一は首を横に振った。
早紀は空のペットボトルを見つめ、それから修一を見た。視線が修一の唇のあたりで止まる。
「もしかして、欲しかった？」
「っ」
修一は答えられなかった。早紀の目が、じっとこちらを見ている。その瞳の奥に、何かが光った気がした。
早紀がくすっと笑った。肩が小さく震え、制服の襟元がわずかにずれる。
昨日の帰り道では、早紀のほうから分けてくれた。
だから今日も、何も言わなくても分けてくれるのではないか。そんな期待をしていた。
（……自分から言わなきゃ、駄目だったのかな）
修一は空になったペットボトルを見つめた。もう、どうにもならない。
「じゃあ先輩、これあげる」
「はい、先輩」
早紀がペットボトルを差し出した。
修一は思わず顔を上げた。
「……え？」
「これ」
早紀は空のレモンティーを軽く振った。中で、ほんの一滴の雫が音を立てる。
「欲しかったんでしょ？」
「……あの……」
「はいどうぞ」
修一は困惑しながら受け取った。指先が、早紀の手に触れる。ひんやりとした、しかし柔らかい感触。中身は一滴も残っていなかった。
「じゃあ、それ捨てといてね」
「……え？」
「ゴミ箱。廊下の先にあったでしょ？」
「あ、はい」
すると結衣も自分のミルクティーを飲み終えた。
「あ、先輩！　私のもお願い！」
修一の机にもう一本ペットボトルが置かれた。結衣が身をかがめた拍子に、シャツの襟元から白い胸元がわずかに覗く。修一は慌てて視線を上げた。
「……はい」
二本の空のペットボトル。
「先輩、よろしくねー」
早紀も笑顔で言った。
「はい。分かりました」
修一は二本のペットボトルを持って立ち上がった。
ドアへ向かう途中背後から二人の笑い声が聞こえた。ひそひそと、しかし楽しそうに。修一は振り返らなかった。
「欲しいって、言えばよかった」
廊下の先にある回収ボックスの前で、修一は立ち止まった。
右手にはレモンティー。左手にはミルクティー。
（二本で三百二十円か）
昨日も二本。今日も二本。たった二日で六百四十円。
自分のためには一本も買っていない。
昨日は早紀が分けてくれた。今日は何も飲めなかった。
（しかも、ゴミまで捨ててる）
修一は小さく息を吐いた。
少し悔しかった。
何より、早紀が「欲しい？」と聞いてくれたのに、答えられなかったことが悔しかった。
（欲しいって言えばよかった）
それでも、早紀が本当に分けてくれたかどうかは分からない。結衣が隣で笑っていたことも気になっていた。
（……やっぱりからかわれてたのかな）
修一は空のペットボトルを見下ろした。
三年生の自分が一年生の二人に敬語を使い、ジュースを買いゴミを捨てている。昨日までなら、想像もできなかった光景だ。
（……何やってるんだろ僕）
けれど、部室に戻れば早紀がいる。きっとまた笑いかけてくれる。あの、細められた目。少し開いた唇。白い歯。
そのことを考えると、胸の奥の不満が少しずつ薄れていく。
修一はペットボトルを分別して回収ボックスに入れた。
（……次はちゃんと言おう）
そう決めた。
何を言うのか。どうしてそこまでして早紀に気に入られたいのか。自分でも、うまく説明できなかった。
ただ一つ分かっていることがあった。
早紀の何気ない一言で自分の一日が嬉しくも、惨めにもなる。
修一はそれを自覚し始めていた。
それでも、彼女に会うのをやめようとは思わなかった。むしろ、もっと仲良くなりたいと思っていた。
修一は部室へ向かって歩き出した。
扉の向こうから、二人の楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
自分のことを笑っているのか。それとも、全く別の話なのか。
修一には分からなかった。
扉を開けると、結衣が振り返った。
「あ、先輩おかえりー！」
早紀も笑った。
「ちゃんと捨ててきた？」
「……はい」
「変なことしてないよね？」
「……えっ？」
修一は思わず顔を上げた。
早紀はにっこり笑っていた。
「ちゃんとゴミ箱に捨てた？　ってこと」
「……あ、はい。もちろんです」
「ふふっ。ならよかった」
結衣が隣で笑った。
「先輩、そんなに慌てなくてもいいのに」
「すみません」
「また謝ってる！」
二人が笑う。早紀が笑うときに、少しだけ首を傾ける癖がある。その仕草が、なぜか修一の胸をざわつかせた。
修一も曖昧に笑った。
（……何で、こんなに緊張するんだろ）
早紀が何を考えているのか、修一には分からない。
ただ、さっきまでの自分の様子を思い出すと、恥ずかしくて仕方なかった。早紀の唇を、目で追っていた。ボトルに触れた彼女の口元を、じっと見ていた。
「ありがと♡先輩」
早紀がそう言った。その声が、やけに耳に残る。
修一は小さく頷いた。
「……はい」
たったそれだけで、また少し嬉しくなってしまった。
午後六時。窓の外はすっかり夕焼けに染まっていた。オレンジ色の光が部室の中に差し込み、二人の制服を暖かい色に染めている。


――第3話・終わり。