Daydream





 ──磨き抜かれた純度の高い宝石のような、その瞳を覚えている。


 悔いることなく、振り向くことなく。
 まるで一陣の風にも似て、しなやかに駆け抜けたその背中を覚えている。


 磨耗し果てた記憶の彼方に。
 どんなにすり減って、元の形が分からなくなるほど遠く小さくなっても、
 決して失うことは無かった、その凛々しい横顔を覚えている。


 はるかなあの日。
 意味を知らないまま憧れた、その鮮烈な輝きを。


 ─────きっと忘れることなど出来ないまま、今も永遠に覚えていた。





 長時間空けた屋敷は、寒々としていた。赤いコートを纏ったままでも、冷気は体の芯へと染みてくる。凍えていく指先に息を吹き掛けながら、暗闇の中手探りでスイッチの在り処を求める前に、カチリという音がして室内が明るくなった。
 随分と宵闇の中を歩いてきて、瞳孔が開き切っていた所為だろう。痛いほどに眼球を射る白い眩しさに目を細めながら、わたしは電気を点けた傍らの姿無き従者に声をかける。
「あら、ありがとアーチャー。珍しく親切ね」
「何、私なら夜目も利くのでね。当てずっぽうにふらふらしている君を見かねただけだ」
「そうね。貴方、仮にも弓の騎士(アーチャー)なんだし。目が良くなきゃやってられないわよね」
 軽口の応酬は、わたしたちの間でだけ通じる一種のコミュニケーションのようなものだ。いつもと変わらない皮肉めいた彼の口調は、けれど今のわたしにとっては、むしろ心地良いものに聞こえる。あの状況の後で、下手に湿っぽくなられたり、変に気を使われてはかなわないし。
 ──あの状況(・・・・)、か。
 思考の中に浮かんだその語彙に、ぎゅっと眉がひそめられるのが自分でも分かる。
 持っていた鞄をその辺に置くと、わたしはどさりとソファに腰を掛けて、苦い息を吐き出した。
「……ふぅ」
 頭が重い。疲労や諸々の反動が相まって、全身の筋肉が軋むほどに熱く痛みを訴えていたが、最低限の話だけはここで詰めていかなければ、と理性が苦痛を退ける。
 置かれている状況ががらりと変わった今、わたしのサーヴァントであるアーチャーと、これからの指針を確認しておかないと、思わぬところで足並みが乱れかねない。そしてそれはこの過酷な戦いの中で、あっさりと命取りに繋がる齟齬となり得るのだ。
「まさか、こんな事になるとはね」
「─────」
 今日一日で起こった事、知り得た事をゆっくりと反芻しながら、思わず漏れたわたしの苦々しい言葉に、アーチャーの反応は無い。と言うよりも、わたしが話を続けるのを、彼は黙ってじっと待っているようだった。
「ライダーが桜のサーヴァントであることまでは、予想の範囲内だったのだけれど。あの学校の結界──あれと同じものが、桜の魔力でもう一度呼び起こされたら、今度はただじゃ済まないわ。臓硯の呪縛に桜が囚われている以上、あの子の意志だけでどうこう出来るものじゃない」
「そうだな」
「……それに、士郎のこともある。彼は戦力としては今のところ問題外だけど、桜に取ってみれば精神的な支柱よ。あいつが傍にいる限り、桜はわたしたちと戦う道を選ぶわ。
 何より、外道に落ちた桜を士郎が庇うならば、冬木の管理者として、わたしはそれを見過ごす事なんて出来ないもの」
 一息に言葉を口にすると、わたしはほうと呼気を吐き出した。肺の奥に血臭が溜まっているようで、口蓋に広がる熱い鉄錆の味が酷く不快だった。今日の学園で、その中に取り込まれた鮮血の結界の影響が、まだ残っているのだろう。
 姿勢を糺し、真っ直ぐに目の前の虚空を見据えて、わたしは彼の名前を呼ぶ。
「アーチャー。貴方の意見を聞かせて」
 わたしの声と共に、白色灯の無機質な光に照らされた室内の光景がゆらり、と傾ぐ。大気が渦を巻く錯覚が訪れた次の瞬間、今の今まで誰も居なかったわたしの眼前に、赤い外套を纏った長身の騎士が忽然と姿を現していた。
 閉じられていた重い瞼が持ち上げられ、色の無い静かな鋼鉄の瞳が、真っ直ぐにこちらを見下ろしてくる。その唇が開かれると、落ちついた声が静かな言葉を紡ぎ出した。
「私は君のサーヴァントだ。過程はどうあれ、最終的には君の下した決断に従うまでのこと。そもそも君は、自分の決定を他者にどうこう言われたくらいで翻す人間には見えないしな」
 だが、と一呼吸置いて騎士は続ける。
「この状況に限って言えば、私も君と同意見だ。今日の学園の一件を見ても、間桐桜が外道に落ちれば、どれだけの犠牲が出るかは想像に難くない。
 彼女一人ならば或いは止めようもあったろうが、衛宮士郎があちらに回った以上、間桐桜は何としても生き延びようとするだろう。それは取りも直さず、彼女の犠牲者が出る確率が大幅に上がることを意味する。
 間桐桜は勿論、衛宮士郎が彼女に与するならば、奴も諸共に敵として始末するべきだろう」
「そうね、わたしもまったく同じ見解よ。
 さっきは『犠牲を一人にとどめろ』なんてあいつに言ったけれど、士郎の力じゃそんなの無理に決まってる。今日の惨劇がまた繰り返されたら、今度は間違いなく大勢の人が桜のせいで死ぬわ。わたしや士郎が聖杯を手に入れて、あの子の解放を願うよりも確実に早く──ね。
 聖杯戦争のマスターとしても、この町の管理者である遠坂の魔術師としても、わたしは絶対にそんなことを許さない」
 決断に迷いは無い。アーチャーもわたしの意志を汲み取り、共に戦うサーヴァントとして的確な答えを返して来た。二人の間には動揺も無く、悲嘆も無く、安っぽい同情もありふれた慰めも無い。あるのはただ、『如何にして戦い、敵を倒し生き残るか』というその思考だけだ。そしてそれこそが、今のわたしたちに何より必要なものだった。
 ……これでいい。
 桜と士郎。共にわたしにとっては、大切な存在であったことは間違いない。けれど、わたしにはそんな個人の情より、もっと守らねばならないものが確かに在る。例えあの二人を敵に回す結果になっても、わたしはそれを譲る事など絶対に出来はしないのだから。
 ──気がつくと、膝の上で握りしめた拳が僅かに震えているようだった。この洋館を満たす清浄な寒さに底冷えしたのか、それとも昼間の結界での影響が残っているのだろうか。静かな眼差しでわたしをじっと見るアーチャーから心持ち目を逸らすと、わたしは張りついた喉を幾分緩めてから、声の調子を戻して彼に尋ねる。
「ところで、貴方体の調子は平気? 石化の呪や、あの悪趣味な結界の影響は出ていない?」
「いや? 君の魔力は正常に送られているし、もう私は完全に回復している。
 確かにライダーの魔眼は脅威だが、そうと知ってしまえばこちらに利がある。見たところ、影響範囲もそう広いものでは無さそうだったし、何より彼女の真名を知った以上、打つ手はいくらでもあるからな」
「そうなの?」
「ああ」
 自信に満ちた彼の声。その言葉を聞いて、それ以上問い返す必要性を、わたしはもう感じなかった。
 皮肉屋でいつも一言多いアーチャーだけど、わたしは戦闘における彼の力には信頼を置いている。彼がそう言うのならば、それを全面的に信用して大丈夫だろう。
 それに、今は。
「─────」
 ああ──握りしめた拳の震えが、嫌でも分かるくらいに大きくなっている。この目敏い男に異変を気づかれないうちに、早くここから離れなければ。
 勢いをつけてソファから身を起こすと、わたしはくるりと彼に背を向けた。
「……分かったわ。明日以降に備えて、貴方はもう休んでちょうだい」
「君はどうする。学園でも教会でも、何も口にしていないだろう。
 少し待ってもらえば、適当に夜食を作るが?」
 ……がくり、と肩から力が抜けた。
 生きるか死ぬかの瀬戸際に、そういう日常に引き戻される話は勘弁して欲しい。
 ──って言うか。
「あのね。貴方が料理上手なのも、家事好きなのも知ってるけど、マスターの為にご飯を作るサーヴァントが何処の世界に存在するのよ。あんた、なんか自分の役目を誤解してない?」
「む──凛、それは勘違いだ。別に私は家事が好きな訳では無いし、そもそもマスターの魔力は、十分な栄養補給と休息によって、より効率的に回復する。あくまでその為の提案なのだがね」
 ……まったく。
 親切なのか世話焼きなのか、こいつのこういう所はどうにもくすぐったくて苦手だ。
 それに、今はもうここにとどまっている事は出来ない。意志の力で押さえつけていた熱と震えは、既に限界近くにまで達していて、気を緩めればこの場に力無くへたり込んでしまいそうだった。
「悪いけど結構よ。昼間あんな悪趣味なもの見せられて、全然食欲無いし。
 それにね、アーチャー? 別に貴方に心配してもらうほど、わたしは消耗してないわ。今夜一晩休めば、魔力は十分回復するわよ」
「しかし、マスター──」
「それじゃ、おやすみなさい。明日、いつもの紅茶をお願いするわ」
 ひらり、と肩越しに手を振って、わたしは急ぎ足にその場を後にする。

 ──気のせい、だったのだろうか。
 ──男の鋭い視線の気配が、この背中にいつまでも食い入って離れなかった。

                   □

「──は、」
 ……ようやく、一人になれた。
 あと僅かでもあの場に残っていたなら、彼の前で取り返しのつかない醜態をさらしてしまった事だろう。そんな事態に至らなかったことだけは、不幸中の幸いだった。
「……っ……」
 震える裸の肩を抱きしめて、苦い息を吐き捨てる。コートごと乱雑に制服を脱ぎ捨てて、ぞくりとするほど寒いバスルームに飛び込んだのは少し前だ。髪をまとめる間さえ耐えられなくて背に流したまま、全開にした熱い水流を頭から浴びる。
「……ふ、う……」
 ざあざあと、夕立のように降るシャワーの向こう。水滴と湯気で曇る鏡に映るわたしの顔は、自分のものとは俄に信じられないほど上気して乱れていた。頬は病的な熱で赤く染まり、だらしなく半開きになった唇は、苦しげな喘ぎを繰り返している。両手を壁につき、上半身を折って体を震わせるわたしの在り様は、惨めとしか言いようのないほど無様だった。
「──く、う……は、あ……」
 ……熱い。
 ……熱くて、気が遠くなりそうだ。
 温度を高く設定したシャワーの水粒をいくら受けても、まだ血の流れが戻らないほど肉体は冷えきっているのに、張り巡らされた神経回路だけが、流れ込んだ異物に耐え切れずずぶずぶに焼け爛れていく。
「ほん、と──マキリの魔術って、悪、趣味」
 こみ上げる衝動に耐えて、唇を噛みしめる。時折沸き起こる甘く苦しい波に、悲鳴を上げてしまいそうになるけれど、それをアーチャーに聞かれる訳にはいかない。必死で声を殺し、漏れる吐息をシャワーの水音の中に混じらせて消し去ってゆく。
「……う、あ……」
 まるで麻薬のようにこの肉を蝕み、神経を苛むもの。それは、昼間の学園内の惨劇で、慎二が桜に向けて浴びせた『毒』の残滓だった。その直後に展開された鮮血の結界の中、魔力というプロテクトを削り取られたこの体は、気化して空に散った僅かなその毒を神経回路に取り込み、その影響をダイレクトに受けることになってしまったのだろう。
「……は、あ……」
 わたしはとにかく、マキリの魔術とは致命的に相性が悪い。真っ向から戦えば易々と負けはしないけれど、魔術というより呪いに近いマキリのあり方は、その優劣以前に本能的な嫌悪感を呼び起こしてならない。
 それでも、魔術回路が正常に稼働さえしていれば、あんな毒の一滴や二滴、わたしにとっては何の問題も無かったのだ。
 ──だけど。
 ライダーの結界は、わたしたちから容赦なく魔力という盾を奪い取った。一時的とは言え、ほぼ無防備に陥ったわたしの魔術回路は、気づかないうちに宙を漂う毒の粒子に汚染を受けたのだろう。そうして、魔力が回復し、元通りに回路の中を流れ始めるに従って、進入した毒もまた、全身に回ることになってしまったのだ。
「……まったく……厄介なことに、なったものね……」
 桜が一瞬で陥ちたマキリの媚薬に対して、この体がここまで保ったのは、受けた毒があの子に比べてはるかに微量だったことと、何よりわたし自身、こうした性的魔術の経験がまるで無かったことに起因する。
 未経験の刺激を受けた神経は、それを理解するまである程度の時間を必要とした。
 だけど、ひとたびその刺激を『快楽』と認識してしまったら──この手の魔術に不慣れなわたしの肉体は、たった一滴の毒の汚染にさえ抗うことが出来ない。
「……さ、くら」
 あの子は、ずっとこんな淫毒を飲まされて、肉体を狂わされてきたのだろうか。
 慎二に毒を浴びせられた刹那、一瞬にして自制を失い魔力を暴走させたあの子の横顔を思い出す。
 桜が浴びた淫毒は、わたしの受けたそれよりずっと多かった筈だ。
 だとしたら今も、桜はわたしと同じような甘い苦痛に耐えている、のだろうか。

 ──いや、違う。
 桜の隣には、あいつがいるのだから。

 唐突に。
 厭わしくも淫らな映像が、閉じた瞼の裏に鮮明に浮かび上がった。
 あいつの逞しい両腕に、しっかりと抱き留められるしなやかな桜の裸体。苦しげに、愛しげに眉をひそめ、あの子は彼の名前を何度も呼びながら、甘い衝動に溺れていく。
「……は、あ……」
 喉がこくりと小さく鳴る。湿った息が、熱い湯気の巻く浴室の中にこだました。
 太股が細かく震えている。さっきから内腿を伝っていく液体は、明らかにシャワーのそれとは違うことに、鋭敏になった皮膚の感覚が気づいている。
「ん……」
 どんなに意識から切り離そうとしても、次々と勝手に桜の映像が再生される。他人の男女の営みなんて、まして肉親であるあの子のそんな姿なんて、わたしにとっては嫌悪感しか呼び起こさないはずなのに、どうしてもフィルムの回転は止まらない。
 音を立てて刹那の快感を貪り食らう桜の肉体は、酷く浅ましく。
 けれどその表情は、同性のわたしですら酔うほどに、とてもとても綺麗だった。

 ──愛する誰かの腕に抱きしめられて。
 ──桜は、決して一人ではない幸せに、いっぱいに満たされていた。

「……ああ、う……」
 精神感応のように鮮明に見てしまった熱い交わりの絵が、苦い渇きを本能の底から呼び起こした。
 壁についていた右手をそっと滑らせる。水に濡れた喉をすっぽりと五本の指で包み込むと、そこが小刻みに痙攣しているのが分かった。それはまるで、泣いてでもいるように。
 そのまま、ゆっくり掌で自分の体を撫でていく。鎖骨のラインから胸の間を辿り、お腹の辺りまで。指先に引かれていく濡れた軌跡は、降り注ぐシャワーの流れを浴びてあっという間にかき消されていく。
「ん、う……」
 裸の両足を、少し開いて姿勢を安定させた。壁に当てた左手に上半身の体重を預け、そこに額を押しつけた恰好のまま、ねっとりした熱の塊が沈殿しているような重い下腹へと指を進めていく。
「……ん……っ!」
 ぐちゅ、と。
 指先がそこに触れた瞬間、明らかに今までの水音とは違う、粘ついた質感の響きが耳にまで届いてきた。
「あ、こ、これ……」
 濡れている、なんていう生易しい表現では足りない。その部分の肉そのものが、溶けて滴り落ちているかのよう。ほんの少しだけ触れた指先は、たちまち溢れ出してきた大量の愛液に汚されて、手首にまで熱く流れ落ちてゆく。
「……あっ……ん……」
 ゆっくりと前後にすり上げるだけで、疼くような痺れが全身を走り抜けた。甘いノイズはざわりと神経を波立たせ、ひくん──と乳房の先端が張り詰めるのが分かる。
「ふっ……う、く……」
 人指し指で、太股の奥に刻まれた肉の割れ目を何度も柔らかくなぞった。
 力なんて入れられない。これ以上少しでも強い刺激を受けたら、自分がどうなってしまうか分からなくて怖い。触れるか触れないかの位置で指を動かしているだけなのに、沸き起こる衝動は今まで感じたことが無いほど強烈だった。
「ああ……あっ、ん……んぁ……」
 くちゅり、と水音がする。ざあざあと滝雨のように打つシャワーの喧騒の中でも、淫らなその響きは、わたしの耳について離れない。それは、外から聞こえてくるものではなく、紛れもなくこの肉体の内側から聞こえてくるものなのだから。
「……んんっ……だ、めぇ……気持ち、良く、て……」
 顔を上げると、銀盤の中にぼんやりと映るわたしの姿があった。
 その輪郭を浮かび上がらせる、白い肉体。表情はだらしなく蕩け切っていて、犬のような荒れた呼吸を繰り返す唇を、透明な唾液が汚している。
 そして。
 わたしの指先は、大きく開かれた両足の奥へと消えていた。
「あ、ああ……」
 目を逸らせ、と理性が囁く。そんなものを見てはダメだと。わたしは何をしようとしているのか──と。
 廊下を一本隔てた向こうには、わたしのサーヴァントであるあの騎士がまだ居る筈だ。同じ屋根の下に男がいるこの状況で、わたしはなんて浅ましい真似をしているのか──

 ああ──だけど。

 温められた蟲卵から、ぬるりと孵化して姿を現す白い幼虫のように。
 彼の姿を思い浮かべたことで、ただでさえ脆くなっていた理性の殻は、もう抑えられないほど胸中にはびこっていた淫毒の触手に、あっさりと食い破られる。

 その匂い。
 その声色。
 その体温。
 その存在。

 ──欲し──い。

 視線は意志の力で止めようもなく、蠢く右手の先へと吸いつけられていく。
 くちゅ……と言う、粘りつく水っぽい音を立てて、わたしの指先が、鏡の中のピンク色の裂け目を割り開いた。
「ふ、あ、ああ、あ──」
 今まで、自分で一度だって意識して見たことなんか無いその場所。自分の肉体でありながら、奥の構造なんてどうなっているのか、わたしは一般的な知識でしか知らない。固い禁忌に戒められたその細い亀裂を、わたしは今、自分の瞳で見据えながらぬるぬると押し広げていく。
「……や、だ、わたし……」
 常に優雅であるように、女としての嗜みを忘れぬようにと、日々の湯浴みの中で磨き上げたわたしの素肌は、自分で言うのも妙な話だけれど、瑕も無く均一な白さを保っている。なのに、鏡の中にぱっくりと口を開けた熱い部分は、生々しい濃い赤にべっとりと濡れていた。
「う、あ……ふぁ……」
 二枚の花びらに、大量の白濁した液体がまとわりついている。その更に奥底は、もはや肉と言うより内臓っぽいピンク色で、そんな部分が自分の体の底に剥き出しのまま眠っているなんて思いも寄らなかった。
 呆然と鏡を見つめていると、小さく窄まった膣口が痙攣し、そこからとろり、と新しい蜜が吐き出されるのが目に飛び込んでくる。
「く、う──」
 唐突に、吐き気めいた嗚咽がこみ上げた。
 どんな淫蕩な娼婦だって、鏡の中の自分の裸身に興奮して、こんなに体液を溢れさせるような真似なんかしないだろう。想像以上にグロテスクなその部分をあらわに見て、ほんの一瞬だけれど、自分の体が膿んだ肉塊でもあるかのように、酷く厭わしく感じられた。そう言えば、白っぽい液体を大量に滴らせた赤い肉は、腐りかけた生肉の姿にも酷似している。
 こんな部分を、誰の目に見せられるはずも無い。
 抑えきれない欲望を垂れ流して、無様にひくつく亀裂は、きっと欲情ではなく軽蔑の対象にしかなり得ない。
 誰にも、触れられない。さらけ出せない。この秘められた肉を、幻の中であいつがあの子にしていたようにかき回し、口づけし、舐め啜り慰め愛してくれる存在はいない。

 わたしには──誰もいない。

「ああ、あ……んん……、ん、ふ……ぅ……」
 濁った嫌悪と混乱に溺れていく思考とは裏腹に、気がつくとわたしの指先は、ぐちゃぐちゃに溶けた肉を夢中で掻き混ぜていた。
 粘つく音が耳を汚す。濡れた黒髪が頬に張りついて気持ち悪い。喉からこぼれる吐息はもう止めようも無くて、もしかしたら外の男に聞こえてしまうかも知れない、という危惧は、羞恥の入り交じった劣情をいっそう加速させる。
「ふ、……あ、あ……だめ……」
 鏡の向こうに映るのは、見も知らぬいやらしい女の姿だ。両足を広げ、腰を蠢かせながら、指先は止まることなく自分自身を慰めている。その指の蠕動は、満足を求めているというより、癒されない渇きに焦れ悶えているかのよう。
 ……足りない。
「……あ……ふ、あ……もっと……」
 当てどなくさまよう左手が、未だやむ事を知らず頭上から降り注ぐシャワーヘッドを、その掌中に握りしめた。
「ん……」
 人指し指の動きを止めないまま、親指と中指で更に大きく襞を広げる。熟し過ぎた果実のようなピンク色は酷く生々しくて、そんなものを目にするのは、いつものわたしなら絶対に拒んだのだろうけど、今のわたしにそれを押し止めるだけの理性はもう残っていない。
「……わ、たし……こんなの、……あ……」
 そして、そのまま。
 ふるりと震える太股の内側に、わたしはシャワーを近づけた。
「あぁぁ……っ!」
 瞬間、背筋を走り抜けた軽い絶頂に、高い悲鳴が上がる。
 小さな噴出口から吹き出す水流は、柔らかな無数の触手だった。形の無いそれが、一斉に牙を立ててわたしの肉に食らいつく。
「ふぁ、あ……ああ、あ、あーっ!」
 洗われても洗われても、止められない涙のように滲み出てくる熱い雫。水流と混じり合ったそれは、太股の内側を伝い、白亜の床を汚してゆく。爪先にわだかまる濡れた感触が、すべて自分の垂れ流したいやらしい体液のような錯覚が、酩酊に似た目眩を引き起こした。
「ああ、あ──あ、あ……」
 上ってゆく。
 溶けた淫毒に犯されたわたしの肉体が、一人きりでどこまでも上り詰めてゆく。
「……ああ、あ、ん──は、あ──」
 この厭わしい悲鳴が、彼の耳に届くことへの恐れすら、もはや縒れた悦楽と化していた。聞こえないように殺しているのか、いっそ聞こえて欲しいと願っているのかさえ分からない。
 鏡の中に映るのは、蕩けて、爛れて、ただの肉に堕していくカラダ。理性ある人間の仮面は剥がれ落ちて、ただの牝に戻ったわたしが、わたしを見つめながら限界を踏み越える。
「───ああああ………っ!!」

 最後の瞬間。
 閉じた瞼の向こうに浮かんだのは。
 ……誰の顔だったのか、もうわたしにも良く分からなかった。