ゆめのあとさき。





 ──あ──は、あ……ん──ん、あ……

 ──回りは薄暗くて、ここが何処なのか良く分からない。
 粘つく水音と、熱くゆらめくような呼気だけが辺りに立ち込めている。
 
 ──あ、や……だめ、ん……そんな……とこ、まで……ああ……っ!

 汗ばみ、ほんのりと薄く色づいた乳房に、指先が食い入っている。長い黒髪を振り乱して、彼女は先端に吸いつかれる甘い感触に耐えているようだった。腰に絡む爪先が、ひくひくと小刻みに痙攣している。

 ──は、ぁ……あ……んっ、んぅ……あ……はぁ……

 柔らかく頭を撫でてやると、彼女は小さく恥ずかしげに微笑んだ。いつもは気丈なこの魔術師が、自分の前ではこんなに無防備な表情を見せるのがとても嬉しい。顔を近づけて名前を呼ぶと、彼女の方から懸命に首を伸ばして、濡れた口づけを求めてくる。
 遠慮などせずに、愛しさの限りをこめてその唇を貪り尽くした。

 ──あ、あぁ……んっ、んむ……ん、ぅ……はぁ……んんっ……

 水音が響く。
 肉と肉のぶつかり合う、鈍い衝撃が体を揺らす。
 締めつけてくる彼女の中はとても熱くて、この繋がりを離すまいとするように、健気にこちらにしがみついている。背中に回った指先にも力が入っていて、華奢な肩先がふるふると小さく震えている。
 たまらずに体ごとかかえ上げて、強くこの胸に抱きしめると、

 ──ああ、ん……■■……っ!

 涙交じりの声で、彼女が自分を呼んだ。

 甘くて、切なくて、溶けてしまいそうで、でもいつもの凛とした印象は変わらずに。彼女はこんなにもこの腕の中、どこまでも清廉なままで果てしなく乱れてゆく。汗と涙にまみれて、しっとりと濡れたその顔さえ、狂おしいほどに綺麗だった。
 強く腰を突き上げると、繋がった二人の体にぞくりとざわめく快感が走り抜けた。限界が近づいているのを感じて、彼女の体をデタラメに揺さぶりつつ、その背をきつく引き寄せる。

 ──あ、ああ、ん、んぁ……んは、あ、お、願い……もう、ダメ──

 祈るように懇願する声を聞きながら。
 
 霞んでゆく意識の中、ありったけを吐き出して──彼女の中に、果てた。




「…………っ!」
 がばり、と起き上がると、全身がイヤな汗に濡れていた。慌てて辺りを見回すと、そこは見慣れた自分の部屋。まだカーテンの下ろされていない窓から外を見ると、夕暮れの残りが僅かに空を染めているようだった。刻限はおそらく宵の口。ここの所夜間の見回りが多く、疲れ気味だったことも相まってか、学校から帰ってきたわたしはそのままベッドの上でついうとうとしてしまったのだっけ。
 ──それにしても、なんて夢を見たんだ。
 思い出すだけで、かぁっと顔に血が昇る。あられもない恰好で男にすがり付き、壊れた嬌声を上げていたユメの中のわたし。相手の男は誰だったか良くわからない。──と言うよりも、夢特有の感覚の混濁の所為か、わたしが男の視点になって、乱れるわたしを見ていた感じ。
「……あれ?」
 ──いや。
 額を湿らせた汗を拭い、わたしはぼんやりと浮かぶ違和感にふと眉をしかめる。
「もしかして──これ」
 夢にしてはあまりにもリアル過ぎる映像。普通、覚醒してしまえば、眠りの中で見た夢というのは太陽の光に消える星のように、あっという間にその現実感を失い、忘却の中に堕ちてゆくものだ。けれど、あの交わりの残像は、つい今の今まで本当にわたし自身がそうしていたように、あまりにも鮮やかに、この五感に疼くような名残りを残している。
 汗ばんだ肌。まだ速い動悸。呼吸は乱れ、瞳は潤み、頬は熱く上気している。
 そして──体を動かすたびに、足の間で、ぬるり──という、濡れた感触が。
「………っ! あ、の──バカ──」
 この状況には覚えがあった。勿論、あのとんでもない淫らな映像の話ではなく──異様なまでのリアルさを備えた鮮明な夢を見るという、その一点に関してだけど。
「……アーチャー……」
 頭を抱えて、ふうと吐息をつく。
 聖杯戦争の為に召喚した、わたしのサーヴァント。彼と繋がったレイラインを通して、その夢が流れ込んでくるのを見るようになったのは、いつの頃からだったか。
 大抵彼の心象風景は殺伐としていて、荒涼とした荒野が広がっているだけの、それは見るに耐えないような、酷く枯れ果てた夢だった。そんなものがリアルに自分の中に再現されるのだから、まったくこっちとしてはたまったもんじゃない。もう少しくらい楽しい夢を見られないものか、と身勝手に思っていたら──コレだ。
「何なのよ……いつもはそんなこと、全然考えてません、みたいな顔してるくせに」
 そういう願望が彼の中にあった、っていうこと自体驚きなのに、それが自分に向いてくることがあるなんて想像もしなかった。だって彼とわたしはサーヴァントとマスター、という戦いの協力者であって、男とか女とか、そんな些少な問題とは全然別次元の関係なんだ、と、少なくともわたしは思っていたんだし。
 ──そりゃまあ、黙っていればあの男の姿形が整っている事だけは認めるけど。
 大体あいつは、まったくこっちを女扱いしているそぶりが無い。サーヴァントとして、マスターであるわたしに対する敬意は持って接してくれてるけど、それだけだ。わたしだって、殊更にあいつの性別を意識したりなんかしない。必要と判断したら、寝所にだって見張りの為に置いておくのに。
「こんなの見せられたら、やりづらくてしょうがないじゃない……」
 はぁ、と何度目かのため息をついて、ふらふらと立ち上がる。まだ頭に靄がかかってるみたいで、はっきりしない意識を奮い起こすように頭を振ると、わたしは危うい足元を踏みしめて扉に向かった。
 ともかく、ベタベタする体を洗い流さないと、考えすらまとまらない気がしていた。

 長い黒髪を濡らさないようまとめ上げて、熱めにしたシャワーを一気に浴びる。肌を打つ水流に、ぼやけていた思考が稼働し始めてゆく。寝起きはどうも良くないので、こうして意識的に覚醒を促してやらないと、起きたばかりのわたしはあまり使い物にならない。
「──あ」
 そう。
「……着替え、忘れた」
 大体において、寝起きのわたしはこんなミスをやらかすのである。
 濡れた体をタオルで拭き取ってから、ようやくわたしはその事に気がついて頭を抱えた。汗まみれの服はもう袖を通す気にならないし、大体もう洗濯籠に放り込んでしまっている。他に着ていけるようなものは、この場所には見当たらない。
「──仕方ない、か」
 どうせ勝手知ったる家の中、自分の部屋に帰るまでの道のりだ。濡れたタオルを籠に放ると、新しく引っ張りだした白いタオルをくるりと体に巻き付ける。
「─────」
 壁にかけられた鏡に、わたしの姿が映っている。姿見の向こうのわたしは、桜や綾子といった同年代の女子と比べると、明らかに女らしいまろやかさに欠けた体を恥じるように、僅かに俯いて見えた。別に外見に劣等感なんて持っていないけど──うん、胸くらいはもう少しあってもバチはあたんないかな、とか思ってみる。
「──華奢、って言ってくれてたけど」
 夢の中の彼は、わたしを抱きしめながら、そうわたしのことを心の中で評していた。
 あれはアーチャーの夢だから、わたしは彼に同調して、自分で自分を抱いていたことになるのだけど、彼の意識はこっちが恥ずかしくなるくらい、わたしのことを強く思っていてくれていたのだっけ。
「ん……やっぱ、あんまりあいつのイメージじゃないのよね」
 あまり考え過ぎると、変な風に足元をすくわれそうだ。意識を切り換えると、冷静な判断力が戻ってくる。とにかく、今までと同じように、彼の夢のことには触れないまま、日々の過程を遂行していけばいい。取り敢えず部屋に戻って着替えて、夕食を取ったら今後の方針をアーチャーと打ち合わせて──
 そう考えながらスリッパを突っかけて脱衣所を出、部屋に向かおうとしたその時。

「──凛。そろそろ夕食を取らないと、夜の見回りが──」
「あ」
「──あ?」

 その瞬間まで淡々と思考を紡いでいた脳の回線が、一瞬で見事にショートした。

 廊下の曲がり角に、実体化した赤い騎士が立っている。立っているっていうか──きれいに硬直してる。鉄色の瞳が、呆気に取られたようにまんまるに見開かれてる。
 でも、動けないのはこっちも同じだ。大体、いつもなら地下室に引っ込んでる筈のコイツが何でこんな時に限って、人の部屋に続く廊下に姿を現したりするんだろう。──まあ多分、居眠りしてしまったわたしが、夕食の時間になっても下りてこないのを訝しんで様子を見に来たのだろうけど──って、ああもうそんなことはどうでもいいんだ今は!
「あ──の」
 かぁぁっ、と顔に血が昇るのが分かる。いくらなんでも、タイミングが絶妙に悪過ぎた。夢の中の映像が一気に早廻しで再生されて、頭の中の回線が次から次へと連続して吹っ飛んでいく。
 だけど。
 そんなふうにうろたえまくっているわたしを目の前にして、アーチャーはふうと肩を落とすと、これ以上無いってくらいの呆れた声で言い放ったのだ。
「──そんな恰好で何をしている、マスター。いかに自宅とは言え、だらしないにも程があるぞ」
「な」
「風邪でも引かれたら面倒だ。早く部屋に戻って着替えたまえ。まったく、バスタオル一枚で家の中をうろつくなど、子供か? 君は」
「──な、な」
 ──なんて言いぐさなんだこいつは──っ!
 別に動揺して欲しいとか、頬のひとつでも赤らめろとか、そんなことを思ってる訳じゃないけど──それにしたってあんまりだ。夢の中のあの態度とは違い過ぎる。いや、確かにこういう皮肉っぽい言葉を吐くアーチャーの方が、らしいと言えばらしいんだけど、でもそれが余計に頭に来てたまんない。
「う、るさいわね! 仕方ないじゃない、着替え忘れちゃったんだから! 大体、元はと言えばアンタの所為で──」
 そこまで言いかけて、わたしははっと口を噤む。いかに勝手に流れ込んでくるものとは言え、わたしがアーチャーの夢を覗き見している事に変わりは無い。そんな事は、彼だって知られたくない筈だ。
 だけどそんなわたしの思いを余所に、アーチャーはますます呆れを深めたような口調で言い募る。
「私が何だと言うのだ? 人の所為にするとは、みっともないぞ、凛。
 大体以前から忠告しようと思っていたが、君はどうも慎みに欠ける部分がある。ただでさえ色香も優雅さも不足しているのに、その上それでは手に負えないぞ」
「─────」
「せめて成人する前には、もう少し女性としての嗜みをだな──む──凛?」
「─────」
 あ──なんか、ヤバい。
 コイツのこういう厭味はいつもの事で、別にそれが本心からこっちを責めてる訳じゃない事は良く分かってる。アーチャーは自分の関心が無い相手には、皮肉どころか視線を向けることさえしない奴だから。ひどく捩じれてるけど、この男の皮肉げな言葉は、一種の親愛を込めたコミュニケーションなんだ、って事くらい、わたしは十分理解してる。
 でも、なんか──ああきっと、これはわたしの方の問題だ。さっき鏡を見て、そこに映し出された自分の姿に、変なコンプレックスを刺激されてしまったから。
 ──もしかしてわたし、他の娘に比べて、女の子らしくないのかな──って。
「───なに、よ」
「……凛? その──」
 珍しくアーチャーがうろたえてる。俯いたわたしにどんな言葉をかけていいのか戸惑っているみたいに、表情が狼狽の色を浮かべている。
 だけど、そんなものに意識を払えるほど、こっちだって余裕は無かった。何だか気を緩めてしまうと、みっともないけど涙が滲んでしまいそうで、それだけはイヤだった。遠慮無しに互いに言い合えるアーチャーとの関係が、わたしはとても気に入っているのだし。
 だけど。
 あの夢を見た後、ようやく二人の性差を思い出したみたいに、一度意識させられてしまったものを撤回するのは難しい。気づかなければ看過出来る感情は、気づいてしまった時には大概、もう身動き出来ないほど大きくなって、抱えるのに重た過ぎるほど膨れ上がっているものなのだから。
 そう──こんなにも、自分ですらその感情を制御出来ないほどに。
「──何よ。アーチャーなんか──」
 ぎり、と奥歯を噛む音が、耳の後ろに抜けていく。
 やだな。ひょっとしてわたし、アーチャーの言葉に傷ついてるんだろうか。あの夢の所為で一方的に彼のこと意識して、本気じゃないって分かってるその毒舌に、勝手に傷つくなんてバカみたい。そんなのアーチャーに対してだって失礼だし、自意識過剰にも程がある。
 でもダメだ。もう、高ぶった感情が抑えられない。
 すぐ目の前で、困り果てたように立ち竦むアーチャーに向かって、わたしは一歩踏み込んだ。本人の意志とは無関係に、尖った思いが喉の奥からこみ上げてくる。
「色香も優雅さも慎みも無いその相手を、勝手に夢に登場させて、散々いいように抱いてたのは何処のどいつよ!」
 言ってしまった後で、はっ、と大きく息を飲む。
 あれは──彼だけの夢なんだ。本来わたしが踏み入ってはいけない領域。例えそこにわたしの面影があったとしても、わたしが土足でそこに上がり込むことは許されない。
「───あ」
 一時の激情に任せて、自分自身で架した戒めを忘れ、つい口走ってしまった事を後悔する。強く唇を噛むと、自分のすぐ真上で、アーチャーが明らかに動揺している気配が伝わってきた。
「凛───」
 何かを言おうとして、そのまま言葉を見失ってしまったように。アーチャーがわたしの名前を呼んで、右手を伸ばしてくる。彼の指先が、この剥き出しの肩に下りるのが怖くて、身を交わすと足早にその横をすり抜けた。
「──ごめん。忘れて」
 彼の顔も見ないで、それだけを低く告げる。
 背中越しに、アーチャーがこちらをじっと見つめている気配を痛いほど感じながら、わたしは逃げるように自分の部屋へと飛び込んだ。