雨の日のLOVE SONG





──雨は、嫌いだった。

 自慢の黒髪が湿気を吸って重くなるとか、気圧が下がる所為で頭痛がしやすくなるとか、跳ねる雨水で服が汚れてしまうからとか、その訳は並べていけばいくつでも思いつく。
それは皆嘘ではなく、わたしにとっては確かに事実だったことだ。
 けれど多分、ほんとの理由はそんなところには無かった気もする。所詮人間は感情の生き物で、理屈など感情を説明するために後からついてくるものなのだし。

 見上げる空は重い灰色。
 無地の赤い傘に、数えきれない雨粒が落ちてゆく。

 水のはじける音が、涙みたいでイヤだった。
 濡れた肩先も、冷えて強張った指先も、一人きりで体を抱いて温める。
 屋敷に帰っても、雨音はガランとした室内にずっと響いていて、家の中まで雨が降り続けているみたい。

 だから、きっとわたしは。
 ひとりぽっちで、あの冷たい時間を過ごさなければならない雨の日が。
 ──ずっと、大嫌いだったんだと、今にして思う───




 背中から追いかけてくる気配に、まずいな、と思った時はもう遅かった。不意打ちのように肩を打った雨粒は、次の瞬間堰を切ったように一気に降り注いで、辺りのアスファルトを黒く染めてゆく。
「うわ──」
 ざあざあという音が、周囲の喧騒を塗り潰していった。慌てて道を急ぐ幾つもの人影が、大気を打つ激しい驟雨にかき消され、水の幕を透かした向こうに、町並みは蜃気楼のように輪郭を失ってぼやけてゆく。
 ──夕立だ。
 雲行きが怪しいのを見て、学校から駆け足に帰ってきたのも束の間。足の早い雨雲に追いつかれてはどうしようもない。白いシャツも、カーキ色の制服のズボンも、あっという間に水を吸って重く肌にまとわりついてくる。
「まいったな……」
 鞄をかざして雨をしのぐ真似をしてみるが、叩きつけるような勢いの水滴を躱すことなんて出来る筈が無い。ばしゃばしゃと足元に溜まる水たまりを走り抜けていく内に、靴の中までがじっとり濡れてきて気持ち悪かった。
「んー……こりゃ、一旦家に帰って着替えてきた方がいいかな……」
 今日は遠坂の家で、魔術の習練を受ける約束がある。いつもなら俺の家ですることが多いんだけど、今日は彼女の家にある魔術道具(マジックアイテム)を使うからとかで、久しぶりに遠坂邸にお邪魔するわけだ。
 本当なら彼女と一緒に帰って、そのまま遠坂邸に直行、という予定だったのだが、帰りがけに一成に呼び止められ、機材の修理を頼まれてしまった。遠坂は、一足先に帰って準備をしているから──と言って、そのまま学校で別れたのだけれど、さすがにこんなびしょ濡れのままで彼女の家に上がり込む訳にもいかないだろう。
「少し待たせちまうけど、仕方ないか。うちから電話でもかけて──」
 独りごちながら、足を止めて辺りを見回す。自分の家に戻るのなら、一度反対側の道に引き返さなければならない。けれど激しい雨足で滲む視界は、見慣れた風景を薄墨のように溶かしていて、自分が今何処に立っているかを一瞬思い出せなくなってしまう。
「─────」
 いつの間にか、人けは絶えていた。痛いほど降りしきる夕立を嫌って、みんなどこかの軒下ででも雨宿りしているのだろうか。濡れたアスファルトに立っているのは俺一人で、まるで初めての見知らぬ町角に置き去りにされたような錯覚さえ覚える。
「……って、ぼんやりしてる場合じゃないか」
 ぶる、と体を振って髪についた雫を払い落とすと、俺は今来た道を戻ろうとして踵を返しかける。

 ──その、僅かに振り向く刹那。
 模様ひとつない鮮やかな紅が、灰色の町を背景に、くっきりと花のように咲いているのが、この瞳に飛び込んできた。

 ぱしゃん、と。
 キレイな赤色の下で、透明な水たまりが波紋を描く。

「──士郎」
 聞き慣れた声が、俺の名前を呼ぶのを聞いて、ふと我に返る。見れば、ほんの数メートル先の曲がり角に、赤い傘を差した遠坂が立っているのだった。
「あ──遠坂?」
 こんな場所で彼女に会うなんて予想だにしてなくて、間抜けな声を上げた俺の元に、彼女はぱしゃぱしゃと水を跳ねさせながら近づいてくる。
 いつもより少しだけしっとりとした質感の黒髪。湿度の高い大気に当てられた所為か、頬がほんのりと薄赤色に染まっている。彼女は俺の真ん前で足を止めると、ん、と背伸びをして、その赤い傘を俺の上に差しかけてくれた。
「あ──」
「もう、びしょ濡れね。降り出してきたの見て、まずいなぁって思ったんだけど。
 はいこれ、貸してあげる。今更かも知れないけど、少しはマシになるでしょ」
 そう言って、遠坂は黒いこうもり傘を俺に手渡してくる。一瞬相合い傘の図を想像してちょっと期待してみたりしたのだが、考えてみれば、このどしゃ降りの中、こんな小さな傘ひとつを分け合ったら双方とも体の半分が水浸しだ。とっくに濡れ鼠になっている俺はともかく、遠坂まで雨に濡れさせる気は無い。
「ありがとう、遠坂。悪いな、わざわざ雨の中」
 礼を言って、彼女の手から傘を受け取る。降りしきる雨粒の中で掠めた遠坂の指先は、ひんやりと冷たくて心地良かった。遠坂が赤い傘を引くのとタイミングを合わせて、ぱん、と勢い良くこちらの傘を開く。
 彼女のものより一回り大きな黒い傘に、水滴が弾けてリズミカルな音を立てる。自分の周囲、半径一メートルばかりの雨足が途絶えるだけで、随分と視界はクリアになった。鞄を持ったままの片手で、髪から滴り目に入ってくる雫を拭い取ると、こちらをじっと見上げている遠坂の顔が虹彩に飛び込んでくる。
「どうかしたのか?」
「え? ……ううん、なんでもない。それより急ぎましょう。こんな所でぼんやりしてたら、いくら傘があっても濡れちゃうわ」
 そう言って、遠坂は先に立つと早足に歩き始めた。慌てて俺もその後を追う。
 ──遠坂邸に着いても、雨は降り続いていた。勢いこそ弱くなったものの、どうやら夕立は本降りの雨に変わったらしい。青灰色の雨雲は低く垂れ込めて、空を重く覆い尽くしている。
「傘はそこに広げて置いておいて。はい、タオル」
「ん」
 玄関に入り、水を払い落とした傘を乾きやすいように広げて置く。そうしておいて、遠坂の手渡してくれた白いタオルで、髪やら顔をがしがしと拭き取った。
「すまん遠坂、もう一枚タオルあるか? なんかもう、全身びしょ濡れになっちまって」
 やっぱり一度家に帰って、着替えを持ってきた方が良かったんじゃないだろうか。遠坂の家に、俺が着れるような服があるとも思えないし。
 そんな事を考えながら所在無く広い玄関に立ち尽くしていると、一度奥に引っ込んだ遠坂が、ひょいと顔を覗かせた。
「確かに、そのままじゃ風邪引いちゃいそうね。……仕方ないわ。士郎、脱いで」
「……え?」
「服は洗濯してあげるから。乾燥機通せば、明日の朝までには乾くでしょ」
「……え? ええ??」
 今、遠坂──なんて。
 服、脱げって言ったか?
「……………」
 しかも明日の朝までには乾くって、要するにそれは今夜遠坂の家に泊まっていくってことで、って言うかそれ以前に服を乾かすってことは洗濯するってことで、つまり俺の服を遠坂が洗ってくれるってことで、いやいや待て更にその前に服を洗濯するってことは脱ぐってことで、つまり何ですか、雨で冷えた体を人肌のスキンシップで温めるとかそういうシチュエーションを期待していいんだな遠坂───!?
「ちょっと士郎、何一人で百面相してるのよ。お風呂にお湯張ってるから、入りなさいって言ってるの。
 脱いだ服は籠に入れておいてね。後で洗濯するから」
「あ──はい、どうも」
 ──って、やっぱりいきなりそう都合良くはいかないか。
 とは言え、お風呂。
 何度か遠坂の家にお邪魔はしてるけど、ここで風呂に入るのは初めてだ。遠坂は独り暮らしだから、当然、風呂場は彼女以外使ってない計算になる。女の子の──それも、自分の好きな子の浴室に入るとなると、なんか照れるような、気恥ずかしいようなむず痒い気分だ。
「えっと……いいのか、遠坂?」
「何が?」
「その──風呂、借りて」
「別に借賃なんか取らないわよ、失礼ね」
 いや、そんなことを心配してた訳じゃないんだけどな。
 まあでも、せっかくの彼女の申し出なんだし、こっちに断る理由なんかある筈も無い。
 濡れた鞄を遠坂の手に預けると、俺は彼女の案内に従って、魔術師的には大変価値のあるんだろう、未だ見せて貰えない遠坂家の工房なんぞより、健全な男の子としてははるかに興味を引かれる、遠坂のプライベート・バスルームへと足を踏み入れたのだった───

「……ふう」
 いつも自宅でならする掛け湯の代わりに、シャワーでべたついた体をさっと洗い流す。
 浴室は想像していたよりもかなり広かった。全体の雰囲気としては西洋風だけど、白亜のタイルが敷きつめられた洗い場が備わっている辺りはしっかり日本的。浴室の片隅には、何やら横文字──英語じゃないので意味すら分からない──の書き連ねられた容器が幾つも置かれている。シャンプーやリンスの類なんだろうけど、それにしても数が多い。
 コックを捻ってシャワーを止めると、陶器製のゆったりとしたバスタブに身を沈めた。余った湯が縁からざあっと流れ出して、排水口の周囲にくるくると渦を巻く。
「……ん」
 お湯はうっすらとしたピンク色をしていた。湯気に紛れて、仄かな花の香りが漂ってくる。詳しくはないので良く分からないけど、これは──バラ、だろうか。
「バスクリン──とかじゃないよな」
 遠坂に聞かれたらぶん殴られそうなことを一人ごちる。浴室に満ちている花の芳香は、そんな入浴剤の人工的な甘ったるさではなく、自然のままの優しい匂いだったから、きっと違うのだろう。なんだっけ、アロマなんとかとか何とかオイルとか、そういう類のもの。
 しかし何だ。ピンク色のお湯の向こうに揺れているのが、無骨な男の裸、というのはどうもミスマッチで良くない。これが遠坂のあの白いキレイな肢体だったら、さぞや──
「………っ!」
 そんな考えが閃いた刹那。
 意識的に思考の隅に追いやっていた考えが、またしても胸の内側をざわめかせ始める。自覚した瞬間、今まで大人しかった心臓が、急にドキドキと動悸を加速させてゆく。
(遠坂──なんだ、よな)
 今自分が身を浸してる湯船。その本来の主の映像が、はっきりと目の前に浮かんできた。
(この中で……遠坂、が、裸で──)
 勿論、そんな遠坂の姿を一度だって見たことは無い。だけど目を閉じれば、信じられないくらい鮮やかにその様を想像出来る。
 長い黒髪をしっとりとまとわりつかせ、無防備にその裸身を湯に浮かべて、花の匂いに酔いながら、ピンクの靄の中に遊ぶ少女。頬は赤く上気していて、たっぷり水分を含んだ素肌はきっと、触れれば手に吸いつくよう。
 ぷっくりとした唇が、浴室に溜まった熱気に耐えかねて、新鮮な酸素を求めるように半開きにされる。はあ、と吐き出されるため息は艶かしく悩ましくて、その汗ばんだ首筋を流れ落ちていく雫にさえ嫉妬してしまいそうだ。
「……あ」
 ま──まずい。
 湯につかっていた所為で、巡りの良くなった全身の血流が、一気に下半身の一点目指してなだれ込む。ぐぐっ、と股間に圧迫感を感じて、誰も見てないのに思わずあわあわとみっともなくじたばたしてしまう。
 大体、その──なんだ、恋人と言うかまあそういう関係にある女の子の家まで来て、その上邪魔者の入らない二人きりで、手を伸ばせばいつでも生身の遠坂に触れられるっていうのに、何でわざわざ妄想の中の遠坂に勃てなきゃならんのだ。アホらしいにも程がある。
 ばしゃん、とお湯で顔を洗い、二、三回深呼吸すると、どうやら肉体の危機は去ったようだった。まだ頭の芯にぼんやりと潤んだ熱が残っているが、それは湯気に当てられた所為だと思っておく。
 何しろ浴室内に満ちた花の匂いは──彼女がこの香りの湯を好んで使っているのなら当たり前の話なのだが──遠坂の甘い体臭を思い起こさせてならなかったのだし。
「雨に降られた時は参ったと思ったけど、怪我の功名かな、こりゃ」
 取り留めもないことを呟きながら、更に深くバスタブに体を浸す。肩まで沈み込んでも、足が悠々と伸ばせる広さ。華奢な遠坂だったらさぞ余ることだろう──って、だから彼女のことを今この場で考えるのはまずいって……っ!
『士郎ー?』
「うあ!?」
 一人で悶々としていると、突然曇りガラスの向こうからほかならぬ遠坂の声が聞こえてきて、上擦った悲鳴が口をついた。硝子越しの人影が、びっくりしたように大きく揺れる。
『ち、ちょっと大丈夫? どこかぶつけたの?』
「い、いや、なんでもない。発声練習をしていただけだ」
 何のために、と突っ込まれたら終わりだったが、返事は返ってこなかった。我ながら無茶な言い訳に、単に呆れられただけかも知れないけど。
 しばらくの沈黙の後、こつん、と音がして、曇りガラスの扉に額を押しつけた遠坂の影が映る。
『お湯、熱くない?』
「いや、ちょうどいいよ。
 それにしてもキレイな色だな。なんか入れてるのか、この風呂?」
『ああそれ、ローズのエッセンシャルオイルよ。ついいつもの癖で入れちゃったんだけど、イヤじゃなかった?』
 ピンクのお湯の正体は、何やら舌を噛みそうな名前の謎のオイルだったらしい。バラ、という予想だけは当たってたみたいだ。遠坂凛という少女の持つイメージは、花に例えるなら、薫り高い高貴な真紅の薔薇以外に思い当たらない。
「ん、全然イヤじゃないぞ。なんか遠坂の匂いと似てて、気持ちいいし」
『─────』
 扉の向こうで、不意に遠坂が黙り込む。なんか俺、変なこと言っただろうか。
 声をかけようとすると、うろたえまくった遠坂の気配が硝子越しに伝わってきた。
『も、もう、何言ってんのよ士郎ってば! 変な想像しないでよ!』
「変なって──別に変じゃないと思うけど」
 とりあえず、バスタブにつかる裸の遠坂を妄想して危うく暴発しかけたことは、己の身の安全の為に黙っておく。
 ──にしても。
 遠坂、いつまでそこにいる気なんだろう。まさか俺の裸を覗きに来た訳でも無いだろうし、湯加減を聞きに来ただけにしては、何だか歯切れが悪い気もする。
 こっちも妙な想像はしないように全力で理性をフル稼働させてはいるんだけど、硝子一枚を隔てたすぐ向こうに、遠坂本人が居るとなると話は別だ。さっきの妄想により一層リアリティが加わって、だんだんと頭がのぼせてくる感じ。
 ──ああ、ヤバイヤバイヤバイ。
 浴室に渦巻く遠坂色の湯気の所為で、だんだん思考が都合良く捩じれていく。
 ああ見えて、意外に照れ屋な遠坂のことだ。実は俺と一緒に風呂に入りたいのに、巧く言い出せないでためらってる──とか。
 この扉を開けたら、しなやかな裸身に一枚のバスタオルだけを巻き付けた遠坂が立っていて、ほんのり染まった頬でこちらを上目遣いに見上げていて。恥ずかしそうに俯く彼女の手を少し強引に引いて、この腕に抱きしめて───
(……って、そんな訳あるか)
 暴走していく妄想に、自分で自分にぴしりと突っ込みを入れると、俺はわざと明るい声を作って、まだ扉の向こうに立っている遠坂に言葉を投げた。
「なんだよ遠坂、ひょっとして俺と一緒に入りたいのか?」
『な───っ!!』
 うろたえまくった遠坂の声色。うん、いつもこっちがからかわれてばっかりだから、たまにはこうやって立場を逆転させて貰うのも悪くはないだろう。遠坂のことだから、後で三倍返しされかねないんだけど。
「おーい、遠坂? 俺ならいつでもいいぞー」
 カモンうぇるかむ、とお湯をぱしゃぱしゃ跳ねさせて、絶句した様子の遠坂に誘いをかける。じゃあ遠慮なく、と扉が開いてタオル一枚の遠坂が入ってくる、なんて筈も無く。
『な、な、な、何言ってんのよ士郎のばかーっっ! えっち!! けだものーっ!!』
 おお、凄いぞ遠坂。窓のガラスが怒声でびりびりと震えている。
「じゃあ、何でそこにいるんだ? なんか俺に用事でもあるんじゃないのか?」
『─────』
 また遠坂が黙る。やっぱりどうにも様子がおかしい。怒っていると言うよりも、何かをためらっているような気配。
「遠坂?」
 促してやると、やっと答えが返ってきた。
『その──えっと。だから、背中』
「え?」
『背中、流してあげようかと、思って』