月の裏側、無数のクレーターの窪地の跡が存在し、地肌がむき出しにされたままの殺伐とした光景が延々と続く世界であった。
独自の生命と自然が織り成す青く輝く惑星地球を臨むこともできず、月の王国の華やかな風景さえも忘れられたようにひっそりと佇む不毛の大地であった。
その中でも最大のクレーターは、その窪みの底を平坦に均され、人口的な広大な面を有していた。
だが、その地下には、ある特別な目的を持って作られた施設が存在していた。ムーン・バックヘルと呼ばれるその施設は、ある期間だけ、まこと賑やかになるのである。そして、ある人物にとっては、名前の如く地獄の時間を過ごす呪われた場所でもあった。
そして、この地にたった一人で住みついている番人のような男がいた。彼の名はヴァルカン、現クイーン・セレニティの即位よりはるか太古から、この地に住まう番人という噂が付きまとう男であった。
ヴァルカンは、地下の居住区にある自室で、ソファに脚を投げ出すように座り酒の入ったグラスを傾けていた。
黒髪に白い肌の異様に切れ長の釣りあがった目元に皺が目立ち始め、瞼の奥の黒い瞳が眼光鋭い、体格の良い大柄な壮年の男であった。
彼のその鋭い視線の先には、壁にかけられているスクリーンの中の女性へと向けられていた。
「彼女が代替わりにして、半年経ちましたね、クイーン」
ヴァルカンが、冷ややかな目でそのスクリーンに映し出された、銀髪の清楚さを感じる顔立ちの女性へ話しかけた。月の王国シルバーミレニアムの美しき女王、クイーン・セレニティである。
「分かっています………」
それきりクイーンは口を噤み、目を伏せる。
「そうですか、分かっているのなら結構です。で、いつ彼女をこちらに寄越されますかな」
ヴァルカンはぞんざいに言う。傍からみたら、女王に対しての礼儀がまったくなっておらずに、逆に女王を見下しているような態度と物言いだった。言葉遣いだけが丁寧であり、それがかえって、ヴァルカンの無礼な態度を強調しているように見える。
しかし、ヴァルカンはそれを気にする風でもなく、また、クイーン・セレニティも、咎めるでもなく、かえって萎縮しているようだった。
「クイーン、そろそろ引き伸ばしも、限界ではないのですかな?」
ヴァルカンが、目を細め、スクリーンの向こうのクイーンに叱責するように声を発した。
「引き伸ばしなど………」
クイーンが目を上げて抗議しようとして、言葉を詰まらせる。そしてまた目を伏せてしまった。
「本来なら、代替わり後一月以内にこちらを訪れるのが、慣例ですよ。それをあなたは、彼女がまだ幼いから、アムールナイツが忙しいからと、引き伸ばされてきました。」
ヴァルカンは、クイーンを睨んだまま、静かな低い声で言う、そのうちに弱冠の怒りの色を滲ませていた。
「一応はわたしも、クイーンの立場上、譲歩してきましたが、そろそろ頃合でもあるでしょう。彼女も表の世界に十分慣れたでしょう。今度はこちらの世界で、慣例に従ってもらわなければならないのではないですかな?」
ヴァルカンはグラスの中の酒を飲み干しながらクイーンを睨んだ。
クイーンは決意したように顔を上げ、真摯な目をヴァルカンに向ける。
「彼女はまだ若すぎます。本来ならまだ三年はあるのです。この世界のことも、まだまだ学ばなければ――――」
「クイーン・セレニティ」
クイーンの必死の説得するような言葉も、ヴァルカンは憤怒したような表情を見せて遮った。
クイーンは言葉を飲み込んでしまい再び目を伏せる。
「年齢はこちらとしては、まったく関係ないのですよ、彼女が成人でもまた十歳でも、まして赤ん坊でもね、こういう事は、あなたにとっては酷いことかもしれませんが、代替わりの後は必ず行なわれてきた慣習なのですよ」
ヴァルカンは強い口調で言った。
「そうかも………しれませんが、今のこの世界は平和ですし………」
クイーンがそれでも辛そうに目を伏せながら食い下がる。
「平和と繁栄がいつまで続くか分からないからこそ、この慣例が行なわれるようになったのではないのですかな、あなたの先祖であるマザーセレニティの考えは」
「………」
「それにこの慣例があるからこそ、この月の王国の軍備は、国民への負担が少なくて住むのではないのですか? それとも、この慣例を中止しますか、アムールナイツを廃止して、月の王国の住民を兵役に駆り出して軍備を再編なさいますか、何の特殊能力も持たない一般の住民を」
ヴァルカンの目は鋭くクイーンに向けられていた。
クイーンは曇らせた顔に逡巡の表情を浮かべると、目を伏せて横を向いて俯いたまま、ポツリと言った。
「分かりました。近日中にそちらに、彼女達を送ります………」
苦渋の選択を強いられた表情を浮かべ、諦めきった声を出した。
「分かりました、楽しみにしていますよ。彼女がこちらにこられるのを。丁重におもてなし致しましょう、クイーン・セレニティ」
ヴァルカンの言葉が終わるか終わらないかのうちに、スクリーンから徐々にクイーンの姿が消え、真っ白な靄の中にいるような画面になり、そしてスクリーン自体も消失した。
「ふふ、本当に楽しみですよ、セーラーヴィーナス………」
ヴァルカンはスクリーンの消えた壁に向かって視線を送りながら、勝ち誇ったように口元を歪め、グラスに酒を注ぎ、一人の祝杯をあげた。