天空どこまでも続く闇の中に、月だけが丸く輝いていた……これだけ闇深い空だと言うのに、星はどこを探しても見あたらず、まるで墨汁をこぼしてしまったかのように、夜空を漆黒に塗りつぶしていた。
 そんな怪しげな夜空を見上げる余裕もなく、男は一人森の中を走り続けている……
 わずかに届く月明かりが深い森をぼんやりと照らし出しているが、そこは闇と言っても過言ではなかった。
 これだけ視界が悪いと言うのに、男はスピードを緩めようとせず走り続ける……時折足を取られ転倒しそうになるのだが、奇跡的に転ぶことはなかった。
 しかし、何故こんな危険をおかしてまで走り続けるのだろう。
 必死で森を走り抜ける男の顔には、僅かに恐怖の色が浮かんでいた。その表情だけを見るならば、何者かに追われ逃げているようにも見える。だから、男は危険を冒してまで止まることなく必死で走っているのだろうか……
「はあはあはあはあはあはあ」
 男の息づかいだけが森に響いている……いったい何に追いかけられているのだろうか、いったいどこまで逃げればいいのだろうか……
 しかし、男が必死に走り続けているにもかかわらず、森はいくら進んでも景色を変えようとはしなかった。それとも方向感覚が狂い同じ所を回ってしまっているのだろうか……いや、方向感覚に狂いは生じていない、森が深すぎるのだ。これ程深い森が、いったいどこに存在するのだろう……そんな疑問も持たず男はただ走り続けている。
 異常な森を一人で走り続ける男……しかし、この男も異常であった。男は、何時間も走り続けているのにスピードが衰える様子がない。それどころか、疲れすら感じていない様子だった。
「はあはあはあはあはあ」
 乱れることのない一定のリズムを刻んだ呼吸音が森の中に木霊する。人間離れした体力が男に備わっているのだろうか……別段鍛え抜いた躰を持っているわけではい、それなのに何故これ程の事が出来るのだろうか。
 男は自分が走っていることに、今気が付いたように視線を走らせた。
──また同じ夢だ……
 そう……男は夢の中を疾走しているのだった。
 自分が夢だと認識できる夢、何ヶ月にわたり見続けている同じ夢、どこまで行っても抜けることの出来ない森の中を走り続ける夢……
──俺は、いつまで走り続けるんだ……
 何故走り続けているのか自分でもわからない……何度も走るのを止めようと思った。しかし、止めることが出来なかった。何かに追いかけられているのか? 確かに背後からは殺気のようなものが感じられる。それはまるで、鋭利な刃物を背中に突きつけられているような冷たい恐怖に似ていた……いったい何が追いかけてくるのだろうか? しかし、振り返る勇気がない……いや、背後を確認した途端自分がなくなってしまうような感覚が、振り返ることを拒んでいたのだ。
──走り続けなくては……もっと早く……
 何度も消えては浮かぶ疑問も、最終的には走り続けると言う答えをはじき出していた。しかし、いったいここはどこなのだろうか……草を掻き分け木をよけながら、道なき道を走っているのはかなり疲れる。いや、体力的問題ではない。肉体の疲れは全く感じていないのだから……しかし、精神的に参ってしまう。
 それでも男は走り続けた。時折聞こえてくる声に導かれて……
『こちらへ……もう少しです……』
 美しい女の声が、再び聞こえてきた。その声は目の前にある闇から聞こえてくる。だから男は真っ直ぐに走り続けているのだろうか……
──俺の目指している場所は、そこなのか……
 何ヶ月もかけて、女の声が導くところへ辿り着こうとしているのか……男にはわからなかった。それでも走り続けるしかない……殺気から逃げるために……そこに着けば安らぎがあると信じて……
 そんなことを考えていた時、目の前に僅かな光が見えてきた。今まで何ヶ月と変化を見せなかった風景に、ほんの僅かだが変化が訪れた。その光は、男のスピードに合わせ近づき、大きくなっていく。
──抜けられるのか……
 男はさらにスピードを上げ光を目指した……光がどんどん近づいてくる。
 あと少し……
 鬱蒼と茂っている木々の間を走り抜け、男は光の中へ飛び込んでいった。
 全身が光に包まれている……光の暖かさを感じながら、ゴールテープを切るように光のベールを突き抜けると男の目の前に広がったのは、周りを杉の木に囲まれた直径100メートルほどの空間だった……あの暖かな光はどこへ行ってしまったのだろう。しかし、男は中に入った途端、自然と立ち止まっていた。何故、立ち止まっているのだろうか……いや、男はそれが当たり前のように気にも止めていない。ただわかることは、背後に感じていた殺気は嘘のように消え、暖かなオーラが男を包んでくれているのを感じるのだった……だが、これは本当に安らぎなのだろうか……
 恐る恐る後ろを振り向いてみる……やはりそこも高い杉の木が壁のように立ちはだかり、外界からの進入を拒んでいる。自分がどこから入ってきたのかわからない……
「……なんだ。ここは……」
 この場所を目指していたのだろうか……息一つ切らせていない男は、ゆっくりと周りを見渡している。不思議な空間……だが何となく見覚えのある空間だった。特に中心に組まれている岩の塊に見覚えがある。
 広場の中心には、どのようにして持ち上げられたのか、何枚もの大きな板のような岩が組重ねられ2メートルほどの高さになっていた。それは何かの部屋にも見える。正面には1メートルほどの石の扉が閉ざされていた。そして、扉の前には、朱色の小さな鳥居と祭壇が作られており、祭壇の上には丸い青銅鏡が置かれ、月明かりを反射して怪しく輝いていた……古い神様を祭った祠か何かなのだろうか……その祭壇を見ていると何故だか、ここにいてはいけないような気になってきた……人間の第六感が『立ち去れ』と警報を鳴らしている。
 しかし、男は吸い寄せられるように祭壇へと近づいていった。
 祭壇の前に立つと先程まで感じていた暖かなオーラが急変し、ゾッとするような寒気が全身に襲いかかってきた。
──いやだ……ここにいたくない……
 そう思っているのだが、金縛りにあったように祭壇から立ち去ることも目を離すことも出来ない。
──なんだ。あれは……
 石の扉の中心に何かが埋め込まれている……目をこらしてみるとそれは宝石のようだった。だが、どこかおかしい……その宝石は埋め込まれているにもかかわらず、青白く輝き自ら光を放っているようだった。
──何だこの石は……どこかで見たような……この形……
 宝石は丸い玉に尻尾が生えたような形をしている。その形にどこかで見た覚えがあった。そして、この鏡も……
──どこで見たんだ……
 記憶が薄いベールに隠されている。そのベールを捲れば全てがわかるというのに……だが、いくら手を伸ばそうともベールを取り払うことは出来なかった。
「何をそんなに深くお考えになっているのですか……」
 どこからともなく美しい女の声が聞こえてきた……呪縛を解かれた男は、周りを見回してみるが、声の主はどこにも見あたらない。いったいどこから……
「お待ちしておりました。大山様……ずいぶんとお時間がかかったではありませぬか」
 聞き覚えのある声……それは男を呼び寄せた声だった。
 先程よりも近くに聞こえているというのに、声の主の姿を探し出すことが出来ない。
「……どこにいるんだ。俺を呼んでいたのはお前か……」
「はい……ずっと昔から大山様の事をお待ちしておりました……」
 声が杉の木に反射して、エコーが掛かっているように響いている……
 男は、必死で声の主をさがした。
「出てこい……それに、俺は大山なんかじゃないぞ」
「ふふふ……まだ思い出しませんか……まあそれもいいでしょう」
 今度は、声の発せられる場所がハッキリとわかった。男は慌てて祭壇に目を移す……声はそこから発せられている。いや、もっと上から……視線を上へ上げるとそこには、白い着物に赤い袴、そして白い千早(ちはや)という巫女装束に身を包んだ美しい女が一人、組まれた岩の上に立っていた。いや、女と形容するには少し幼すぎるだろうか、黒い艶やかな長い髪を襟元で白い丈長(たけなが)で留め、毛先は綺麗に揃えられている。少し垂れた大きな目は黒い瞳が印象的で、小振りの小さな鼻、紅をさした唇はふっくらとしている。しかし、神聖なる巫女の姿をしているというのに、少女には何処か淫らな雰囲気が漂っていた。
 男を見つめる瞳は優しく、唇から漏れる微笑みは、女神のように慈愛に満ちている。少女は、一度ゆっくりと瞳を閉じると身を翻し岩を蹴った……そして、天女のように男の元へと舞い降り、一度男に視線を合わせると頭を下げたのだった。その優雅な身のこなしを男は呆然と見続けている。
 美しい身のこなしに魂まで抜き取られてしまったのではないかと思うほど、少女から目を離すことが出来ない。
「お久しゅうございます。大山様」
 深々とお辞儀をした少女は、また男の事を「大山」と呼んだ。先程否定されたにもかかわらず……
「ち…違う……俺は大山じゃない……それに君とは──」
 「会ったことはない」と続けようとした……しかし、少女の微笑みを見ていたら、その言葉が後に続けられなかった……
「良くわたくしを見て下さいまし……何か思い出されませぬか?」
 そんなことを言われても思い出せない……男は何処かで少女と会っているのか……いや、会ったことはない。会っているなら、これ程の美少女を忘れるわけがない。
 もし、普通の状況で少女と出会ったのであるなら話をtわせて首を縦に振ったことだろう。それがたとえ夢の中であったとしても……しかし、男にはそれが出来なかった。ここで首を縦に振ってしまったら何か悪いことが起きるような気がしたのだ。
「いや……君に会ったことはない……きっと……人違いだよ……俺は大山じゃない」
「汚れた現世を彷徨い続けるのは大変だったのでございましょう……よもや自分のお名前すら思い出せぬとは……よほど深い記憶の底に埋もれてしまわれているのですね……しかし、思い出して頂かなくてはなりませぬ……わたくしがそのお手伝いをいたしましょう……」
 ゆっくりと近づいてきた少女は、ジッと男の顔を見つめ続けた……その吸い込まれるような瞳を見ていると思考が霧の奥底に追いやられて行くような気になってくる……
「そんなに堅くならないで下さいまし……わたくしの方が恥ずかしくなってしまいます……」
 いったい何をしようと言うのか……いや、何をしようとしているのかわかる。だが、どうして……
 少女は予想通り男の首を抱くとゆっくりと唇を重ねてきた。
 なんと柔らかな唇なのだろう……唇が触れた瞬間、男の顔は快楽の色に染り男根を硬くさせる……しかも、唇から注がれる快楽はそれだけでは収まらない。舌を差し入れ、少女の息吹が注ぎ込まれると快楽は頂点に達し、堅くなった男根からは精液が溢れかえったのだった。
 唇を重ねただけで男を絶頂に導くとは……どのようにしたらキスだけで男を逝かせる事が出来るのだろうか……
 しかし、男はそれだけのことで今まで感じたことのない快楽に襲われていた。「このままではいけない……」頭の片隅で警報が鳴っているにもかかわらず、男は快楽にのめり込んでいった……なおも少女の息吹が注ぎ込まれ続ける。なんと熱い吐息なのだろう、男は更に深い快楽を覚えながら少女の吐息を飲み込んでいく……すると頭の中に突風が吹き荒れた。先程いくら手を伸ばしても取り除くことが出来なかった記憶のベールが、一瞬にして吹き飛ばされ、隠れていた記憶が現れたのだった。
 過去の記憶が甦ってくる……いや、前世の記憶……もっと昔の記憶まで……
──な……なんだ。これは…………なに、この女は……
 男は、慌てて少女の躰を突き飛ばした。輪廻が始まる前、肉体を初めて持ったときの記憶が少女の顔を覚えていたのだ。
「お…お前は……」
 次の言葉が出てこない……男の顔には先程の快楽など一片も残っておらず、ただ恐怖の色に染まっていた。
「思い出されましたか大山様……わたくしのことを……皆で弄んだ女のことを……わたくしの躰はさぞ美味でしたでしょう。何度も何度も貴方様は、わたくしの中に精を放ち続けたのですから……」
 女の瞳が怪しく輝いている。自らが犯される姿を思い出して恍惚になっているようだ。しかし、その悦楽の表情を見ても男の顔からは恐怖を取り払うことが出来なかった。
 そんな男を見て少女は優しく微笑みかける。
「そんなに恐れることはありません……あれは、もう遠い昔のこと……その様なことを咎めるつもりもございません。わたくしも、初めて肉の喜びを教えて頂いたのですから……そのお礼をしたいと思い参上致しましただけでございます……」
「な…何をたくらんでおる……今更お前に何が出来ると言うのだ」
 男の顔からはどんどん血の気が引いていき……今は完全に蒼白になっている。
「何が出来るかでございますか……色々なことが出来ます。そのためにわたくしは、生き続けてきたのですから……あなた方とは違い転生などせずにたった一人、この世界で……」
 穏やかな表情は全く変わらぬというのに、醸し出すオーラが変わった。赤から青へ……暖から冷へ……
「何をしようと言うのだ……これは変えられないことなのだ。我々が封…………まさか貴様、それを開こうと言うのではあるまいな。ならん、ならんぞ……そんなことは許されてはならん! この世を再び闇に落とそうと言うのか!」
 目が血走り、より恐怖の色が濃くなっていく……
「そうでしょう。あなた方にとっては許される筈もないこと……しかし、闇は既にあなた方の心の内に潜んでおりました。わたくしを抱き、あのお方を生け贄に捧げた時から……」
 少女は、組み上げられた岩を指差し不適な笑みを浮かべていた。
「封印は解かれつつあります……さぁ、あなたが身に納めている封印もお渡しなさいませ。初めてのおなごを弄んだ代金は高こうございます。その代金をあなた様のお命で……それが大山咋神(おおやまくいのかみ)様の運命なのですから……」
「いつまで戯言を言っておる!」
 大山咋神の顔が、恐怖から鬼の顔に変貌した。いや、躰までもが大きく膨れあがり2メートルを越そうとしている。にもかかわらず少女は眉一つ動かさず、微笑みまでこぼしていた。
 圧倒的力の差がありそうに見えるが、大山咋神は一歩も動くことが出来ななかった。少女の殺気が大山咋神の動きを止めているのだ。
「いかがなされました……一人では何も出来ませぬか……」
「お…お前ごときが、わたくしに勝てるとでも思っておるのか!」
「ふふふっ……それにしては、躰を震わせておられるご様子。大山咋神様もお気づきのはず……自らの力が弱っていることに……何ヶ月もかけてゆっくりと罠にかかっていたことに……そう……今の大山咋神様にはわたくしを倒す力など残っておりませぬ……」
 そう言うと少女は、祭壇に置かれていた鏡を手にしていた。
「お前ごときが使えるわけが……」
「お甘いことを……すでにこの鏡はわたくしの意のままにございます……」
 鏡を大山咋神にかざし、少女の目が赤く輝き出すと鏡からはまばゆい光が発せられた。
「そんな……そんな馬鹿な……」
 輝いた光が大山咋神を包んでいく……それは、一瞬の出来事だった。光が躰を包んだかと思うと光が躰の内に吸い込まれ、今度は内側から輝き始めたのだ。
「うおおぉぉ……」
 苦しみだした大山咋神の皮膚がひび割れ、剥がれ落ち、光が溢れていく……
「おのれぇぇ……だが、儂を倒したところで……まだ強き力を持った神々が封印を守っておるわ……お前のたくらみなど……成就する……わ…け……も……うぎゃああぁぁぁぁ……」
 光が内側から一気に膨らみ飛び散った……光の破片は雪のように降り注ぎキラキラと輝きながら少女を包んでいく……なんと美しい光景だろうか、まるで星々が少女の美しさを妬み舞っているようであった。
 少女はジッと男が立っていた場所を見つめる。そこには、小さな青白い炎が宙に揺らめいていた。ちょうど大山咋神の心臓があった場所に……
「汚らわしき心を持った者ほど美しい色で燃えるとは、何の因果でございましょうか……」
 うっとりと炎を見つめ薄い笑みを漏らす……
「これで、また一つ……」
 フウゥゥゥゥ……
 蝋燭を消すように一吹きすると美しい炎は消え、炎の中から黒く輝く勾玉が姿を現したのだった……