01-滅ぼすもの    <<Back  Index  Next>>

竜の時代 蒼風そうふうの十年 冴気月さえきづきの 九夜

 警鐘が鳴った。
 金属の鐘を打ち叩き、空気を震わせて鳴るそれではない。術者の頭の中にのみ鳴り響く魔法の鐘。誰かが結界に触れたのだ。
 浅い眠りから覚まされたヴァルデリュードは冴気月の寒気に身を震わせた。暖炉の火が消えている。
 窓の板戸を閉めた室内は真っ暗だったが、老人とは思えぬなめらかな動作で小さな毛織りの敷物の上にそろえられた室内履きに足をつっこみ、壁の掛け釘から外したフードの付いた青灰色の寛衣を羽織る。あとは寝台の頭板に立て掛けてあった杖を取るだけだった。



 王国の東の果て。
《 灰色の巨人達 》 と呼ばれる山脈の西の麓に、三つの塔を持つ白い石造りのとりでがそびえる。いつの世からか 《 塔の賢者 》 の称号を持つ三人の魔法使いによって統べられている 《 賢者の塔 》 。白魔法を修める者の学びであり、世俗の支配を受けぬ聖域。
 塔の基部の建物は数百人は収容できる大講堂から、小さな寝台と机ひとつを入れるのがやっとの小部屋、何層も迷路のように連なる大小いくつもの地下室など、三千を超すと言われる部屋を備えており、またその所領には農園、林、溜め池等、大貴族の地所に匹敵するものが含まれる。
 ヴァルデリュードは叙任されたばかりの最年少の賢者ではあったが、既によわい七十を越えていた。
「ヴァルデリュード!」
 三つの塔を繋ぐ渡り廊下で賢者クライベルクに呼び止められる。無論、彼も気づいたのだ。
「先頃お主の拾ってきた子供、確かウェイデルといったか? そのウェイデルが 《 破滅のむろ 》 の封印を破りおったぞ」
「ご心配には及びますまい。あれは何かのえにしにひかれてきた者。それが封印を解いたというのなら、そうなるべくしてなった事でしょう」
「しかし……」
 クライベルクは薄くなった白髪をモシャモシャとかいた。その群青の瞳には鋭い叡智えいちが輝き、百年の歳月を見つめてきたクライベルクであったが、この新参の同僚には一目置いていた。
 例えばそう、彼は明々と灯った手燭てしょくを携えてきていたが、ヴァルデリュードの手には杖が一本あるきりだった。明かりもなしに暗い階段を降りてきたのだ。
 逆に、どのような明かりもヴァルデリュードの役には立たない。その白い眸は決して光を見る事はないのだから。
 それでもヴァルデリュードは書物を読み、絵画を鑑賞し、表情を知る事ができる。それは天が彼に与えたもうた第二の視力の賜物たまものだった。
「あの子供の将来さきに何を観たのだ?」
 問いかけるクライベルクにヴァルデリュードはかぶりを振り、
「何度申しあげてもわかってはもらえますまいな。すべてを観るという事は何も観ておらぬのと同じ事だと。……私の観ておるものは可能性にすぎぬのです」
「可能性……と、な。フム。……わかった、こたびの件、お主に任せよう。ヘンリエッタ殿にはわしの口からすべてをお主にゆだねる、と伝えておく」
 ヴァルデリュードは無言のまま一礼し、破滅の室へと急いだ。




蒼風八年 風待月かざまちづきの 八夜

 はしばみ色の瞳。こんなにも幼いのに、こんなにも蠱惑こわく的な。つややかな唇からは真珠色の歯並みが覗き、蜂蜜色の髪がサラリと揺れる。
「じゃ、どうしてもダメだって言うのね」
 ラドウィック村の外れ、雑木林に開けた小さな空き地。
 風待月の強い日差しが痛い程に肌を叩くその午後、十三の誕生夜を迎えたヴィーアは形の良い眉をつりあげた。王国の西はずれに近いこの辺りでは珍しい、綺麗な流行はやりの服を着ている。
「ヴィー、何度も言っているようにこれはお守りなんだ。どんな事があっても片時も離しちゃいけないって、言いつけなんだ」
 彼女より一月ほど年長のライガが鎖に通して首にさげた指輪を握りしめて弁解する。
 生成の麻シャツに縄で縛った膝丈のズボン、木の皮を編んだサンダル。典型的な田舎の子供の服装だ。
「そうなんだ。僕達がこれを外すと恐ろしい事が起きるって……」
 くすんだような黒髪。黒煙を想わせる瞳。後を引き取ったウェイデルの容姿は声をも含め、ライガと瓜ふたつである。
 ウェイデルの鎖の先には白金に大粒の宝石がはめ込まれた指輪。宝石の色は一点の曇りもない青。空よりも青く、海よりも深い。
「恐ろしい事ですって?」
 すでに形良くふくらんだ胸の前で、むきだしの白い腕を組んだヴィーアの口調からは彼女がそれを本気にしていない事がありありとうかがえた。そんな子供じみた話を信じるなんて、と鼻を鳴らしてみせる。
「本当なんだ、ヴィー。僕らは……なんて言うのか、ある力を持って生まれたんだ。だけど……それをうまく使う事ができないんだよ」
「君は知らないだろうけど、そのせいで僕らの母さ……」
 そこでウェイデルは言葉を接げなくなった。
 村の誰もがその答えに疑惑と不安を抱いている秘密。なぜウェイデルとライガの母親が生まれたばかりの双子を残して亡くなり、父親も祖父母も、親類縁者の誰一人として彼らを引き取ろうとしなかったのか?
 母アリエルの死を看取り、彼らを養い育ててくれた治療師ラウンデルとその妻ライラは何ひとつ語ろうとしなかったが、少年達はアリエルが死んでしまった事情を痛い程よく知っていた。
 断片的にではあるが彼らには誕生以前の記憶があり、それには母の体験や感情も含まれていたのだ。
 皆がアリエルは悪魔を身ごもったのだと信じている。そして、ある意味でそれは真実だった。
「この指輪は……」
 ライガは鎖に通したままの指輪を親指にはめ、陽にかざした。金の台座に真紅あかい宝石が燃え立つ。
「僕達の力を抑えているんだ。それでも時々、指輪の力をもってしてさえ……」
「馬鹿な事言って誤魔化してもダメよ!」
 ヴィーアは胸中に拡がりつつある不安を払いのけるように顎をクイとあげた。
「ライガ、ウェイ。あなた達、あたしの事を好きだって言ったわよね?」
「もちろんさ!」
 声をそろえて頷く。
「じゃあ、証拠を見せてちょうだい」
「証拠?」
「そうよ。今夜はあたしの誕生夜よ。ライガは木の実で作った首飾りをくれたわ。ウェイは木彫りの腕輪を。
 でもあたしはそんな物じゃなくて本物の宝石が欲しいのよ。王宮の貴婦人が身につけているような。あなた達が持っているような」
「だから、さっきも言ったように……」
「あなた達二人のうち、どちらが本当にあたしを想ってくれているのかしら?」
「どちらが……?」
「本当に……?」
「そうよ。どっちの方が沢山って言ってもいいわ。あなた達はなんでも二人いっしょ。話だってまるで一人しかいないみたいにするじゃない? だけど、あたしは一人しかいないのよ」
 ヴィーアの言葉に少年達は顔を見合わせた。
「ライガ……」
 ヴィーアはつとライガに身をすり寄せ、両手で指輪をはめたライガの手をやさしく包み込んだ。何か、痺れに似た感覚がライガの全身を走り抜け、耳元に少女の甘い吐息が囁きかける。
「あなたはきっとウェイよりもずっとあたしが好きよね?」
「ヴィー……」
 かすれた囁き声。音が、心臓の音が世界中に響き渡りそうだ。
「でしょ?」
 すぐ傍にウェイデルが立っている。ヴィーアが何を言ったかは聞こえなかったはずなのにライガが何を感じ、何を考えているか理解してしまっている。
 いつもそうなのだ、いつも。
「だ・か・ら……。その指輪をあたしにちょうだい。そうだわ、それ、婚約指輪にしましょうよ。この村ではどうか知らないけど、前にあたしがいた街じゃあ、男の子は好きになった女の子に指輪を贈るのよ。そして女の子が指輪を受け取ったら、それは将来その贈り主と結婚しますって意味になるの」
「ヴィー、僕は……」
「それともウェイに頼んでみようかしら? ひょっとするとウェイの方があなたよりずっとあたしの事を好きなんじゃないかしら?」
 少年達の身体がビクリと震えた。
「ヴィーア、君は……。君はどう?」
「どうって?」
「君は僕の事が好き?」
「もちろんよ。あなた達は村の男の子の中じゃあ一番素敵で、すばしっこいもの。それに頭もいいわ。読み書きや計算ができるだけじゃあなくて、薬草を見分けて薬を作ったり、妖精の言葉まで話せるんですもの。そんな子、街にだって一人もいなかったわ」
「フッ……」
 ライガは自分が唇をゆがめて笑う声を聞いた。
「だけどこの村には二人もいるって訳だ」
「ライガ……?」
「君は言ったね、あなた達は、って」
「え? それが一体……」
 ヴィーアは自分のあやまちに気づいて身をこわばらせた。
「だって仕方ないじゃない! あなた達は本当になんでもいっしょなんですもの。見分けなんてつきゃしないわよ!」
「じゃあ君は僕と結婚して、僕とウェイが一晩おきに寝床を取り替えたって気づいたりはしないんだ」
「 …… っ! なんて事を言うのよっ。あんた達なんて、あんた達なんて、ただの……ただの……」
 自らの紡ごうとした言葉に躊躇ちゅうちょして口ごもるヴィーアにライガが問いかけた。
「田舎者のクセに……かい?」
「……そうよ!」
 少年達の深い溜め息。
「わかっていたんだ」
 黙していたウェイデルが言葉をついだ。
「今までそんな事はないって思い込もうとしてきたけど。ヴィー、さっきも言ったね。街にだって、って。君はすぐに街って言葉を口にする。村のみんながのろまな田舎者だって言いたい時に」
「だったら何よっ!」
 ヴィーアの頬は紅潮し、眼は怒りに輝いている。そんな様子でさえ綺麗だと少年達は思った。
「君は僕達の事なんてホントは好きでもなんでもないんだ」
「ただ指輪が欲しいから、そんなふりをしてみせただけなんだ」
「ええそうよっ。あたしはいつかお金持ちの紳士と結婚して都に行くんだもの。その時にはそんな指輪なんかよりずうっと素敵な宝石で身を飾るの。絹の衣装を着て、エイムズの絨毯じゅうたんの上を歩いて、建国記念夜の祝賀行列で見たような白い馬の引く馬車に乗って……。
 それなのにあたしがアンタ達みたいな薄汚れた田舎っぺを本気で相手にすると思ってたの?」
 勢い、というのだろうか。ヴィーアはそこまで言うつもりのなかった、いや本気で思っている訳ですらない事をも口走ってしまった自分に驚いた。
 なぜかまともに二人の顔を見る事ができなくなってプイと横を向き、半分は自身に向けて吐き出すように呟く。
「馬鹿みたい」
 が、少年達にはそんなヴィーアの内情まで推し量るゆとりはなかった。
 ライガのうちの奥深いところで、何か冷ややかなものが頭をもたげた。それは氷よりも冷たく、そして心地良い力強さに満ちている。
 そしてウェイデル。彼の半身であるウェイデルの裡からは熱く燃えたつ力があふれ始め……。
「ウェイ、やめろっ!」
 ハッとして叫ぶより早く、ウェイデルは指輪の鎖を引きちぎっていた。
「こんな物が欲しいならくれてやるよっ! 君みたいな子を……好きになっちゃった自分が情けない。
 だけど、もっと情けないのはライガといっしょにされるのが嫌でたまらなくなった僕自身だ……。あんな奴、いなくなればいい……と、願ってしまった僕自身……」
 ライガの鎖も音をたててちぎれた。
「でも、もっと、ずっと、やりきれないのは……こんな、こんな……時でさえ、むこうもそう思ってるって、はっきりわかるって事だ。……許せないのは……それでも、それでも、ヴィー……」
「まだ君が好きだって事だ!」
「ちくしょうっ!」
 二人は同時に指輪をヴィーアの足下に投げつけ……。
 そして……

 気づいた時、ヴィーアの身体はちりと化して風に散り、少年達はそれぞれの指輪を握りしめてあえぎながら大地に横たわっていた。
 覚えているのは互いの裡から恐ろしい圧力となって力が外へとあふれ出し、閃光を発してぶつかり合い、渦巻き……
 ヴィーアはちょうどその二つの力の直中ただなかにいた。引き合い、弾け飛ぶ力の焦点、二つの指輪のかたわらに。
 あふれ出す力に翻弄され、己の身さえも危ういと悟った少年達は本能にうながされるままに這い寄り、指輪を拾いあげた。ライガは赤、ウェイデルは青い宝石のはまった指輪を。




蒼風十年 冴気月 九夜

「夢……?」
 個室ではあるが小さく殺風景な賢者の塔の徒弟部屋のひとつでウェイデルは寝台に身を起こした。知らず、首にさげた指輪を握りしめる。
 冷たい ――
 青く冴えた宝石は体温にあたためられる事もなく冷気を放つ。
「ライガ……どこにいる?」
(君を感じられなくなってもう一年。遠く離れてしまったからじゃあない。僕達に距離は問題にならないはずだ。
 あの時……自分達の犯した罪に気づいた僕らは怖くなって逃げ出した。村から、お互いから……そして、自分自身から。
 だけど、まるで違う方角に進んでいても、いつも君を感じる事ができた。互いの思考を遮蔽しゃへいする方法を覚えはしたけど、感情や苦痛は伝わっていたんだ。なのに……)
 キン !
 ウェイデルの頭の中で何かが鳴った。
「ライガ……?」
 キィィィ ―――― ンン……
 それは金属的で攻撃的。それでいて懐かしいような力強い音だった。
「違う……なんだ?」
 音は高く、低く、うねるように響き、ウェイデルという存在を形作っているゆるやかな結びつきを揺さぶり、震わせる。
「呼んでる?」
 寝台を滑り降りてサンダルに足を突っ込むと粗末な徒弟の貫頭衣をかぶり、麻縄の帯を締める。
 音が彼を導いていた。闇の中、まだ勝手もわからぬ広い建物で迷う事も足をとられる事もなく複雑に曲がりくねった廊下を抜け、狭い階段をくだってゆく。
(ライガ、ひょっとしてこれは君に起こったのと同じ事かい? 僕は君が何か得体の知れない力にひかれていくのを感じた。そして、君が自分の力のほとんどを解放したのを。だけど君が最後に伝えてきたのは、本物の、恐怖。
 ライガ……君は今、僕が怯えているのを感じているだろうか?)
 闇はねっとりとまとわりつくようで、空気は湿っぽく、ほこりとカビの臭いがした。人の気配はない。
 どれだけくだってきたのだろう。いく段もの階段をたどり、いくつもの扉を抜け、とうとう彼は行く手をさえぎる巨大な扉に行き当たった。
 厚く、重く、冷厳でさえある扉。
 そのかたくなに閉ざされた扉の両脇で青銅の小鬼があやしげな紫の炎をあげる金と銀の松明たいまつを掲げている。
 炎のはぜる音も煙も樹脂の臭いもない。ただ、風のない空間にゆらめく炎とそれらのつくりだす陰影の踊りが、太古からの闇を押し返し、調和を歌っている。
「歌だ……」
 ウェイデルは聴いた。声なき歌を。それは調和を、そう、すべてのものの調和を求めていた。高らかに、否応なく。
「なぜ?」
 伝わってくる調べのあまりの切なさ、やりきれなさにウェイデルは問う。なぜ、調和を追求する事がそれほど苦痛となるのか。
 応えはざわめき、さざめき、彼の周りを駆け巡る。しかし、彼にはその意味を汲み取る事はできない。
「わからない……。わからないよ。なぜ?
 しかも、なぜ僕がそれを理解する事がそれほど大切なんだ? 調和とは美しいものだろう? 安定し、人々を幸せへ導くものだ。なのに、ここにあふれている歌は調和を保つ行為が無慈悲で哀しみに満ちているといわんばかり。……どうしてなんだ?」
 思わず張りあげたウェイデルの声が谺し、新たな調べを紡ぎ出す。
『覚悟はいいか?』
「誰だっ?」
 あたりを見回したウェイデルの眼に映じたのは彼方へと続く闇、二匹の小鬼、そして紫の光の中に不可思議な文様を浮きあがらせた大扉。
 光と陰の声なき歌は止み、鼓動とせわしない息づかいの音だけが静寂を破る。
『我らは護り手』
 それは声ではなく思惟しいであり、言葉ではなく認識だった。
「護り手……? 一体なんの?」
『調和/破壊……均衡/滅亡……』
 思考の流れは二つあり、同時にウェイデルの心を打った。それらは矛盾しているとしか思えない概念を伝えており、彼の心を激しくかき乱す。
『覚悟を決めよ……進め……進め……』
 見えない力が混乱したウェイデルの身体を前へと進め、両手が扉に触れる。
 絶叫 ――
 炎が渦巻く。生なきはずの青銅の小鬼達が向きを変え、金と銀との松明から紫の炎をほとばしらせている。それは扉を、ウェイデルを包み込み、のたうち、舐めまわす。
『われらは護り手』
『運命の子よ、進め……進みて、取れ……』
『運命を……取れ……』
 苦痛がひいていった。ウェイデルの身体は炎に包まれてはいるが、燃えてはいない。
 熱気と冷気。恐怖と歓喜。相反する感覚がめくるめく。
『ここだ……我はここだ』
 扉の向こうから呼び声がする。護り手ではない。力強く、高慢で、気高い。それはウェイデルを魅了し、突き動かす。
「僕を通せ。……通すんだっ!」
 ドンッッ!
 音なき音が轟き渡り、扉は跡形もなく吹っ飛んだ。小鬼も、炎も。残されたのは変哲のない石の床と壁。たちこめる闇。
 光 ――
 青白く、冷たい。静かな光が閉ざされていた部屋を満たし、ウェイデルは見た。
 剣を。
 中空に浮かぶ剣を。鋭い剣先をもった左右対称の諸刃の剣身は肉厚で幅広く、鏡のようにきらめき、十字型の柄にはふたつの宝石がはめ込まれている。
 氷河の輝きをもつ青玉と炎の激しさを秘めた紅玉。
「あれは……」
 それはウェイデルとライガの持つ指輪の宝石とそっくりだった。ただ、剣の宝石の方がずっと大きい。ウェイデルは室内へ足を踏み入れた。
 光が響きあう。剣と、指輪と、ウェイデルの裡で。
「力だ……力があふれてくる」
 身体の奥底から、魂の根底から、たぎるような力が湧きあがってくる。
「僕は……あの剣は……この部屋は……一体……」
 石造りの小さな部屋。室内にあるのは宙に浮かぶ剣のみ。光源らしきものはなく、陰のない光が静かに満ちている。
『我はそなたのもの……/そなたは我のもの……』
「誰だっ?」
 またしてもふたつの思惟。いや、ひとつなのか。それはまるで、まるで昔夜せきじつのライガとウェイデルの心のように異質で同じ。
『我は力……』
「剣? ……剣が話しているのか?」
『我はそなた……』
「訳のわからない事ばかり言うのはやめてくれ。おまえは一体なんだ? 剣の姿をした魔物か? それとも……」
『我は宿命さだめ。我は……』
「もう謎かけはたくさんだっ!」
 その言葉の終わらぬ間にウェイデルは中空にあった柄に手をかけた。
「ぅわァァァ ―― っ!」
 絶叫が咽喉のどを突き破らんばかりにほとばしる。
 全世界が彼の周囲で渦巻き、荒れ狂い、知らずウェイデルは剣をしっかりと両手で握りしめ、大上段にふりかぶっていた。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……」
 大渦のような力の奔流がひいていき、剣を下ろしたウェイデルの肩が荒い息づかいとともに上下する。
「それはそなたのものだ」
「……っ! ヴァルデリュード様……」
 いつの間に現れたのか、振り返ったウェイデルの前に杖を手にした賢者ヴァルデリュードがたたずんでいた。
「恐れずともよい。 《 星の淡海あわみ 》 をゆく船上でそなたに出逢った時からこの事を予期しておった」
「このこと?」
「そなたがヴィズルの主人あるじとなる事」
「ヴィズル? ……この剣?」
「そう、その剣は 《 滅ぼすものヴィズル 》 と呼ばれておる。いにしえの時代より伝わりし魔剣」
「魔剣?」
「その剣の柄には氷石と炎石が埋め込まれていよう?」
「この青い石と赤い石が……」
魔力ちから宝石いしじゃ。ふたつの相異なる魔力がせめぎ合い、平常つねにはその魔力は静の状態にある」
「ふたつの、魔力……」
 あえぐようにつぶやいたウェイデルの言葉が、賢者の耳に届いたのか否か?
「じゃが、ひとたびその力の均衡が崩れ去り、あるいはふたつの力を融和させる能力を持つ者が現れた時、ヴィズルは強大な魔力を発揮するという。大海うみを裂き、山を動かす程の」
「大海を裂き、山を動かす……」
 ウェイデルの裡で何かがうごめいた。
 力? そう、それは湧きあがる力の感覚。
 そして幻影 ――
 痩身そうしんだが骨太で筋肉質な体躯の男が、その身すら吹き飛ばされかねぬ強風に長い黒髪をあおられて岬の突端に立ちはだかっていた。複雑な呪文を一心に唱えながらキッと見据えられたその哀しげな眼差しの先には……
 嵐? 否、竜巻!
 轟音をあげ、すべてを吸い尽くし、切り裂いていく巨大な竜巻が迫り来つつあった。
 長い旅路を想わせる旅装束にはまだ生々しい血糊が散り、頭上高く振りあげられた両手には、朱に染まり、静あるもののごとくきらめくヴィズルが……
 その瞬間、ウェイデルの心の眼は男の両手に釘付けになった。左手の中指にはめられているのは、見まがうはずもない、白金の台座に青石をはめ込まれた彼自身の指輪、今は指に合わない為に鎖に通して首にかけている指輪なのだ。
 ではあれは遠いの彼自身なのか?
 だが、男の右手に光る、赤石をはめられた金の指輪は……
「何を観た?」
 幻影が消え、ヴァルデリュードの白く濁った眸が射抜くようにウェイデルの瞳をとらえていた。
「僕自身を……。いいえ、それとも……」
 ウェイデルは胸に右手を滑らせ、上衣の上から指輪を押さえた。それは彼の懐にあってなお冷たく、燃えさかり、あふれ出そうとする彼の魔力を抑制しているはずだった。
「それとも……?」
 ライガ ――
 あれは失われた半身。もう一人の彼の未来の姿だったのだろうか? しかし、ウェイデルには予知の能力ちからなどないはずだった。それとも……
「語りたくなくば語らずともよい。啓示は正しき受け手にのみ意味を持つ。それは必ずしも啓示を受けた者の為に示されるともかぎらぬしな」
「啓示? 今の幻が啓示だったと?」
「儂はおぬしが何を観たのかさえ知らぬのだぞ。ただ、ぬしがその瞳に映るものとは異なるものを観ておったのを感じただけじゃ。
 儂自身も人々が現実と呼ぶものとは異なる世界を観て生きておるのでな」
 人々が現実と呼ぶ世界とは異なるもの。
 賢者ヴァルデリュードはその眸の光を失った時、影を観る能力を授かったという。現在という事象の投げる影。それは永遠の過去と未来とに連なり、決して果てる事がないと言われる。
「ひとつだけ、はっきりと言える事がある」
 ヴァルデリュードの言葉に少年はビクリと身を震わせ、固唾かたずを飲んで次の科白を待ち受けた。
「そなたには滅ぼさねばならぬものがある、という事じゃ」
「滅ぼさねばならぬもの? それは一体?」
「答えはその剣が知っていよう」
「そんな……」
「儂には何も言えぬ。儂にはどの影がこの現実の、いや、今のぬしの影なのか判別する事ができぬのだ」
「この現実? 今の僕の影がわからないってどういう意味です?」
 めしいた賢者は嘆息を漏らし、ゆっくりと首を横に振る。
「おぬしには……いや、経験した事のない誰にもわかるまい。過去が未来と混ざり合い、現在が埋没する無限の影の世界をのぞき見るのがどのようなものなのか」
「……?」
 ウェイデルは老いた魔法使いの苦悩に満ちた表情に気づいた。それは彼に衝撃を与え、言葉を失わせる。
「学ぶがよい」
 老人とは思えぬ素早い身のこなしで背を向けたヴァルデリュードの声は落ち着きと威厳を備えた力強いものだった。
「まずはその不安定な魔力の制御を覚える事じゃ。以前にも言ったがこの賢者の塔でならそれは可能だ。そして、知識は解答を得る手掛かりを与えてくれるやもしれぬ。それを持つ者が知恵を備えておる場合には」
賢者は扉があった場所を抜け、その姿は暗い廊下へと溶け込んでゆく。
「解答?」
 ウェイデルの手の中でヴィズルの柄にはめ込まれたふたつの宝石が妖しくきらめいていた。







Copyright (c) 2006 Minomiya Kazahi All rights reserved.         <<Back  Index  Next>>