オープニング
1 二つの世界
昼食も終え、騒がしくなった教室の中で、少女は一人窓の外を眺めていた。
クラスメイトは各々決まったグループに分かれ楽しく雑談などをしていると言うのに、少女はその輪に入ろうともせず窓の外に広がる世界を見つめている。
いったいその窓からなにが見えると言うのだろう……
都心から離れ高台に位置する高校は、周りが住宅街と言うこともあり、3階からでも見晴らしがよく、今日のように澄み切った天気の日には富士山まで見渡せるほどの絶景であった。
しかし、少女の瞳は遠くに見える富士山を眺めているわけではなさそうである。
それでは、少女の顔を覆い隠すほど伸ばされた髪の毛の奥にある瞳は、いったい何処を見つめているのだろう。
澄み切った青い空とは裏腹に、少女の心は沈んでいるようであった。
まるで明るい高校生活から一人取り残されているように……いや、自ら電気を消してしまっているように、少女の周りは暗い雰囲気に包まれている。
そんな少女が、こうして一人席に座っているのも別段珍しいことではなかった。
別にイジメに遭い無視されていると言うわけではないのだが、少女に話しかけてこようとする生徒は殆どいない。思い出したかのように話しかけてくる生徒もごくたまにいたが、少女の口からはなんの言葉も発せられず、ただ恥ずかしそうに俯いてしまうだけだった。
軽い対人恐怖症とでも言ったらいいのだろうか、少女は自分から人に話しかけたことなど一度もない。周りもそんな少女の姿を見て「暗い子」と言うレッテルを貼り、大半の生徒は、少女が存在していることすら忘れているようであった。
その暗さを強調するように、少女はいつも下を向き、髪の毛も余りとかさず前髪で瞳を覆い隠している。その全てが少女の自信のなさの表れなのかも知れない。この全体から醸し出す雰囲気が、クラスメイトを遠ざける原因になっていることに少女も気付いているのだが、自分ではどうすることもできなかった。
少女自身このままではいけないと思っている。大切な学生生活をこのまま閉ざしていてはいけない、もっと楽しまなくてはいけないと感じている反面、これはこれでいいと考えているところもあった。
こうして一人でいれば自分の好きなことができる。誰にも邪魔されず、僅かな時間であるが、彼を見つめていることができるのだから……
そう。少女は、漠然と外を眺めているのではなかった。視線は、ごくたまに教室の中へ注がれ、その先には常に一人の男子生徒の姿があった。
これだけ瞳を髪の毛で隠しているというのに、少女は何故外を見ているふりをしているのだろう。しかも、男子生徒を見ている時間よりも、外を見ている時間の方が格段に長い。それはまるで、長く見つめていることを禁じられているように、視線はほんの僅か男子生徒を捕らえたかと思うと直ぐに窓の外へと戻されてしまうのだった。
しかし、これが少女にできる精一杯のこと……この一時があるからこそ学校に来ていると言ってもよかった。
殆どの休み時間を少女はこのようにして過ごしている。誰と話す訳でもなく、ただ一人窓の外と中の世界を瞳だけが行き来する時間を……
しかし、少女が男子生徒のことを見つめていたとしても、覆い隠された瞳と少女の存在感のなさから、見つめていることに気付く生徒は一人もいないだろう。そうとわかっていながらも少女は同じことを繰り返すだけだった。
できることなら彼と話してみたい。それができないのなら視線を止めて見つめていたい……しかし、それは儚い夢でしかなかった。少女のガラスのハートがそれを許してくれないのだから……だが、これだけは言える。ほんの僅かな時間であっても、彼を見つめていられる一時が、少女にとって幸せな時間だと……
そんな少女の切ない気持ちに気付く者などいるわけもなく、クラスメイトは楽しい学校生活を満喫しているのだった。
* * *
遠く離れたこの学校にも少女の苦悩など知らず、日々の学校生活を楽しんでいる生徒がいた。
これからの人生に、その少女が大きく関わってくることなど知りもしないで……
しかし、ここはいったいどこなのだろう。白を基調にした教室は、近代的で空間もゆったりと作られており、とても人間が作り出した学校には見えない。
教師がよく見えるよう階段状に設置されている机は、教壇を中心として扇形に広がり、教壇の後ろには巨大スクリーンが埋め込まれていた。
そのスクリーンには、幾何学的な図形が表示され、その横に文字がどんどん映し出されていく。しかし、教師はキーボードなど手にしていないのに言葉がどんどんスクリーンに打ち込まれていく。どうやら、耳に付けられた小型マイクが言葉を拾っているようだった。しかも、重要な部分だけがピックアップされ変換されている。
そして、それらは生徒達の机の上に乗っているバレーボール大のクリスタルに全く同じものが映し出されていた。どのような仕掛けになっているのかわからないが、どうやらこのクリスタルボールはパソコンのようで、同じ画面が映し出されていることから、ネットワークが組まれている様子だった。更に生徒達はゴルフボール大のクリスタルを光のケーブルで繋げ、クリスタルに映し出されるデータをそっくりそのままダウンロードしていく。
そんな近代的と言うか不思議な設備とは裏腹に、教師と生徒達の机の上には特大サイズの分厚い辞書のような教科書が開かれていた。皆何代にも渡って使われているのか、本は古めかしく、装丁も革張りで重厚さを醸し出している。
だが、不思議なのはそれだけではない。一瞥しただけで生徒達が着ている服装がおかしいことがわかる。
別段、突拍子もない格好をしているわけではないのだが極端に色が少なく、黒と白の二色しか使われていないのだ。ほぼ半数が白いベールのような衣装を身にまとい、もう半数は黒い皮の衣装を身につけている。
これが、この学校の制服なのだろうか……しかし、これが制服と言うのも変な気がする。かといって、私服と言う感じでもない。
仮に制服だとして、どのようにして分けられているのかがわからない。色によって男女が分かれているわけでもなく、男女共に好き勝手な色を着ているようで、一見しただけではその法則を見極めることができなかった。
そもそも、白黒に分けられている衣装も一人一人形が違うので、制服という考えも否定されてしまう。ただ、一つだけ統一されている物と言えば、背中に小さな翼が付いていることだろうか、黒い衣装を着ている生徒たちには、コウモリのような尖った翼があり、白い衣装を着ている生徒たちには、白い鳥の羽根でできた翼が付いている。しかも、白い衣装を着ている生徒の頭の上には、光り輝く光輪が浮いているではないか。
それはまさに天使の格好だった。まさか生徒全員がなんらかのコスプレをして授業に出ているとでも言うのだろうか……いや、生徒だけではない。教師も、黒い衣装を着て、背中には生徒達よりも大きな翼が付いている。
疑問はそれだけではない。最大の疑問が、今進められている授業にあった。『魔力』だの『ペンタクル』などと言う意味不明の単語が混ざっているのだ。
そんな訳のわからない授業を生徒達は、教師の言葉を一字一句聞き逃すまいと真剣な表情で耳を傾けているのだった。
教師の声しか聞こえないおごそかな雰囲気の中にその少女はいた。いくらまじめな生徒を揃えようとクラスに一人は、その流れについて行けない生徒が出てしまうのは仕方のないことだ。少女はその典型例と言っていいだろう。
少女は、真ん中の一番後ろの席で、気持ちよさそうな寝息を立てていた。一応寝ている姿を隠すように本を立て、教師から見えないようにしているので、まだ教師には見つかっていない様子だ。いや、教師が無視をしているのだろうか……
「ううぅ〜ん……スゥスゥ……」
授業を聞かず、小さな寝息を立てている姿がなんとも可愛らしい。真っ赤なルージュを塗った唇が印象的だが、その幼い顔には全く似合っていない。
教師は、そんな少女を気にもせず淡々と授業を進めていた。
話をしながら教卓に戻ると一枚の鏡を取り、生徒に見えるように高々とかざす。そう言えば生徒達の机の上にも、彫刻が施された古めかしい鏡が置かれていた。その全てがなんらかの価値がありそうな代物ばかりである。
そして、一際大きい教師の声が教室内に響き渡った。
「それでは、もうすぐ下界時間『13日の金曜日、午前0時』になります。いいですか、皆さんが持っている本『人間が悪魔を呼び出すための愚かな呪文』にも書かれているように、もっとも単純な悪魔の呼び出し方です……そもそも、この『合わせ鏡の召還法』は、下界歴で1000年前。悪戯好きの悪魔が、冗談で出て行ったのが始まりになっています……確かに鏡が合わさるのと星の位置によって微量の魔力が発生しますが、こんな微弱な力に吸い込まれるような愚か者は、この天界では一人も出ていません。一年生の時に習う防御法で完全にシャットアウトできるからです……しかし、そのお調子者のおかげで人間達は、この方法で悪魔が呼び出せるのではないかと今でも思っている者は少なくありません。それでは、今日の授業は鏡の向こう側が、どんな状況になっているか観察してみます……皆さん、ちゃんとガードをしていれば鏡の中に落ちることはありませんよ。触っても問題ありません……手を入れてもあなた達5年生には危険はないでしょう。もし、繋がった鏡の側に人間がいたら脅かしてはいけません。人間は弱い心しか持ち合わせていないので、ちょっとした悪戯のつもりが死にいたってしまうかも知れませんからね……以上の注意を良く守って下さい……さぁ、もう少しですよ。ゲートは前後20秒間しか開いていません……よく観察するように」
教師の話が終わると一斉に鏡が変化を見せ始めた。
今まで、生徒達の顔を映し出していた鏡の中心から渦を巻くように黒いシミが広がっていくと数秒で鏡を埋め尽くす。
黒いシミの渦が鏡を埋めると今度は渦の中心が広がっていき、中からぼやけた映像が映し出される。そして、ピントが徐々にあっていくと、そこには教室とは違う別の世界が映し出されているのだった。生徒達の鏡に映し出されている映像が全て違うのは、繋がった場所が違うことを意味しているのだろう。
鏡の変化に、生徒達が集中した時……
ドサッ
本が落ちる音が教室内に鳴り響いた。
「先生。──ちゃんが、鏡に吸い込まれてしまいましたわ」
寝ていた少女の隣に座っていた白いベールを身にまとった可愛らしい女生徒が、冷静に状況を報告する。しかし、全く慌てた様子はない、それは教師も同じであった。
「はぁ〜……またですか、全くしょうがない子ですね。居眠りでもしていたのでしょう……別に下界に危険はありません。そんな愚か者は放っておいて、授業を続けますよ……さぁ、鏡の中はどうなりましたか…………」
そう言って、鏡に吸い込まれた少女のことなど気にもせず、教師は授業を続けるのだった。
* * *
少女は誰もいなくなった教室に一人残って、先程と同じように外を眺めていた。
その先にはやはり、あの男子生徒がいる。
視線は常にグランド脇でピッチング練習をしている男子生徒に注がれているのだが、先程と違い視線をそらそうとはしない。
少女は、こうして思う存分彼を見つめていられる放課後が好きだった。
誰もいない教室で見ているのなら、少女が彼を見つめていることを気が付かれる心配はない。
──いつもこうならいいのに……
今日は色々ついていた。こうして教室に残れたのも運が良かっただけで、いつもこんなにうまく行くわけではなかった。
なにをする訳でもなく一人教室に残るのは、少女にとって大変なことだ。もし、こうして一人でいるところを見つかってしまって、もし、男子生徒のことを見ていたことがばれてしまったら彼に迷惑が掛かってしまう。そうなったら、もう学校になど来られない。見つかったら二度と会えなくなってしまうので、細心の注意を払わなくてはならないのだ。
この一時を守るために……
こうして誰にも見つからないようタイミングを見計らっているので、放課後の練習を見るのは、一ヶ月ぶりくらいになるだろう。
しかし、少女は練習も終わっていないというのに、鞄を持つと席を立った。本当は最後まで練習を見ていたい。でも、彼と同じ時間に帰って、もし、誰かに疑われでもしたらいけないので、練習が終わる前に帰るようにしているのだ。
──さようなら……今日もありがとう……
心の中でそう呟くと少女は小さな幸せを胸に教室を後にするのだった。
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