白木忠彦は部屋の前でノックをした。部屋の中からは返事がなかったが、白木はゆっくりとドアのノブを回し部屋の中に入っていった。
「失礼します」
一礼して部屋の中に足を踏み入れた。
「会長、そろそろお時間です」
白木は部屋の中の主に淡々とした口調で言った。
「今はそれどころではない」
黒檀で造られた机に肘を付き、頭をかいていた壮年の男性がくたびれたように言う。
「ですが、すでに重役連は皆お揃いです」
白木は事務的な口調を崩さない。
「それどころじゃないといっているんだ!」
イラついたように会長と呼ばれた男が声を荒げた。
「いや、すまん・・・君に当たってもしょうがなかったな」
しかし、すぐに意気沈鐘したように詫びた。
「いえ、会長の心中お察しします。ですが、早坂グループ数社にとっては、今日の会議は重要な意味を持ちます」
「分かっているよ、白木君。自宅の方は?」
早坂財団の会長、早坂勇人は立ち上がった。
「はい。まだ警察には連絡しておりませんが、山岸君が奥様の傍に仕えております。それと秋絵様の学校にもSPを増員いたしました」
「そうか、犯人からの連絡はまだないんだな」
「はい、今のところは」
白木が言う。それに対し早坂は背広をはおいながら深い溜息を付いた。
「くれぐれも警察にはまだ知らせるんじゃないぞ。雪絵の身にもしものことがあってはならんからな」
「心得ています」
白木は恭しく頭を下げた。
事件は数時間前に起きた。
早坂財団の令嬢早坂雪絵が、何者かに拉致されてしまったのである。
雪絵の通う中学校のピアノコンクールに参加していた帰り道、早坂家お抱え運転手星野の運転する車で帰宅途中、二人組みの男に襲われ、運転手の星野は車の中で縛られ、雪絵だけが拉致されたのである。
そしてそのすぐ後、早坂の携帯電話と自宅の固定電話にほぼ同時に犯人から連絡があった。
「娘は預かった。身代金十億円要求する。娘が大事なら警察には連絡するな。また後で連絡する」
とだけ言ってきたのである。
最初は冗談かと思った。しかし、念には念を入れて、早坂は秘書の白木に確認を急がせた。
早坂には二人の娘がいた。長女の秋絵は高校二年生でこの日は学校にいるはずだった。そして次女中学二年生の雪絵はピアノコンクールに行っていた。
白木が確認しようとしたとき、白木の携帯電話に、星野から連絡があった。
ひどく慌てた様子で、自分たちが襲われ、雪絵が何者かに連れ去られたことを告げたのである。
そして自宅の方でも、学校にいるはずの秋絵の安否は確認され、雪絵と共に自宅に戻るはずだった星野は、たった一人だけ戻ってきたのである。
その後、犯人からの連絡はまだなかった。