──"こよひ逢ふ人みなうつくしき"とは、つくづく良く詠んだものだと思う。 ひらひらと散り落ちてくる数えきれない花びらを見上げながら、わたしはそんな事を取り留めもなく考えていた。 そう広くはない境内に、数本の桜の木が植えられている。盛りを僅かに過ぎた満開の桜は、まだ肌寒い夜風に吹かれて、止めどもなくその花弁を降らせていた。綺麗に掃除はしたのだが、明日になればまた石畳は淡紅色の絨毯に敷きつめられているだろう。そう簡単に予測出来るほど、それは見事な桜吹雪だった。 参拝の時間はもう終わっている。大勢で花見をするには些か狭い場所でもあり、宵の訪れる頃には既に人けは無くなっていた。神域に特有の清浄な静けさだけが、わたし一人が佇むこの境内を満たしている。 ──静かだ。 ふ、と何気なく伸ばした掌に、はらりと一枚の花びらが舞い下りる。 仄かに香る薄紅。ほんのりと色づいた輪郭は、優美な曲線を描いている。一ひらでもこれほど美しいものが無数に集まって、あの艶やかな桜を咲かせているのだと思うと、不思議な感動に打たれずにはいられなかった。 「……綺麗」 朧にかかった月を背景にして、華やかに風を舞う桜の姿が浮かび上がる。濃紺に映える色は、幽玄な舞台の書き割りのようだった。 儚さのうちに情熱を秘め、可憐に咲きながら奔放に散りゆく桜花の姿。魔術師として論理と真理の探究を重んじ、また普段の生活習慣も欧州のそれに近いわたしには、こうしたものに心を寄せる日本人的な情緒は、残念ながらあまり存在しない。アーチャー辺りに言わせれば、味気なく可愛げも無い性格という事になるのだろうが──そんなわたしでも、春の桜に惹かれた古人の心がふと思い起こされるような、そんな美しい月夜だった。 ──こよひ逢うひと、みな美しき。 「……さむ」 時を忘れて花吹雪の中に立ち尽くしていたわたしは、いつの間にかすっかりと温度を失った指先の冷たさで我に返った。まったく、花に見とれて無為に時間を過ごすなど、随分と似合わないことをしたものだ。 まあ、そんな話を言い出すならば、そもそもわたしが神社で巫女を務めていること自体が究極に似合わない事のような気がする。ここでの庶務の手伝いをアーチャーに申しつけた時、彼は暫く返事さえしないで、呆然とわたしをただ見つめていたのだっけ。 『─────それは何の冗談だ。マスター』 やっと口を開いたかと思ったら、開口一番これだ。まったくマスターに対する礼儀作法がなってないサーヴァントである。仕方ないので、地脈に拠点を置くことの重要性やその擬装方法、ついでに遠坂家の財政状況と、税制における宗教法人の利点を説明してやったところで、アーチャーは頭を抱えながら『もういい分かった。皆まで言うな』とか何とか、とても素直に(だと思う。多分)わたしの申し出を受け入れてくれたのだった。 最も、この神社の管理を任せている者が、所用で不在になる間の数週間だけの肩代わりである。人手が足りない時はセイバーにも手伝って貰っているが、流石にわたしも、学生と魔術師と巫女の三足のわらじを続けるのはちょっと厳しい。 「巫女、かぁ」 初めてこの装束を着て、アーチャーの前に現れた時の事を思い出す。彼は実に珍しいものを見つけたかのように、まじまじとわたしを上から下まで眺めると、 『いや、意外だな。君の和装姿と言うのは正直想像も出来なかったが、ふむ。黙っていれば、立ち居振る舞いだけは十分楚々たる巫女に見えなくも無い』 と、微妙に失礼な発言をかましてくれたのだった。彼の皮肉は想定済みだったので、ふん、と唇をつり上げて言い返す。 『あら、そんなの当然じゃないアーチャー。貴方だって魔術を扱う者なら分かるでしょう? 魔術師にとって、自己暗示は魔術を体現させる為に無くてはならない要素よ。呪文や礼装によって自分に暗示をかけ、魔力を高めて魔術を成すの。わたしにとっては、この服もそれと同じことよ』 『成るほど、了解した。つまりその装束を纏った瞬間、君は神に仕える「巫女」としての暗示に入るのだな。装束は今の君にとって、一種の魔術礼装と言う訳か。 ふむ、我が主は魔術師としては優秀だ。なに、安心するがいい。臨時の務めであるとは言え、見てくれだけなら幾らでも客の目を誤魔化せよう』 『……っ! アンタってほんと、いっつも一言多いんだからーっ!』 ──結局、爆発してしまったのはまあ仕方がない事と思っておこう。アーチャーは、わたしをからかって遊ぶのを至上の楽しみとしている節がある。つくづく始末に負えない男だ。 取り分け手に負えないのは、そうやって怒ったわたしをにやにやと眺めながら、ふと唇を優しく緩め、伸ばした掌でそっとこちらの頬に触れる時の表情だったりするのだけど──これは絶対彼には秘密。知られたら最後、どんなにバカにされるか知れたもんじゃない。 はあ、と溜息をつくと、わたしは踵を返して拝殿の方に足を向ける。 最後に一度、背中越しに桜を見上げると、月光に縁取られた花影が、わたしを包むように柔らかく夜風に揺れていた。 拝殿の扉を開く。宵闇に慣れた瞳孔は室内の明るさに耐え切れず、思わずぎゅっと瞼を細めた。滲んだ涙を手で擦ってから、もう一度ゆっくりと目を開くと、奥の方で何やらごそごそと身動きするものの気配がある。 何の気無しにそちらに視線をやって、 ──固まった。 そこに居たのは、こちらに背を向けたままのアーチャーだった。それは当然の話で、別にわたしが固まる理由は何も無い。代わりにランサーとかが居たらびっくりしたかも知れないけれど。 問題はアーチャーではない。いやアーチャーが問題だと言うべきなんだろうか。ダメだ頭が混乱している。ふるふるとかぶりを振って、変な風に滲んだ熱を追い出した。 その、要するに、彼は。 赤の狩衣を脱ぎかけていて、──諸肌はだけた姿なのだった。 「あ、う──」 いや、アーチャーの肌を見た事が無いとは言わない。と言うか、うん、その……それなりに見てはいる、と思う。でもいつもはもっと明かりを落とした場所で、それなりに心構えも出来てからの話で、こんなこうこうと灯った蛍光灯の下でいきなり前触れもなくそんな恰好っていくらなんでも反則じゃない───! 「うう、う」 また、狩衣というのが良くない。上背があり、体格の優れたアーチャーの和装姿は、悔しいけど本当に良く似合っていて、参拝に来た若い女の子たちが見とれていたり、口コミで女性の参拝が一気に増えたりしてるくらいだ。ただでさえそうなのに、少し着崩して褐色の肌が覗いた恰好は、妙な色気があってぞくっと来るほど艶かしい。張り出した肩先は、明るい所で見ると筋肉がはっきりと浮かび出ていて、彼の持つ力強さを否応なしに感じさせた。 ──どうしよう。 動けない。こちらを振り向くことの無いまま、狩衣を脱ごうとしているアーチャーの素肌に、目線が縫い止められてしまったかのよう。 「─────」 さっき桜に見入られた時に、何か変な暗示でも自分にかけてしまったのだろうか。そう言えばわたしが無意識に口ずさんでいた和歌は、どんな文句だったっけ……? ああ、あれは確か── ──こよひ逢うひと みな 美しき── だから、彼はあんなに綺麗で、わたしは目が離せなくなる── 「──で、いつまで其処で覗いているつもりだね。マスター」 「え……?」 呆れたような声に顔を上げると、視界の中が一面赤に染まっていた。びっくりして面を跳ね越せば、そこには眉をひそめてわたしを見下ろすアーチャーの姿がある。肌蹴た狩衣を気に留める様子も無く、軽く羽織りなおしただけの恰好──って、ち、ちょっと待っていつの間に──────っっ!? 「きゃああああああっっ!?」 「な、凛───!」 状況を理解した途端、反射的に飛びさすって逃げようとしたわたしを、慌ててアーチャーの腕が引き止める。そのまま後ろに飛んでいたら、入り口の段差に蹴つまずいて引っ繰り返っていただろうから、有り難くはあるんだけど──そのあったかい体温が手首にじわりと伝わってきて、わたしは益々落ちつかなくなってしまう。 「う、うう……」 試しにじたばたと手を振ってみるが、勿論アーチャーは離してくれない。暴れた所為でバランスを失いかけていたわたしの体を軽々と引き寄せると、逆の手を伸ばし、半開きだった拝殿の扉を器用に閉めた。すぐ背中で扉の閉まる音が聞こえ、どきんと心臓が跳ねるのが分かる。 わたしが黙り込むと、アーチャーはやっと手首を解放してくれた。彼が嘆息するのを感じ、照れ隠しもあって、わたしは思わず彼に勢い良く噛みついてしまう。 「な、なんでアンタいきなり脱いでるのよ──!? セクハラよセクハラ! 乙女になんてもの見せるのよっ!!」 「そう言われてもな。そもそも、私と共に着替えるのは嫌だと言ったのは君だろう? だから君に社務所を譲り渡したのでは無かったかね」 「う」 そうだ。この神社は、遠坂家の税金対さ──もとい、霊脈の監視所として設置しているだけなので規模が小さく、社務所と拝殿、本殿以外の設備を置く余裕が無い。流石に着替え姿をアーチャーに見られたくはないので、わたしが社務所を使い、彼には拝殿での着替えをお願いしたのだ。 わたしがむむうと口を噤んでいると、アーチャーははあ、と再び溜息をついて肩を竦めた。 「まったく。今更着替え如きで羞じる理由も無かろうに」 「……ほんっと、アンタって乙女心のわかんない奴ね」 身支度を男に見られて平気な女がいるものか。まして遠坂家の家訓は『いかなる時も優雅たれ』。ちゃんと整えた姿しか、相手には見せたくないのは当然というものだろう。だけどそんな繊細な乙女心はアーチャーにはまったく通じなかったらしく、 「乙女らしく扱って欲しいのなら、男の着替えを覗くような真似は止めるのだな。どちらがセクハラなのだか」 なんてぬかしてくれちゃうのだ。 「べ、別に覗いてたわけじゃないわよ! ちょっとびっくりして、動けなくなっちゃっただけなんだからっ」 「驚く必要は無いだろう。大体、君は私の肌など見慣れているだろう?」 にやり、と実に底意地悪そうな笑みを浮かべるアーチャー。うう、コイツ絶対楽しんでる──! 「そういう問題じゃないわよ! 大体アンタ、少しは恥ずかしいとか思わないの?」 頭ひとつ分以上も身長差のある彼の圧迫感に負けないよう、瞳に力を込めて睨み上げる。彼は首を傾げ、僅かに不思議そうな顔をした後で、 「まあ、見られて困るようなものではないからな」 ──なんだか酷く自信満々にそう言い切ってくれたのだった。 |