はぁ、はぁ……

 宵闇にせき立てられるように、鬱蒼と繁った暗い森の中を、枝葉をかき分けて走る二つの影があった。
 梢を揺らす不穏なざわめきは、決して夜風がもたらすだけのものではない。耳に届く呼び声は、夜行性の獣が上げる警戒の唸りだけではない。
 森を騒がせるのは大勢の人間の気配であり、夜に谺するのは逃亡者を誰何する追手の声だ。
 手を取り合い、足をもつらせながら走る二人の背後には、ぼんやりと灯る幾つもの松明の明かりがある。それは徐々にではあるが、二人を追って距離を詰めてきているのが、はっきりと感じられる。

 はぁ……はぁ、はぁ……

「きゃ……っ!」
「姫様!」

 前を行く者に手を引かれながら走っていた後ろの影が、足元に突き出ていた太い根につまずいて、勢い良くその場に倒れ込んだ。咄嗟に振り向いた先導者は、地面に倒れた相手を恭しく抱き起こす。
 強い意志を帯びて輝く緋色の瞳が、その瞬間、すうっと厳しく細められた。
 指先が、腰に携えた一振りの剣の柄を求めて、そこにしっかりと添えられる。腰を低く落とし、構えの姿勢を取る相手に、助け起こされた少女は不安そうに身じろぎをしてその名を口にした。

「レイティア……?」
「姫様。どうか、お静かに」

 レイティアと呼ばれた女性は、短くそれだけ答えて、鋭く周囲を見回す。
 ──何か、いる。
 背後にもう一人の少女を庇うようにして、警戒を強めるレイティアの五感が、直ぐ傍に迫った危機をはっきりと告げている。
 四方八方から押し寄せてくる、言葉無き殺意。それが誰に向けられたものか、問いただすまでも無い。
 この場に、獲物となるべき対象は、自分たち二人しか存在しない───

            ざん、と梢を割る音が聞こえた。

 一体いつから囲まれていたのか。
 爛々と闇に浮かぶ無数の瞳。その数を見ただけで、逃げ場など無い事は容易に知れた。道行きを急ぐ事に必死になっていて、この森に潜む凶暴な獣の事を失念していた己が迂闊を、レイティアは歯噛みしつつ後悔する。
 低い唸り声を上げて、最初の一歩を踏み出した巨大な獣が、二人の元に近づいてきた。
 血と生肉の臭いをはらんだ熱い息が間近にかかり、身を引き締めるレイティアの後ろで、庇われた少女がひ、と小さく悲鳴を上げる。
 全身を覆う漆黒の剛毛と、口許から覗く二本の牙。身の丈はレイティアのそれにも匹敵する巨躯を見て、怯えない人間などこの世にいまい。

「キラー、タイガー……」

 それは、このティローナ王国──否、つい先日までは確かにそう呼ばれていたこの一帯で、最も凶暴と恐れられるキラータイガーの群れだった。
 こうこうと輝く獣の瞳が、身を寄せ合う二人の姿を鮮やかに剥く。

「─────」

 無言で剣を構えるレイティアの姿態は、その凛とした声色と同様に、清廉で凛々しいものだった。
 しなやかな四肢と、炎のように燃える緋色の瞳。長い紫暗の髪は、剣を駆る時に邪魔にならないよう束ねられ、そこに結わえられた黒いリボンが、唯一彼女の女性らしさを物語っている。

「いけません、レイティア。貴女だけでも逃げて……!」

 背後から声を振り絞る少女は、この場にいるのが間違いのように、高貴な美貌を湛えている。
 澄み切った湖を思わせる青い瞳は、しかし、今は恐怖に震えてさざ波を立てているようだった。豪奢な金髪は乱れ、その身にまとったドレスも、暗闇の逃避行でぼろぼろに傷ついている。

「レイティア……っ!」
「御心配なく、姫様。貴女に捧げたこの剣に、どうか御心を預けて下さいますよう」

 レイティアの声は緊迫しているが、そこに焦りの色は無い。
 きん、と鍔を弾く清涼な音が、透明な水面を割る雫の響きで、森の中に谺する。
   
 一瞬の静寂を置いて。

 ぉおおおおおおおおおん!!

「はぁぁぁぁ───っ!」

 吠え声と共に一斉に飛び掛かってきた獣の群れを、白い閃光が両断した。
 レイティアの数倍もある巨体は、軽々と彼女の振るった剣に撥ね飛ばされ、もんどり打って地面に叩きつけられる。
 それは、観客がこの場にいない事が惜しまれるほどの見事な剣戟だった。
 ──その間、僅か数瞬。二人を取り囲んでいた獣の群れは、またたく間に物言わぬ屍の山と化した。

「さあ、姫様。この森を抜ければ、国境は目の前です。急ぎましょう」
「え……ええ。分かりました」

 血と脂に濡れた剣を一振りして汚れを払うと、レイティアは背後にへたり込んだ少女の手を引いて、再び夜の森を走り出す。

「はぁ……はぁ、はぁ……」
「姫様、足元に気をつけて下さいませ」

 ざくざくと朽木を踏みしめ、闇の中を疾走する。
 その道の果てに、薄く光が差し始めたのに気づいたのはいつだっただろう。出口を示す明かりの存在を目にして、レイティアの表情に生気が戻る。

「もうすぐです。姫様──」

 だが、その言葉は途中で押しつぶされるように消えた。

「残念ながら、ここまでですな。お二人とも」

 ざ、と飛びすさり、剣の柄に手をかけるレイティア。だが声の主は、落ちつきはらった様子で後を続ける。

「長年の経験から言って、正規の手段ならざる手で国境を越えようとする者は、必ずこの森を通るのですよ。まあ、その殆どはアレに食われてしまう訳ですがね。
 アレも貴女の剣の敵では無かったという事ですか。流石ですね、聖騎士レイティア殿」
「貴様、帝国の手のものか──!」
「滅相もございません。私はしがない一商人ですよ。
 グゴールと申します。どうぞお見知り置きを」

 黒衣を纏ったその男は、慇懃無礼に深々と頭を下げる。
 そして、レイティアの背後に隠れた少女の姿を目に止めると、わざとらしく驚きの声を立てた。

「おや、そちらにおられるのは、もしやエルタナシア・ティローナ皇女殿下ではございませんか?
 ティローナ王国が帝国に攻め落とされた後、お姿が見つからないとの事で、このグゴールも大層心を痛めておりましたが、息災でいらっしゃったとは。
 これはこれは。御無事で何よりでございます、エルタナシア姫様」
「わ、わたくしは……」

 その名を言い当てられて、エルタナシアの顔から血の気が引いた。
 小刻みに震えるエルタナシアを庇って、レイティアがすらりと剣を抜き放つ。

「そこを退け。さもなくば、斬り捨てるまで──!」
「ああ、やめた方が良いですよレイティア殿。
 ご存じの通り、帝国の侵攻が始まって以来というもの、この辺りも物騒になりましてね。私のような商人は、買い付けに出る時でも必ず護衛を雇っているのです。
 キラータイガーの群れと戦った後で、更にエルタナシア姫を守りながらとあっては、如何にその名も高い聖騎士レイティア殿とは言え、到底かないますまい」
「くっ……!」

 図星を突かれて、レイティアが低くうめく。
 彼の言葉通り、グゴールの後ろには、抜き身の剣を下げた屈強な男たちが、行く手を塞ぐようにずらりと並んでいる。その数、亡きティローナ王国で、レイティア自身が率いていたエルタナシアの親衛隊、一小隊ほどに匹敵するだろう。
 レイティア一人ならば、この場を逃げ切るだけなら五分五分の勝算はある。だが、エルタナシアを守りながらとなれば、事態はもはや絶望的だ。
 そう悟って、レイティアは覚悟を決める。

「姫様。私がこの場を食い止めます。
 どうか姫様は、その間にお逃げ下さいませ。国境を越えれば、親交国ヴィレニアです。そこまで辿りつけば、帝国の追手も簡単に手出しは出来ないでしょう」
「いけません、レイティア! 貴女を置いてなど、行ける訳が無いでしょう!」
「どうか私の言う事をお聞き下さい。姫様さえ御無事であれば、いつの日かティローナ王国の再興が叶う日もありましょう。
 亡き国王殿下や、后妃殿下の為にも、どうか──」
「……いいえ。もはやこうなっては、ティローナの再興は望めないでしょう。それくらいはわたくしにも分かります。
 ならば、せめて貴女だけでもお逃げなさい。貴女ほどの腕があれば、どの国でも仕官の道はあるはずです」
「なりません、姫様……っ!」
「なんとおいたわしい。諸国随一の美姫と謳われたエルタナシア姫と、近隣に名高い勇壮な聖騎士レイティア殿は、そのお姿だけではなく、お心もまた美しいのですな」
「貴様、姫様を愚弄するか──っ!」
「おっと、それ以上大声を上げない方が宜しい。
 間もなく、帝国の追手がこちらに追いついてくるでしょう。レイティア殿がキラータイガーの群れを倒したお蔭で、障害は何も無くなったのですから。
 下手に声を立てれば、直ぐに追いつかれて捕らえられますぞ」

 グゴールの言葉に嘘は無い。
 背後から波のように迫るざわめきは、段々とその明瞭さを増してくる。
 そこに二人の名を呼ぶ声を確かに聞いて、エルタナシアは悲しげに瞳を伏せ、レイティアは悔しさに顔を歪めた。
 動揺に言葉を失う二人の前で、グゴールの薄い唇に、じわりと笑みが浮かび上がる。

「ここに居ては帝国の手に落ちるのは時間の問題。
 ならばお二方とも、このグゴールの元に身を隠されては如何ですか? ほとぼりが冷めるまで、お二方の身の安全は保証致しましょう」
「ふざけるな! 貴様の言葉など、信じられるものか!」

 声を荒らげるレイティアを押し止めて、エルタナシアがグゴールに正面から向かい合う。

「本当に、レイティアを助けて下さるのですか?」
「誓って。ティローナ皇女殿下」
「……分かりました。ならば、わたくしはどうなっても構いません。どうか、レイティアだけでも、助けてあげて下さいませ」
「姫様! こんな男の言うことなど、鵜呑みにしてはなりません!
 私が血路を開きます。だから、どうかその間に逃げて下さい」
「いいえ、レイティア。もう遅いのです」

 エルタナシアの耳にも、帝国の軍勢がすぐ傍まで迫っている気配が、隠しようも無く聞き取れている。
 例えレイティアがグゴールの一味を食い止められた所で、直ぐに帝国の者たちに追いつかれ、多勢に無勢で捕虜とされるのは確実だ。
 そうなれば、未だ反乱の気配が止まない諸国への見せしめとして、名高い騎士だったレイティアは、残虐な拷問の果てに、斬首か磔の刑に処せられるだろう。

「……姫様……」

 エルタナシアの決意が翻らないことを理解して、レイティアが力無く剣を下ろした。

「申し訳ございません。私が至らないばかりに……姫様を、お守り出来ず……」

 そうして、レイティアはグゴールに向き直り、慇懃な微笑を浮かべる男を厳しく睨み付けた。

「……姫様さえ御無事であるなら、この身はどうなっても構わない。
 だから、姫様を……エルタナシア・ティローナ皇女殿下を、どうか救って頂きたい」
「ええ、それは勿論。
 このグゴール、決して約束を違えたりは致しません。お二方の願いを、必ずや聞き届けて差し上げましょう」



 数刻後。
 森の出口にたどり着いた帝国の軍勢が、追い詰めていた筈のティローナとレイティアの姿を発見することは、ついぞ出来なかった。
 炎上するティローナ城から、唯一逃げ延びた二人の痕跡は、国境の手前で忽然と消え失せていた。