作・飛田流
「こ、この荷物で……さ、最後になりますん、で……」
最後の荷物を八階の部屋まで根性で運び終えた俺は、お客へのあいさつもそこそこに部屋を出て、マンションの通路に飛び出した。
「やっと、お……終わった……ぜ」
壁にずらりと並ぶ同じ作りのドアも、フェンスのはるか先に立ち並ぶ高層ビルの群れも、汗でかすむ俺の目には入らねえ。俺は棒のようになった足を無理やり前に進め、階段へと一直線に向かった。
――えっ? マンションなのにエレベーターはないのか、だって?
『ただいま定期検査中です。階段をお使いください』
エレベーターの前に吊された札を恨めしく横目で眺めた俺は、その隣にある階段を下り始めた。
午前中俺は、ずっとこの階段を使って、トラックと八階の往復を気が遠くなるほど繰り返した。このマンションに越してきたお客の荷物を抱えて、な。おかげで膝はがくがくするし、足元はよろめくし、体がまるで言うことを聞かねえ。
「はぁ、はぁ……あぁぁ……」
俺は階段の手すりにつかまりながら、サンドバッグと化した重い体を引きずるようにして、すっ転ばねえように注意深く一段ずつ降りていく。
数十分かけてやっと一階に降り立った俺の目に、でっかい二トントラックの姿が玄関の自動ドア越しに映った。トラックの中にいる先輩に作業の終了を報告しようと、俺が一歩玄関の外に出たとたん、
「ぅあぁぁぁぁぁ、ぢぃぃぃぃぃ……」
脳みそまでゆだっちまいそうな熱気が全身にへばりついた。頭がくらっとして、俺の体から一気に力が抜ける。
「……ぃぃぃっ」
気がつくと、俺はトラックの脇で尻餅をつくように地面にへたり込んでいた。
八月の強烈な日差しに照りつけられたアスファルトは、俺の薄汚れたデニムの尻を容赦なくじりじりと焼いていく。まるで尻が目玉焼きになったみてえだ。
体力も精神力もマジ限界を超えちまった俺がその場から動けずにピンポイントで尻を焼かれていると、先輩で今日の俺のパートナー蓮田馨(はすだかおる)さんが、トラックの荷台からゆっくりと降りてきた。黒いTシャツがぽっちゃりした色白の肌に微妙に食い込んでる。
「大丈夫かい、橘君」
地べたに体育座りをしたままの俺を見て蓮田さんはにっこりと笑いかけた。蓮田さんの人の良さそうな丸顔からは、俺と一緒に午前中ずっと重い荷物を運び続けた疲れなどまったく読み取れねえ。
「関口様への報告は僕がやっておくから、橘君ちょっとトラックの中で休んでなよ」
蓮田さんのその言葉を聞いたとたん、どこにそんな力が残っていたんだってぐれえ、俺は素早く立ち上がった。――あ、「関口様」ってのは、さっき俺が八階の部屋であいさつした新婚夫婦のことな。
「す、すんませんっ」
あわてて蓮田さんに頭を下げた俺は、トラックの助手席にダッシュで駆け込んで、疲れ切った体をすぐさまシートに投げ出した。窓は少し開けておいたものの、男臭さと煙草のにおいがミックスされた暑苦しい臭気が、四方八方からまとわりついてくる。
汗という汗を体から出し尽くして、喉がからからだ。なんでもいいから水分が欲しい。キンキンに冷えたジュースなんて贅沢は言わねえ、公園の水道の生温い水でもいい。とにかくなんか水分を口に入れたかった。
(今日の引越の仕事はちょっとハードになりそうだから、覚悟しててね)
今朝、現場に向かうトラックの中で運転席の蓮田さんからそう聞かされたとき、俺は助手席でガンガンにきかせたクーラーの冷気に当たりながら、ぶっちゃけ軽く聞き流していた。今になって後悔しても仕方ねえけど、蓮田さんの話、ちゃんと聞いとけばよかったよな。
言い訳するわけじゃねえけど、小柄でぽっちゃりとした体型の蓮田さんの口からは、いつも穏やかな言葉しか出ないから、あまり印象に残らねえんだよな。それにそん時の俺は、別のことで頭ん中がぱんぱんに膨らんでたんだ。
(明日は月曜でバイトは休みだから、昼ごろまでゆっくり寝よう。それからアパートを出て、駅前のコンビニATMでまずは給料の振込の確認。午後はしばらく新宿のゲーセンで暇をつぶしてから、牛丼食って、千葉に直行な)
千葉の駅前近くの風俗街に、入浴料・サービス料込みで一万二千円の激安ソープ『田舎娘。』ってのがある。店名はちょっとアレだけど、サイトで確認したら、純朴そうでまあまあ可愛い女の子たちが揃っていた。これなら、どの娘が当たっても、俺の「初体験」の相手としては申し分ない。
そう、俺は十九歳にして童貞だ。大きな声じゃ言えねえけどな。それで、なんで俺がずっと童貞だったか、って話なんだけどさ。
俺は、目つきがよく怖いと言われる。太い眉と二重でぎろりと開いた目が、どうも相手を睨んでいるように見えるらしい。そのうえ、存在をやや主張し過ぎるでかい鼻と、ぼってりとした唇、五分刈りよりはやや伸びた髪形がどこか田舎臭い印象を与えるみてえだ。
高校ん時、つまり去年まで俺は野球部に所属していた。別に野球が好きってわけじゃなかったけど、高校生と言えば野球だし、女にモテるんじゃねえかな、という単純な動機からだ。ところが、そこで俺を待っていたのは丸刈りの規則と、うんざりするような厳しい練習だった。そのおかげでそれなりにがっちりとした筋肉はついたものの、結局三年で引退するまでレギュラーにもなれず、女にモテることもなかった。
十九年間女に縁のねえ人生を送ってきた俺。最後の頼みの綱はもうソープしかねえってなわけで、一か月前大学が夏期休暇に入ってから、“軍資金”稼ぎにこの引越屋でバイトを始めたんだ。
「ううう、あっ、ぢぃぃ……」
腕時計を見る。もうすぐ午後一時だ。暑くて狭っ苦しいトラックの助手席に俺が身を横たえてから、三十分ほどが経つ。
蓮田さん、遅えなあ……。
今すぐにでもトラックのクーラーをガンガンにきかせてえところだが、トラックのキーを持ってるのは蓮田さんだから、蓮田さんが帰ってくるのを待つしかない。マンションの庭の植え込みに立ち並ぶ背の高い木々がトラックに陰を作っているのが、せめてもの救いだ。
助手席のシートからあっちい熱が背中に伝わる。その暑さに耐えきれず、体を横向きにした俺は、べたべたになったシャツをつかんでばたばたと扇いだ。
ちなみに、俺と蓮田さんが着ている黒いTシャツの胸には、白字で「TAKUCHAN」とでっかく書かれている。ほんと、いくらユニフォームとは言え、このだっせえデザインはマジありえねえよな。
その時、運転席側のドアが開き、蓮田さんがいつもののんびりとした笑顔を見せた。
「お待たせ、橘君」
「う、うっす」
俺はだらけていた姿勢をあわてて正し、シートに座り直す。蓮田さんの手には、コンビニの白い袋が下げられている。露が袋と貼りついて、中身のペットボトルが透けて見えていた。たぶん、自分で飲むんだろう。
そっか。コンビニに行けば涼めるし、キンキンに冷えたジュースも飲めたんだよな。蓮田さん、俺も誘ってくれればよかったのに。まさか今から、「俺もコンビニ行ってくるっす」なんて言えねえしなあ。
そんな俺の心も知らず、よいしょ、と運転席に乗り込んだ蓮田さんは穏やかな笑みをたたえたまま、ズボンのポケットから何かを取り出した。
「はい、橘君。関口様の奥様からいただいたよ。お疲れさまって」
さあどうぞ、という手付きで、蓮田さんは笑顔のままそれを俺の目の前に出した。蓮田さんの手にあるのは動物キャラが描かれたガキ向けのポチ袋で、サインペンで「お心付」と書かれていた。「心付」って言葉は知らねえけど、この中にはたぶん金が入っていることぐれえは俺にだってわかる。
「奥様が、それでお弁当でも買ってくださいってさ。中、見てみたら」
「うぉっ、ラッキー!」
奪い取るように蓮田さんからポチ袋を受け取った俺は、「んじゃ、開けるっすね」と蓮田さんに聞いてから、ふたをべりべりとはがした。中に入ってたのは千円札五枚だ。
えーと、やっぱ先輩の蓮田さんのほうが取り分多いよな。となると蓮田さん三千円・俺二千円? いや、蓮田さん四千円・俺千円?
袋から顔を半分出した金をじーっと見つめながら、脳みそをフル回転させている俺の心を見透かしたように、蓮田さんは「それ全部橘君にあげるよ」と、にっこりと笑った。
「マ、マジっすか!」
俺は蓮田さんの気前のよさに、思わず袋ごと札をぐしゃりと握りしめた。
「どうぞどうぞ」と笑顔のまま一つうなずいた蓮田さんはさらに、自分の膝の上に置いていたコンビニの袋から、コーヒーと緑茶のペットボトル二本を取り出した。
「それからこれも。好きなほう選んでよ」
「あ、これもお客さんからっすか?」
「いや、これは僕から。今日で橘君、うちの会社のバイト始めて一か月になるよね。ささやかだけどこれ、僕からのお祝い」
「あ、ありがとうございまっす!」
俺は蓮田さんにぺこりと頭を下げて、コーヒーをありがたく押しいただいた。手のひらに心地いい冷たさが伝わる。
俺は「いただきまっす!」と慌ただしく言ってからペットボトルのふたを開け、コーヒーを一気に半分ほど飲み干した。よく冷えたほろ苦い液体は、砂漠みてえに干上がってた俺の喉を体の中から潤す。蓮田さんはそんな俺を、機嫌のいい顔で眺めている。
とりあえず人心地ついた俺は、ふと頭に浮かんだ疑問を口に出した。
「でも、蓮田さん、なんでこんなに俺に親切にしてくれるんすか」
「社長から言われてるからね。橘君には特別に目を掛けてやれって」
蓮田さんはまたにっこりと笑って、こう続けた。
「新人君にすぐに辞められても困るからね。うちの会社としても」
図星を指された俺は、思わず「うへぇ」と大きく肩をすくめてみせた。蓮田さんはそんな俺を見て、はははと笑い、自分も緑茶のペットボトルのキャップを開けて、ごくごくと中身を一気に半分ほど飲み干した。むっちりとした体型の蓮田さんの緩慢な動作は滑稽にも見え、どこか笑いを誘う。もちろん、本人の前じゃ笑えねえけどな。
ところで「社長」ってのは、俺が今バイトしているこの引越屋の社長のことで、熊みてえなガタイをしたいかついひげ面のおっさんだ。名前は確か「神戸」と書いてカンベと読む、だったか。
緑茶を飲み干した蓮田さんは、空のペットボトルを運転席脇のドリンクホルダーに入れると、
「じゃ、出発するね」
エンジンをかけてトラックを発進させた。喉の乾きもいやされ、俺のまぶたが重くなりかけたその時。
「おーい、『タクチャーン』」
どこからか叫ぶガキの声が届いた。閉じかけたまぶたをまた開いて俺が窓の外を見ると、近くの公園の砂場にいた小学一、二年ぐれえのガキが三人、俺たちに向かって笑顔で手を振っていた。
「『タクチャーン』、バイバーイ」
俺たちが乗ったトラックの銀色の車体に「タクチャン引越センター」とでっかく書かれてるんで、ガキによく冷やかされるんだよな。つられて俺も、笑顔を作ってガキどもに手を振ってやる。
最初はマジありえねえと思っていたこの社名だけど、意外にガキには受けが良く、かつお客には一発で覚えてもらえるらしい。そういや、今日のお客の関口夫妻もそうだったな。
窓の外では、国道沿いの大型電器店や紳士服チェーン店の派手な看板が流れ去る。心地いいトラックの振動と、全身にたまった疲労が俺を一気に眠りに誘った。
あとは、会社に戻るまでの小一時間、蓮田さんに運転を任せて俺は助手席でいねむりでもこいてるか。
うとうととしながら俺は、一か月前のことをぼんやりと思い出していた。
七月のその日も今日みてえに、空に雲一つないピーカンの真夏日だった。
俺は大学の学生課のじいさんから渡された求人票を片手に、陽炎がゆらめく午後の住宅街をただひたすら歩いていた。
汗がデコを伝わって目に入り、俺の視界をぼんやりとにじませる。Tシャツからはみ出した俺の筋肉を、強い日差しがじりじりと灼いた。
炎天下の下、駅から歩き続けて二十分、もうろうとした俺の目に、小さなプレハブの建物が映った。「タクチャン引越センター」と銀色のボディに大きく書かれたトラックが、建物近くの駐車場に一台横付けされている。間違いねえ、この会社だ。
俺は、数日間飲まず食わずで砂漠をさまよい続け、ついにオアシスを見つけた遭難者のように、そのプレハブまでふらふらと吸い寄せられた。だが。
「……タタチャン、て」
玄関の横に立てられている、まんま風俗系の安っぽい看板を見て、俺は呆然と立ちつくした。そこに書かれていた社名は、二番目の「ク」の部分に黒マジックで線が引かれていて、「タ『タ』チャン引越センター」となっていた。誰かのいたずらだろうが、なぜ直さねえのか。
俺はその色褪せた看板にいろいろな意味でヤバい雰囲気を感じたものの、これ以上凶暴に照りつける太陽に身を晒すのはもう限界だった。俺は覚悟を決め、プレハブの玄関の扉に手を掛けた。
「ごめんくださー……ああん?」
引き戸をからからと十センチほど開け、中に一歩入ろうとした俺の頬を、蒸し暑く湿った空気がむわっと撫でた。男たちの汗と体臭を濃縮したきついにおいに、頭がくらっとする。
(うわっ、男くせえっ!)
八畳ほどの広さの事務所にいる男たちは全員、黒いTシャツを着ていた。これってこの引越屋のユニフォームなんだろうか。
「お待たせしましたっ、タクチャン引越センターでございますっ」
静かだった狭い部屋に、突然でかいがなり声が響きわたる。思いっ切り不意を突かれ、俺の心拍数は急上昇した。
「……あ、あのぉ……」
「はいっ、本日はお見積もりのお問い合わせでしょうかっ!」
がっちりとした体格のその若い社員は、俺にではなく、電話に向かって異様にはきはきとした口調で話していた。
どうやらこの会社、典型的な体育会系の社風のようだ。俺も野球部出身だから、体育会系の先輩から受ける理不尽な扱いは骨の髄まで染み込んでいる。
俺は嫌な予感を感じながらも、部屋のいちばん奥に目をやると、太く毛深い腕を分厚い胸の前で組んで、窓際の席に座っている男がいた。そいつがなぜか頭からスポーツ新聞をすっぽりとかぶっているのは、窓から降り注ぐ直射日光を遮るためだろうか。
男は、椅子の背もたれが悲鳴を上げそうなほど後ろにそっくり返り、サンダル履きの短くぶっとい足を机の上にでんと乗せていた。男の足の両脇には、飲みかけのペットボトルや三冊ほどの分厚いファイル、吸殻で満杯の灰皿が積み上がっている。
こいつ、見るからにヤバそうな不良社員だ。だが、こいつのエラそうな態度を誰も注意しねえってことは、こいつは今働いている奴らの上司ってことか。
「……お客様、どうなされましたか」
それまでノートパソコンと向かい合っていた、ぽっちゃりとした体型の兄ちゃんが、手を止めて俺に振り向いた。
見た目俺よりやや年上風のそいつは、ドアの隙間から顔だけ出してる俺を不審に思ったのか、人の良さそうな丸顔に怪訝な表情を浮かべた。
そいつの言葉をきっかけに、社員全員の視線が俺に集まった。丸顔の兄ちゃんを除いてみなゴツい体型の強面で、まるで「その手の事務所」みてえな雰囲気が漂っている。
「あ、あのぅ、俺、お客じゃなくてぇ」
ぶるっちまった俺は声を震わせながらも、覚悟を決めて言葉を続けた。
「俺、橘っていうんすけど、社長の神戸(コウベ)さんいるっすか」
俺の問いに丸顔の兄ちゃんが答えようとした寸前、
「コウベじゃねえ、カンベだ。坊主」
部屋の奥から、少ししゃがれて、どすの効いた野太い男の声がした。思わず、俺の金玉がキュッと上がる。その声がした部屋の奥に目をやると、そこにはスポーツ新聞を頭からかぶってるあの不良社員しかいねえ。
そいつが頭からかぶっていた新聞をよけると、他の社員と同じTシャツを着た、ひげ面で眼光の鋭い四十代ぐれえのおっさんが現れた。おっさんのシャツの下では両胸の乳首がぽっちりと突起し、鍛え上げられた筋肉が布地の下で窮屈そうに盛り上がっている。
短髪にワックスをつけて後ろに流し、ぐるりと口元を囲い込む濃いひげを蓄えたそのおっさんは、手に持った新聞をぐしゃくしゃに丸めると足元のごみ箱にガンと音を立てて投げ捨てた。寝起きなのか、俺が気に食わねえのか、それとももともとの顔の作りがそうなのか、土佐犬みてえにやたら俺にガンをつけてくる。
(こ……このおっさん、マジで怖すぎるって!)
おっさんは椅子の上でそっくり返ったまま、ドアの外から顔だけ出して覗いている「家政婦」ならぬ俺を大きな目でぎろりと睨み付けた。
「おめえ、バイトの面接に来た坊主だな」
「Vシネ」的なおっさんのど迫力に俺は言葉が出ねえまま、じりじりと背中に照りつける太陽の熱と、体中にびっしょりと掻いた嫌な汗を感じていた。
おっさんは机の上に乗せていた太く短い足を下ろして立ち上がると、不機嫌そうな顔のまま、太短い首を小刻みに曲げ、ゴキッ、ゴキッ、と鈍い音を鳴らした。がっしりとした筋肉の割におっさんは意外に背が低く、一七五センチの俺より頭一つ小さい。早く言えば、ずんぐりむっくりとした体型だ。
おっさんは、机の上のファイルの下敷きになった書類を無理やり引っ張り出してさっと目を通すと、
「さっさとこっちゃ来んか、坊主」
にこりともせずに無骨な右手で俺を手招きした。
「はいぃ……」
俺は力なく答え、ぎこちなく玄関の扉を開けてプレハブの中に入る。この時の俺の心境をたとえるなら、さしずめヤクザの抗争に狩り出された「鉄砲玉」ってとこだろうか。
「じゃあ、ここに座れ」
おっさんは、極太マジックペン並みのぶっとい人差し指で、自分の近くにある机の席を指した。
「……うっす」
俺はおっさんに言われるまま、素直にその席に座った。だが、おっさんは俺の背後に立ったまま、なぜか俺と向かい合おうとしない。不思議に思った俺が振り返ろうとした寸前、
「ええっ?」
いきなり背中から胸に掛けて、シャツの上から俺の体をべたべたと撫で回し始めた!
「う、ひぃぃぃっ!!」
思わず椅子から飛び上がりかけた俺の肩に左手を置いたおっさんは、
「いいから座ってろっ」
ものすげえ力でそのままぐいっと押さえ込んだ。
「は、はいぃぃっ!」
悲鳴交じりの情けねえ声が、思わず俺の口から出た。
俺が抵抗をやめたのを確認したおっさんは、妙に慣れた手付きで、俺の肩から上腕筋、胸板に掛けて、毛むくじゃらのごつい手を這いずり回した。汗と脂でぎとついたオヤジ臭さが、俺の鼻先にまとわりつく。
「うむ、そこそこ筋肉は付いてるようだな」
五分ほどかけて、さんざん俺の体、特に胸の筋肉をぶっとい指先で念入りに撫で回してから、おっさんはやっと俺の上半身から手を離した。
俺がほっと一息ついてると、おっさんは自分の席から椅子を俺の前まで引っ張り、その上にでっけえケツをどっかと下ろした。ギギイ、とまたおっさんの椅子が悲鳴を上げる。
「俺たちの仕事は体が資本だからな。現場で『荷物が重くて持てませーん』てえのはシャレになんねえぞ。わかってんな」
「あ、それは大丈夫っす。俺、高校時代野球やってたっすから、体力には自信あるんす」
俺の返事を聞いたとたん、おっさんの目にギラリと欲情に似た光がともった。
「高校球児……なあ」
脂ぎった顔で、おっさんはぼそりとつぶやくと。
ゴツい手を今度は俺の太股の内側に滑り込ませてきやがった!
「う、ひぃぃぃぃっ! な、なにをっ」
「あ、足腰にもちゃんと筋肉がついてるかどうか、かっ、確認しねえと、なっ」
おっさんの太え親指の先がジャージ越しに俺の金玉の近くまで接近してきた。ひげ面を赤らめたおっさんの鼻息がなぜか獣のように荒くなってる。あまりのことに、俺の口はただぱくぱくと動くだけで、その後の言葉が続かねえ。
(お、おい、どこまで触ってくるんだよ、このおっさん!)
他の社員たちは仕事に忙しいのか、すぐ隣で行われている男二人のからみあいにはまるで無関心だ。いや、あの太った男だけはちらちらと俺たちに目をやってるけど、おっさんの暴走を止めるふうでもねえ。
ってことは、面接に来たヤツは、いつもこうやって社長にもみくちゃにされるのか?!
その後も、おっさんは俺の太股やらケツやらをしつこく触りまくったあげく、ふむ、まあいいだろう、と、ことさらいかめしい顔に戻してうなずいたあと、
「明日から来られるか」
どすの効いた声でぼそりと言った。
「……はぁ」
ただ疲れ切った俺の口からは、弱々しい声しか出なかった。
どうやら俺はおっさんに触られまくってるうちに、面接に合格していたらしい。
(ったく、どんな会社だよ、ここ)
――それが、一か月前のことだ。
助手席でうとうととしていた俺がふたたび目を開けると、トラックは見慣れた駅前商店街の急坂を上ってる途中だった。カーナビに表示されてる現在時刻は、午後一時ちょい過ぎ。口の中であくびを噛み殺した俺は、助手席側のドリンクホルダーに入れておいたペットボトルを手に取ってキャップを開けると、底に一センチほど残っているぬるいコーヒーをずずずっ、と音を立てて飲み干した。
ちなみに面接の日、初めて俺に声を掛けてきた兄ちゃんが、いま運転席にいる蓮田さんだ。七年前、大学二年のころからこの引越屋で働いているそうだ。
蓮田さんとコンビを組んだときの仕事は、本当に気が楽だ。蓮田さんは太った体格と柔和な笑顔を生かし、客への対応もソフトにこなす一方、現場はビシッと仕切ってくれる。俺に仕事のやり方を一から丁寧に教えてくれたのも蓮田さんだ。
蓮田さんは俺よりずっと先輩なのにむやみにいばったり、俺がミスをしても社長みてえにいきなり俺の頭を殴りつけることもしねえ。俺は蓮田さんに指示された通りに、ほいほいとそれに従っていればいいだけだ。
(これからも蓮田さんとずーっとコンビ組めれば楽できるよなあ)
そうお気楽に考えていた俺に、蓮田さんは、いつものように柔らかい口調で、さも今思い出したようにつぶやいた。
「そうそう。今晩、夜八時に駅前の居酒屋に集合ね。強制参加だよ」
蓮田さんには珍しく強引な口調に、「えっ」と漏らした俺はそのまま口ごもった。
「だって主役がいないと始まらないだろ」
蓮田さんの言い方はあくまでもとぼけた調子だ。
「つうか、何の飲み会なんすか」
少し困った俺があいまいに愛想笑いを浮かべた時、会社のプレハブが見えてきた。その脇の駐車場にトラックを停め、サイドブレーキを引いた蓮田さんは、
「君の歓迎会だよ、遅くなったけどね」
いつものおだやかな笑みを俺に向けた。
そして、その日の夜八時。
会社近くの駅前にあるこの小さな居酒屋は、新宿とかによくある小綺麗なチェーン居酒屋とは違って、築三十年って感じの古めかしい一軒家だ。店主のオヤジが社長とダチだとかで、会社の飲み会はいつもここで行われるらしい。
その店の十畳ほどの奥座敷には隅っこにテレビとカラオケセットが置いてあるだけで、普通の家の部屋とあんまり変わるところがない。いや、エアコンがない分、普通の家よりもさらに劣るかもしれねえ。そして、テレビの上に無意味に飾られた熊の木彫りと、名も知らねえ演歌歌手の色褪せたサイン色紙の取り合わせがどこか哀しい。
仕事のあと、揃いの「TAKUCHAN」Tシャツを着た俺たち社員とバイト総勢七名はこの居酒屋の奥座敷に集められた。平均年齢二十代後半の俺たちは仕事柄全員ゴツい体格で、どこからどう見てもプロレスラーの打ち上げってとこだ。網戸だけ引いた窓を全開にしてもなお蒸し暑さと男くささが充満するこの部屋で、俺たちは社長の到着を今か今かと待っていた。
そこへ、ケータイを耳に当てたまま蓮田さんが座敷に入ってきた。
「えーと、社長はあと五分ほどで来られるそうでーす」
腹空かせまくりの俺たちをなだめるようにそう声を掛けた蓮田さんは、ぽっちゃりと肉のついた体を縮めて、出入口にいちばん近い俺の右隣の席に座った。
「すんません蓮田さん、わざわざ幹事まで引き受けてくれて」
俺が軽く頭を下げると、
「いいよ、気にしないで。僕、こういうの好きだから」
蓮田さんは少し長めの柔らかい前髪を掻き上げながら、いつものようにのんびりとした笑顔を浮かべた。
そこへ、俺たちの背後でがらりとふすまが開き、
「おうおう待たせたなぁ」
相変わらずのだみ声を上げながら、社長がどたどたと座敷に上がり込んできた。
男だけのむさ苦しい宴席をぐるりと見回した社長は、
「よし、そこ開けろっ」
なぜか俺の左隣を指差すと、そのがっしりとした体をわざわざ俺にすり付けるようにしてどっかと座った。
「えっ、あの、ちょっと……」
俺の右隣には蓮田さんがいて、俺に逃げ場はない。俺は社長のオヤジくせえにおいと暑苦しい体温を間近に感じながら、心の中で舌打ちをした。
(つうか……なんで俺の隣だっつうの)
社長の乾杯の音頭のあと、卓上に並べられた刺身・お通し・ビールはあっという間に、飢えた野獣と化した俺たちのえじきとなった。昼間のきつい労働でぺこぺこに腹を空かせた俺たちは、それだけでは飽き足らず好き勝手に追加注文を繰り返し、作務衣姿の従業員が次から次へと運んでくる食い物・酒を秒殺で奪いあった。
――それから二時間後。
やっと腹が満たされた俺たちは、飢えた野獣からぐだぐだに酔っ払ったトラへと変貌していた。もちろん俺は未成年だから、酔っ払ってなどいねえ。いねえけど、目の前の「飲み物」を飲んで俺もまた、「なぜか」気持ち良くなっていた。隣では蓮田さんが静かにウーロン茶を飲んでいる。今日だけは無礼講とばかりに、俺は蓮田さんの丸い肩に気安く腕を回した。
「蓮田さーん、もう、コレ、いるんすかー」
俺が右手の小指を立てて見せたとたん、蓮田さんの顔が見る見る赤くなった。
「いや、いないよ」
蓮田さんはしばらくためらったあと、恥じらうように小さな声でそう答えた。
「じゃ、好きな人もいないんすかー」
「それは……」
目を伏せていた蓮田さんは、まばたきするくらいのほんの一瞬、一重の細い目を左斜め前に向けた。その視線の先には酔っ払った社長の姿がある。十分ほど前に一度ションベンに立った社長は、座に戻ってもそのまま歩き回り、手当り次第先輩社員に説教していた。
「『その人』は僕のことなんか絶対興味ないよ」
蓮田さんはそう、どこか寂しげに言った。
「んなことないっすよ。蓮田さんこんなにいい人なんすから、絶対モテますって」
調子に乗った俺は、むっちりと柔らかい肉がついた蓮田さんの背中を力任せにバンバンとたたいた。すると、
「あのさ」
突然蓮田さんの声のトーンが低くなった。
「僕のこと『いい人』って言うのはやめてくれないかな」
「……えっ」
予想もしていなかった言葉を投げかけられ、どきりとした俺は、思わず蓮田さんの顔を見た。
蓮田さんは、俺がこれまで見たことのないほど、真顔だった。
野郎たちの馬鹿笑いが轟く中、俺たちの間だけ気まずい沈黙が流れる。そこへ、座敷の隅からだみ声が響いた。
「おいっ、橘、こっちゃ来いっ」
タイミングよく掛けられたその声に俺が振り返ると、社長が卓の向こうから、右手をぶんぶんと振り回すようにして俺を手招きしていた。俺たちの空気を敏感に察して助け船を出してくれた……わけでないことは、だらしなく緩んだ社長の赤ら顔を見ればわかる。
俺は、固い表情の蓮田さんにあわててぺこりと頭を下げて、社長がいる席へと小走りに向かった。そして、俺が席に付くなり、社長は酒臭え息を俺の顔に吹きかけながらこう切り出した。
「橘、おめえ俺と同じ大学だったな。サークルはどこに入ってるんだ」
「いや俺、なんも入ってねえっす」
なんも考えずに俺が即答すると、
「なぁにぃぃぃっ!」
鬼瓦みてえなひげ面をさらに赤くした社長は、突然俺の両肩をでかい手でがっしりとつかんだ。
「青春真っ盛りの若人がそんなことでどうするっ!」
……えーと、今、平成だよな……確か。
「俺の大学時代はな、応援団の団長まで勤め上げ、一度しかねえ青春を謳歌したもんだぞっ。よし、これもなんかの縁だ、おめえも応援団に入れっ!」
「そ、それはぁ……」
とんでもねえ! 俺は、ぶるぶると首を横に振った。
確かにうちの大学は、応援団「だけ」は有名だ。ただ、噂に聞くところによると、先輩団員からのしごきが半端じゃねえらしく、しかもそのしごきの内容は「他言無用」だとかで、応援団から外には一切漏れ伝わることはねえ。応援団なんかに入ったら、先輩連中からどんなしごきをされるか、それを想像しただけで、ぶるりと俺の背筋が震えた。
「今からでも遅くねえぞ。なんなら俺が団長に口利きしてやっか」
俺はあわてて、膳の上にあったビール瓶を右手に持ち、
「ん、んなことより、ささ、飲んで飲んでっ」
社長の目の前にある空のグラスに、ビールをなみなみと注いだ。
――ここらへんから、俺の記憶は徐々にあいまいになっている。
闇の中で俺は目を覚ました。
頭がガンガン響くように痛え。体を覆うタオルケットと柔らかく沈むマットレスの感触、そして、熱帯夜の湿った空気が全身を包み込む。ここはベッドの中だろうか。
一瞬俺は、自分のアパートに帰ったのかとも思ったが、俺がいつも寝ているのはベッドでなくペラペラの敷き布団だ。そのうえタオルケットがじかに俺の全身の肌に触れてる。ってことは――。
(あ、あれぇぇっ)
あわてて俺は、体中をぺたぺたと触り、その感触を確かめる。
俺はなんにも着ていなかった。全裸だ。
って、どういうことだ、こりゃあ……。まだ回り出さねえ頭を俺は懸命にひねくった。
確かあの後、社長と俺との「飲み比べ」が始まった、んだよな。そこまではなんとなく覚えている。それから……それから……えーと。俺が頭の奥の引き出しをさらに掻き回そうとした時。
俺の足元でマットレスが大きく沈み、ベッドがぎしりと揺れた。
「……ひぃっ!」
ぞわぞわと寒気が俺の背筋を駆け抜け、俺の体は反射的にベッドの上でびくんと跳ね上がった。暗闇の中、タオルケットの下で、何かがもぞもぞと動いてる! こ、これって、ずっと前に、深夜のテレビでやってた洋画ホラーと同じシチュじゃねえか?!
とにかく逃げねえと! ――って、どこにだ?
思わず俺は体を後ろにずらそうとした。だが、マットレスのふちに置いた右手が滑って、
「……っ!」
バランスを崩した俺がベッドから落っこちそうになったその寸前。
「ああっ!!」
誰かが俺の左右の太股を両手でぐっと押さえ付け、俺の上半身は空中でのけぞったまま静止した。
「ふ……んんっ」
頭に血が上りそうになりながらも、俺はシーツの端を引っ張り、なんとかベッドの上に体を戻した。その間も、俺の股ぐらの間にいるそいつは俺を押さえ付けたままだ。
(――わかった、こいつ強盗だ!)
そう確信した俺が、そいつを蹴飛ばそうとした時、
「あ……んんっ!」
突然、俺のチンポが、熱くぬめった粘膜に包まれた。思いも寄らねえ場所の、思いも寄らねえ感触に、なにがなんだかわからねえまま俺が固まってると、
「……うぁっ、ん……んんっ」
そいつの熱い舌は俺のチンポのカリの部分を巧みになぞり始めた。
明日に備えて一週間ほど抜いてなかった俺のチンポは初めての淫らな刺激に悦び、先っぽからじんわりと汁を吐き出し始めた。そして、ぬるぬるになった鈴口の割れ目をこじ開けるように、そいつの熱い舌がしつこくいじり回す。背筋から頭のてっぺんまで、今度は快感がぞわぞわと駆け抜けていった。
「ん……ふぅぅん……ぁぁっ」
そいつは分厚い舌と唇をねっとりとからみつけるように、俺のチンポをしごき上げた。俺のチンポはたちまちガチガチになっちまって、たまりにたまったザーメンをどばっとこいつの口ん中にぶちまけちまいそうになる。
「く……ぅぅっ」
亀頭からチンポの根元まで、俺のいちばん感じるところを、こいつの舌はピンポイントで責めてきた。口の中で、ざらざらした舌をガチガチのチンポにまとわりつかせてしゃぶってくるのが、プロ級のテクだ。
こいつ痴女か? それとも夢?
俺がそいつの正体を探っている間にも、タオルケットの中からは、ちゅぷっ、にゅちゅっ、とチンポと口の粘膜がこすれ合う、エロく湿った音が響いた。
「ちょ、っと、タンマ……出るっ、汁、出ちまうっ」
俺の切羽詰まった声が聞こえているのかいないのか、こいつの舌使いはますます淫らに、激しくなっていった。俺はもうこいつのなすがままで、初めて味わう女の、そう「女の」クチマンコに自分から腰を振って、俺のチンポをぶちこんでいた。
もう、こいつが誰だとかそんなことはどうでもいい。
とにかく、ヤリてぇぇっっっ!!!
「出るっ、出るっ、出るぅぅぅっ!」
もう……限界だ。こいつの口の動きも早くなり、ちゅうちゅうと卑猥な音を立てながら、口をすぼめて俺のチンポをきつく吸い上げた。俺のチンポがこいつの熱い口の中でびくんと震える。ついに俺の「クチマン童貞」卒業の時が来た!
金玉から大量に生産された俺の精子が一瞬で尿道を駆け上って、体中の筋肉がこわばると同時に、しびれるような快感と幸福感が俺を包み込み――。
「おっ、おっ、おおぉぉぉぉっ!!」
俺は、溜りに溜ったザーメンをそいつの口に盛大にぶちまけた。
「すげ……まだ、出……るぅぅぅっ!」
三度、四度、五度発射しても、まだザーメンは止まらねえ。きっと、こいつの口には、納まりきらねえんじゃ……。快感にしびれた頭の片隅で、俺がそう思ってると、
「うげっ、げほっ、うげぇっ!」
案の定、タオルケットの中から咳込む声がした。
まるでおっさんのような、声が。
……えっ。
ちょっと……ちょっと待て俺。いくらなんでも、女の声を男と、しかもおっさんと聞き間違えるなんて……。
「あるわけ……ねえよ、な」
悪寒に似たざわめきが背中を駆け抜ける。
「げほっ……おめえ、どんだけ溜めてたんだおい」
「……いぃっ!」
タオルケットの中から、聞き覚えのあり過ぎる野太い声と下町訛りが聞こえた瞬間、俺の最後の望みも打ち砕かれた。弾かれたように俺がタオルケットをはぎ取ると、そこには暗闇の中でもそもそとうごめいている「巨大生物」がいた。
――もう間違いねえ。間違いねえが、念のために俺はそいつに小声で呼びかけてみた。
「社長?」
「おう、なんだ」
同時に、部屋の蛍光灯の明かりがついた。俺の目の前に、ベッドの上で俺と向かい合うようにあぐらを掻いて、蛍光灯のスイッチに右手を伸ばした社長が現れた。
「ったく……鼻の奥までおめえの濃いぃ汁入っちまったぜ、ちくしょう」
社長は、全裸だった。
「ひぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!」
くっきりとした蛍光灯の光に照らされ、盛り上がった胸板、緩んだ腹、胸毛からチン毛にかけてつながってる熊みてえな濃い体毛が隅々まで俺の目に入ってくる。嫌でも。
社長のでっけえケツはマットレスに深くめりこみ、その股間では、太短いチンポがむっくりと上向いていた。赤紫色の亀頭の割れ目からは先走りがじわりとしみ出している。
そして。
汗が浮いた社長のむさ苦しいひげ面には、一週間オナ禁して溜めこんでいた俺の特濃ザーメンがべったりとくっついていた。
「あ、わわわ……」
ある意味ホラーよりも恐ろしい目の前の現実に、俺はマジで腰を抜かしそうになった。
「しゃ、社長、こ、ここ、こここここどこなんすかっ!」
「わかんねえか、俺とおめえの仕事場だろ」
俺は思わず「へええっ?!」とすっとんきょうな声を上げちまった。そこら中を見回すと、床には赤丸がついた競馬新聞、食べかけのコンビニ弁当、脱ぎ散らかして裏返ったシャツと靴下と股間がくっきりと黄ばんだデカいブリーフ、そして茶黄色に染まったティッシュのくずが転がっている。典型的な独身男のむさ苦しい「汚部屋」だ。
「おう、言ってなかったか? 俺な、仕事場に住んでんだ。この部屋は『社長室』兼用な」
そういや、いつも社長、朝イチで出社して夜遅くまで仕事してたけど、単に仕事熱心なだけなのかと思ってた。
「おめえが……悪ぃんだぞ、洋平」
さりげなく俺を「洋平」と呼んだ社長は、これまで一度も見せたことのない決まり悪げな表情で、かなり短く刈り込んだ後頭部をがりがりと掻いた。
「こんなにうまそうなカラダ目の前にして、生まれついての男好きの俺が手ぇ出さずにいられるかってんだ、なあ」
……ってことは、つまり社長は、男に欲情するホモってことなのか?!
俺のザーメンをひげ面にくっつけたまま満面の笑みを浮かべ、社長はさも自分が言ってることが世の中の常識であるかのようにうなずいた。
って、俺に同意を求めるなよおっさん!
あんぐりと開いた俺の口からは、言葉さえ出ない。バイト先の社長がホモで、しかもそいつに俺、「クチマン童貞」を奪われちまった……。
回りの世界が、俺を中心にぐにゃりと歪む。
(俺、俺、こんなところで男と、しかもおっさんと「初体験」するなんて……)
俺の体からは力が一気に抜け、そのまま顔面から突っ伏すように、社長の加齢臭がむんむんと漂うベッドの上にへなへなと倒れ込んでいた。
これは夢だ。きっと悪い夢なんだ……。
「お、おい、洋平、どうしたっ」
ザーメンと一緒に魂まで抜かれちまった俺の体を、社長はぶっとい腕で抱きかかえ、また無理やりベッドの上に座らせると、
「悪かった……なっ、悪かった。この通り、なっ」
両手を毛深い胸の前で合わせて、困った顔で繰り返した。けど、その下のサオはギンギンにおっ勃てたままで、まるで真実味がない。
「悪かったじゃねぇっすよぉ……俺、俺……」
半泣きになった俺は、社長に全部ぶちまけていた。このバイトを始めた本当の理由も、明日が俺にとって記念すべき日になるはずだったことも。
それを聞き終わった社長は、目を丸くして、俺の顔をじろじろと見つめた。
「フーゾクだぁ? 一回女抱くのにいくらかかると思ってんだ、おめえ」
社長はにやついた顔になると、俺の肩に毛むくじゃらのでっけえ手を置いた。
「俺ならおめえにいつでもタダマンさせてやっぜぇ」
ザーメンと酒が交じりあった生臭えにおいを口からぷんぷんさせながら、しゃがれた声で社長は囁いた。
「なあに、おめえは目ぇつぶって、ベッドの上にただ寝っ転がってりゃいいさ。その間に俺が、おめえの金玉が空っぽになるまでスッキリさせてやっからよぉ」
悪魔のような囁きが、俺を誘惑する。
確かに社長は、俺以外の男ともさんざん遊んできたんだろうし、これまで何本ものチンポをしゃぶってきたんだろう。それは、脳天までしびれちまったあの極上フェラでよくわかった。
あの分厚い唇で、チンポのくびれを中心に、ちゅうちゅうときつく吸い上げるダイナミックなフェラ。舌を鈴口にまとわりつかせながら、熱を持った肉厚の柔らけえ粘膜でチンポをぎゅうぎゅうに締め付ける、手慣れたテクニック。それが、いつでも味わえる……。
そう考えただけであれだけ汁を出したチンポがまた、じんわりと甘くうずく。俺の喉がごくりと鳴った。
しばらく(二、三分だけど、な)考えて出した俺の結論は――。
「お、俺……ケ……ケツに突っ込まれるのだけは、嫌っすからね」
その答えを聞いた社長の目尻がこれ以上ねえぐれえに下がった。社長の股ぐらでおっ勃ったどす黒いチンポがびくびくと震え、でっかい亀頭の割れ目にまたじわりと露がにじんだ。
「おうおうわかっとるわかっとる。――ま、俺はケツも使えるから、おめえも慣れたらいつでも俺のマンコにぶち込んでくれや」
にやけた顔のまま、あぐらを崩した社長はじりじりとにじり寄り、正面から俺をぶっとい腕でぎゅっと抱きしめた。社長の汗と体温が直接肌に伝わり、ふさふさした体毛が俺の胸や腹をちりちりとくすぐる。
「んじゃ、話もまとまったところで『二回戦』やっか」
……いつの間に話がまとまったんだよ、おい。
「おめえの息子もまだ汁出し足りねえってごねてるみてえだしな」
そう言いながら社長は意地悪い顔を作り、ゴツい右手でぐりぐりと俺の半勃ちの亀頭をいじくり回した。
「う、ひぃぃぃっ!」
「かわいい声出しやがって……洋平はここが感じるのか、ほれ」
「……あぁぁっ、そこっ、すげ、感じちまうよぉぉぉっ!」
乱暴でいて、かつ感じるツボを心得た刺激に、俺の体がとろけていく。ちくしょう、男のくせになんてすげえテク持ってんだ、このおっさん!
結局この夜、俺は社長のクチマンで計四発、汁を搾り取られちまった。
――迷ったけど、俺は当初の予定通り、八月末までとりあえず引越のバイトを続けることにした。社長のテクニックがそれだけすごかった、ってことも……まあ、あるんだけど、な。
仕事中の社長はさすがに俺に色目を使わねえけど、仕事が終わったあとは一転してかなり露骨に俺を誘う。だけど、俺はその誘いを断り続けた。あの夜は社長の超絶テクにメロメロにされちまったけど、明るい日の元で見ればやっぱ単にむさ苦しいおっさんだしな。
で、歓迎会の「衝撃の一夜」から一週間が経ち、八月も半分を過ぎた。
「洋平、荷物濡れねえように、注意して運べよ!」
社長は団地の入り口に横付けしたトラックの荷台から雨天用の防水シートを取り出し、手早く残りの荷物を覆った。朝から雨がぱらつく中、空の色はだんだん墨を混ぜたように薄暗くなり、昼近くになって雨が本降りになってきやがった。
「うっす!」
社長に威勢よく返事をして、俺はシートで覆われた段ボールを胸に抱えると、依頼人の老夫婦の三階の部屋に早足で向かった。当たり前だけど、仕事中は俺も社長もマジな顔つきで、軽口なんか絶対に叩かねえ。
作業は順調に進み、最後に残しておいた電子ピアノを、俺たちは階段でゆっくりと、慎重に運んでいた。そして、もうすぐ三階にたどり着くってとこで、俺が左足を踏み出すと――。
「……あっ」
そこには何もなかった。泥で汚れたコンクリートの階段を俺は踏み外し、それに気付いたとき、俺の視界はすでに天地逆になっていた。俺の手が離れ、階段の上で傾きそうになった電子ピアノにあわててしがみついた社長の驚いた顔もまた逆さまになった。
「洋平!」
社長の声が遠のく。七十三キロの俺の体は、人形みてえに一瞬で階段を滑り落ちた。
「……っ!」
頭のてっぺんをガツンと殴られたような衝撃を感じたと同時に、俺の体はやっと止まった。
「なにやってんだ、このバカ!」
血相を変え、汚れたスニーカーをどすどすと踏み鳴らして降りてきた社長は、踊り場でひっくり返っていた俺の左手をぐいと引っ張ると、
「バッキャロー、気をつけて運べっ!」
俺が言い訳をしようとする前に、右手の拳をいきなり俺の頭に振り下ろした。
「っ、てぇっ!!」
目の前にまた火花が散った。
「俺たちはな、お客様の大事な荷物をお預かりしてるんだ。一瞬たりとも気ぃ抜くんじゃねえっ!」
そこら中に響きわたる社長の怒鳴り声に、何事かと団地のおばちゃんやガキがわらわらと集まってくる。顔から火が出るほどの恥ずかしさと情けなさと、まだ頭にじんじんと残る痛みで、俺は、強く唇を噛んだ。
その後仕事が終わって、会社に戻るトラックの中でも、俺は仏頂面のまま、社長とは一言もしゃべらなかった。正直、このおっさんにムカついていた。
(――あれじゃまるでさらし者じゃねえかよ)
そりゃあ、ちょっとは俺の気も緩んでいたかもしんねえ。だけど……みんなが見てる前であんな言い方ねえだろ。
社長も俺も何もしゃべらず、二十分ほど車内は無言の状態が続いた。俺は、ワイパーで雨を拭うフロントガラスの先に流れる灰色の街を、ぼんやりと見つめていた。
団地を出発してから一時間ほどで、トラックはいつもの駅前商店街が並ぶ坂にさしかかった。この坂を上ると、五分程度で会社に着く。しかし、社長はなぜかハンドルを右に大きく回し、坂ではなく線路沿いの道に入った。
「病院に行くぞ」
前を向いたまま社長は、ぼそりと低い声で独り言のようにつぶやいた。
「はあ?」
「そこでおめえ、さっき打ったとこ医者に診てもらえ」
突然の社長の言葉に、俺は素でうろたえた。
「え……でも、俺、金持って……」
「俺が立て替えてやる。場所が場所だし、後遺症が出たらまずいからな」
その顔には、仕事中の厳しい表情ではなく、父親みてえにマジな表情が浮かび上がっていた。
「……社長」
「いいか洋平。仕事中はてめえの体はてめえで守れ。バイトだろうとなんだろうと、それがプロってもんだ」
淡々とマジな顔で語る社長のむさ苦しいひげ面を、俺は初めてかっこいい、と思った。ま、ほんの少し、だけどな。
――ところが、だ。
診察の結果、異常なしという診断を俺は医者から受け、その後社長と会社に戻るやいなや、
「おう、洋平。ちょっと上脱いでさっきぶつけたとこ俺に見せてみい」
社長は他の社員たちが見てる前で俺のシャツをぺろんとまくり上げると、俺の胸や湿布を貼られた背中を直接べたべたと触ってきた。
「たっ、助けてくださいよー」
「おいコラ、逃げるな、洋平っ」
俺が半分マジで周りの連中に声を掛けても、みんなにやにやと笑うだけだ。男が男を襲おうとするのを笑って見過ごすなんて、まったく世の中乱れてる。
逃げようとする俺の体を、社長はプロレス技みてえにぶっとい腕で後ろからがっしりと押さえ付けた。
「おっ、俺病人なんすよっ」
しかし、俺の抗議なんかガン無視で、荒い息の社長は発情したオス犬みてえに、分厚い胸板やたっぷり脂の乗った腹を俺の背中にぐいぐいと押しつけてきた。
――姦(ヤ)られる! マジで!!
俺が身の危険を感じたその時、玄関の戸が開き、
「ただいま帰りましたー」
蓮田さんが大事そうに胸にカバンを抱えながら、雨で濡れた顔とTシャツをハンカチで拭き拭き、営業の出先から戻ってきた。
「蓮田さーん、社長なんとかしてくださいよー」
助けを求めようと、俺は蓮田さんに声を掛けた。だが、蓮田さんの顔に浮かんでいたのは、いつもののんびりとした笑みではなく、
「……」
俺の背筋がぞっとするほど、こわばった表情だった。
それから十日が経ち、八月も最終週になった。バイトの契約満了の三十一日まで、あと三日だ。
この日は俺だけ夜十時まで残業を命じられ、バイト募集のチラシをパソコンで作らされていた。俺たち以外の社員は、もうとっくに帰っちまってる。
もうすぐ九月とは言え、まだまだ蒸し暑い日が続き、扇風機は首振りに忙しい。ただし、その恩恵を主に受けているのは、それを近くに置いている社長だけどな。
「おめえが来月からもここにいてくれりゃあ、こんなチラシ作る必要ねえんだがな」
自分の席でぼんやりと煙草を吸いながら、社長は気怠い表情を見せた。
「……そろそろおめえ、タマってねえか」
いつもの冗談っぽくねえマジな口調に、俺の心が少し揺らいだ。
社長は、人間的には少々がさつなところもあるけど、男気はある。なんでだかわかんねえけど、俺のことが好きらしいってことも、伝わってくる。
でも……俺、ホモじゃねえからなあ。
ふと、パソコンから目線を上げると、文字盤に「安岡酒店」と書かれた壁掛けの時計が十時を差していた。俺はチラシデザイン用のファイルを保存し、パソコンのスイッチをオフにした。
「んじゃ、これで」
立ち上がった俺はロッカーから私服の真っ赤なTシャツを取り出し、上だけ脱いでそれに着替えると、社長にぺこりと頭を下げて、玄関に向かった。
社長は何か言いたそうな表情をそのいかついひげ面に一瞬浮かべたが、
「……気ぃつけて帰れよ」
口から出たのは、それだけだった。
俺はまた社長に軽く頭を下げて、玄関から外に出た。それを待っていたかのように、残暑の蒸れた熱気が汗でべとついた俺の体を包み込む。ここから駅まで歩いて三十分、その後私鉄に揺られて二十分ぐらいで俺のアパートに着く。明日はバイト休みだから、いつものように昼まで寝ような。そして――。
「……あ」
明日、千葉のソープに行こうか。今度こそ、そこで俺は「男になる」んだ。社長には悪いけどな。
……って、別に俺は社長となんでもねえから、義理立てする必要もねえけど。ねえんだけど……。
(さっき社長、何言おうとしたんだろうな)
ふと俺はプレハブを振り返った。俺の目に、薄暗い照明に照らされた会社の看板が映る。まだ、「タタチャン」のままだ。
俺がバイトを始めたばっかのころ、なんで看板の落書き直さねえんすかって、現場に向かうトラックの中で俺、社長に聞いたことがある。そしたら社長、耳の穴を親指みてえな太さの小指でほじりながらこう答えたんだ。
(何度直してもよ、近くの小学校に通うガキにまたやられちまうんだ、これが)
社長はそのいかついご面相から、ガキたちの間で名物オヤジになってるらしく、ヤツらにとっちゃこの「一本線」はある意味度胸試しってことらしい。
「……なるほど、な」
真っ赤な顔で社長がガキを追いかけ回している姿が浮かんで、思わず俺の口に笑いがこみ上げた。
その時。
ガツンと、音がした。俺の後頭部で。頭ん中で激痛の火花が飛ぶ。
「……うぐっ」
頭ん中でヒューズが飛んで、俺の体は地面に沈んだ。
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