(体験版)

作・飛田流  




「蓮田さん、蓮田さーん」

 こもった声の年老いた女が、アパートの玄関のドアを外から叩き続けていた。

 そのドアを一枚隔てた中には六畳一間の部屋がある。洗濯していない衣類とインスタント食品の残骸、求人雑誌と書き掛けの履歴書、カードローンの督促状――が足の踏み場もないほど床に積み上がっていた。

 そのすべてが、真っ暗な闇に包まれていた。

「蓮田さん、蓮田さーん、いるんでしょ、ねえっ」

 ストーカーのように執拗にドアを叩き続ける老女の声は、さらにヒステリックさを増していく。部屋の真ん中で、湿った布団を頭からかぶった馨が、闇の中でただ息をひそめていた。

 布団の中で馨は息苦しさを感じながら、自分の存在を無にすることだけに専念していた。



 今から十三年前の冬。当時馨は、函館の実家で両親と暮らしていた。

 年の瀬も押し迫ったその日、馨は少々の後ろめたさを感じながらも、朝から自分の布団の中で寝ていた。風邪で気分が悪いと母親に告げて学校を休んだのだが、熱を出したのは本当にせよ、その症状をかなり大げさに伝えたからだ。

 そのころからぽっちゃりとした体型の馨は、女のような名前のせいもあり、同級生から軽いいじめにあっていた。また、女子も含めて彼らは、太った自分を小馬鹿にし、陰で物笑いの種にする存在でしかなく、そんな閉鎖的な空間が馨にはただ息苦しかった。

 漁師の父親は早朝からすでに冬の海に出ている。家からバスで三十分ほどの場所にある水産加工工場でパートをしている母親は、午前中で早退して帰るから、と馨に言い残し、朝八時に家を出た。けっして裕福ではないこの家では、両親が共働きをして家計を支えていた。

 しばらく布団の中でまどろんでいた馨がふと目を覚ますと、全身にびっしょりと汗をかいていることに気づいた。喉がひどく乾いていた。

 のろのろと布団から起きた馨は、タンスから着替えの下着とパジャマを取り出し、それを胸に抱えて部屋を出た。

「……さむ」

 二階の自分の部屋から一歩足を踏み出すと、氷のように凍てついた板張りの廊下が、馨の足の裏を意地悪くびりりと舐めた。

 馨の祖父が二十代の頃に自ら作ったというこの木造の家は、いたるところから隙間風が忍び込む。身を縮こませて階段を降りた馨は早足で居間に入り、灯油ファンヒーターと部屋の隅にある古ぼけたテレビのスイッチをつけた。

 馨が着替えをファンヒーター近くに置いて、水を汲むために隣の台所に向かいかけた、その時。

『これ娘、おとなしくせい』

 中年男のねっとりとしたいやらしさを抽出したしゃがれ声に、馨の足が止まる。それが、性的なシーンのセリフであろうことは馨にもすぐにわかった。反射的に馨はテレビの画面に振り向いた。

 そこには、ひげ面でふんどし姿の中年男のアップが映っていた。男がまげを結っていることから、それが時代劇であることは一目でわかる。行灯にぼんやりと照らされた薄暗い和室の中、男が分厚い胸に抱いているのは、日本髪の若い女だった。

 台所の手前で立ち止まったまま、馨はそのシーンを食い入るように見つめていた。

 男の手が、女の乱れた着物の襟元に忍び込む。

『いけませんっ、お代官様』

 しかし、「お代官様」は必死に抗う女を夜具の上に強引に押し倒す。一瞬、がっしりと肉の付いた彼の広い背中と、大きめの尻が画面に映り、次のシーンでは、倒れていく二人の影が障子越しに映った。

 馨は画面から目を逸らすことができなかった。息が荒くなっていた。おそらく、熱のせいだけではない。頭の中が、じんじんとしびれていた。




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