(1)闘奴
(何……? どうしたの? この者達は、一体何を期待しているの?)
コロセアムの観客席を満たしていく不穏なざわめきに、若き『天羽』貴族ジュセットは戸惑った。
眼下の闘技場では、黒いローブの刑吏達が、黒々とした血だまりに砂を撒き、敗北者の飛び散った肉片を拾い集めているところだった。既に何試合かが行われ、下層民や奴隷達が見せ物となって命を落としたのだ。客席の市民たちは先程までの残虐な見世物に興奮したまましゃべり、騒ぎ、手にした酒をあおっていてる。その無数の話し声による無秩序な雑音が空間を塗りつぶしていたのだが、ここに来てそれとは別種の、何かを期待するような、それでいて恐怖するかのような奇妙な熱情が急速に広まってきていた。
ジュセットは耳を澄ませて個々の声を聞き分けてみようとしたが、要領を得なかった。ただ、これから行われる試合が、通常のものではないことだけは何となく理解できた。おそらくは今までを上回る残酷ショーであろうことが。
(これ以上何があるというの? ああもううんざりだわ……こんな堕落しきった、野蛮な見せ物は)
ジュセットは引き締まった朱唇を軽く噛み、鋭く走る眉根を不快げに歪める。グレーの地味な外套で頭のてっぺんから腰のあたりまでを隠しているので、遠くから見ただけでは、彼女が偉大で優美な魔法種族、『天羽』の一員であるとは分からないだろう。だが、外套の頭巾部分から覗く、やや短めに切りそろえられている柔らかそうな髪は緑がかった金色で、これは天羽に特有の髪色だ。その陰で、鋭くて強い光を宿している瞳も他の種族にはない青紫色である。
外套の下に着けているのは、ゆるりと盛り上がった胸から引き締まった腰までを覆う白いチュニック。裾が短く行動性を重視したデザインになっているが、よく見れば手の込んだ意匠が施されている。そこからわずかに覗く太腿は肉付きすぎず形のくずれもなく、白く輝くようだ。美しく均整の取れた若い女性らしい体つきではあるが、厳密には違う。彼女達天羽は両性具有の種族なのだ。
(一体、内通者はどこにいるのかしら? コロセアムのこの場所で落ち合う段取りのはずよ…?)
彼女、ジュセットはこの国、アルーカヤ王国の風紀を取り締まり堕落を糾す監察官である。それも名ばかりの役職ではなく、実際に何人もの腐敗官僚や貴族を告発・粛正しており、若いながらも腕利きの改革者として関心と警戒を集めつつあった。その彼女が、退廃の象徴ともいえるこのような場所に足を運んだのは、王国有力者の違法な堕落行為についての情報を持っているという内通者との接触のためである。
だが、指定の場所でずっと不愉快な殺人ショーを眺めていたにも関わらず、それらしい人間は訪れないままだった。
そして。
『皆様、お待たせいたしました。それではいよいよ、本日の真打ち……』
「おおおおおおおおお……!!」
「ああ、来る、来る……!」
「神よ、暴虐の神『血塗れマヴェオン』よ!」
増音魔法によるアナウンスが響き渡ると、観客席は異様な興奮に満たされた。熱く、狂おしく、何かを期待するかのような声が、凶悪な神の降臨を願うかのような叫びが、戸惑う彼女の周囲を満たす。
ギギギッ……
片付けの終わった闘技場に繋がる、第一の門が重苦しい音を立てて開いた。そこから、十数名の『地奴』の男達がぞろぞろと出てくる。
(何?……戦争でもするつもりなの?)
全員鎧兜と長槍を装備し、さらに諸々の武器を背中や腰に吊るしている。装備の重みに慣れている様子からすると、おそらくは命令違反をやらかした反乱部隊か何かが、その刑罰として送り込まれているのであろう。『地奴』は特にこれといった特徴のない男性種族で、魔法も使えず腕力が強いわけでもないが、集団行動が得意なので数を集めて兵隊にすれば充分役に立つ。
殺戮試合に臨む兵士達は、緊張と不安をまとわりつかせたまま、ぞろりと緩めの隊列を組む。
『そして、対しますは……我が闘技場の、憎悪と恐怖の象徴……黒の虐殺者ザヴァーガ!』
その名を耳にした観衆達は皆一斉に絶叫した。
「ふおおおぉおおおお……!!」
「いやぁああぁぁあああぁぁぁ……っ!」
「ザヴァーガ! ザヴァーガ……!!」
まるでおぞましい怪物に襲われているかのように、殺戮の神が降臨するかのように、様々な種族の観客達が様々な声色で、恐怖と歓喜と絶望と熱狂を叫び散らす。
ズズン……
そして、注目の集まる中、闘技場の第二入場門が開き、対戦者のもう一方が姿を現した。
果たして一体何が現れるというのか、ジュセットは固唾を呑んで見守った。のだが。
(えっ……これが、この連中の試合相手なの?)
彼女は軽く拍子抜けした。完全武装の男達の対面に現れたのは、獣人『狗鬼』が、たった一人だけだったのだ。
その個体の、黒々とした体毛に覆われた肉体は『狗鬼』としても大柄な部類で、対戦相手よりも頭三つか四つくらいは身長が高く、横幅もあるが、手には武器の一つもない。それどころか身につけているのは奴隷の首輪一つのみで、最低限の腰布すら纏っていなかった。毛深い肉体ゆえに性器が目立たないが、要するに全裸である。
拍子抜けしたあと、彼女は憤る。
(……こ、こんなの……! いくらなんでも、多勢に無勢じゃないの……寄ってたかって嬲り殺しにでもするつもりなの? 馬鹿げた殺人試合ですらない!)
狗鬼の戦闘能力は高く、地奴が相手で一対一ならば装備に大差があってもまず勝てるだろうが、しかしこれは幾ら何でも人数が違いすぎる。先ほどまでの殺人試合は、建前ばかりとはいえ公平さが確保されていたから、正義を志すジュセットも辛うじて見ていられた。しかし、今回ばかりは明らかに許容範囲を超える、一方的な処刑ショーに思えた。
と、その時、兵士達から十数メートル離れた位置に仁王立ちの黒い獣人が、軽く胸を張って息を吸い込んだ。狗鬼は両性具有ではあるが、この個体は筋肉がぶ厚くて毛深いため、乳房はほとんど目立たない。そして。
「ォオオオオオオオオオオォォォッッッ……!!」
「……ひっ」
闘技場から客席までは距離があるにも関わらず、全身をびりびりと震わせるほどの大咆哮に、思わずジュセットはすくみ上がる。その雄叫びには悲憤も怯えもなく、ただ獲物を前にした肉食獣の獰猛な歓喜だけがあった。
そして、戦闘開始を告げる銅鑼が鳴らされた。
†
「おおおおぉおおおおっっっっ………!」
「殺せっ殺せ殺せっっっ………!」
「ひっああっあぁああぁぁぁっっっっ……」
血飛沫が舞い、断末魔の悲鳴が上がるごとにコロセアムの観客達は熱狂の悲鳴をあげる。それは試合などとは呼べぬ、一方的な殺戮ショーだった。
「……こ、こんな……っ」
ジュセットは、あまりの展開に絶句していた。彼女の予断とは逆に、無手のザヴァーガが完全武装の兵士達を片端から血祭りに上げていたのだ。

黒い獣人は、開幕と同時に兵士達の斉射したボウガンを、その巨躯からは想像もつかない敏捷さで回避して一気に間合いを詰めた。一方、反乱兵達も対狗鬼戦には馴れているのだろう、それを迎え撃つべく整然とした陣形を組んで槍ぶすまを立てた。この状態であれば、地奴より身体能力の優れた狗鬼と言えども迂闊に接近はできない、セオリー通りの対応だった。
ヴァッ……!
そして兵士達は防御を万全にした状態で、勝利へとつなげるべく、ザヴァーガの頭上へと投網を投げかけた。投網で相手を絡めとるのはコロセアムでの必勝法の一つである。
しかし、予想を遥かに超えて俊敏な獣人は、広がった網の形状を見切ってぎりぎりで回避しただけでなく、それを掴んで逆に投げ返した。さすがに投網はうまく広がらなかったものの、陣形を組んだ兵士達のうち数人に絡み付く。予想外の出来事に彼らが慌てて陣形を乱した時点で、戦いの趨勢が決した。
ドンッ
「ァアオオォオオオオォォォッッッッ……!!」
一瞬の隙を突いて、敵陣に漆黒の砲弾のごとくザヴァーガが飛び込む。その後は一方的な展開であった。
魔法の使えない地奴が、至近距離の狗鬼に対抗するのは困難だ。運動能力の差が大きすぎるのだ。増してや、狗鬼の中でも図抜けて大柄なザヴァーガの破壊力は別格だった。
黒い腕が暴風雨のごとく振り回されるごとに、兵士達は鉄の鎧兜ごとへし折られ、引き千切られ、叩き潰される。そして数秒と経たずに長槍の陣形は壊滅し、統率を失った生き残り達が我れ先に逃げ惑い、あるいは無謀な個別反撃を試みるばかりとなった。
「あぁああああっっザヴァーガっザヴァーガっっ……!」
「死ぬっ死ぬ死ぬぅううぅぅっっっ……!」
「枯骨のケフェドよ、罪人を安らかなる地へ導きたまえ……」
目前に出現した皆殺しの戦場に、観客達は恐怖と歓喜を叫ぶ。死神に死者の安楽を祈る。
(な……なんてことなの……こんな、こんな恐ろしくて、野蛮な見せ物……ああ、ああ……私……)
呼吸も忘れ瞬きもせずに見つめるジュセットの、早鐘のような心臓の一打ちごとに、地奴の兵士達が無惨な運命を辿っていく。暖かい血が闘技場を染め上げ、まき散らされる臓物の臭いが観客席まで吹き上がってくる。
「ひっひぃいぃいいっっっ……ぎゃぁあっっ!!」
ゴスッ……
恐慌を起こして戦線から逃げ出した兵士の背中に、誰かの腕がついたままの槍が投げつけられ、串刺しにする。
「う、うう、うわああぁあああぁぁぁっっ……!」
ドボオッ……
自棄になって斬り掛かった兵士が、剣の間合いの外から強烈な蹴りを喰らい、内臓破裂の血飛沫を吐き散らしながら吹き飛ぶ。
「あぎゃあぁっ……!」
グシャッ……
豪拳を浴びたものの運悪く即死しそびれて苦悶する兵士が、慈悲深くも頭を踏み砕かれる。
(……死んだ……また死んだっ……! ああまた……! 虫けらのように殺されて……! なのに、なのに私……興奮してるの……? おぞましい、堕落した見せ物なのに……私、私……)
立ちこめる血臭の中で、いつしかジュセットは眼下で引き裂かれ、叩き潰され、吹き飛ばされる地奴の兵士が、まるで自分であるかのような錯覚を覚えていた。
自分があの黒い狗鬼に、圧倒的な力でなす術無く蹂躙され、玩弄され、略奪される、そんな被虐の感情移入に呑み込まれていた。恐怖と甘美な期待によって狂おしいほど加熱された血潮が、早鐘のような鼓動によって全身を駆け巡る。体中の筋肉が、皮膚がせつなく疼く。
「ぎゃふっ……!」
ブシャアッ……!
そして今、地べたを這いずって逃げようとしていた最後の一人が、ザヴァーガの大杭のような脚で鎧ごと胸を踏み潰され、絶命した。
黒い毛皮を血で濡らした闘奴はそのまま仁王立ちになると、指揮官らしきひしゃげた死体を見せびらかすように掴み上げ、観客席に向かって勝利の雄叫びを浴びせ掛ける。
「ァゥオオォオオオォォオオオオオッッ……! 殺殺殺殺殺殺殺ッッ……! さあ次だっ、次はお前らを殺してやるぞッ!」
身分卑しき勝者からの挑発に、観衆達が狂ったようにどよめく。
「もっとだっもっと殺せ殺せぇええっぇえぇぇっっ……!!」
「身分を弁えろこのケダモノめっ!ふざけた口をきくな!」
「いやぁあああぁぁぁっっ来ないでっ来ないでぇええぇえっっ……!」
「おお、マヴェオンよ! 暴虐神の使徒よ! 我らに祝福を……!」
ある者は罵声を返し、ある者は慈悲を乞い願い、ある者は今にも殺されそうな悲鳴を上げ、またある者は暴力神を崇拝するかのような歓声を上げる。市民と貴族階級の者達からなる観客達は、いまやたった一人の奴隷獣人に圧倒され、支配されていた。
「まだだっ、まだ殺し足りないっっっ……! どこだ! 俺に殺されたい奴はどこだ! 犯されたい奴はどこだァッ! 出てこいっ……! 誰だろうと、何者だろうと八つ裂きにしてやるぞ! 犯してやるぞッッッ!」
観衆の喧噪を吹き飛ばすほどの大音声で叫びながら、強大な獣人は腰を突き上げる。
「ひっ……」
ジュセットは思わず息を呑んだ。
殺戮の美酒に酔い痴れるザヴァーガの下腹部から、先ほどまでは獣毛に覆い隠されていた赤黒い肉柱が勃起しきり、熱狂する観客席めがけて攻撃的にそそり立っていたのだ。勃起しきって血管を浮かべて脈動している、女の腕ほどもあるかのような巨大なペニスを目の当たりにして、客席のジュセットはそれがまるで自分を狙っているかのような錯覚を覚えた。
(あの狗鬼に……卑しい怪物に、もし襲われたりしたら私……私……っ……ああ……は……あぁああぁぁ……)
今やジュセットの魂は、恐怖と被虐の官能に無意識のうちに酔い痴れていた。陵辱され、奪われることを望む、破滅願望。
彼女のピンクに染まった滑らかな白肌はじっとりと汗ばみ、産毛がぞくぞくするような快美感とともにさざめいて逆立つ。早く浅い呼吸に心臓が高鳴り、痺れるような熱い血潮を全身に送り出す。膝が震え、掌が無意識のうちに所在なげに開閉する。そして下腹部では具有する性愛器官の片方がチュニックの裾を隆々と持ち上げて勃起し、もう片方も熱粘液を夥しく噴きこぼして蠢いていた。
(ああ、どうしよう、どうしよう私……こんなことで興奮して……ああ、もしあの恐ろしい獣人に……ザヴァーガに見つかったりしたら……襲われて……犯されたりしたら……ああ、こんなになってしまって……)
ジュセットは、脳裏を次々に駆け抜ける現実離れした妄想を止めることができなかった。もし、あの怪物が目の前に現れたら。自分の欲情を見抜かれたら。魔法を使う間も無く、力づくで組み敷かれ、衣服をはぎ取られたたら。あの恐ろしいほどの肉の凶器で貫かれたら。暴力と快楽で、地上を統べる天羽の尊厳をはぎ取られてしまったら……。
(そ、そんなことあり得なる訳がないのに……闘奴のアイツと貴族の私が、一体どこで遭遇する可能性があるっていうの? 私、一体何でこんなことを考えているの……?!)
怒りと歓喜に狂う観客達の中で一人、外套で身を隠しながら人知れず悶々と身悶える。勃起しきったペニスが、ぬかるんで身悶える雌器官が、被虐に目覚めた魂が彼女を内側から責め苛む。彼女はいまや手が勝手に自慰を始めないよう、自分を抑制するのが精一杯だった。
おかげでジュセットは、いつの間にか怪しい影が背後に忍び寄り、手提げの中に小さな封筒をそっと差し入れたのにも気づかなかった。
(2)潜入捜査
「ここが、あの手紙にあった館ね……確かに、人目を憚って違法な催しをするには向いていそうな場所ね」
人気のない森の小道で、ジュセットは雇いの馬車から降りると、周囲にさり気なく目をやる。とうに日は落ちて青黒い空に白銀の満月が輝き、周囲のうっそうと茂る木々は闇そのもの。その合間に辛うじて見えるのは、大きくて古そうな石造りの城館だった。月明かりに煌々と照らされてはいるものの、黒い穴のような窓には明かりが見えず、それと知らなければただの廃墟だと見過ごしていただろう。
先日のコロセアムで若き監察官ジュセットが何者かから受け取った手紙には、この城館で行われる堕落ショーの招待状が入っていた。そこに添えられていたメモには、この館では冒涜的で違法な催しが、貴族や政府高官、豪商達を招いて夜毎開催されているとの告発があったのだ。彼女は敵地に潜入するべく、手提げから件の招待状と、そして仮面を取り出しす。
(今日の所は内偵ね……この目で確かめなければ、手紙一通だけで部隊を率いて踏み込むわけにもいかないもの。もし大物がいたら、準備不足では逃げられてしまうし……招待状には仮面を着けてこいとあったから、私の正体が割れる危険も少ないでしょう)
彼女の心を正義感と使命感が満たす。一つ息をつくと、仮面を顔に当てた。蝶形の面は粘着魔法のおかげでふわりとくっついて、彼女の目鼻を覆う。下縁から薄い布が垂れ下がり、口元までを隠す。そうして顔を隠した瞬間、心臓の鳴る音がとくとくと速まり、腹の奥がじわりと熱くなった。
(だけど、もしあの中で私が監察官だとバレてしまったら……一体どんな目に……きっと大勢の前で、裸にされて……辱められて……?! あ……ああっ、違うわっ……駄目、そんなことを考えては……! 態度に出て怪しまれる……)
それはコロセアムでザヴァーガを目にして以来、彼女の体内に住み着いた衝動だった。夜ともなれば悪夢となって彼女を陵辱し、日中であっても何かのはずみに妄想として浮かび上がっては粘膜を疼かせる、被虐願望だった。
ジュセットはその迷いを振り切ろうと軽く被りを振った。自分を悩ませ続けている衝動を、ただの弱気だと断定して。
そんな彼女の前に、いつの間にか使用人らしき青白い顔をした地奴が姿を現し、深々とお辞儀をすると掌で館を示して歓迎の意を示す。男が纏っている黒い地味な衣装は仕立てが良く、しっかりした礼儀作法の正しさもあって、主催者の品格が伺える。そうしたことをさりげなく観察しつつもジュセットは、いかにも天羽貴族らしい傲慢さで男に目もくれずに、目の前の堕落の館に向けて歩み出した。胸の内に渦巻く妖しい感覚を押さえ込みながら。
†
正体を隠した監察官が招待状を見せると、館中の使用人達は疑う素振りも見せずに彼女を丁重に奥へと迎え入れた。招待状はどうやら偽造などではなく、顧客向けの正規品らしかった。
館の構造は、正面の本館から左右の翼館が奥へと伸びる形になっていて、その間にある中庭にジュセットは案内された。庭の中央には舞台が設けられていて月明かりの照明を浴びている。舞台の周囲には椅子と円卓のセットが何十としつらえられていて、ばらばらと仮面の客達が腰掛けては何やら喋り、酒を傾けているところからすると、ここが今夜の邪宴の会場らしい。
さりげなく目をやると、中庭を囲む翼館の開いた窓にもちらほらと人の気配がある。上階の部屋は中庭のステージを見下ろす貴賓室になっているようだったが、ジュセットの招待状は一般用らしく、中庭の席の一つに案内された。椅子に腰掛けると、若い地婢の給仕が深々とお辞儀をしてから、葡萄酒の杯とちょっとした酒肴を並べてくれた。
ジュセットの後からも、ぱらぱらと新手の客達が入場してくる。彼女は杯に口をつける振りをしながら客達を観察した。
(結構な客入りじゃないの。だいぶ大掛かりな仕事になりそうね……ここには大物らしいのはいないけれど……)
中庭に案内されている客は、天羽と塩蛇、それに身なりの良い地奴が同数くらいだった。皆覆面をしているせいで顔は分からないが、雰囲気からいってここにいる天羽はせいぜい中下級の貴族、塩蛇は上級官吏、地奴の客は富豪商人といったあたりだろう。
(ふうん……どうやら大物は、上の貴賓室からショーを見物する訳ね。他の連中に分からないように。用心深いこと……)
フッ……
不意に舞台を照らす光が強くなる。空気の屈折率を誰かが魔法で操って、周囲の月光が集められたのだ。照らし出された壇上には、若い『地婢』が一人立っていた。『地婢』は地奴と対になるような、これといって特徴のない女性種族であるが、彼女は奇妙な美しさがあった。整った顔立ちに、長い黒髪をかすかに揺らめかせて妖しく微笑んでいる。
身体には、肌の白と対比するかのように胸元と肩を大きく露出した黒いドレスをまとい、胸元にアクセントとして紅色の星飾りをぶら下げている。星飾りはアクセサリーとして身につけているのであろうが、優秀な魔術師でもあるジュセットの見た所では、第一級の魔法防御を備えた本物のアーティファクトのようだった。
そして彼女は、紅色の唇を大きく開く。
「今、満月が、『常若のサルーリア』が我らを照らします! 高貴なる皆様……やんごとなき血筋の皆様! 力強き皆様! 豊かなる皆様……! 今宵も『奈落の館』にご来臨を賜り、光栄の極みにございます! 司会を務めさせて頂く不肖の私、ルルーディも感激の念に絶えません……」
ルルーディを名乗る地婢の女は深々と腰を折ると、舞台から周囲の全方面に向けて何度もお辞儀をする。観客達の大半は種族的に彼女よりも高位のヒラエルキーであるから、これは必要な作法であった。長ったらしい儀礼の口上がしばらく続いて、いい加減ジュセットが飽きてきたころ、ようやく堕落ショーの開幕が告げられた。
「それでは皆様、お待たせいたしました……今宵も『混沌の供儀』を、皆様に捧げたく存じます。まずは……」
(3)奴隷天羽
<略>
(4)獣王
(……ああ……はあ、はあっ、本当に……違法なだけではなくて……不愉快極まるショーだったわ! 奴隷と言えども高貴な天羽の血を引くものを、あのように……下等種族に犯させて、あまつさえ……見せ物にするなんて……絶対に許されない! 堕落だわ! これを放置していたら、この国の秩序が壊れてしまう。裏で糸を引いているのは一体何者なの? 必ず……必ず暴いてやる! 裁きの場に引きずり出してやるわ!)
覆面の下の顔を真っ赤にして、ジュセットは憤りつつも欲情を抑えられなかった。トーガの下の白肌はぐっしょりと汗ばんで、心臓はうるさいほど激しく高鳴り、下腹部ではペニスが痛いほど勃起したまま、子宮が征服者を求めて身悶える。
一方、舞台の上では、息も絶え絶えといった様子の奴隷母娘は、鎖に引かれてふらふらと退出し、再び照明は暗くなった。給仕役の下女たちが庭に出て来て、興奮覚めやらぬ観客たちの間をちょこまかと動き回っては酒を注ぎ、料理を並べ、オークションの投票を受け取る。
しばらくの小休止の後、ルルーディの声が再び舞台に響いた。
「さて皆様、お待ちどうさまでした。いよいよ月も高く輝いております。それでは真打ち登場と参りましょう。今宵は特別なゲストを用意しておりますので、皆様にもきっと驚いていただけることでしょう」
今度は彼女は舞台の手前の地面に立っていて、そこから大袈裟な身振りで挨拶する。先程に引き続き、何やら気を持たせる彼女の物言いに、覆面の紳士淑女も一層の盛り上がりを見せた。
「ふふふ、こうなったらそれなりの出し物でなければ、満足できなくてよ」
「ほうほう。天羽の奴隷も驚いたが、これ以上何があるのかね」
「……そう言えばあの二人、結局誰が落札したのか、気になるな」
ルルーディのアナウンスに、ジュセットも偵察目的ながら、興味を掻き立てられた。
(ゲスト……有名人? 次は一体何をするの?)
じゃらっ
紳士淑女の集う場に似つかわしくない、重い金属の擦れる音が響く。音源は客席の前方、舞台の奥のほうの、照明の当たらない暗い袖陰だった。
そこには、いつの間にか大きな黒い何かがわだかまっていた。
ぬっ……
そして、禍々しいオーラを纏ったその黒い何かは立ち上がると一歩、また一歩と光の当たる舞台へと足を進める。影の中から姿を現したその者は、毛深く。
巨大で。
逞しく。
凶悪な。
(……え、う、ウソ……ま、まさか……? そ、そんなこと、あるわけないわ。ありえないわよね)
ジュセットが何度も悪夢に見たその姿。
(う……ひっ、ひぃっっ……! な、なんで、なんでアイツが……闘技場の、あの化け物が、こ、ここに……?! なんで、なんでっ……?!)
心臓が恐怖にわしづかみにされる。喉が一瞬でからからに乾き、下腹部の両性器官達は被虐の期待に身悶える。
「お、おいおい……これ、本当なのか?」
「なんだぁアイツは……あ、あれ……もしかして……」
舞台の上から観客達を睥睨するその存在は、天衝くかのような長身に、黒い毛皮と、盛り上がった筋肉。全身から醸し出される岩山のような存在感。長い腕の先でぎらぎら光る、大振りのナイフほどもある十本の爪。奇妙なほど音を立てない、大樹のごとき両脚。絶対の自信と肉食獣の本能に輝く、黄金色の双眸。めくれ上がって牙を覗かせる大きな唇。
「……闘技場に君臨する暴力神の化身! 百戦無敗、千人虐殺を達成した血まみれの魔獣! さあ、どうか皆様……歓喜と畏怖をもってお迎えください……本日のゲスト……『黒の殺戮者』ザヴァーガです!!」
隔てる物無く目前の舞台に立つその姿は、闘技場の客席から見下ろすよりもはるかに巨大で圧倒的で、抗い難い存在に見えた。そして、黒い魔獣は射抜くような視線で確かにジュセットの目を覗き込んだのだ。
(あ、ああぁああっ……ザヴァーガ、ザヴァーガぁっ……! こっちを見た……犯されるっ! 殺されるっ! 今度こそっ……ああ、ああ、ああ……!!)
視線をあわせてしまったジュセットの体内を、つま先から頭のてっぺんまで、戦慄と狂おしい衝動が駆け抜ける。闘技場で見た光景と、思い浮かべていた悪夢がフラッシュバックする。
なす術も無く、圧倒的な力で吹き飛ばされ、打ちのめされ、叩き潰される。その恐怖。ひん剥かれ、踏みつけられ、巨大なペニスで陵辱される。その虐悦。
「ひっ……いや、いやぁああぁぁっっ!」
彼女が悲鳴を上げた瞬間、ザヴァーガは軽く胸を張ると、耳をつんざくほどの大声で咆哮した。
「……ォウォオオォォオオオォォオオオォォッッッ……!」
殺戮の化身たる巨大な獣人に雄叫びを浴びせかけられて、あまりの出来事に唖然としていた観客達も、皆椅子から転げ落ちるほどのショックを受けた。
「うひぃいいぃぃっっっっ……」
「なんて……なんて化け物を連れて来るんだっ……! こ、殺されるっ……!」
「たっ助けてぇえぇっっ……!」
慌てふためき、パニックを起こしかけた紳士淑女達を、冷静な声でルルーディが宥める。
「皆様、皆様……! どうかお静かに……お心をお静めください。落ち着いて、ザヴァーガの首をご覧にください。ほら……!」
「あ……鎖……」
登場のインパクトで見落とされていたが、見ればザヴァーガの首輪には太い鉄鎖が繋がっており、その端は舞台の裏側あたりに固定されているようだった。黒々と光る鎖は、それを構成している輪の肉厚が大人の指ほどもある頼もしいもので、さしもの魔獣もこれを逃れることは不可能に見えた。
そのおかげで観客達もなんとか落ち着きを取り戻し、多少の不安の残る声色ながら、再びざわめき始める。
「な、なんだ、繋いであるのか……ふう、脅かしよって」
「あの鎖の長さなら、客席には降りてこれまい。どれほど凶暴でも所詮は繋がれた犬というわけか。ハハハっ」
「ふう、はあ……ああ驚いた。酷い趣向だこと……それで、あの闘奴で、この私をどう楽しませてくれるのかしら」
所詮は身分卑しき獣人闘奴、と嘲り軽んじる声があたりに満ちていく。
ジュセットもわずかに落ち着いたものの、心臓の動悸がいまだ収まらなかった。表面だけをなんとか理性で取り繕って、椅子に腰掛け直す。
(だ、大丈夫……あの太さの鎖なら、いくら狗鬼が強くたって、力任せでは千切れなどしないし……ああでも、もしかしてあいつが……だめ、だめよそんなこと考えてばかりでは……これは使命……腐敗した悪党どもをあぶり出す使命なんだから……)
大きく呼吸を繰り返し、なんとか冷静になろうとする。そこに、舞台の上に繋がれた恐怖の主が、分厚い唇をまくり上げて言った。
「おい。俺は何をするんだ? わざわざ連れて来られたが、どいつを八つ裂きにすればいいんだ?」
ドスの効いた、下腹にびりびり響くような低く猛悪な声だった。その言葉に、舞台の下、ザヴァーガの鎖の届かぬ場所でルルーディが答える。
「はい、それではお楽しみの説明をさせて頂きます。獲物を出してください」
彼女が指を鳴らすと、舞台の上にぞろぞろと大勢の人間達が引き出されてきた。それは皆、首輪一つで全裸の奴隷だった。月光に目映く輝く白い肌の女性種族や、乳房と勃起ペニスを揺らす両性種族、毛深い肢体の獣人など、二十人ばかり。
皆、噛み合わない歯をがちがち鳴らし、眼を見開いて、わなわなと震える足を引きずるように歩いている。ショーの相手が悪名高いザヴァーガと知って、絶望的な恐怖に打ちのめされているのだ。彼女達は殺戮者から出来るだけ離れようとして、引き出された後も舞台の端に固まるようにして震えている。
ゲームの獲物が全部揃ったのを確認してから、舞台の下のルルーディはサディスティックな笑みを浮かべて説明した。
「ルールは簡単です。ザヴァーガ、貴方は手の届いた相手なら、何をしてもいいですよ……殺そうと犯そうと、なんでもかまいません」
ザヴァーガを繋いでいる鎖の長さは舞台の上をちょうどカバーする。残虐な宣告に、奴隷たちは悲鳴を呑み込んですくみ上がる。全員、今にも逃げ出しそうだったが、かろうじてその場で踏みとどまっていた。その理由が邪悪な司会者によって説明される。
「次にお客様。もし奴隷が舞台から落ちたら、拾った方がお好きなようにして頂いて結構です。持ち帰るなり、この場でお楽しみになるなり自由になさってください。もちろん、殺すことも含めて、です」
(なっ……なんて冒涜的で、おぞましい見せ物なの?! 奴隷は労働力であって家畜ではないのよ。いや、家畜だってこんな酷い扱いはないわ!)
観客たちにとっては楽しい残酷ショーだが、奴隷達には逃げるも地獄、残るも地獄の邪悪極まりないゲームである。いや、もはやゲームと呼ぶには値しない、堕落しきった余興だった。いまだ抱えている本能的な恐怖を一瞬忘れるほどにジュセットは憤った。
「なるほど、そう来たか。逃げそびれても、逃げられても楽しめるというわけか。くくくっ……」
「ほほう。これはぜひ、私も一匹捕まえてみたいものだな。おい、席を替えるぞ。前に行こう!」
「あらあらいやねえ……天羽の私に何をさせる積もりなのかしら? くすくす」
ジュセットの密かな怒りなど知らぬ貴族や商人達は、哀れな者達を虐げる卑劣な楽しみを期待して盛り上がった。正体を隠すための覆面の下から、どろどろと濁った視線でおびえ切った奴隷達をねめつけ、邪欲に塗れた野次を飛ばす。だが、そんな彼らの興奮に水を差す声がびりびりと響いた。
「ふん。クソ下らん見せ物だ!」
舞台の中央で、当の闘奴ザヴァーガが吐き捨てるように言ったのだ。ルルーディが怪訝そうな顔で見返す。
「え、何か言いましたか、ザヴァーガ?」
「ろくに抵抗もできないような雌どもとの鬼ごっこなど、つまらんと言った。高い金を払ってこの俺を、黒の虐殺者ザヴァーガを連れて来てやるようなことではない。つまらん。馬鹿げている。無駄だ。こんな愚かしい見せ物に喜ぶ貴様ら豚どもは、目玉でも腐っているのか?」
仁王立ちの巨獣は軽蔑に唇を歪め、どろどろと良く通る低い声で堂々と主催者や客達を痛罵した。自身は奴隷で、客達は上級市民や貴族であることなどまるで眼中にない様子である。
この世界の基礎である身分制を頭から無視したその態度に、観客達は怒りの声を上げ、口々にザヴァーガをなじり始めた
「な……何を生意気な。下等動物の狗鬼風情がいい気になるんじゃないぞ!」
「これだから愚かな獣人は困る。言われたことだけやっておればいいのだ」
「まあっ不愉快な……コロセアムで少々ちやほやされてるみたいだけど、思い上がっているのではないかしら?」
「主催者! あいつに罰を与えろ! 調教が足りないぞ!」
手を振り上げて指差し、机を叩いて怒る。下賎な奴隷に堂々と反抗された苛立ちに、地面に食器を叩き付ける者までいる。
「……あら、じゃあどうしてくれるんです、ザヴァーガ? これ、うちの主催者が考えて準備した出し物ですからね。ケチをつけるなら、それなりのケジメはつけてもらいますよ」
盛り上がりをぶち壊されたせいで、ショーの進行役であるルルーディの声も凍り付くように冷たい。だが、大勢の権力者や金持ちを相手にして、鎖に繋がれた獣人闘奴は、傍若無人の態度を崩さなかった。
「フン……おい司会。俺は捕まえた奴をどうしてもいい、というルールだったな」
ザヴァーガが一歩前に出る。魔獣を繋ぎ止めている太い鎖がじゃらりと鳴る。
「……ええ。殺すなり犯すなり何でもご自由に、ですけどどうするの? ザヴァーガ」
「あとで撤回するんじゃないぞ。 ……ではお前ら薄汚い豚共に、本当の楽しみとはどういうことか教えてやろう」
そう言って巨大な獣人は、にやりとふてぶてしく笑う。それから、大きな両手で首輪につながった鎖を掴んだ。右手で首輪に繋がる部分、左手でその少し下を掴み、ひねるようにして力を込める。
ピキッ……ッ
すぐに、何かが限界を越えたような、不気味な音が響いた。
「うっ……?」
「な、なんだっ……!?」
(何っ、今の音は何? ま、まさか……)
ザヴァーガが牙をぎりりと噛み鳴らす。毛皮ごしにはっきり見て取れるほど、全身の筋肉が大きく盛り上がる。
「ゥヌンッッ!」
……バギンッ!
気合いとともに、ザヴァーガの両手の間から、黒い金属の破片が弾け飛んだ。殺戮魔獣を戒めていた太い鉄鎖は、ロウ漬けの弱い箇所に的確に力を集中されたせいで、あっさりとねじ切られられたのだ。
がちゃんっ……
舞台の床に無造作に投げ捨てると、ザヴァーガはにやりと笑って。
「……ウ……ァァオォオオオオオオオオォォォッッッ……!」
骨まで響くほどの咆哮を観客、いや獲物たちに浴びせかけた。
それは狩りの自由を得た肉食獣の、歓喜の雄叫びだった。
捕まえた相手をどうしてもいい、というルールだった。
そしていまや、圧倒的な力を誇る殺戮者は、この館の全員を捕まえることができるのだ。
(う、うそ、こんなの、まさか……っ、現実に、現実になるなんてっ……ああ……に、逃げなきゃ、逃げなきゃ……)
舞台の上で、悪夢が現実と化していた。
しかし、ジュセットは金縛りにあったかのように動くことができなかった。全身の筋肉が言う事を聞かないのだ。ただ椅子に座ったまま、目を見開いて、前方に仁王立ちする恐怖の化身を呆然と眺める。
茫然自失は他の観客達も、司会も同様だった。舞台の上の奴隷達などは皆腰を抜かしてへたり込んでいる。
「おい司会、それを寄越せ」
「あっ、ちょっとそれっ……」
巨獣は音も立てずに舞台の端にまで歩くとしゃがんで手を伸ばし、一瞬のうちにルルーディが胸元に下げていた魔法抵抗のアミュレットを奪う。もはや無抵抗な奴隷達など目に入っていないことは明らかだった。
そして高貴な身分の観客達は、今度は自分達が獲物になったという現実をようやく認識し、混乱のるつぼに陥った。
「たっ助けてっ衛兵衛兵っっ……!」
「兵隊じゃ無理だ! 誰かが魔法っ、魔法を撃てっっ!」
腰を抜かし這いずって逃げようとする者。倒れた机の影に隠れようとする者。
「ああぁああぁぁっっ、あいつ護符を持ってるぞっ、いつの間にっ……これじゃ、魔法一発じゃ効かないっ」
「嫌よっ私は嫌っ! もし倒し切れなかったら逆に狙われてしまうわっ、なんで私がっ……」
ヒステリーを起こして喚き散らす者。紳士淑女の集っていた城館の中庭は、たった一人の奴隷獣人のせいであっと言う間に阿鼻叫喚の地獄図と化していた。
「た、た、大変なことになりましたっ……皆様っ、ここはどうか刺激しないでっ……」
ルルーディも冷静さを失いかけながら、かろうじて無難な対応を呼びかける。一方、当のザヴァーガは舞台で立ち上がると、堂々とした態度で客席を眺め回し、獲物を探していた。
(ああああっあいつが、あいつがっ……これは夢……夢じゃないのっ……ひっ……こ、こっちを、私を……)
椅子に腰掛けたまま、蛇に睨まれたカエルのごとく身動きのできないジュセットは、黄金色にぎらつく獣の瞳と視線を交えてしまい、心臓が潰れるかのようような衝撃を受けた。それは闘技場で目撃してからずっと彼女に不安を抱かせ続け、そして被虐と破滅の願望を掻き立てさせ続けてきた怪物だった。
「ほほう」
ザヴァーガも彼女を認め、牙を剥き出してニヤリと笑う。
「あ、ああ……あああ……」
ジュセットの全身を甘くおぞましい痺れが貫いた。
(来る……あいつっ、私を狙ってるっ……)
それは、発狂しそうなほどの恐怖だった。同時に、圧倒的な存在に屈服させられる、被虐の期待だった。破滅への願望だった。
心臓が今まで経験したことがないほどの、メチャクチャな速さで鼓動する。
(動け、動けっ足っ身体っ……ああっ駄目っ、動けっ……殺されてしまうっ)
理性は脱出を必死に試みるものの、肉体は恐怖と願望に縛られて動けない。そんな時間は一秒も無かったろうが、舞台の上の黒い魔獣はジュセットめがけて音もなく跳躍する。
どっ
ザヴァーガの鍛え抜かれた巨躯は、十メートル近い距離を一跳びで軽々と飛び越え、ジュセットの目の前に地響きを立てて着地した。
<つづく>