ネクロ☆ロマンティック

〔I〕 死者の国

『順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ──

牧師の言葉が、ハロルドの頭の中にこびりつくように残っていた。

礼拝の終わりを告げる鐘の音とともに、石造りの聖堂を満たしていた厳粛さは薄れ、席を立つ人々のざわめきが慎まれていた日常をにわかに呼び戻す。幾人かの敬虔な信者はすがるように牧師の元へと集まり、各々胸に秘めた思いを告白していく。ある若者は事業の成功を願い、ある老人は腰の痛みを訴え、ある女性は夫婦仲がうまくいかないことを打ち明けていた。

彼らには、望みがある。神の恵みにあずかり、歩まんとする未来がある。

一切合財を失ったハロルドには、何も望むものなど無かった。むろん、失ったものをすべて取り戻せるというのならば願ってもないことであるが、到底起こりようのない奇跡を待ち望むほど現実から目を逸らしてはいない。

もっとも、彼は信仰にあつい訳ではない。ごく最近になってからのことである。安息日が来ると、何とはなしに街の教会へと足を運ぶようになったのは。


街は周囲を堅牢な石壁に囲まれた、かつての城塞都市である。市街地は城郭を中心に内堀で南北に隔てられ、古い橋梁が大きなかすがいのようにその間を繋ぎ止めている。

北区と南区はそれぞれ別の自治体として機能しており、住民同士の交流はきわめて少ない。とりわけ対立意識といったものはないが、同じ街に暮らしながらにして空間的な隔たりを持つ双方の関係はどことなくぎこちない。

教会もそれぞれの区間に建てられており、南北でほぼ同時刻に鳴らされる礼拝堂の鐘は、やや間を置いて重なり合い、こだまのように街中に響き渡る。それは閉塞しがちな互いの関係に微かな安寧をもたらしていた。

ハロルドは現在、街からは離れた場所に住んでいる。いま訪れているのは南区の教会である。ハロルドはもと北区在住者であり、ここ南区において彼を知る者はない。

ところが、今日はそこにハロルドの良く知る顔があった。デメター家の当主で、北区在住の人物である。彼は人情にあつく、ハロルドもしばしば世話になっていたので見間違えようがない。彼は牧師に何かを打ち明けようとしていたが、やがて諦め礼拝堂を後にした。彼はハロルドの存在に気付いていなかったが、ハロルドもあえて彼に声をかけることはなかった。

なぜ北区の者が、まして良家の当主がわざわざ一人で南区の教会を訪れていたのだろうとハロルドはふしぎに思った。あちらの教会では打ち明けられない悩みでも抱えているのか、あるいは自分と同じように‥‥複雑な境遇にあるのかもしれない。彼の沈んだ表情が、妙に気にかかった。


教会の門を一歩出ると、そこは露店の立ち並ぶ賑やかな大通りである。週末ともなれば人で溢れ、酒場は昼間から酒をあおる労働者でごった返し、路地裏には扇情的な格好の若い女が通りを行き交う男たちを物色している。礼拝堂では厳粛な面持ちで祈っていた者たちも、籠から放たれた鳥が空へと吸い込まれるように享楽と欲望の渦巻く俗世へと飲み込まれていくさまを、ハロルドは何の感情もなく見つめていた。デメター家の当主の姿はすでに無かった。

ハロルドは大通りを避けるように住宅街の近くにある商店街へと赴き、一週間分の物資を買い込む。商店街には大通りほどの賑わいはなく、店主らは一様に無愛想で〈余所者〉と口をきくこともないが、ハロルドは気兼ねをせずに済んだ。北区と南区において食習慣などの文化的な差異はなく、流通している物品も大体同じである。あたかも城塞の中に複製された二つの国が存在しているかのようだ。ハロルドは、パン、チーズ、瓶詰といった保存の利く食料品、そして肌着や灯油など必要最低限の日用品を手際よく揃えると、最後に古書店に立ち寄り適当な分厚い本を二冊手に取った。一杯になった布鞄を抱え、ハロルドは南区の東側にある小さな石壁の門をくぐり、足早に街を後にする。


ハロルドは裏街道を歩いて北東へと向かった。

石壁の街は徐々に遠ざかり、時折聞こえてくる鳥のさえずりや風のささやきが、耳に残る街の喧騒を過去へと押し遣っていく。田畑の心地良いにおいが、すさんだハロルドの気持ちを幾分穏やかにした。

道沿いには広漠とした麦畑が広がっている。山麓の農村へと通じているだけの田舎道を行き交うものは少ない。都市部では自動車が主な交通手段となっているが、郊外の舗装されていない道路では今なお馬車が使われている。

やがてハロルドは、年老いた栗の木と古い納屋との間にある旧道へと入っていった。旧道はおおよそ道とは呼べないほどに荒れ果てており、くっきりと残された荷馬車の轍だけが、薄暗い森の中へと通じている。

森へと近づくにつれ、辺りは不気味な静寂に包まれていく。人はおろか生き物の気配すらなく、白昼であるというのに雨曇りのように薄暗い。寂寞が旅人の魂を支配する。


初めてこの地を訪れた者は言い知れぬ不安に踵をめぐらすという。

なぜなら、この森は死者の国への入口であるからだ。

旧道を塞ぐように古びた鉄格子の門が現れ、轍はさらにその奥へと続いている。

ハロルドは鎖で繋がれた門の錠前を外し、静かに片側の扉を開けた。プキィィ、と不気味な音が森に響く。


──そこは、死者の眠る場所。現世と隔てられた空間。そして、万人がいずれ行き着くところ。


彼らはただ静かに、そこに佇んでいる。おびただしく群れをなすそれらのひとつひとつが、彼らの生き、その生涯を終えた証として。あるいは、ただ、打ち捨てられた事実として、遺されている。


墓地の内部にひっそりと建てられた木造の小屋は、木立の中に溶け込み、訪問者がまずその存在を気に留めることはない。

ハロルドは一杯になった布鞄を押し込むように、狭い小屋の扉を開け中へと入っていく。小屋の中は馬一頭が入れる程度の広さであるが、小奇麗に整えられ、簡素なベッドやコンロも設えられた生活空間となっている。


時刻はまだ午後の三時をまわったところであるが、辺りはいっそう暗く、小さな窓から入る僅かな光がかえって室内の暗さを際立たせていた。窓辺に置かれたパキラの鉢植えがその僅かな光をまとい、床にぼんやりとした影を落としている。

ハロルドは床に荷物を置き、椅子に腰掛け息をついた。住み慣れた部屋の雰囲気と生活臭が彼を安堵させた。


彼は行政から墓地の管理を委託された、いわゆる墓守である。

墓荒しは近世まで横行していたというが、今どき好き好んで人の墓を掘り起こそうとする者はいない。仕事と呼べるのは錠前の管理と墓域の清掃くらいである。決して多くはないが賃金も貰えるし、こうして住む場所も与えられる。条件の良い仕事と言えるだろう。もっとも、こうした場所で日常生活を送ることに抵抗がなければの話であるが。

静寂と孤独の中に身を置ける環境は、隠遁生活を送るハロルドには打ってつけであった。

何より、この墓地には、最愛の息子が眠っている。


にわかに強い風が吹き、木々のざわめきが小屋を包み込む。屋根に木立の枝が当たり、ぱしん、ぱしん、と不規則な音を立てる。時にそれらの事象は何者か──あるいはそれ以外の何か──の来訪を感じさせることがままある。ハロルドは何とはなしに椅子から立ち上がり、窓から外を見た。曇ったガラス越しに見える門の先には何者の姿もなく、ただ静かに佇む墓標と、風になびく深緑が見えるだけであった。

ハロルドが荷物を片付け終える頃には、すっかり暗くなっていた。

ランプの下で、買ったばかりのパンと瓶詰めのオイルサーディンで簡単な夕食を済ませる。もう、やることは他にない。分厚い本のページをめくりながら、ただ静かに夜が更けていくのを待った。


風のない、穏やかな夜が訪れた。

静寂がハロルドの神経を研ぎ澄まし、本に綴られた物語に、より意識を浸透させていく。

ランプの灯がちらりと揺らめいた瞬間。

それは不意に、脳裏を過ぎった。

〈この墓地に居るのは僕ひとりではない──

ハロルドは、はっと顔を上げ辺りを見回した。

意識が急速に現実へと引き戻され、水中で長く息を止めていたように呼吸が荒くなる。

確かに、誰かが語りかけてきたような‥‥気がした。

耳を澄ませれば微かに木々のざわめきが聞こえるが、その他には物音ひとつない。窓にはぴったりとカーテンが引かれ、中から外を窺うことはできないし、その逆も然りである。夜間はテーブルの脇に移している鉢植えのパキラだけが、ただ静かにその場に佇んでいた。もはや、この部屋に存在するのが自分ひとりである事実は疑いようがない。

いわゆる予知能力や霊感といったものは欠片も持ち合わせていないハロルドが、墓守となって半年余り、このような感覚に心をとらわれたのは初めてだった。おそらくは、彼の直感が心の声となって、彼自身の耳に届いたのだ。

間違いない。この墓地には誰かがいる。僕の存在を、知っている。

それは〈気のせい〉で片付けられるほど漠然としたものではなかった。

あるいは人なのか、人でないものなのか──

普段の彼ならば、後者の可能性を疑ったであろう。しかし、もしそれが息子であるならば‥‥とは、その刹那、ハロルド自身が抱いた淡い願望でもあった。

明くる日は小さな葬列が墓地を訪れた。

親族は比較的若い夫婦で、まだ小さな男の子と女の子を伴っている。その後ろにやや距離を置いて数名の参列者が連なっていた。大きな花束を抱えた女の子が、しんみりした面持ちで歩く父親をたどたどしい足取りで追い、男の子は黒いヴェールの下でうつむいている母親の表情を心配そうに窺っていた。棺は先に到着し、墓穴も既に整えられている。親族と参列者が棺の周囲に集まり、牧師と共に慎ましく祈りを捧げ、死者に花を手向けた。


ハロルドは時折小屋の窓からその様子を窺っていた。墓守として彼らに対してなすべきことは無く、ハロルド自身も彼らと関わるつもりは無かった。彼らも墓守の存在などまったく意に介していないだろう。

葬列は死者に別れを告げると、見えないしがらみから逃れるように足早にその場を離れ、鉄格子の門を出ると不機嫌なエンジン音とともに去っていった。後に残った牧師と日雇いの労働者たちが棺を埋めていく。その淡々とした作業風景は厳粛さを欠いたごく日常的なものに見えた。しばらくの間、男たちの掛け声に混じってスコップが土と石を弾く音が聞こえていたが、昼前には一連の作業は終わり、墓地はいつもの静けさを取り戻していた。

彼らは然るべく死者との決別を果たしたのだ、とハロルドは思った。

死はごく有り触れたものであり、また避けることのできないものである。ゆえに我々はそのさだめを受け入れ、もし深い悲しみが心をほだすのであれば、それと決別せねばならないのだ。明日を生きるために。


ハロルドは、未だ息子の死を受け入れることができずにいた。

妻と離別してからというもの男手ひとつで育ててきた最愛の息子、ヘクター。色白で、素直で、しがない労働者に過ぎなかったハロルドを父親として敬愛していた。ヘクターは病弱で、すぐに体調を崩すので何かと必要を迫られたが、ハロルドは露ほども気にしてはいなかった。ヘクターの存在こそが彼の生き甲斐であったのだ。

ヘクターは寒い冬の日に突然、この世を去った。

いつものように『お休み』を言って夜の眠りに就いたまま、朝には冷たい亡骸になっていた。

突然の衰弱死であった。まるで悪戯のようにその命の灯はかすめ取られてしまったのだ。

いったい何を悔やめば良いのか、誰を責めれば良いのか、遣り切れない思いがハロルドを自暴自棄に駆り立てた。おかげで、職も家も信頼も失い、天涯孤独の身となった。あの住み慣れた街も離れざるを得なくなった。


僕が墓守となったのは、せめてヘクターの眠るこの地に、息子の側に、いてやりたかったからだ。

しかし葬式の時以来、再びヘクターの墓を前にする勇気さえ持てずにいる。

果たして、このままで良いのだろうか。

昨夜ふと脳裏を過ぎった、あの‥‥いや、それは、問題ではない。

ただ、ひとつ確かなことがある。

──息子は、ここに眠っている。

僕は、息子の死を、受け入れなければならない。


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