ネクロ☆ロマンティック

〔III〕 断頭台

ハロルドは再び墓地の奥へと向かった。

薄曇りの空があらゆるものに満遍なく影を落とし、時の流れを淀ませている。道端に生い茂った草はたっぷりと露を含み、ハロルドの靴を濡らしていく。

気がついた時にはあの古い礼拝堂を前にしていた。距離にしてみれば墓守小屋からそれほど遠くはないが、まるで別の世界へ来てしまったような奇妙な感覚にとらわれる。礼拝堂とその脇にひっそりと建てられた庵も、以前と変わることなくその場に存在していた。降り続いた雨が赤茶けた煉瓦の壁の色を幾分鮮やかにし、露に濡れた蔦は建物全体を瑞々しく彩っていた。


ハロルドは呼吸を整え、気を静めた。ただ墓守としての職務を果たすまでだ、と自分に言い聞かせながら。

庵のドアの前に立つも、ノックしようと思うとさすがにためらいを覚えた。ドアの向こうには、あの赤い髪の少女が居るのだ。果たして彼女は、僕が訪ねたら──もしあの時、僕の存在に気づいていたとしたら──何を言うだろう。どんな眼差しを僕に向けるだろう。その時、僕はどう言葉をかけたらよいのだろう。

頭の中で、ありとあらゆる状況を想像してみた。

いいや。下手に考えても仕方がない。

僕と彼女のあいだには何の関係もない。僕はただ彼女に通告をし、もし必要ならば事情を聞くだけのことなのだ。

ハロルドは崖から身を投げる思いでドアをノックした。

ドアを叩く音は、ハロルド自身の耳にひときわ大きく響いた。

‥‥だが、返事は無かった。

しばし間を置き、再びノックをしてみたが、やはり返事は無かった。

不意に、あの時に見た少女の背中が記憶によみがえる。もしかしたら、出るに出られない状況で身を潜めているのかもしれない。そう思うといささか抵抗を感じたが、おそるおそるドアの窓から中を覗き込んでみた。

部屋の中に、人の気配は無い。

硝子の曇りで見えにくいベッドの上やドア付近も注意深く確かめてみたが、やはり誰の姿も見当たらない。

はっと振り返り周囲を見渡したが、辺りはしんと静まり返り、色褪せたフィルム写真のように光を失ったまま時を留めていた。そこにあるのは圧倒的な孤独である。建物の何処かから、雨垂れの音だけがゆっくりと時を刻むようにリズムを奏でていた。


ふと、礼拝堂の方に目を遣ると、入口の片側の扉が半開きになっていることに気がついた。

最初に来た時には、開いていなかったはずだ。

それは、何者かが出入りした痕跡に他ならない。可能性として考えられるのはあの少女であるが、必ずしも彼女であるとは‥‥あるいは彼女一人であるとも限らない。粗暴なならず者が複数名潜んでいるかもしれないし、最悪、彼女は誰かにかどわかされているのかもしれない。そう思うと胸が騒いだ。

ハロルドは急いで墓守小屋に戻ると、小屋の裏手にある物置からカンテラとマッチを出し、溝を掘る細長いスコップを手に、再び礼拝堂を訪れた。靴は草露でしっとりと濡れ、靴下も湿っていた。走っての移動は身に堪えたが休んでいる余裕はない。ハロルドは息を殺しつつ、そっと礼拝堂へと足を踏み入れた。

礼拝堂の中はがらんどうであった。ぼろきれのようになったカーテンの隙間から入る光が、辛うじてその内部を照らしている。中央には祭壇があり、埃まみれの細長い机と椅子が放置され、空になった棚には壊れた燭架などのがらくたが詰め込まれていた。金目のものは少しも残されていない。いたる所に張り巡らされた蜘蛛の巣が綿のように窓や天井を覆い、長い時の流れをその場に留めている。

ハロルドは人の侵入した形跡を探した。床一面、埃まみれであったが、入口から奥の廊下へ続く床には道筋のように埃の薄くなっている部分があった。よく見ると靴跡のようなものが残されており、何者かがその場所を往復していたことが窺える。ハロルドは極力足音を立てないように奥の廊下へと進んだ。突き当たりには頑丈な木の扉があり、押してみると、ビィィ、と不吉な音を立てて開いた。扉の隙間からはひんやりした空気が流れ込んでくる。

どうやら地下室へと通じているようだ。黴臭いにおいが鼻をつく。蜘蛛の巣は、人ひとりが通れる程度に取り払われていた。天井は高く、注意していれば手にしたスコップをぶつけて音を立ててしまう心配もないだろう。ハロルドはカンテラに灯をともすと、煤けたような黒っぽい煉瓦で覆われた地下への階段を、一段一段、注意深く降りていった。


地下の通路の奥に、ほんのりと明かりが見えた。間違いない。地下室に誰かがいる。だが、物音も話し声も聞こえてはこない。ハロルドは通路脇の柱の陰にカンテラを置き、スコップを構えるとゆっくりと光の方向へと進んでいく。

通路の突き当たりには大きな扉があった。扉は半分ほど開かれており、光はそこから漏れている。音を立てないようにゆっくりと扉を開き、中を覗いてみた。

そこは、倉庫のような、随分と広い部屋だった。隅にある小さなテーブルの上には、火のともされたランプが置かれており、室内をぼんやりと照らしている。目が暗闇に慣れるのを待って室内の様子を確かめた。壁は煉瓦で覆われ、巨大な木の柱と梁が天井を支えている。かなり広い空間だが、ほとんど物は置かれていない。ただ、部屋の中央に、何やら背の高い装置のような物がどっかりと腰を据えていた。

ランプの明かりはともされているが、なぜか人の気配は感じられなかった。少なくともならず者が潜んでいる可能性はないだろう。ハロルドはそっと、部屋の中央に置かれたそれに近づいてみた。


それは〈断頭台〉であった。

中世に作られ、実際に何処かで使われていた物のひとつであろうか。首を落とすという処刑法が廃れて半世紀以上になる。しかし、なぜそれが礼拝堂の地下にあるというのか。忌まわしいいわくつきの遺物として、敢えてこの場所に安置されたのかもしれない。それを思うと、人の業の深さというものを感じた。見上げると、高さ三メートル程もある二本の柱の間にはめ込まれた斜状の刃が天辺まで吊り上げられ、研ぎ澄まされた刃はランプの明かりを反射してぎらぎらと不気味に輝いている。それは今まさに死刑囚の首を落とさんとする殺意と緊張感を漂わせていた。ハロルドはかつてそれが多くの死刑囚や権力者の命を奪ってきた歴史を想った。断頭台の置かれた広場に民衆が集まり、口々に何かを言いながら処刑を見物している、その歓声やら罵詈雑言までが今にも聞こえてくるようだった。それは断頭台の露と消えていった者たちの魂のざわめきだったのかもしれない。


しかし、半世紀以上も前の物がこのような状態で保管されていることに、強い違和感を覚えた。あまりに手入れが行き届き過ぎている。刃は研かれて錆ひとつなく、今なお現役であるかのようだ。

ハロルドはテーブルの上にあったランプを手に取り、断頭台に近づくと、台座の上を照らしてみた。そこは多くの命が散らされた場所である。直感的に、そこに「何か」があるような気が、したのだ──

台座に横たわっていたものが生身の人間であると気づいたとき、ハロルドの背筋は凍りついた。

仰向けに横たわるその身体は、台座に比べて随分と小さい。黒いワンピースドレスの隙間から、細く白い手足が伸びている。女の子だ。たぶん、あの長い髪の‥‥いや、誰であるかなど今は問題ではない。

罪人を固定する台座のベルトは紛失しているらしく、少女の体は固定されていなかったが、首の部分はしっかりと枷で固定されている。その真上で鈍い光を放つ刃と、地下室の壁に映った断頭台のシルエットが、今にも鎌を振り下ろさんとする死神の姿に見えた。

状況から見て、彼女の首はまだ繋がっているはずだ。ハロルドはランプを手に、距離を保ちながら、恐る恐る頭の見える方へと移動していった。

組み合わさった首枷の向こう側に、小さな頭がついていた。赤い長い髪がまとめて枷の向こう側に垂らされ、滝のように床の上へと流れている。少女は仰向けに、静かに目を閉じていた。

ハロルドがそっとランプの光を向けると、少女のしなやかな肌が照らし出される。ハロルドは思わず息を呑んだ。まるでビスクドールのように整ったあどけない顔立ち。頬はふっくらとして瑞々しい生気を湛えている。


ハロルドは、どうして良いのかわからなくなった。

見たところ少女は、自らの意思でそこに横たわっている。そして、その表情は余りに安らかでなのある。


少女の瞼がゆっくりと持ち上がったのは、その直後であった。

ハロルドは、彼女の顔から心持ちランプの光を逸らせると、半歩ほどゆっくりと後ろに下がった。


少女は眩しそうに目を細めたまま、ちらりとハロルドを見た。そして安心したように、すう、と息を吐いた。

ごめんなさい」

その言葉が少女の口から発せられたものであると気づくのに、しばしの時間を要した。

‥‥‥

ハロルドは何か言わなくてはと思ったが、うまく言葉にならなかった。混乱して、頭の中がうまく整理できない。

少女の発した言葉を頭の中で咀嚼するように繰り返し、必死にその意味を探った。

彼女は〈ごめんなさい〉と言った。僕に。いったい、なぜ──

「私が、ヘクターを、死なせてしまった」

続けて、少女は言った。胸に溜めた空気をすべて吐き出すように。

「ヘクター?」

〈ヘクター〉とはいったい誰なのだろうと、ハロルドは考えた。考えるまでもなく、それは息子の名前である‥‥が、果たして彼女の言うヘクターとは、僕の息子のヘクターのことなのだろうか? 今ひとつ確信が持てない。

ハロルドは押し黙ってしまった。意味がわからない。彼女と息子に何のつながりがあるというのだろう。記憶を漁ったが、混乱した頭でそれを辿る糸口は見つかりそうになかった。


ハロルドが思索していると、少女はゆっくりとハロルドの方を向いた。

ハロルドは、はっとして、考えるのをやめ、少女と目を合わせた。


少女の口がぱくぱくと動き、そして微笑みを浮かべた。

彼女は何か言葉を発したのだ。しかし、ハロルドの頭に届くのにいやに時間がかかった。

理性が言語を解する前に、背筋の凍りつくような戦慄が全身を駆け巡り、肌が粟立つのを感じた。

少女は微笑んだまま目を閉じ、顔を真上に向けた。そう、死神の刃に向かって。

その時、ようやくハロルドの頭に彼女の発した言葉が届いた。


〈 さ よ う な ら 〉


少女はゆっくりと腕を上げた。そのか細い手に握られた紐は、断頭台の天辺に向かって伸びている。


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