ネクロ☆ロマンティック

〔V´I〕 肉体

「きみは、何も悪くない」

‥‥でも」

重たい石を担いだように背を丸め、うなだれる少女に、ハロルドはもう一度繰り返した。

「いいかい。きみは、何も悪くない」

彼女を諭すように。そして、自分自身を慰めるように。


しばらくの間、沈黙が続いた。

彼女もまた、ヘクターの死を受け入れることができずにいるのだ。

ハロルドは、教会で見かけたデメター家の当主のことを思い出した。おそらく彼は、家を出てしまった末娘の身を案じていた。だがそれを表沙汰にもできず、わざわざ南区の教会へと足を運んでいたのだろう。娘の無事を祈っただろう。ひとりの父親として、彼に同情した。とは言え、傷心の少女に「いますぐ家に帰れ」などと言えた状況ではない。

しかし、すべてを失ってしまったハロルドとは違い、彼女には帰るべき家があり、家族もいるのだ。何より、まだ若い。つらい気持ちはわかるが、もう戻らないもののために、その未来までも悲しみに閉ざしてしまってはならない。

「仕方のないことなんだよ。コレッタ」

コレッタは顔を上げ、大きく見開いた目で、ハロルドを見た。

ハロルドは優しく微笑みかけると、こみ上げる悲しさを噛み殺すように言った。

「ヘクターは、もう、いないんだ」

‥‥

はなから事実を受け入れまいとするように、コレッタは目を逸らす。

ハロルドはもう一度、しっかりとした口調で、コレッタを諭した。

「ヘクターは、もう戻ってこない」

「でも‥」

ややあって、彼女は言葉を続けた。

「居るの。ここに」

「いや、だから‥」

「ううん。居るの。ここに」

まっすぐに前を見据え、かたくなに言い通してくるコレッタに、ハロルドの方がたじろぐ。彼女の確信めいた口振りは、ただ強がって出任せを言っているようには聞こえないのだった。あるいは、彼女はある種の死生観に基いてヘクターが〈ここに居る〉と言っているのかもしれない。それを否定するつもりはないが‥‥いずれにせよ、肉体の死は、人の死である。ヘクターがこの世を去ったことは事実なのだ。

「その気持ちはわかるよ、コレッタ。でも‥」

‥‥

しばらく押し黙っていたかと思うと、何かを諦めたようにコレッタは立ち上がった。そしてハロルドを一瞥すると、部屋の奥へと向かって歩いていく。ハロルドは彼女を目で追った。少女の横顔は、どのような感情も帯びてはいなかった。

コレッタは部屋の奥を仕切っている色褪せたカーテンを半分ほど開け、その薄暗い空間へと入っていく。

ハロルドも席を立ち、誘われるままに彼女の後をついていった。


色褪せたカーテンで仕切られた部屋の奥は、いたるところに廃材や木箱が詰まれ、古いガラス戸棚には薬瓶のようなものがたくさん並べられていた。最初から庵にあった不要な物をすべてここに押し遣ったかのように雑然としている。小さな北向きの窓が二つあるが、庵の北側は鬱蒼と木々が茂っており、昼間でも薄暗い。窓と窓との間には、祭壇の跡があった。かつてこの庵に住む者が祈りを捧げていた場所であろう。

コレッタは祭壇に向かって立つと、ハロルドの方を振り返った。カーテンの隙間から入り込む光が、暗がりの中に少女の姿をぼんやりと浮き立たせている。

祭壇の前には細長いテーブルがあり、何かがテーブルごと白いシーツに覆われていた。その大きさ形から、ハロルドには一瞬それが仰向けに横たえられた人間のように見え、背筋を冷やりとさせたが、それは錯覚──悪い冗談はよしてくれと自分の脳みそに言い聞かせた。

コレッタは祭壇の方に向き返ると、さしてためらう様子もなく、さっとシーツをめくり上げた。

ハロルドは言葉を失った。

それは、つまり〈人間の死体〉であった。


なぜ、そんなものが、ここにあるというのか。

ハロルドもさすがに動揺を隠し切れず、コレッタに疑念の眼差しを向けていた。

コレッタは何も言わず、めくり上げたシーツの端をつかんだまま、その場に佇んでいる。


死者は若い男性のようだ。彼は姿勢を正し、胸の上で手を組み、安らかな表情で眠っている。それは死後丁重に埋葬された証拠であり、少なくとも彼が何者かに──あるいは彼女に──突発的に殺められたとは考えにくい。

眼窩は落ち窪み、口唇は引きつってその隙間から僅かに歯を覗かせている。肌は蝋のように固まり所々ひび割れているが、まだ若干の生気を湛えるかのように血色を残していた。しかしながら、死体としては綺麗な方である。死後幾日経過したものであるのか見当がつかない。

腐敗もかなり進んでいるはずだが、不思議なことに腐臭は無かった。そればかりか、体は虫に食い荒らされることも膨張することもなくおおよその原形を留めている。生地はだいぶ変色しているものの、黒いズボンと、灰白色のストライプが入ったシャツを身につけており、シャツの肘の部分には茶色の布で継が当てられていた。


次の瞬間、ハロルドは脳髄を強打されるような衝撃を覚えた。

その継当てには、見覚えがある。

ハロルドの体が、がたがたと震え出す。

よくよく見れば、その体格も、顔つきも、髪型も、すべてに見覚えがある。


紛れもなく、それはヘクターであった。

コレッタの言う通り、確かにヘクターは〈ここに居る〉のだ。

「まさか。どうして‥‥

ヘクターを埋葬したのは、もう半年以上も前の事になる。つまり彼女は、ヘクターの死体を掘り起こし、ここに安置していたのだ。如何なる理由があるにせよ、そのような行為は常軌を逸している。

‥‥なあ、どういうことなんだ」

ハロルドは、コレッタの背に目を遣った。コレッタは微動だにすることなく立ち尽くしていた。彼女に対して、ありとあらゆる混濁した感情が湧きあがり、ハロルドの精神を昂らせた。それは憤りであり悲しみであり、憎しみであり憐れみであり、あるいはそのどちらでもない、何処にもぶつけようのないものだった。

ハロルドは、頭の中で状況を整理した。コレッタは黙っていたが、その後姿はすべてを物語っている。もっとも、彼女の口から直接それを聞き出すのは酷である気がした。彼女にとっても。ハロルドにとっても。


コレッタは、ヘクターの肉体を、永遠に遺そうとしたのだ──

死体に防腐処理を施し、生前の姿を留めるという試みは古来より世界各地で行われてきた。成功したと呼べる例も少なからずあるという。しかしヘクターに至っては、腐敗こそ免れているとはいえ、正直なところ、かえって目にするのがつらくなるばかりであるとしか言いようがない。親として、これ以上、変わり果てた息子の姿を見ていたくはない。早く元の墓に戻してやって欲しい。

それでも、やはりコレッタを責めることはできなかった。

彼女もまた、生きるためにヘクターを必要とし、失うことを誰よりも恐れていたのだ。

ハロルドは、コレッタを、背後からそっと抱きしめた。

彼女の身体は驚くほど細く、強く抱きしめたら砕けてしまいそうだ。

自分と同じ悲しみを、その小さな背に背負っていたのだと思うと、また愛おしくも感じた。


「ありがとう。コレッタ」

「え‥‥

「ヘクターを、そこまで愛してくれていたなんて‥‥。ヘクターは、きっと幸せだったろう」

生まれつき病弱で、夢も希望もなかったあの子にとって、彼女は初めての生きる喜びであったはずだ。

ハロルドは、少女の小さな身体をぎゅっと抱き寄せた。

彼女の肌の温もり、そして胸の鼓動が伝わってくる。まるで彼女が体の中に溶け込んでくるかのように。

ヘクターも、この温もりを感じていたに違いない。

ヘクターを愛してくれた少女。

そして、ヘクターの愛した──


〈 僕 が、ヘ ク タ ー の 代 わ り に な れ ば い い 〉


その時、不意にハロルドの中に、得体の知れない思いが湧き上がってきた。

ハロルド自身もその情動に驚き、目を見開いた。

僕は、いったい何を考えているんだ?


「おじ様‥‥

コレッタが苦しそうに身をよじる。

気がつくと、ハロルドはコレッタを、力一杯に抱きしめていた。

「いや、済まない‥‥

ハロルドは力を緩めようとしたが、何かがそれを拒み、彼女の身体を捕らえて離さない。そればかりか、手は彼女の胸をまさぐり、指が腹部を這い回っていた。薄手の衣服越しに、やわらかな肌の感触が伝わってくる。


僕は、彼女に対して、明らかに情欲を抱いていた。

あまつさえ息子よりも年下の、ふたまわり半も若い少女に。


ハロルドは困惑した。それは、自分の肉体が異なる意志に衝き動かされるような奇妙な感覚であった。

無骨なハロルドの手は、なおも少女の肉体を求め、その滑らかな肌の感触を貪った。指が首筋を這い、鎖骨を撫で、平坦な胸にあしらわれた乳首を指で押し潰し、胸骨をなぞり、さらに下半身へと腕を伸ばすと、脚のつけ根にまで手を滑り込ませていく。興奮は次第に高まり、勃起したペニスは腰の辺りに押しつけられていた。

しかし、コレッタは抵抗するそぶりを見せない。無体な仕打ちを甘んじて受け入れるかのように。

「ふ、うぅ‥‥

少女の口から嬌声が漏れる。その時、ハロルドの惑いは消えた。情動的にもたらされたそれが紛れもない自分自身の感情であることを、ようやく認識したのだ。

僕は、彼女を求めている。そして、彼女も──

抑え切れない情欲にほだされ、もはや他の物事のすべてが霞んで見えた。

ハロルドは少女を抱きかかえ、部屋に移動すると、彼女をベッドに放り込んだ。コレッタは怯える様子もなく、丸く見開いた目で、ハロルドを見つめていた。


そしてハロルドは、そっとカーテンを閉めた。

──息子に、こんな姿は見せられない。


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