〔II〕 白昼夢
この場所に、いつから墓地が存在しているのかは定かでない。
おびただしい数の墓標が密集し、円形状に鉄柵で囲まれ、さらに木立が墓地そのものを覆い隠そうとするように生い茂っている。墓地の中から上を見上げれば、鬱蒼とした木々の間にぽっかりと空が円を描いている。上空から見たならばおそらく緑色のドーナッツに見えるだろう。ドーナッツの穴は死者の国だ。まるい空をじっと見ていると、深い穴の底から天を仰いでいるかのような、奇妙な錯覚に陥る。

ハロルドは着の身着のままで小屋を出ると、短い白昼の陽射しの中、ゆっくりと墓地の中を歩いていった。無数に立ち並ぶ墓標の側を通り過ぎるたびに、ハロルドは彼らひとりひとりの過ぎ去りし人生に想いを馳せた。
そして、墓地の奥まった所にある小さな墓標の前で足を止めた。足音が消えると、それを待ち構えていたように、辺りをしんとした静寂が包み込む。ハロルドはその場に膝をつき、まだ新しいその墓標と、まっすぐに向かい合った。
そして静かに、金庫のダイアルを合わせるように慎重に、墓標に刻まれた名を口にする。
「ヘクター」
ヘクターは、何も答えない。
「‥ヘクター。ヘク‥‥ター」
かすれた声で、何度も息子の名を呼ぶ。
ヘクターは、もう何も答えない。
ずっと抑えていた悲しみが、涙が、堰を切ったように溢れ、ハロルドの全身から力を奪い去っていく。
ヘクターは、なぜ死んでしまったのだ──。
たとえ、それが神の御旨であったとしても‥‥だ。なぜ僕は、こんな悲しみを背負わねばならない。
教えてくれ。
僕に非があるならば、どんな罰でも受けよう。だから、せめて、そのわけを教えてくれ。
ただ、知りたいだけなのだ。僕は。
誰か──。
†
その時だった。
ハロルドは人影を目にした。赤い長い髪の少女が、木立の影に消えていくのを。
視界が涙でぼやけている。何かを見間違えたのかもしれない。今しがた来ていた葬列にも、そのような少女の姿はなかったはずだ。しかし、見間違いで片付けるには、少女の姿はハロルドの意識の中で鮮明にその存在を訴えていた。おそらく、彼女は迷い込んでしまったのだろう。墓地の管理を任されている以上、確かめる必要があった。
シャツの襟元で視界を拭い、悲しみの海から意識を浮上させる。目の前にある小さな墓標がくっきりと目に映った。
そしてもう一度、墓標に刻まれた名を目でなぞる。
ヘクター。
ハロルドはそっと立ち上がると、息子の墓標を後にし、人影の消えた方向へと歩き出した。
墓地は思っていた以上に広く、木立の奥には、まだハロルドの立ち入ったことのない空間が存在していた。墓域は鉄格子で円形状に囲まれているものとばかり思っていたが、実際はいびつな形をしているようだ。
少女の消えた辺りには煉瓦を敷いた古い小路があり、さらに奥へと通じている。ハロルドは誘われるように、所々で煉瓦の砕け、草で覆われかけた小路をたどっていく。
すると、突然視界が開けた。
そこには古い礼拝堂があった。アーチ型をした木製の扉の上には宗教的なシンボルの刻まれたレリーフが埋め込まれている。豪奢な装飾は一切なく、小ぢんまりとしている。周囲には背の高い雑草が茂り、地表を覆いつくしていた。赤茶けた煉瓦の外壁も蔦に覆われ、今にも自然と一体化してしまいそうだ。人に見棄てられて久しいのだろう、その佇まいは今にも何かを語りかけてきそうな独特の寂寥感を漂わせていた。
礼拝堂の脇には、隠れるように、木造の小さな庵が建てられていた。外壁は蔦で覆われていたが、その周囲だけは、どこか人の手が加えられた形跡がある。
ハロルドはそっと庵に近づき、周囲を確かめた。木箱や箒、何か重いものが詰められた麻袋が置かれていた。見たところ、それらは明らかに最近使用されたものだ。ここを誰かが、おそらく無許可で利用している可能性がある。ハロルドは足音を立てないよう、柔らかい草の上をなぞるように歩き、入口のドアの前まで接近していった。
ハロルドは、ドアにはめ込まれた小さな硝子窓から庵の中を覗き込んだ。
庵の内部は一間になっており、綺麗に片付いている。西側の窓から入り込む陽の光が、うっすらと室内を照らしていた。入口付近には比較的新しい木箱が詰まれ、部屋の手前には丸いテーブルと椅子、中央にはベッドが東側の壁寄りに置かれている。色褪せたカーテンで仕切られた薄暗い部屋の奥には祭壇のようなものがあり、その周囲だけは雑然と物が置かれていた。
そこには確かな生活感があった。何者かが、ただ雨風を凌ぐためというよりは、あくまで居住目的でそこに住み着いているように思えた。だとしたら、いったい誰が、なぜこのような場所で‥‥?
ハロルドの思案を遮るように、突然ベッドの中で何かが動いた。
誰かが、そこに居る。

思わず仰け反りそうになるのを必死にとどめ、ベッドの上を凝視した。ちょうど硝子窓の汚れで隠れて見えにくかった場所に、人の身体が──しかも、裸の少女が──背を向ける格好で横たわっている。それはシーツの色に溶け込むように白く、か細く、そして妖しく見えた。少女が身をよじると、赤い長い髪がその動きに合わせて肌を撫で、なだらかな背中を滑り、シーツの上で波打つ。あまり肉付きのよくない身体の節々に仄かに陽が当たり、その皮膚の下でうごめく骨格を浮き彫りにする。小さく頼りない尻には女性的な魅力こそ無いものの、ある種のおもむきがあった。まるで泉から突然湧き出てきた妖精を目の当たりにしたように、ハロルドは我を忘れて見入っていた。
それは美しくも、同時に淫靡な雰囲気を漂わせていた。ハロルドはしばらくその訳に気づかなかったが、やがて少女のしなやかな指が自身の秘部を撫でているのを目にして、はっとした。
僕は見てはいけないものを見てしまっている──。
少女は彼の視線を背に受けながら、なおも指を動かしていた。身をすぼめ、だらしなく脚を広げるとさらに指を秘部の奥へと押し込んでいく。やがてその細い肢体がぎゅっと縮こまり、背を丸めたまま動かなくなった。
少女はそのまま、微動だにしなくなった。ハロルドも、しばらく少女から目を離すことができなかった。
彼女は、眠ってしまったのだろうか。それとも‥‥?
そこまで思案してハロルドは我に返り、ようやくその背中から視線を逸らす。ハロルドは思わず息を呑んだが、吹きすさんできた風の音にかき消された。そして注意深く、自分の足跡を辿るように、もと来た道を引き返していく。
†
それから数日の間、ハロルドは少女のことが気にかかっていた。酷く悪いことをしたと思った。もしもあの時、部屋を覗いていたことに気付かれていたのだとしたら‥‥と思うと、夜も眠れなかった。
かたや息子のことさえ頭の隅に追い遣られていたが、取り留めのない故人への想いにとらわれたままでいるよりは幾分まっとうな心理状態であったと言えるかもしれない。
やがて安息日が訪れると、ハロルドは気を取り直すべく、体を洗い、口髭を整え、新しいシャツに着替えて街へと赴くことにした。それまでの間、墓地を訪れる者はなく、彼も身を潜めるように、墓守小屋を離れることはなかった。
礼拝の最中もハロルドは上の空だった。脳内で少女の白い背中と秘所に埋もれていくしなやかな指の動きが繰り返し再生され、彼を悩ませた。自分が彼女に対して抱いているこの感情は何なのだろう。痴態を目にしてしまったという罪の意識か、それとも彼女に対して性的な‥‥いや、そのような願望を抱く対象としてはまだ未熟すぎる。ハロルドは雑念を振り払うように顔を上げ、礼拝堂のステンドグラスに目を遣った。そこには複雑な表情を浮かべた羊飼いの姿が描かれていた。顔を上げたついでにハロルドは周囲を見渡し、何とはなしに教会に集う人々の顔を確かめた。彼はたったひとりの余所者に過ぎなかった。
いつものように買い物を済ませ墓守小屋に戻ったハロルドは、すっかり疲れ果てた様子で椅子に腰を下ろし、薄暗い部屋で、じっと鉢植えのパキラを眺めていた。この鉢植えは墓守小屋に住み込むようになった頃、南区の露店で見かけて衝動的に買い求めたものである。ずんぐりした幹から細い茎が何本か枝分かれし、その先から手を広げたように数枚の葉が生じている。ハロルドはその姿になぜか心を惹かれたのだった。それはただ闇雲に種から出てきたのではなく、生まれ落ちた環境に順応し生きようとする確たる意志のようなものを感じさせた。むろん植物が話し相手になってくれるはずもないが、生命を持った存在は孤独な彼の心を癒してくれた。土が乾いたら水を遣り、日当たりの良い場所に鉢を置き、常に健康状態に気を配る。パキラの鉢植えは、彼を必要としている。
暗闇の中で何かを叫ぶ夢で目が覚めた。
ハロルドはベッドの中で天井の梁を見つめたまま、自分自身に、そこが現実の世界であることをゆっくりと認識させ、呼吸の落ち着くのを待って身を起こした。その頃には、自分が夢の中でいったい何を叫んでいたのか思い出せなくなっていた。
外は薄暗く、しとしとと雨音が聞こえてくる。何もかもが不安になるような陰鬱な朝であった。
ハロルドは気重になっていた。食欲もなく、朝食は昨晩蒸かしておいた鍋のジャガイモを少しばかり口にしただけである。狭い室内をうろうろと歩き回りながら、単調な雨音のように取り留めなく、あの少女のことを考えていた。
単調な雨音のように取り留めなく。
単調な雨音のように‥‥。
単調な雨音の‥‥‥
ふと、ハロルドの思考が途切れた。ようやく夢から覚めたように目を上げ、しばし呆然としていた。
いつしか雨は上がり、外の世界は徐々に陽の光で満ち始めていた。朝から降り続いていた雨の音が、ハロルドを思考の淵へと沈み込ませていたのだ。漠とした不安感も霧が晴れるように消え去っていた。
ハロルドは落ち着いて頭の中を整理した。
やはり、あの日に見た事は忘れよう。これ以上考えるのもやめよう。決してやましいことなどないのだ。
それよりも少女の存在が気になった。とても独り暮らしをする年齢には見えないし、廃墟同然の庵に住むなどまっとうな暮らし振りとは言えない。如何なる理由であれ、彼女は本来居るべきでない場所に居るのだ。墓守として、然るべく対処しなくてはならない。