幻想郷で普段と変わらぬ日常を過ごすはずだった。しかし董子が目を覚ますとそこは見知らぬ、そして不気味な部屋だった。
背筋が粟立ち、頭の隅で本能的な警鐘がうるさいほど鳴り響くのを感じる。それは董子の乙女としての本能が告げる危険な予兆だった。
キィ、とかすかにきしませながら、部屋の扉が開いた。そのときまで菫子はその部屋に扉があることに気づかなかった。菫子はあわてて頭を扉の方に向ける。誰かに助けを求めようとしていた。元来育ちの良い菫子は、他人を疑うような人間ではなかった。だから、助けを求めればその人間は助けてくれると無意識に思い込んでいた。その思い込みに、理性が警鐘を鳴らしたのはほんのわずかの時間をおいてのことだった。
「ああ、もう目が覚めていたんですね。おはようございます。」
乱入者である男はそういった。間違いなくそう聞き取れた。一見丁寧に見えるが、背筋に嫌な感覚が走る。菫子は猛烈な警戒心が湧き上がってくるのを感じた。男の妙な口調、特に口元に浮かんだゆがんだ笑いが気に入らなかったことももちろんある。それ以上に菫子の第六感が告げていた。この男は危ない、と。
「起こす手間が省けましたよ。寝ていたままでは面白くありませんからね。」
そういいながら男は無遠慮にすたすたと近づいてくる。近づいてくるたび、菫子の胸が嫌な具合になるのを感じた。不安が喉元までせり上がってくる。正直に言ってこの男に心当たりはない。見知らぬ他人には誰しもそれなりの警戒感を持つものだ。それなのにこの男は自分を警戒しているように見えない。つまり、この男にとって自分は警戒する対象ではないのだ。理由は見当がつく。相手を害を為す対象だと思わないのは、自分が捕食者側だと信じ込んでいるからだ。
「胸は、意外とあるのですねぇ。」
男は手を伸ばし、菫子の胸を触った。いきなり手を伸ばし菫子の胸を触ったのだ。見知らぬ男に胸を触られた。菫子は自分の直感が正しかったことを確信した。この男は、まともではない。すくなくとも、自分がこの部屋にいるのはなにかしらの意図があってのことなのだ。それも、邪な意図をたっぷりと含んでの。
「どういう、つもり」
菫子は言葉を絞り出した。自分では精一杯のすごみを効かせたつもりだった。だがおそらくは相手には通じなかったのだろう。菫子の観察眼はそう告げていた。男と視線が一瞬だけ合った。わからないか?男の視線には、そういう言葉が含まれているように思えた。嘲笑、憐れみ、そして獲物を目の前にした捕食者の瞳。絶対強者の余裕、鼠をいたぶる猫のような、いたずらっぽい嗜虐心が透けて見えた。
菫子は無意識に男から遠ざかろうとした。じゃらりと金属音が響く。彼女の腕は、ベッドの頭の方向へと縛られている。菫子はいまさらそんなことに気づいた。自分が相当動揺していることがようやく自覚できた。まだだ、こんな男の好きにはさせない。精神まではまだ折れてはいない。菫子の瞳は部屋を素早く見回す。壁際に、どっしりと重く造りの良さそうな調度品を見つける。これだ。菫子は精神を集中させた。いままで不埒者たちの急所を打ち据えた念動力によって攻撃を加えるつもりだった。彼女が心にイメージを描けば、コンクリ塊を底部に重石としてつけたバス停の標識ですら小石のように宙を舞う。20kgにも満たない調度品の壺など造作もない。壺は見えざる巨人の手によって宙を舞い、そして男の頭に叩きつけられる、はずだった。そう、まさにそのはずだった。だが実際には何も起こらない。
菫子はひどく混乱した。いままで念動力を操ることは、酸素を求めて呼吸をするごとく当然に操れるものだったからだ。それが何も起こらない。あれほど自在に操れた能力の一つが、である。朝目が覚めたら手足が動かなくなったことに等しい衝撃だった。男はニヤニヤと嗜虐への期待を顔に張り付かせながら、ゆっくりと近づいてくる。わざとゆっくりと近づくことで、目の前の獲物の動揺を楽しんでいるようだ。動悸が早まるのを感じる。間違いない。この男は、間違いなく能力が発揮できない原因にかかわっている、そう菫子は確信した。だが、いまや目の前に迫った男を振り払う術などない。胸に不快なむかつきが強まる。手は戒められ、足は恐怖と絶望によっって萎縮してしまっている。原因や理屈は分からないが、とにかく菫子はこの男に抗う術などない。自分は詰んでしまったのだ。そう怜悧な頭脳が不愉快極まる結論を導き出す。
「ひぃっ」
自分でも驚くほど情けない声が喉元から漏れた。同時に男の顔に肉食獣の笑みを思わせる表情が更に深くなる。目の前のやわらかい肉を貪ることができる期待が滲み出ている。そしていまや自分は何もできない。何をされても、抵抗などどうやってできようか。理性が壊れたサイレンのように警告を鳴らし、男が放つ獣欲の臭いを受けて本能がただ肉体と思考を硬直させる。