Chapter2:性転換。
「英雄」ヘルト=メルダースが失踪した後、シュトラール政党軍は守勢一方となった。
形勢は完全に逆転したのである。
生意気な若造の鼻っ柱をくじくぐらいのつもりで情報を流した軍幹部も、さすがに後悔した。
だがすでに手遅れである。
幹部連は情報漏えいの事実を隠そうとして、不格好な工作を行った。
それはすぐにシュトラール大統領が知るところとなる。
大統領は直ちに軍幹部たちを粛清した。こういう点においては、彼は決断のできる男であった。
さらに彼は、ヘルト=メルダースに代わることのできる人材を探し始めた。
一ヶ月もたたないうちに、大統領は下士官であった一人の若者を大抜擢し、准将に任じ指揮官不在となったメルダースの旅団を任せた。
ところがこれが大失敗だったのである。
若者は確かにある程度の能力を持っていたのだが、軍指揮官となるには神経が細すぎた。
彼は着任後二週間も過ぎないうちに胃を病み、わずか三ヶ月で戦病死してしまったのだ。
これがシュトラール政党軍の混乱に輪をかけた。
前線は突破され、シュトラール軍は敗走に敗走を重ねるようになった。
ベルンシュタイン義勇軍主力を率いるブラウンシュヴァイク中将が、シュトラール側の首都を望む丘陵に布陣したのは、メルダース失踪の六ヶ月後のことだった。
話をメルダース准将失踪の直後に戻そう。
ノルネはクララを殺害した後、その血をすべて浴室内に流した。そうしてから彼女はクララの遺体を浴場のボイラーまで運び、爆発物をしかけて逃走したのである。
その際、ノルネはヘルトの「遺体」を運び去っていた。
瓦
礫と化した浴室の排水管から、夥しい量の血が流れていたため、シュトラール側では、この宿所を使用していた軍高官、つまりメルダース准将の身に重大な異変
が起こった、と判断した。「女性の血」が混じっていたために時間がかかったが、流れていた血の少なからぬ量が、准将のものであるということも確かめられ
た。
それと前後して、宿舎の周辺から、クララの衣服の一部が発見された。
その生地が、ベルンシュタインの特殊部隊で使われているものだということが判明した時、シュトラール側の捜査陣は、一つの結論を下した。
「メルダース准将は浴室で殺害された。憎むべき暗殺者は冷酷にも現場に同伴していたパートナーを殺し、その血を流して偽装工作を行った」と。
概ね事実に沿った、見事な推理と検証であった。
だがそれは政治的には何の意味もないことでもある。
「メルダース准将がいない」というその事実は隠しようがない。それがシュトラール政党軍の深刻な士気低下を招くことも予想できた。
最高責任者であるシュトラール大統領にできたのは、「その事実を認めた上で、士気低下をどの程度で留めるか」ということだけである。
しかも、選択肢は二つしかない。
「英雄メルダース准将は名誉の戦死を遂げた」とするか、「メルダース准将は卑劣なる敵の罠に嵌まり、拉致された」とするかである。
シュトラールは、後者を選択した。
これは適切な判断だった。
「准将が生きている」とすることで、兵士たちに「准将さえ戻れば状況を挽回できる」という希望を与え、同時に敵に対する憎しみをかき立てることができたからだ。
ただし、これらの措置をもってしても、逆に回り始めた歯車を元に戻すことができなかったのは、すでに述べた通りである。
ところで、「准将は敵に暗殺された」というのは現状に残された数々の証拠から導き出された「真実」であったが、その後政治的な理由から作り出された「准将は拉致された」というのもまた、「真実」であったのだ。
浴室近辺から発見された血は、その元の持ち主がもはや生者ではないと断言できるだけの量だった。
確かに、彼は一度死んでいたのである。
しかし、その遺体をノルネはベルンシュタイン側の政治首都・フラウグラードまで運び出していた。体中の血液を抜いていったのは、血痕によって「遺体」の輸送路を特定されないようにするためでもあったのだ。
ノルネはフラウグラードに戻ると、ブラウンシュヴァイク中将に「任務成功」と復命した。アーデルハイド=フォン=ブラウンシュヴァイクが満足そうに頷くと、ノルネはそそくさと参謀本部を後にし、疫学研究所と呼ばれる建物に向かったのだ。
そこでは、年老いた女医が、ノルネを待っていた。
痩せた小柄な身体。大きく曲がった鼻。中世の魔女そのものといった風体の医者は、ノルネの顔を見るとにやりと笑った。
「この度は見事な検体をまあ、ありがとうございます」
「無駄な挨拶はいい。それより、以前から話していた通りのこと、実現できるのか」
「理論的には、成功確率85%といったところですなヒッヒッヒ」
「前の話よりも5%ほど上がっているな?」
「お陰様で研究が進展したので、確率も上がったのでございますよ。追加をいただければ、さらに5%ほど上げてご覧に上げましょうとも」
「確率とかの言葉遊びはどうでもいい。成功したら今までの倍の報酬を、失敗したら貴様の身体を八つ裂きにする。それだけの話だ」
「おお、怖や怖や。まあ、わたくしもこの歳ですからな。実験が失敗して先の見通しがなくなるなら、そのままこの世とおさらばしても何の悔いも残らないような気もいたしますな」
老女医は歯のない口をもごもごさせながら言った。
「成功してこれまでの研究の先が見えてきたのなら、もうしばらくこの世にいて人の命をいじらせてもらいたい。このようにも思っておりますがな」
老婆は目を細めて笑った。
この施設は表向きには、軍隊につきものの伝染病を予防するための研究を行なう場所であった。
しかし、どの国においてもこうした施設がそうなるように、ここも伝染病の予防よりも、むしろ病原菌を使って敵を攻撃する方法の研究の方が中心になっていった。
この施設の場合、さらに暴走は続いて各種の人体実験を行なうようになり、最終的には死んだ人間の再生や完全な性転換などの、本来の目的を見失った狂気の研究ばかりを繰り返すに至ったのだ。
この施設に対し、ある種の共感を持ったノルネは以前から個人的に莫大な額の金を援助してきた。
ノルネが兄ヘルトを「生きたまま」拉致することが困難である、と打ち明けると女医は、「死体で結構」と即答した。
「完全な性転換は細胞レベルでの施術が不可欠ですでな。一度殺しておいた方がかえってうまくいきますですじゃ」
普通ならこんな狂った老婆のたわごとなど、誰が信じるだろう。
だが、ノルネは信じたのだ。
それは彼女自身もこの女医同様に狂っていたが故に、であった。
老女医から「うまくいく」と告げられたノルネは、ためらいなくこれまでの作戦を実行し、女医にヘルトの「遺体」を預けた。
すでに老女医は必要な術式を施し、ヘルトの肉体は徐々に女体化しているはずである。
「ところで…」
ノルネは以前から、少しだけひっかかっていた問いを老女医に向けた。
「一度死んだものと、女体化して生まれ変わったものの、『こころ』は同一なのだろうか?」
「わかりませぬな」
女医は答えた。ノルネの表情が険しくなった。
「肉体…脳細胞が同じものである以上、記憶は引き継がれます。その記憶に基づき、自分は誰それだ、と認識する意識も宿りますな。ですがその意識が一度死ぬ前のものと同じかどうかは、誰にもわかりませぬ。恐らく当人にも」
「当人にも?」
「左様にごさいます」
老婆は愉快そうに、かかと笑った。
「同じ記憶の上に乗っかったこのわしの意識が、昨日眠りにつく前の意識と同じものかどうかはっきりわからんのと同じことですじゃ。気にしてもはじまりませぬ」
ノルネは長期休暇を取った。
敵軍の英雄「メルダース准将」を作戦指揮不能にするという任務を見事成し遂げた彼女は、フラウグラードに戻ると同時に特務大尉に昇進した。
一気に三階級も飛び越えたことになる。
信じられないほどの出世だが、元々彼女はさらに高度で機密度の高いエージェントとしての教育を受けるために、士官学校に行かなかったという事情があった。
名目的には下士官であったが、彼女と任務を共にするものは、彼女を士官として扱っていたのである。…彼女に殺されたクララのように。
さまざまな特殊事情があるにせよ、士官になったのだから士官学校に「通ったこと」にしなければならない。実際に通ってもいいのだが、そこでの教授内容なぞ彼女はすでに諳んずることができるものばかりであるから意味はない。
ならば通っていることにして休暇をもらおう、とこういう話になったのだ。
「休暇」を取った彼女はそのまま疫学研究所に入り浸り、すぐにそこで寝泊まりをするようになったのだが、これについても怪しむものは誰もいなかった。
大抵のものが「次の特殊任務のための基礎研究を始めたのだ」と思ったからだ。
外から見れば彼女は今でも「任務に忠実な特殊部隊工作員」だと思われていた。
しかしノルネにとって戦争は、今ではどうでもいいものだった。
戦争に勝って女たちが導く国が樹立される。これは彼女にとっても望ましいことである。
しかし、その目標に至るために彼女ができることは、もうなし遂げてしまった。
英雄を失ったシュトラール政党軍は、自然と自壊していくだろう。
これに止めを刺すのは、ブラウンシュヴァイク中将率いる正規軍の仕事であり、特殊部隊の出る幕はない。
敵方には、まだシュトラール大統領という最後の大物が残っていはするのだが、奴は追い詰めればどこかの地下壕にでも篭ってしばらく抵抗し、抵抗が無駄だとわかれば自殺するだろう。わざわざ暗殺しに行くことはないのである。
(それより、お兄ちゃんを誰にも負けない一人前の『女』にしなければ」
ノルネにも愛国心というものはある。彼女の中では兄に対する歪んだ愛情が感情の大部分を占めているのだが、他の並の国民には負けない程度に、国を愛しているのである。
その愛する国家に対し、忠節を捧げることのできる女性を国民としてひとり加えることができる。そう思うと言いようもない満足感に浸ることができたのだ。
(なんとしてもお兄ちゃんを立派な女性にしなければならないわ。心も、身体も、嗜好も)
そう思いつつ、ノルネは地下室への階段を下っていた。
地下にはヘルトの肉体が安置してある。
すでに肉体の蘇生は完了していた。
ギリシャ彫刻の塑像のようだった肉体は、丸みを帯びた女性のそれに変わっていた。
もちろん、その下腹部には膣も子宮も存在している。まがい物ではない、本物だ。
陰茎陰嚢を切り落とし、人口膣・人口子宮を取り付けただけの「性転換」ではない。
医学技術の粋を集め、染色体レベルから改造した、完全な「女体化」なのだ。
今のヘルトは、望めば妊娠も可能になっている。
ただし、まもなく目覚めるヘルトの生殺与奪の権を握っているノルネは、ヘルトの膣内に誰かの男根の侵入を許そうなどとはかけらも考えてない。
(お兄ちゃんの身体は、私のもの。私だけのものよ)
凛々しかった兄。たくましく強く優しかった兄。時に厳しかった兄。
(そのお兄ちゃんは女になって、どんな声で泣くのかしら。女の肉体の快楽を、どんな風に受け止めるのかしら)
ノルネはまだ目覚めぬ兄の前で、いつもこう考える。
やがて兄が感じるであろう絶望と困惑、羞恥と快楽とを想像すると、たまらなくなって自慰をはじめてしまうのであった。
(ああっ、お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃぁんっ)
指三本を根本まで膣内に挿入し、激しくかき回す。
淫らな水音が、地下室の中で反響する。
(わ、私のこの想いっ、すべてお兄ちゃんの中にっ、ぶちまけたいっ! お兄ちゃんをめちゃくちゃにしたいのぉっ!)
ノルネはそう妄想しつつ、何度も果てた。果てる度に、派手な音をたてて愛液をほとばしらせていた。
自慰を終えた後、ノルネは地下室の床を掃除せず、そのまま放置していた。
このため今では、かつてノルネの愛液だったものが、床の上に薄くべたつく層をなすようになっている。
地下室内には、異臭、というかノルネの雌のにおいが立ち込めるようになっている。
常人ならば吐き気を催しそうな状態だが、ノルネはここに来ると落ち着くのであった。
(私のにおいが、お兄ちゃんをいつも包んでいる…!)
言ってみればにおいの粒子となった自分の分身が、常に兄を犯しているようなものなのだ。ノルネはそう考えていた。
彼女は狂っている。
だが、彼女の狂気が解き放たれるのは、この地下室の中だけだというのもまた事実だ。
疫学研究所の外の彼女は、以前と変わらない「冷徹なエージェント」である。
それがひとたび研究所の建物に足を踏み入れると、「恋する乙女」に変貌する。
そして地下室に降りると、暴走する子宮に手足と膣がついた、モンスターへと変わるのである。
「疫学研究所」の地下に安置されていた「遺体」が目を覚ました。
最初、意識はぼんやりとしていた。だが、頭の中に濃く立ち込めていた霧はやがて晴れていった。
「自分はシュトラール政党軍准将、ヘルト=メルダースである」という自己認識が蘇った。
さらに続いて、「ヘルト=メルダース」としての記憶が次々と呼び覚まされた。
血走らせた目をした妹に、胴体を切られて一度「死んだ」時の記憶も。
「…俺は!」
ヘルトは上半身を起こした。
そして、「異変」に気づいた。
ここは病院の一室らしい。
陽の光が差さないところを見ると、地下室だろう。
むせ返るような異臭がする。これは、なんだ?
いや、それはいい。もっと重大な異変が、俺の身体に生じている。…これは!
「お目覚めかしら。お兄ちゃん」
声がする方を振り向くと、そこにはノルネがいた。
自分を殺したはずの妹が…!
「ノルネ! お前!」
まだ身体の自由が効かない。しゃべるのもこれが精一杯だ。だが、妹は自分が何を言おうとしていたのかこれだけでもわかったらしい。
「そう。お兄ちゃんを一度『殺した』のは私よ」
「なぜ…!」
「生まれ変わってほしかったのよ…忌まわしい、そう、忌まわしい男の身体を捨てて、女性として」
そう言われた瞬間、ヘルトは気づいた。自分が裸で地下室の寝台に寝かされていたことを。
その肉体が、女性のものに変わっていたことを。
「この身体は女のものだ」という意識が、いきなり脳裏に叩きつけられた。
胸が膨らんでおり、腰が丸みを帯びており、腹の中に女性の生殖器のようなものがあるらしい、という認識は、この後から続いてきた。
手を目の前にかざしてみる。指が細い。手首が華奢だ。
股間を見る。男性器がない。これまで感じたことのない、不思議な感覚が下腹部に満ちている。
「俺は…!」
あえて「俺」という一人称を使ったのは、意識を取り戻してからこれまでに見て感じたことを否定したいためだった。しかし、「妹」その思いを否定するかのように応える。
「お兄ちゃんは立派な女性よ。少なくとも肉体的には。完全な女性だわ」
「!」
驚きで声が出なかった。そのまま妹を見た。気が高ぶって眼球が飛び出しそうに感じられた。
「心はまだ男性のようね」
「まだ、じゃない!」
「あら?」
「俺は…俺は男だ! 俺の心は男だ! これまでも、そしてこれからもだ!」
ようやく身体が自由になってきた。目覚めてはじめて、思っていることをすべて言えた。
「うれしいわ、お兄ちゃん」
ノルネは涙を浮かべてヘルトを見つめた。
「お兄ちゃんの心は、以前と完全に同じなのね」
「何をわからないことを言っている…そ、そうか、これは夢か?」
「夢ではないわ。現実よ。お兄ちゃんはこれから立派なレディになるの。大丈夫心配しなくてもいいわ。私がすべて指導してあげるもの」
「ノルネ! わけのわからないことをいつまでも言うんじゃ…!」
そこまで言った時、ノルネに一枚のハンカチを口に押し付けられ、ヘルトの意識はまた遠ざかった。
「無理もないわ。身体にこれだけの異変が生じたんですもの。興奮して気が変になりかけたのも当然ね」
「おま…え…は…な…に…を…」
「でも大丈夫。何も心配することはないの。私がいるから。お兄ちゃんのことを誰よりも愛しているノルネがそばにいるから。安心してしばらく眠ってちょうだい」
ヘルトの意識がまた切れた。この「意識」がかつてのものと同一であるかどうか、そしてこの後またこの肉体に宿る「意識」が同じものであるのか、それは誰にもわからない。
深夜。
ノルネはぱっちりと目を見開いた。
ついさっきまでぐっすりと眠っていたのだが、覚醒が突然来た。
一週間ほど前から、眠りに落ちるのも、目覚めるのも突然となっている。
眠る前には彼女は必ず自慰をしているのだが、ここ2〜3日は達すると同時に眠ってしまう、いや、達する直前に眠ってしまい、夢の中で達し続けているような気がしないでもない。
それほどまでに彼女の中の「女」は暴走していた。
だが、彼女自身は限りなく強く長く続くオーガズムを与えてくれるそれを、素晴らしいものだと考えていた。
「お兄ちゃんにも、この素晴らしさをわかってほしい。わかるはずだわ、だって私のお兄ちゃんですもの」
ノルネはそうつぶやくと立ち上がった。
下半身は裸体のままだが、上半身にはピンク色の可愛らしいパジャマを身に着けている。
ベッドから二三歩歩いて、ノルネは自分が下半身裸であることに気づいた。
兄を拉致する前に剃ってしまった陰毛は、まだ生えそろっていない。
もともと色が薄く細い毛なので、今の時点ではほとんど目立たない。
その、幼女のような陰部をパジャマのズボンで覆ってスリッパを履き、ノルネは兄のいる地下室へと降りていった。
灯りの消えている地下室に、ヘルトはいた。
目を覚ましている。
彼はベッドの上に上半身を起こし、暗闇を焦点の合わない目で見つめ、何事かぶつぶつとつぶやいていた。
入り口の鉄格子を開け、中に入ってきた妹には気づいてないようだ。
「お兄ちゃん」
ノルネは兄の背後に近づき、耳に息を吹きかけながら、言った。
ヘルトはぷるっと身を震わせ、妹の方を見た。
目が大きく見開かれている。
「少しは落ち着いたかしら?」
ノルネは微笑んだ。一点の邪心もない、女神のような微笑みである。
「素敵なレディとして、ベルンシュタインの忠良な臣民として生きていく決心は、ついた?」
「黙れ」
ヘルトは視線をまた虚空に向け、吐き捨てるように言った。
「俺は、お前の兄だ。妹としてのお前を愛している。だが、それ以前にシュトラール政党軍の軍人だ。准将にして旅団長だ。祖国に圧政を敷き、歪んだ思想で人民を統制しようとするベルンシュタインの徒党を許すことはできないっ!」
「愛するお兄ちゃん。ノルネはお兄ちゃんが私を愛していると言ってくれただけで満足です。…ですが、あなたのおっしゃることは間違っています。私は妹として、兄を愛するが故にそれを正さねばなりませんわ」
「間違った思想に染まっているのはお前の方だ、ノルネ」
「そう、小さい頃からお兄ちゃんはいつも正しかった。私は間違ってばかりで、母様やお兄ちゃんによくお尻を叩かれましたわ」
「俺の言葉の正しさに気づいてくれたか」
ヘルトの声は弾んだ。だが、視線は相変わらずあらぬ方向を見つめている。
ノルネは静かに首を左右に振った。
「お兄ちゃんはいつも正しかった。だから生まれて初めてのこの間違いに、お気づきになられないだけなんですわ」
ノルネはそういうと立ち上がり、ベッドの上にあった鎖を引いた。天井から不気味な音を立て、別の鎖が落ちてくる。その先端には、鉄製の手枷のようなものがついていた。
続いて彼女はベッドの上からヘルトを降ろし、床の上に裸足で立たせた。そして手枷をヘルトの両腕にはめる。
ヘルトはノルネを睨みつけたが、抵抗はしなかった。いや、できなかったというのが正しかろう。
心と身体のバランスが崩れ、不安定になって思うように動かせなくなっていたのだ。
ヘルト本人も、それは自覚している。
(だからこそ心を正しく保ち続けなければならないのだ)
ヘルトは、「これは試練なのだ」と思い込むようになってきた。
目前にいるのは、妹のようだが、妹ではない。
彼を邪な道に誘い込もうとしている、魔女のようなものなのだ。
恐らく、その肉体は愛する妹そのものなのかも知れない。
しかし心が闇に閉ざされている。そこはかとない狂気も感じる。
心と身体が妹のものであるのなら、なおさらその正気を奪っている何者かを追い出し、妹を本来の姿に戻してやるべきだろう。
それが軍人としての、兄としての、男としての努めであろう。
姿かたちがどう変わろうと、それができればヘルト=メルダースは男であり続ける。
そして自分は、そうであることを願うのだ。
(俺は、戦う)
ヘルトはそう心に決めた。
手枷で身体の自由を奪った妹は、自分に苦痛を与えるだろう。
それに耐えることが、今の自分の戦いなのだ。
こちらから手は出さない。相手は愛する妹なのだから。
黙って、耐える。
ヘルトは目を瞑った。
「お兄ちゃん」
ヘルトの背筋を撫でながら、ノルネが言った。
「どうお兄ちゃんが思っていようと、今のこの身体は女性のもの」
ヘルトのしなやかな手が、背中から胸へと移動してくる。
「現実を受け入れて、私とともに立派なレディになりましょう」
「言うな! 妹に取り憑いた悪魔め!」
姿形だけでも、妹そっくりなものに対して悪罵を投げつけるのは辛い。ヘルトはノルネから目を逸しつつ、こう叫んだ。
「妹よ、ノルネよ、『本当のお前』もこの声を聞いているだろう。安心するがいい。兄はこの試練を耐え、必ずお前を救い出してみせる。俺がこれからの辱めに耐え抜き、正しい心を保ち続ければ、お前に取り憑いた悪魔は去り、すべてが元通りになるはずだ!」
「いいえお兄ちゃん、あなたが自分の『女』を自覚することこそが、すべてを元通りにするために必要なことなのです。そうすることによってお兄ちゃんは、このノルネの愛を、一点の曇りもない愛を取り戻すことができるのです」
ノルネはそう言うと、部屋の片隅にある小さな木箱へと向かい、中から黒く細長いものを取り出して戻ってきた。
「お兄ちゃん、これは馬用の鞭です」
ヘルトは目を剥いた。
「私とともに女になる、とお誓いください。さもなければ…」
「打ちたいのなら打て。俺は負けない」
「強情ですのね…では、やむを得ませんわ!」
馬用の鞭は、一般的なそれよりは遥かに丈が短く、太めだ。鞭というよりは、意外にしなう棍棒と言った方が近いかもしれない。
それが唸りを上げ、ヘルトの白い臀部を襲った。
ばしっという、激しい音が地下室に谺する。
ヘルトは苦痛に顔を歪めた。
ヘルトは軍人である。いや、軍人であった。
激しい痛みに耐える肉体も、精神力も養ってきたはずであった。
しかし、今の肉体は、「痛みに耐えられるよう鍛え上げた」それではない。
いや、鍛え方が足りず、痛みが二倍、三倍に感じられても、精神が元のままなら、耐えることはできたろう。
だが、どこか違うのだ。この肉体は。
痛みとともに、違う何かを感じてしまう。
それが、耐えようとするヘルトの精神を揺さぶる。
これは、なんだ。
「うふふ…お兄ちゃん。お尻を叩かれて感じてらっしゃるの?」
ノルネにそう言われて、ヘルトははっとなった。
「あらぁ。初めて知った、という顔をされているわね?」
ヘルトの顔が、羞恥でみるみる赤くなる。
妹に言われて初めて、「痛みとともに快楽を感じている」ということに気づいたのだ。
「ふふふ」
ノルネは微笑みながら、パジャマのズボンを脱ぎ捨てた。
下着をつけていなかったので、裸の下半身が顕になる。
「お兄ちゃんは、女を知っていたのかしら」

「お…俺はっ…今までの人生、軍務一筋だったっ! お、女などにうつつを抜かす暇は…」
「つまり、私のここ以外、女のマ◯コは見たことがなかった…そういうことね?」
ノルネはゆっくりと脚を開き、その間にある亀裂を、指で開いてみせた。
「私は覚えているわ」
開いた亀裂の先端にある突起を、指先でなぞりつつ、ノルネは言った。
「おしおきの時、お兄ちゃんがお尻を叩きながら、私のマ◯コを食い入るように見つめたいたことを…」
「な、何を言い出す。俺は、そんなものなど…」
「嘘は言わないで。わかっているのよ」
ノルネは一度ヘルトの尻を優しく撫で、その後鞭を握り直すと力の限り叩きつけた。
「ううっ」
「女の身体は、全身でいろんなことを感じることができるの。わかってきているでしょう?」
ノルネの言っていることは、悔しいが正しい、とヘルトは思った。かつての自分と同じように、ノルネは今の自分の性器を見つめている。その視線を、自分は感じている…いや、視線で感じている!
「お兄ちゃんが知らなかったことを、ひとつ教えてあげる」
そう言いながら、ノルネは開いた自分の股間を、ヘルトに見せつけてきた。
「女のここは、感じると濡れてくるの…私、お兄ちゃんにお尻を叩かれながら、ここを濡らしていたのよ」
ヘルトはびくりと身体を震わせた。
「お兄ちゃんも今、濡れているのね…わかるわ…同じ『女』ですもの」
ヘルトは自分の性器が濡れてきていることを、はっきりと認識した。この俺が、妹に尻を叩かれ、股間を濡らしているだと!
「身体は正直ね…私に言われて、どんどんはしたない汁を溢れさせているわ…さあ、自分に正直になって、もっともっと感じなさい!」
ノルネがまたヘルトの尻を鞭で叩いた。ヘルトは「あーっ!」と叫びそうになったが、必死にこらえた。
叫び声が全身のさらなる快感の引き金になることが、わかってきていたからだ。
このまま妹の言うように、快楽に身を委ねると、心までが完全な女になってしまう。
「そ、それだけは…それだけはっ!」
ヘルトはぎりぎりと奥歯を噛み締めた。唇の端から、たらたらと血が流れてきた。
「お兄ちゃん、自分に正直におなりなさい! 気持よければ、それを声に出すのよ!」
ノルネがさらに力を入れてヘルトの尻を叩く。尻は真っ赤になり、あちこちで皮膚が破れて血が滲んでいる。
「声を出せば、マ◯コから子宮に貫くような快感を味わえるわ…は、早くお兄ちゃんっ、この素晴らしい感覚を味わってっ!」
ノルネは指で自分の性器を責めながら、なおもヘルトの尻をたたき続けた。
ヘルトはもう痛みを感じることはできなくなっていた。叩かれる度に、全身を快感が走る。
(だ、だがっ…『もっと』と言ってしまえば、俺は終わりだ…俺はっ!)
耐えるヘルトの目から、血が噴き出す。