体験版「プロローグ」
スリスリスリッ。
(……やだっ! こんなにしつこくお尻を撫でてきちゃって、一体どう言うつもりなのよ……!?)
電車で通勤していた矢先、芹沢 優理奈はとんでもない災難に苛まれてしまう。
鮨詰め状態なのを良いことに、誰かがお尻を触ってきたのだ。
とっさに周囲を振り向きながら、ついうろたえずにいられない。
通勤中にもかかわらず、いやらしい行為などを迫られてしまうなどさすがに思いもしなかったのだ。
スベスベスベッ。
(どうして、寄りにも寄って私を狙ってくるのよ……こんな卑怯な真似をしておいて、絶対にただじゃ済まさないんだから!)
なかなか相手の様子を確かめられないせいか、優理奈は苛立ちを募らせてしまう。
慌てて腰を引っ込めたはずなのに、相手がしつこくお尻を撫で回してくるのだ。
いやらしい手つきを思い知らされて、あまりに思い悩まずにいられない。
まともな身動きすら取れそうにない中、ひたすら耐え続けなければいけないのだ……
ギュッ!
「この人、痴漢です!」
「ちょ、ちょっと! いきなり私の手を掴んでくるなんて、一体どう言うつもりなんだ!」
電車が止まった途端、優理奈は大胆な行動に打って出る。
ドアが開くと同時に相手の手首を掴んで、痴漢だと訴えていたのだ。
いきなり手首を持ち上げられたスーツ姿の相手も、優理奈が告げてきた言葉の内容に思わずひるんでしまう。
駅のホームに相手を引っ張るうちに、周囲が段々とざわついてくる。
「事情を窺いますので、とりあえずこちらまで来てもらえますか?」
「す、少しは私の話も聞きたまえ! これは何かの間違いだ、何度もそう言ってるだろう……くっ、どうして私の言い分を少しも聞こうとしないんだ!」
騒ぎを聞きつけて、駅員が優理奈の元へと近づいていく。
どうやら痴漢に遭ってしまったようなので、二人掛かりで相手を取り押さえてきたのだ。
相手も冤罪だと必死に訴える中、少しも言い分を聞き入れようとしなかった。
駅員に連れ去られる形で、相手がどんどん遠ざかっていく。
コツッ、コツッ、コツッ……
(何とか痴漢を突き出せたみたいだけど、何て往生際の悪い人なのかしら……まったく、朝から嫌な目に遭わされちゃうなんて、本当に何てついてないのかしら……!)
痴漢の姿を遠目から見つめながら、優理奈はそそくさと階段を上っていく。
改札口へ向かっている間も、つい苛立たずにいられない。
朝早くから不愉快な思いをさせられるなど、さすがに考えもつかなかった。
しつこくお尻を触ってきたはずなのに、あまりに見苦しい相手の態度を嫌と言うほど思い知らされる……
* * * * * *
ガチャッ。
「失礼します……あっ!?」
痴漢の被害に遭ってから数日後、優理奈はおかしな事態に出くわしてしまう。
上司に呼ばれるまま応接室に脚を踏み入れると、痴漢を働いた人物が立っていたのだ。
相手の姿を目の当たりにさせられて、つい驚かずにいられない。
とっさに身構えた後も、なかなか落ち着きを取り戻せそうになかった。
(やだ、どうしてあの時の痴漢が……うちの会社にやってきちゃってるの!?)
相手の姿をじっと見つめたまま、優理奈はひたすら思い悩んでしまう。
数日前にいやらしい行為を仕向けてきた人物がどうして会社に足を運んできたのか、少しも見当がつかなかったのだ。
周囲の様子を振り返る間も、つい困惑せずにいられない。
目の前に立ちはだかっている相手に合わせて、応接室に集まっている上司達も何故か睨みつけてくるのだ……
「芹沢くん、相手に失礼じゃないか。しっかり挨拶をせんか!」
「このお方は伊丹製薬のお偉いさんなんだぞ、ちゃんと頭を下げなさい!」
「うちの社員がご無礼を働いてしまったようで、本当に申し訳ございません……」
怖じ気づいている優理奈の様子も構わず、上司はすぐに言葉を切り出す。
業界大手の伊丹製薬の重役だと説明した上で、ちゃんと挨拶を交わすよう言い放つ。
戸惑う優理奈をよそに、次々と頭を下げる始末だった。
「そ、そんな……私、何日か前にこの人に痴漢させられて大変な目に遭ったばかりなんです! そんな人がどうして、会社にやってきているんですか!?」
ヒクヒクヒクッ……
周囲の様子に茫然とさせられるまま、優理奈は恐る恐る質問をぶつける。
数日前に痴漢してきた相手がどうしてわざわざ会社を訪問してきたのか、少しも理由を思いつきそうになかったのだ。
慌てて反論しようとする間も、つい戸惑わずにいられない。
いくら重役達に言い聞かされても、目の前にいる人物の存在を少しも受け入れられそうになかったのだ。
「どうやら、まだ君は誤解しているみたいだね……確か、芹沢くんと言ったかな。とりあえずこれでも見てもらってから、君の主張を聞こうじゃないか……」
困り果てている優理奈の様子を見かねて、重役はさりげなく話を切り出す。
どうやら未だに勘違いをしているようだと気づいて、誤解を解くことにしたのだ。
携帯を差し出しながら、とりあえず画面を見るよう言い放つ。
(やだ、これって私のお尻じゃない! それに触ってる相手の手も、もしかしてこの人じゃなかったって言うの……?)
携帯に映し出された映像に、優理奈は思わず言葉を失ってしまう。
数日前の出来事が、小さな画面越しに映し出されていたのだ……どうやら犯人が隠し撮りしたものらしく、トレーナーを着ていた相手が執拗にお尻を撫で回してたのだ。
当時の様子を振り返るうちに、とんでもない事実が脳裏をよぎってくる。
どうやら別の相手を、痴漢だと間違えてしまっていたようなのだ……
「ご、ごめんなさい! あの時はとんだ早とちりしてしまったせいで、失礼な真似をしてしまって……!」
ヒクヒクヒクッ……
とんでもない事実に直面させられて、優理奈はすっかり弱り果ててしまう。
携帯から視線を離すと、慌てて頭を下げていたのだ。
目の前にいる相手の様子を窺っている間も、自らの行いを悔やまずにいられない。
早とちりしてしまったせいでとんでもない事態を招いてしまうなど、さすがに考えられない事態だった……
「芹沢くん……まさかその程度で許してもらうつもりじゃないだろうね。大切なお得意様を貶めるような真似などをして、ただで済むなんて思っているつもりなのか……!?」
「もし伊丹製薬と取り引き出来なくなったら、とんでもない損害になるんだぞ! 君の給料で賄える金額じゃないんだ……!」
「相手方にこれだけの不利益を与えてしまったのは紛れもない事実なんだ。どうやら君の方を罰しなければいけないみたいだな……!」
優理奈の様子をじっと睨みつけながら、上司達はすぐに文句をぶつける。
謝罪したところで、今さら痴漢冤罪の事実だけは免れないはずだと言い放つ。
ついには優理奈に聞こえるように、出頭する必要があるとまで脅してくる始末だった。
「そ、それは……お願いですから、手荒な真似だけはご勘弁ください……!?」
ワナワナワナッ……
上司達から浴びせられる言葉の内容に、優理奈はますますひるんでしまう。
自らしでかした行いのせいで、とんでもない事態を招いてしまったのだ。
ひたすら謝っている間も、つい焦らずにいられない。
会社内での地位を貶められる事態だけは、何としても避けなければいけなかったのだ。
「まぁまぁ、あまり責めてしまっても可哀想じゃありませんか……でも、ただで許してしまうわけにもいかないのは確かだ。そこで芹沢くんにとっておきの提案を用意したんだが、少しばかり聞いてもらえないか?」
必死に追い縋ってくる優理奈の様子を見かねて、重役がある提案を持ち掛ける。
罪を揉み消す代わりと称して、これから自分の言いなりになるよう迫ってきたのだ。
みるみるうちに縮み上がっている優理奈の様子を見ているだけで、つい興味をそそられずにいられない。
「そ、それって一体、どう言う意味なんですか……?」
重役の言葉に耳を傾けながら、優理奈は恐る恐る質問を始める。
犯した罪を帳消しにしてもらう代わりに、別の行為を仕向けてくるつもりらしいのだ。
相手の返事を待ち構えている間も、つい背筋をこわばらせずにいられない。
どんなに考えても、相手の意図をなかなか思うように掴めそうになかったのだ。
「そんなに脅えなくても構わないだろう。簡単に言うと……普段の業務と併行して、うちの商品の『サンプリング業務』に付き合ってもらいたいんだ。ちゃんとこなしてもらえるようなら帳消しにしたいと思っているんだが……芹沢くん、引き受けてもらえるかね?」
「サンプリング業務と言っても、そこまで大げさな代物ではないらしいんだ。芹沢くん、この程度で許してもらえて本当に良かったな?」
「ほら、芹沢くん! ここまで恩情を掛けて下さってるんだ。さっさと返事をしないか……!」
戸惑っている優理奈を相手に、重役はさらに言葉を続ける。
自社で開発している製品のサンプリング業務に協力するよう、さりげなく優理奈へと言い放つ。
ついには上司達まで、重役の厚意をすぐにでも受け入れるよう言い張ってくる。
「か、かしこまりました。何卒、よろしくお願いします……」
フルフルフルッ……
周囲の雰囲気に気圧されるまま、優理奈は恐る恐る返事を返す。
未だにためらわずにいられない中、重役の申し出を受け入れることにしたのだ。
恐る恐る返事を返した後も、つい思い悩まずにいられない。
これからどんな目に遭わされてしまうのか、少しも想像がつきそうになかった……