エドガーが驢馬と共に商いから帰ってくると、村は異様な静けさに包まれていた。夕刻、いつもならば子供らが跳ねまわり、1日の仕事を終えた大人らが停滞を誤魔化すジョークを交えて変わり映えのない四方山話をしている頃なのに、誰の姿も見えなかった。
「おい、誰かいないのか」
呼びかけの声は虚しく木霊しながら寂寞のなかに溶けていく。
何かよくないことでも起こったのだろうか。青年の脳裏に不安がよぎる。
だが、どこにも争った形跡は見られなかった。危険な魔物はこの辺りには生息していないし、こんな死にゆく村を襲う盗賊なんていない。
村の連中総出で自分を出し抜こうとしているのだろうか。そうであって欲しいという考えから、彼はそれが妥当であると思った。くだらない脅かしを仕掛けるくらいしか、この村に娯楽は無いのだ。
エドガーは狩り立てられる小動物のように辺りを見回しながら、しかし、努めて落ち着いた足取りで酒場へと向かった。商いの帰りには一杯ひっかけていく習慣がそうさせた。酒場にはいつもとは違った、陰気な静けさが垂れこめていた。戸口に立って耳を澄ませると、微かに物音が聞こえた。
「誰かいるのか?」
木戸に手をかけて中を覗くと、暗い店の奥に佇む男の影があった。
「なんだ、ダン。いるんなら返事くらいしたら――」
店に入ったエドガーは言葉を失った。カウンターの奥は確かに見知った店主のダンの姿があった。白髪交じりの髪を後ろで縛った、精悍なドワーフの中年だ。だが、その様子が異様だった。こちらを振り向いた彼には、およそ感情というものが無かった。目は虚ろで、健康的だった皮膚の色は不気味な青黒い色に変わっていた。光の加減などではなかった。
「うぐるああああぁぁぁ……」
ダンはエドガーを見ると、不気味な唸り声をあげ、猿臂を伸ばして襲い掛かってきた。掴んで来たその手は、死んだように冷たかった。
「おい、よせよ、離しやがれ!」
エドガーは咄嗟に手を振りほどき、力任せに横面を殴りつけた。だが、酒場の親父は少しよろめいただけで、文句も悲鳴もなく、再びエドガーに向かってくる。あっけにとられたエドガーの腕をごつごつとした手で把握し、あんぐりと口を開けた。
食い破られる皮膚と肉。溢れ出す赤い血。傷口。それらを順番に認識した後で、エドガーは噛みつかれたのだと理解した。続いて襲ってくる、焼けつくような痛み。
「何しやがるんだ! この野郎!」
エドガーは逆上にまかせてダンを振りほどき、蹴り飛ばし、背後から椅子で何度も殴りつけた。木製の椅子は破壊され、店主は埃まみれの床の上に倒れたが、すぐに起き上がろうとしていた。
「く……なんなんだ、なんだってんだよ……」
恐ろしくなったエドガーは傷口を抑えて外に飛び出した。さっきまではいなかったのに、通りや家屋のわきにちらほらと人影が見えた。よく見知った村の男たちだった。彼らもまたダンと同じように、血色と意思を失っていた。呻き声を上げながら、びっこのような足取りで近づいてくる。
恐怖と混乱の虜となったエドガーは、荷物と驢馬を置いて駆け出していた。
ゾンビという動く死者の話を思い出した。確かにあの肌の冷たさも、色も、死人のそれとそっくりだった。なんでこんなことに――わかるはずもなかった。
エドガーは半ば無意識に自宅へと帰っていた。このまま、村の外に逃れるべきだろうが、彼には妹がいる。安否を確かめずにはいられなかった。
家の中は静まり返っていた。荒らされた様子はないが、異様な気配が漂っている。商いの間、妹の世話を頼んでいるスティーブンもいない。
2階に上がり、妹の部屋へと向かった。日当たりのいい南向きの部屋だ。プレートにフランシーヌと掲げられた扉を開ける。恐る恐る室内を覗いた。窓際のベッドに妹の姿があった。上体を起こして、いつものように窓の外を見ていた。
「フラン……よかった、無事――」
殴られたようなショックがエドガーを襲った。声に反応し振り向いた妹の顔は青白く、血管が浮いていた。瞳は輝きを失い、沼のようにどろりと濁っていた。
「ううあああぁ……」
地の底から響くような呻き声を発し、フランはベッドから落下した。痛みや衝撃をものともせず、肩まである亜麻色の髪を振り乱し、床を掻いて這い寄ってくる。その姿はどこか蜘蛛を思わせた。フランは足が悪かった。それにも関わらず、何か強烈な力がその肉体を操って、無理やり動かしているようだった。
「フラン……なんてこった……フランまで……」
エドガーは扉を勢いよく閉め、1階へと駆け下りた。あんな姿になったからって、妹を傷つけることはできない。それに、何か元に戻す方法があるかもしれない。とにかく、村を脱してこのことを誰かに伝えないと――。
瞬間、階段の影から伸びてきた手に服を掴まれた。
「おおおおぉぉぉ……」
隣に住む、サラという少女――いや”サラだった”ものだ。エドガーは驚きのあまり、身を翻してキッチンの方へ後ずさった。
ドン、と背中が誰かとぶつかる。サラの母親のバーバラだった。年増女のゾンビは、逃れようとするエドガーを抱きすくめ、押し倒そうとしてきた。娘もそれに加わり、一気に旗色は悪くなった。
「くそ……やめろ! 俺には、まだ……」
エドガーは我と我が目を疑った。
キッチンの奥や廊下の向こうから、顔見知った女のゾンビたちが、覚束ない足取りで歩み寄ってきていたのである。動転していたためか、いつもの習慣通りに、玄関の鍵を閉めずにいたのだった。己の間抜けさを呪ったがもう遅すぎた。
「ああああぁ……」
「ううううぅ……」
無数の死者の腕にとらわれ、埃塗れの床に押し倒されたエドガーは死を覚悟した。
この右手首と同じように、命を食われるのだ――恐怖のあまり目をつぶった彼の首に、ぬるりとした感触が張った。
ゾンビの1人が首筋を舐めてきたのである。それだけではない。彼女らは倒れたエドガーの衣服を掴んで力任せに破り、露わになった肌をレロレロ……と舐め始めたのだった。さらに、下半身に取りついた誰かがズボンを脱がせてくる。
「おい、お前ら、何する――んんんっ!?」
死者の血の気のない唇が押し当てられる。すぐに舌が入り込んでくる。冷たいぬめぬめとした粘膜が口内をねっとりと蹂躙する、そのおぞましくも妖しい快感は、こんな状況だというのにエドガーの男を反応させた。
充血した男の証を女ゾンビの1体が掴み、性器に導いた。一瞬で、ぬぷぬぷと根元まで飲み込まれる。内部は粘液で滑っていたが、死者の肉は冷え切っていた。女ゾンビは不気味な呻き発し狂ったように腰を振り乱す。粘液が結合部から溢れ、淫らな音が室内に響いた。
「んんっ……んんんっ……た、たまんねえ……ふううぅ」
「あああぁ……ううぅ……」
「ああぁ……あむっ……れろれろ……」
ゾンビと交わる忌避感や恐怖はなんの歯止めにもならなかった。全身にリップを落とされ、舐めまわされる快感と蜜濡れた膣肉で肉棒を扱かれる快感は、抵抗の意志を甘美に篭絡し、理性を蕩かした。女ゾンビの群れに纏わりつかれ、全身を嫐られながら、エドガーは射精していた。
ことが終わると別なゾンビが入れ替わった。萎える間もなく男の弱点を膣肉でシェイクされる。絶え間ない快感が駆け巡る。青年は身動きが取れないままビクビクと震え続ける。歓喜の喘ぎと死者の呻きが混ざり合う。
「ああぁ……ふうぅ……こ、こんなのたまんねえ……また、漏れる……」
死肉が絡み合い、犇めき合い、誰に何をされているのか、もうわからなくなっていた。
いつの間にか、妹のフランシーヌがゾンビに混じって自分を犯していることも。
どうして突然村がゾンビだらけになってしまったのかということや、どうして女のゾンビに犯されているのかも、何もかも分からない。わかりようがない。
やがてエドガーは考えることを諦めた。与えられる肉の悦びだけに集中し、女ゾンビに全身を嫐られる快感に浸りきり、ただ惨めに精を漏らした。何度も、何度も、何度も……。
死者と生者のおぞましい交わりを、見る者があった。黒いローブに身を包んだ、小柄な誰かが廊下に立って覗いているのである。何かをぶつぶつと呟きながら、手帳にペンを走らせる様子は、ただ見ているのではなく観察しているという方が正しそうだ。しばらくすると、女はその場を立ち去った。
やがてゾンビの群れの中から男の断末魔が響いた。そして、永遠にもにた静寂が再び村を包み込んだ。
「止せよ。嫌がってるだろ」
自分の口から出た、ありきたりな文句に辟易とした。それをさせた原因である、ありきたりな酔っぱらいは、酒気で濁った一瞥を僕にくれると、
「なんだてめえ? 俺に文句があるってか?」
これまたありきたりな口上を述べ、腰を上げた。僕より頭1つ大きいトゥラン人だ。いかにも荒事に慣れていますと言わんばかりの体躯とむさくるしい髭面、まこと冒険者らしい冒険者だ。
粉をかけられていた酒場の女給は諍いの隙に店の奥へと逃げようとしたが、男に腕を掴まれてしまった。彼女は短い悲鳴を上げたが、僕と男を見比べ観念したみたいに首を垂れた。
「見ろ。キャシーは嫌がってねえじゃねえか。ええ? それとも、てめえの連れでも紹介してくれるってのか」
酔漢は僕の背後のテーブルに着く3人の仲間を見やった。
「ガキのくせに、女3人も侍らせやがって。気に食わねえな」
羨ましいなら代わってやりたいよ、という背後の3人への当てつけは、胸に秘めておくことができた。
「なあ、あんた。いくら女が欲しいからって無理矢理は止そうや、ここは――」
ここは猿の国ではないと言いかけて口を噤む。すぐに余計な一言を発するのは僕の悪い癖だ。
「ここはルクセンの王都だ。厄介事を起こして巡邏兵の世話になるのはごめんだろう?」
「ケッ、てめえらの領地さえ守れないルクセンの兵士に、なんでこの俺が世話になる。恩知らずってもんだぜそりゃあ。やつらの代わりに魔物を退治してやってんなぁ誰だ? ここらの人間に食い物を運んでこれるなぁ誰が商人を守ってやってるからだ? 俺たち冒険者だろうが!」
男は酒場中に響く大きな声でがなった。周囲の冒険者は珍しい酒の肴だとばかりに、賛同の声を送ったりはやし立てたりしていた。
ルクセンはあの忌まわしいルクセン事変最大の加害国であり被害国だ。ザモラとトゥランとの間で結ばれた講和条約で領土の多くを失い、かつて大陸最強と謳われた騎兵隊は縮小させられ、ルクセンは今では王都や都市部の防衛にさえ事欠いていた。そのため、この国では不足する治安維持能力を冒険者や傭兵によって補っている。そんな中には、タチが悪い連中がいる――というよりも、冒険者が生き抜くためには、お行儀のよさよりもある種のタフさが必要だ。僕だって餌場に群がるハエの1匹なのだから、こいつの言い分はともかく情緒は理解する。だからって、狼藉を見過ごせない。この国は僕にとって単なる儲け口ではなく、生まれ故郷でもあるからだ。
「こっちは命張ってんだ。おめえだってそうだろ? 危険を引き受けてやってるその礼に、この国の女は自分から股を開くのが筋ってもんだぜ。なあ?」
酒乱の戯言だ。しかし、野郎連中からは下品な賛同と笑いが沸き起こり、キャシーは俯けた顔を真っ赤にした。
「よお、まあ、落ち着けって同胞。プロバに誓って、いくらなんでも、そういう冗談はよくねえぜ? ただの下種じゃねえか……おっと」
ピキ、と血管が切れるような音が聞こえた気がした。まずったか、と思った時には、男の顔にはぶちのめしてやる、と書いてあった。
「若造が舐めくさりやがって。文句があるなら、冒険者らしく、いこうじゃねえか。プロバに誓ってな」
売り言葉に買い言葉。あとは、冒険者の守り神プロバのお気に召すまま。だが、勿怪の幸い、僕への怒りが下品な根性に勝ったのか、男は娘を解放していた。
「あー……仕方ねえな」
威嚇的に手の関節を鳴らす男と対峙し、僕は頭を掻いた。かなりの量の酒が入っているのか、相手の足元は自信に比べて覚束ない。頑丈そうだし、多少痛い目を見てもらえばいいだろう。
僕は”彼女”に向かって言った。
「おい。手を出すなよ」
「は。今更怖気づいたって――」
酔いどれは言いざま拳を振りかぶった。
「お前じゃない」
僕は精彩を欠いた拳を避け、腕を取って脚を跳ね上げた。
勢いづいて前のめりになった巨体が宙を舞う。地鳴りみたいな音を響かせて木製の丸テーブルに叩きつけられた男は、そのままテーブルを巻き込んで壁に激突し、動かなくなった。頭を打って気死したのだろう。
野次馬連は茫然とした、あるいは拍子抜けした様子だった。彼らは僕がぶちのめされるのを期待していたらしい。ザマーミロだ。
「バブ。てめー、わざとだろ。せっかく気持ちよく飲んでたのに」
と、エールのジョッキを片手にシャルロッテが絡んでくる。美しい金色の髪を腰まで伸ばした長身のエルフの戦士で、我が部隊の切り込み隊長だ。あけすけな性質で、こんなむさくるしい酒場でも上半身には胸元を隠す布切れ1枚しか着けていない。
「しょうがないだろシャル。他の卓に突っ込ませるわけにはいかない」
「けがはない? ごめんね、シャルが止めるなっていうから……」
申し訳なさそうに謝るのはアナスタシアだ。ノーム族の僧侶で僕の幼馴染。変に生真面目な彼女は、仕事を終えた後でも法衣のままだ。ゆったりした服の上からでもわかる、肉感的な体つきに周囲の数人が淫らな眼差しを向けている。僕はさりげなく体を盾に視線を遮った。
「平気だよアーニャ。それより――」
僕は天井を見上げた。というよりも、梁に腰かけてこちらを見下ろす、フード付きのマントを目深に被った怪人をだ。
「トップ、降りてこい」
トップは登った時と同じように音もなく目の前に降り、フードを脱いだ。
少年のようにも見える中性的な顔立ちのヒューマンの少女だ。闇に溶け込むような黒い髪と黒い眸はどちらもこの辺りでは見られないものだ。
「ロバート殿。なんで止めたか? ああいうやつ。黙らすにはコレ。一番」
袖口に隠したナイフを見せながら、剣呑な目つきで僕を睨む。
彼女は……暗殺者だ(マジかよって僕だって思うさ)。今もそのウデマエのほどを見せようとしてくれていたのだが、僕が止めたので不満らしい。
「あのな。ここは酒場、愉しくお酒を飲むところなんだよ」
「仕掛けたのヤツ。アルジ守る。それが役目」
「いや、あれは単なる……そう、ああいうのは、冒険者同士の交流というやつだ。殺すのは……ええと、しきたりに反する」
「そうか。冒険者のしきたりは変わっている。でも、諒解だ」
トップは得心して頷くと手品みたいにナイフを消してしまった。
変わってるのはお前だと言うだけ無駄だ。出身の違いか、育ってきた環境の違いか、彼女はこういった危険な勘違いをしばしば披露する。
トップとは半年ほど前、悪徳の国ザモラでの仕事の際、行きがかり上、仲間――と言っていいのかはわからないがクランに居つくようになった。というのも、トップの言い分によれば、僕と彼女はアルジとカクという間柄になったらしい。王族と騎士よろしく主従で結ばれた関係ではなく、僕が生活の面倒を見る代わりに、腕を貸すのだという。遥か東方、ズィトーの文化は不可思議だ。それ故に、神秘的ではあるのだが――と、閑話休題。
酔っぱらいが意識を取り戻して起き上がってきた。頭に割れた木片が刺さって、そこから血を垂らしている。
「よくもやりやがったなこのチビ!」
痛い目を見たのに、まだ気力は萎えないようだ。
やつの仲間らしき男がもう止せ、と抑えているが、どうしたものか。
「バブ。やっこさん、まだやる気みたいだぜ? おもしれえから、付き合ってやれよ」
「け、喧嘩はよくないよ……お店にも迷惑だし……謝って仲直りしなきゃ」
シャルとアーニャが口々に言う。まるで天使と悪魔だ。これだったら、トップを止めなければよかったか。周囲の客も半ばしらけ気味だ。女給も無事だし、尻に帆をかけるか。
そう考えた矢先、酒場の扉が勢いよく開かれ、巡邏兵が5人なだれ込んできた。その場にいた全員が固唾をのんで思わぬ乱入者を注視した。
「残念だが同胞、お迎えが来たみたいだぜ。少し絞られてくるんだな」
僕がこれ幸いと勝利宣言をすると、男はトゥラン語で訳しただけで品が堕ちそうな罵りの言葉を口にした。だが、隊長と思しき帯剣した兵士は、思ってもみなかったことを口にした。
「ここに、ロバート・オルティスはいるか?」
「へ? おいおい待てよ兵隊さん。僕は喧嘩を売られただけ。スケベ野郎はそこの……」
僕は訂正しようと兵士に詰め寄った。だが、返ってきたのは冷たい一瞥と理解しがたい宣告だった。
「貴様がそうか。今晩のことは知らんが、貴様とクランに逮捕命令が出ている」
大人しくお縄につくしかなかった。外へ出るには5人を相手にしなければならない上に、酒場の外にはさらに数名の兵士が待機していた。その数の武装した兵士相手では、厳しい戦いを強いられそうだったし、逃亡に成功したとしても二度とルクセンの国境をまたげなくなりたくはなかった。
「よお、バブちゃん。あたしらに隠れてなにやらかしたんだ? お姉さんに言ってみ?」
シャルは苦し紛れにからかってきたが、僕にも心当たりはまるでなかった。
隊長に訊ねても機密事項の一点張りで埒が明かない。
僕らは後ろ手に縛られ、大通りを抜け城へと連行された。