世宗実録巻第百四十八

用語解説
丁:労役を負担する成人男性。
土貢:蜂蜜など、高価だが比較的量が多く採れるもの。
土宜:土地に適した農作物。
土産:特産物。
軍:兵士の意。
土姓:古くから地元に住んでいる氏族。
来姓:外来の氏族。
亡姓:昔の戸籍にはあるが実録編纂時には存在しない氏族。
( 姓氏については「『世宗実録』 地理志姓氏條の基礎的考察」「李朝初の地方支配について : 『世宗実録』地理志姓氏条の性格検討をめぐって」をご参照ください。
主産蘇魚:その漁港の主要な魚。

序文

 東国の地志はおおよその事が『三国史記』に記されているが、他に比較するものが無い。わが世宗大王が尹淮や申檣らに州郡の沿革を考察するよう命じて、この書を撰し、壬子の歳に完成した。その後、行政区画は統合と分離が行われているが、特に境界と新設の州鎮について特記し、続いてその道の末端について記す。

京都漢城府

 本は高句麗の南平壤城で、またの名を北漢山郡という。百済の近肖古王は東晋の簡文帝の咸安二年壬申に南漢山からここに遷都し【原注:南漢山、今の広州。】、百五年間都を置いたが、文周王は高句麗の攻勢を避けるために態津に遷都した。高麗の初めに楊州と改めた。粛宗の時代に術士・司儀令の金謂なる者が、玉龍禅師の『道密記』を根拠に「楊州の木覓壤に城を築くべきです。」と進言し、日者・少府監の文象従がこれに賛成した。四年己卯九日、粛宗自らがこの地に来て地勢を見、平章事の崔思諏と知奏事の尹に工事の監督を命じた。五年辛巳に工事を始め、九年甲申に工事は完成した。宋の徽宗の崇寧三年のことである。八月、粛宗が遠路視察に来て、楊州を南京留守官に昇格させた。これより仁宗・毅宗・忠烈王・恭愍王・恭讓王と、全てこの地に来て一時留まった。忠烈王の三十四年戊申に漢陽府に改めて、府尹と判官を置いた。【原注:元の武宗の至大元年のことである。】、朝鮮の太祖康献大王の三年甲戌十月甲午、この地に都を定めて漢城府と改め、判事・尹・少尹・判官・参軍を置いた。【原注:大明の太祖高皇帝の洪武二十七年のことである。】乙亥二月に宗廟と宮室の造営を始めて、九月に全て完成した。

 都城は周囲九千九百七十五歩。北は白嶽祠から南は木覓祠まで、徑六千六十三歩。東は興仁から西は敦義門まで、徑四千三百八十六歩。正東に興仁門、正西に敦義門、正北に粛清門、北東に弘化門【原注:東小門】があり、東南に光熙門【原注:水口門】、西南に崇礼門、北の小門が昭徳門【原注:西小門】、西北に彰義門がある。【原注:朝鮮の太祖の五年丙子春、各道から民丁一万八千七十六を徴発して都城造営を始めた。正月十五日に工事を始め、二月晦日に工事を終えた。他に煉瓦と石灰のために兵千七百五十九を徴発した。秋になるとまた民丁七万九千四百三十一を徴発し、八月十三日に工事を始め、九月晦日に工事を終えた。今上の四年壬寅、太宗が改修を命じ、土の城壁を全て石に替えた。八道の兵三十二万二千四百名を徴発して、正月十五日に工事を始め、二月に終えた。城東に初めて水門三つを開いた。長雨になると増水を防ぐ場合もあるので二門増やした。】

 東部は十二坊【原注:崇信・蓮花・瑞雲・徳成・崇教・燕喜・観徳・泉達・興盛・彰善・建徳・仁昌。】、南部は十一坊【原注:広通・好賢・明礼・大平・椏ゥ・誠明・楽善・貞心・明哲・誠身・礼成。】、西部は八坊【原注:仁達・積善・余慶・皇華・養生・神化・盤石・盤松。】、北部は十坊【原注:広化・陽徳・嘉会・安国・観光・鎮長・明通・俊秀・順化・義通。】、中部は八坊。【原注:澄清・瑞麟・寿進・堅平・ェ仁・慶幸・貞善・長通。】

 宗廟【原注:中部に貞善坊、東部に蓮花坊、中央には松を並べ取り囲む。】、永寧殿【原注:宗廟は周垣内の西に在る。太祖が天命を受けて即位すると、穆祖・翼祖・度祖・桓祖を王に追封し、宗廟を建てて祀った。太宗が廟を祀ると、穆祖を移すことになり、別に建是殿を建てて穆祖の位牌を移し安置した。翼祖・度祖・桓祖もまた建是殿に移した。】、社稷【原注:仁達坊にあり、周りを松で取り囲む。】、文昭殿【原注:初め建てた文昭殿は昌徳宮の西北にあり、太祖康献大王と神懿王后の肖像を奉安した。その後、広孝殿を昌徳宮の北東に建てて、太宗恭定大王と元敬王后の肖像を奉安した。後に宋の景霊宮の制に倣って、もとの廟を景福宮城内の北東に移築し、前を廟に後ろを墓にして、専ら古礼を以って祀り、これを機に名称を文昭殿として、両殿の肖像を移し安置した。】、文廟【原注:崇教坊に在り。廟庭に碑あり。成均館学官を任命して、士の子を教育させ、生徒の定数は二百人。その傍らに養賢庫を置き、教育の維持費として田千三十五結を給す。今上の十三年辛亥に九百六十五結を加えた。】、景福宮。【原注:白嶽山の南に在る。】、燕寝を康寧殿、東小寝を延生殿、西小寝を慶成殿、更にその南を思政殿という。【原注:政務を執る場所】、更にその南を勤政殿という。【原注:朝拝を受ける場所】、内門を勤政、内東門を日華、東閣楼を隆文、西閣楼を隆武という。永済橋【原注:勤政門外に在り。】、弘礼門【原注:永済橋の南に在り。】、慶会楼【原注:宮西垣内に在り、楼を池が取り囲む。】、東宮【原注:建春門の内に在り。】、宮城。【原注:周囲千八百十三歩。】、東門を建春、西門を迎秋、南門を光化という。【原注:門楼は二層、楼上に鍾皷が懸けられ、朝夕を報せるために鳴らす。門の南は左右に議政府・中枢院・六曹・司憲府などの各司の役所が分かれて並ぶ。】昌徳宮【原注:貞善坊に在り。太宗五年乙酉に離宮として建てた。】、仁政殿。【原注:朝拝を受ける場所】、内門を仁政、中門を進善、外門を敦化という。広延楼【原注:宮の東に在り。】、寿康宮【原注:蓮花坊に在り。太宗の十八年戊戌、譲位した太宗は宮を造り移った。】、善養亭【原注:宮の南の岡に在り。】、恵政橋【原注:中部瑞麟坊の北に在り。】、雲従街【原注:瑞麟寿進坊中央。】、通雲橋【原注:ェ仁坊の南に在り。】、北広通橋【原注:広通坊の北に在り。】、南広通橋【原注:太平坊に在り。】、大市【原注:中部長通り慶幸坊の中央に在り。】、鐘楼【原注:都城中央に在り。二層を構え、楼上に鐘を懸けて朝夕を報せるために鳴らす。】、都城左右行廊【原注:およそ二千二十七間。】、太平館【原注:崇礼門内皇華防に在り。この館で明の使臣を接待する。傍らに別殿があり王が休息する。】、慕華館。【原注:敦義門外西北に在り。本の名は慕華楼。明の使臣を迎える場所。今上の十二年庚戌に創爲館と改めた、南に方形の池があり垣と柳がある。】、

 五部戸一万七千十五。城の基盤は十里【原注:東は楊州の松溪院と大、西は楊花渡と高陽徳水院、南は漢江と露渡に至る。】、戸数は千七百七十九、墾田千四百十五結。

 三角山【原注:都城外正北に在り、一名華山。新羅の時代に負児嶽と称した。】、都城の鎮守の山を白嶽という。【原注:山頂に祠宇があり三角の神を祀る。附属として白嶽を祀り中祀となす。】、木覓祠【原注:都城南の山の頂に在り。小祀。

 烽火は五ヶ所あり。第一所は咸吉道から江原道・楊州の峩嵯山を経て来る烽火、第二所は慶尚道から広州の穿川山を経て来る烽火、第三所は平安道から黄海道を内陸より毋嶽の東に来る烽火、第四所は平安道から黄海道を海沿いを毋嶽の西の峯に来る烽火、第五所は全羅道から忠清道を海沿いに来陽川の開花に来る烽火である。峩嵯山の烽火は咸吉道から江原道を経て豊壤大伊山に来る。】、毋嶽【原注:慕華館の西に在り。山上に烽火が二ヶ所あり。東の峯は平安道から黄海道の内陸を経て高陽の所達山に来る烽火、西の峯は平安道から黄海道の海沿いを経て迎曙駅はの西の山に来る烽火。】

 衍禧宮【原注:母嶽の南に在り。晋山府院君の河崙はこの地に毋嶽明堂を造り、ここに都が出来ると言っていた。辛丑の歳に太宗はその言葉を思い出し、離宮を建てた。】、祀壇・東方土龍壇・先農壇【原注:全て興仁門外坪村に在り】、馬歩壇・馬祖壇・先牧壇・馬社壇【原注:全て興仁門外の沙斤寺里に在り】、先蠶壇【原注:東小門外沙閑伊に在り。】、老人星壇・図壇・霊星壇・風雲雷雨壇【原注:全て崇礼門外屯地山に在り。】、南方土龍壇【原注:漢江の北に在り。】、西方土龍壇【原注:加乙頭に在り】、北郊壇・北方土龍壇・詩ユ壇・【原注:全て彰義門外に在り。】、東籍田【原注:興仁門外に在り、宗廟・社稷・山川の智神に餅を供えるための田。他に薦都門の郊外に西籍田がある。】

 漢江渡【原注:木覓山の南に在り、広さ二百歩。古くは沙平渡といい俗称は沙里津渡。北に壇があり、春と秋に国祭を行い中祀となす。渡丞一人を置き出入りを監察する。埠頭に済川亭がある。】、龍山江【原注:崇礼門外西南九里に在り、漕運の物資を貯蔵する。軍資江監と豊儲江倉がある。】、西江【原注:西小門外十一里に在り、こちらも漕運の物資を貯蔵する。広興江倉と豊儲江倉があり。】

 加乙頭【原注:西小門外十二里に在り、切り立った山が特に美しい。南は大江に臨み、絶壁が百仞、木によじ登って下を見ると毛髮が強張るほどである。】

 冰庫二【原注:いにしえの氷室。一つは豆毛浦で神に供え、一つは漢江の下流の栢木洞にあり、王の御膳や賓客の食事に供したり、百官に分けたりする。】、造紙所【原注:壮義寺洞に在り。明に送る表箋・奏啓・咨文などに用いる紙は、全羅道全州南原府が毎年貢納するが、多くは用いられない。今上の二年、特命によりこれを設置し、良い職人を選んだため紙の質は以前に比べて良くなった。これより全南二府から強引に納めさせていた弊害は無くなった。】、水輾(水車の石臼)【原注:壮義寺洞口に在り。】、東活人院【原注:東小門外に在り。】、西活人院【原注:西小門外に在り、昔の名は大悲院。提調と別坐がいる。他に医巫がいて、都内の病人で身寄りが無い者は全てここに集めさせ、粥・湯・醤・薬・食事、また衣服とムシロ・敷き物など、適宜必要な物を給す。死亡した場合には埋葬する。】、帰厚所【原注:龍山江に在り。提調と別坐がいる。また僧徒のうち有志を幹事とした。棺を作って売り、急死者に備える。】

 興天寺【原注:皇華坊に在り、禅宗に属す。寺に三層の塔あり、仏舎利を安置する。太祖が創建し田二百五十結を給す。】、興徳寺【原注:燕喜坊に在り、教宗に属す。太祖が宮殿を喜捨して寺とした。田二百五十結を給す。】、壮義寺。【原注:彰義門外に在り、教宗に属す。田二百五十結を給す。】

 封境【原注:東は五百四十里で襄陽に、西は六百里で豊川に、南は九百八十里で海珍に、北は千四百七十里で閭延に、北東は(訳注:欠落か)慶源に、東南は八百七十里で東莱に、西南は三百九十里で泰安に、西北は千百四十里で義州に至る。】、

旧都開城留後司

 本は高句麗の扶蘇岬で、新羅が高句麗を併合すると松嶽郡と改めた。高麗の太祖二年己卯【原注:後梁の末帝の貞明五年。】、正月、于松嶽の南に都を定めて、開州に昇格させ、成宗十四年乙未【原注:宋の太宗の至道元年。】、に開城府に改めた。顕宗の元年庚戌【原注:宋の真宗の大中祥符三年。】、契丹の聖宗皇帝は自ら将となって開京に入り、宮殿や民家のほとんどを焼き尽くした。九年戊午、開城府を廃して県令を置き、貞州・徳水・江陰の三県を管下に置いて、尚書都省に直属させた。二十年己巳【原注:宋の仁宗の天聖七年。】、侍中の姜邯賛が都に城壁を築くよう進言したため、顕宗は参知政事の李可道らに命じ、丁夫二十三万八千九百三十八人、工匠八千四百五十人を徴発して羅城を築かせた。周囲一万六千六十歩、高さ二十七尺。大門は四つで、東を崇仁、南を会賓、西を宣義、東南を保定という。文宗の十六年壬寅【原注:宋の仁宗の嘉祐七年。】、更に昇格させて知開城府事とした。【原注:金沚の撰した『周官六翼』にこうある。「壬寅三月に改号し、牛峯郡・徳水・江陰県・貞州・長湍・臨江・兔山・臨津・松林・麻田・積城・坡平県を管轄させた」】忠烈王の三十四年戊申に開城府に昇格させて、府尹以下の官を置いて都城の内を掌らせ、別に開城県令を置いて都城の外を掌らせた。朝鮮の太祖の二年癸酉【原注:大明の太祖高皇帝の洪武二十六年】に周囲二十里四十二歩の内城を築いた。三年甲戌に漢陽に遷都し、四年乙亥に旧京を開城留後司として、留後・副留後・断事官・経歴・都事を各一名置いて、開城県令を廃した。【原注:俗号を松都、または開京という。】その後、備えとして医学教諭と検律を各一名置いた。

 鎮山を松嶽という。【原注:またの名をッ嶽。宋の徐兢の『奉使図経』にこうある。「京城の鎮をッ山という。山頂には祠宇が三つあり、春と秋に国家の祭祀を行い格式は中祀である。祠宇は一つ目を城隍堂、二つ目を大王堂、三つ目を国師堂という」】

 開城大井【原注:宣義門外十一里に在り、泉が湧出し深さは二尺ほど。春秋に国家の祭祀を行い、日照りの時には必ず祈祷する。朴淵・徳津と共に三所龍王と号す。言い伝えでは「井の水面が赤くなれば、その後、必ず兵変がある」という。】

 敬徳宮。【原注:中部南溪坊に在り、俗号は楸洞。朝鮮の太宗恭定大王が即位前に屋敷を構えていた地で、即位すると増築して広げた。】
 穆清殿。【原注:崇仁門内の安定坊に在り、俗号は於背洞。朝鮮の太祖康献大王が即位前に屋敷を構えた地。太宗十八年戊戌、旧都に来た太宗は殿舎の造営を命じ、太祖の肖像を奉安して、殿直二名を置いた。殿の側には崇孝寺を建てて冥福を祈った。寺は教宗に属し、田二百結と奴婢三十五人を給す。】
 延慶宮の旧跡。【原注:松嶽の南に在り、今では都の人から本大闕と呼ばれている。】
 寿昌宮の旧跡。【原注:都城の中央に在り。】
 高麗太祖顕陵。【原注:宣義門外の西普通寺の西梧桐坊にあり、守陵八戸を置く。】
 文廟。【原注:松嶽の東馬巖の北にあり、祭田六結と贍学田百五十結を置いた。また教授官一人を置いての生徒を教育させる。生徒の定員は五十人。】

 四方界域【原注:東は十五里で松林板積川、西は三十里で碧瀾渡、南は二十五里で海豊朽斤石、北は三十一里で王興山洞に至る。】、

 都城の戸は四千八百十九、人口は八千三百七十二、巡綽牌の兵士は総勢千名。

 所属する県は開城、戸数は八百四十四、人口は二千二十一。

 騎兵六十八、歩兵五、水軍兵は左右合わせて二十。

 土姓は五:高・金・王・康・田。
 来接姓は一:李。

 墾田五千三百五十七結【原注:そのうち水田は十分の三。】

 西籍田。【原注:保定門外の甑池の東にあり。】

 駅は二:青郊・俊猊。

 烽火は三ヶ所:松嶽。【原注:南の海豊と徳積山に向かう。】首岬山。【原注:北は松嶽、南は海豊民達に向かう。】開城神堂。【原注:西の首岬山に向かう。】

 龍岫山【原注:都城の正南に在り。】・進鳳山【原注:都城の東南に在り。】・紫霞洞【原注:松嶽の南洞、古くから烟霞洞には仙人が住んでいると言われている。今、楽部に紫霞洞曲がある。】

 東江【原注:保定門の南三十里にあり、海豊郡とは藍島で接する。】・西江【原注:礼成江、宣義門の西南十七にあり、東江・西江ともに以前の漕運の停泊所。】・碧瀾渡【原注:宣義門の西三十里にあり。渡丞がいて右道水站転運判官が兼ねる。】

 広明寺【原注:延慶宮の西にあり。世に高麗の太祖が旧宅を寺に喜捨したという。今は教宗に属し、田二百結を給す。】・演福寺【原注:都城中央に在り。禅宗に属し田百六十五結を給す。】・神岩寺【原注:都城の正東にあり、教宗に属し、田百五十結を給す。】・甘露寺【原注:碧瀾渡の東にあり臨江水に臨んで絶景である。教宗に属し、田二百結を給す。】・観音屈【原注:城外の北東にあり、禅宗に属し、田二百五十結を給す。】・雲岩寺【原注:碑あり。旧名は光岩寺、宣義門外にある。高麗の恭愍王が妃の魯国公主を寺の東に埋葬し、改めて雲岩寺として創建した。壮麗を極め、雲岩の金碧が山谷を輝かすかの如くである。】

 松都八景。【原注:紫洞尋僧・青郊送客・北山烟雨・西江風雪・白嶽晴雲・黄橋晩照・長湍石壁・朴淵瀑布。】

 霊異:高麗王の先祖の阿干康忠が宅地を占って松嶽の南麓に住んだ。曾孫の作帝建は西海の龍王の娘を娶り、またこの地に住んで四男一女が生まれた。龍女は家の中に井戸を掘ると、常に井戸から西海に行き来し、夫にはこう注意していた。「私が井戸に入るときは決して見てはなりません。」作帝建が後に窓の隙間から覗いたところ、龍女が娘達を従えて井戸の近くまで来ると、みな黄龍に変身し、雲が湧き立って井戸に入った。戻ってきた龍女は「どうして約束を破ったのですか。私はもうここに居ることはできません。」と言って夫を責めると、龍の姿となって井戸に入り、再び戻ることは無かった。太祖が即位すると、追尊して作帝建を懿祖、龍女を景献王后とし、その邸宅を広明寺に喜捨した。

京畿

 都観察黜陟使一人、首領官一人、医学教諭と検律が各一人。【原注:他の道はこれに倣う】、本は高句麗の地、高麗の成宗十四年乙未【原注:宋の太宗の至道元年】に開州を開城府に昇格させた。赤県六と畿県七を管轄する。【原注:昔の史書ではただ県の数だけを載せ、県の名は記さない。詳細不明。】顕宗の九年戊午【原注:宋の真宗の大中祥符十一年。】に開城府を廃して、開城県令に貞州・徳水・江陰の三県を、長湍県令に松林・臨津・兔山・臨江・積城・坡平・麻田の七県を管轄させ尚書都省の直属とし、これを京畿といった。文宗の十六年壬寅【原注:宋の仁宗の嘉祐七年。】に再び開城県を府に昇格させて、都省管轄の十一県を全てこれに所属させた。また西海道から平州から割いて牛峯郡とし所属させた。その後、再び開城県を設置して開城府に所属させた。【原注:年代未詳。】恭讓王の二年庚午【原注:大明の太祖高皇帝の洪武二十三年】に京畿を左右の道に分け、長湍・臨江・兔山・臨津・松林・麻田・積城・坡平県を左道、開城・江陰・海豊・徳水・牛峯を右道とした。また京畿の範囲を広げて、楊広道漢陽・南陽府・仁州・安山郡・交河・陽川・衿川・果州・抱州・瑞原・高峯県・交州道鉄原府・永平・伊川・安・漣州・朔寧県を左道、楊広道富平・江華府・喬桐・金浦・通津県・西海道延安府・平州・白州・谷州・遂安郡・載寧・瑞興・新恩・侠溪県を右道に配属し、各々都観察黜陟使を置いて、首領官に補佐させた。【原注:首領官のうち四品以上は経歴、五品以下は都事とした。】朝鮮の太祖の三年甲戌【原注:洪武二十七年。】、漢陽府に都を定め、翌年乙亥、平州・遂安・谷州・載寧・瑞興・新恩・侠溪は新都から距離があるため西海道に戻し、楊広道広州・水原府・楊根郡・双阜・龍駒・処仁・利川・川寧・砥平県を所属させ、広州を分けて、水原の管下の郡県は左道に、楊州・富平・鉄原・延安の管下の郡県は右道とした。戊寅、更に忠清道から振威県を割いて左道に配属した。太宗二年壬午【原注:洪武三十五年。】、両道を合わせて京畿左右道省とし、観察使と首領官を各一人置いた。十三年癸巳【原注:大明太宗文皇帝の永楽十一年。】、四方の道の遠近を考慮して、延安・白州・牛峯・江陰・兔山を豊海道の所属に、伊川を江原道の所属に戻した。忠清道から驪興府・安城郡・陽知・陽城・陰竹県・江原道加平県を割いて配属し、左右の道には分けずにただ京畿都観察使とした。政庁は水原にあり、東は江原道の春川と原州、西は黄海道の江陰と白川、南は忠清道の竹山と禝山、北は黄海道の兔山と江原道の伊川に接する範囲までで、東西二百六十四里、南北三百六十四里。
 所管の牧は一、都護府は八、郡は六、県は二十六。

 名山:三角山は都城の鎮白嶽の北、聖居山は旧京の松嶽の北東、花岳は加平県の北、鉗嶽は積城県の東、龍虎山は臨江県の南、五冠山は臨江県の松林の北、摩利山は江華府の南に在る。

 大川:漢江の源流は江原道の五台山。寧越郡に至ると西からのいくつかの川と合流して加斤同津となる。忠清道忠州を経て西に流れ、驪興を過ぎると驪江、川寧で梨浦、楊根で大灘と蛇浦になる。龍津は麟蹄県の伊布を源流とし、経春川・昭陽江を経て、南の加平県を流れて、東は按板灘と楊根、北は立石津、南は龍津渡で蛇浦に入る。二つの川は広州で合流し、渡迷津と広津になる。京城の南に至ると漢江渡、西で露渡津となり、更に西で龍山江となる。慶尚道・忠清道・江原道と京畿に上る漕運は全てここを京江を経由する。川は都城の南を経て衿川の北に至り楊花渡に、陽川の北で孔岩津、交河の西の烏島城で臨津と合流し、通津の北で祖江となり、浦口串に至って二つに分かれる。そのうちの一つは西へ流れて江華府を通り、北で河源渡となり、喬桐県の北の寅石津から海に入る。黄海道の漕運はここを経由して都に至る。もう一つは南に流れて江華府の東の甲串津を通って海に入る。全羅道と忠清道の漕運はここを経由して都に至る。臨津の源流は咸吉道の安辺管内の永豊県の防墻洞。伊川・安峽・朔寧を経て、漣川に至ると大きな川となる。ここに澄波渡がある。麻田を過ぎて積城に至ると梨浦津となり、長湍で豆只津、臨津県に至り東に流れると臨津渡、西に流れて県の東南からは徳津、南に流れて交河県に至り西に行くと洛河渡となり、鳳凰巖を過ぎて烏島城に至り漢水と合流し、そのまま海に入る。

 戸数は二万八百八十二、人口は五万三百五十二。【原注:朝鮮の人口の法では、戸籍と実態が合わない者はわずか十分の一、二。国家は事あるごとに正確にしようと努め、民心を失わないことを優先して現在に至る。このため各道・各官の人口数はここに止まる。他の道も皆同様。】

 兵士:侍衛軍千七百十三名、船軍三千八百九十二名。

 墾田二十万三百四十七結。【原注:乾田十二万四千百七十三結あまり、水田七万六千百七十三結あまり。】

 税目:稲米【原注:有粳米・白米・細粳米・粘粳米・黒米。】・稷・米・豆【原注:大豆・小豆・緑豆あり。】・麦【原注:大麦・小麦・蕎麦あり。】・芝麻【原注:地元の名は真荏子。】・蜂蜜・黄蝋・芝麻油【原注:地元の名は真油】・蘇子油【原注:地元の名は法油】・末醤・芥子・白苧布・正五升布。【原注:およそ郡邑の田賦は遠くも近くも皆同じ。そのため郡邑の下に改めて記さない。】

 貢納物:木瓜・榛実・橡実・栗・柿・棗・真茸・鳥足茸・黄角・山参・桔梗・乾猪・兔醢・魚醢・水魚・民魚・塩・陶器・磁器・木器・柳器・蘆簟・瓢・省帚・莞心・蘆花紙・雑羽・常笠草・馬衣・藁草・芻藁・藁索・麻索・松烟・松脂・朱土・葛・炭・香木【原注:白紫檀櫟木。】・蠣灰・藜灰・黄灰・芝草・楓葉・営繕雑木・自作木・杏木・木・黄桑木・櫻木・燒木。薬材:牛膽黄・虎脛骨・熊膽・猪膽・獺膽・ハリネズミの膽・臘兔頭・ハリネズミの皮・阿膠・露蜂房・蜈蚣・元蠶蛾・馬鳴退・班猫・蝉脱皮・蛇脱皮・蟾酥・蝦蟆・鼈甲・亀甲・カマキリの巣・乾鯉魚・鯉魚膽・牡蠣・蠶沙・五加皮・黄蘖皮・桑白皮・楡白皮・郁李仁・桃仁・杏仁・枳殼・槐実・槐花・松脂・蓮子・川椒・五信子・茯苓【原注:赤白二種あり。】・茯神・安息香・自然銅・禹余糧・天圓子・兔絲子・覆盆子・五味子・牽牛子【原注:白と黒の二種あり。】・車前子・ハマビシの実・白附子・白朮・蒼朮・菖浦末・石菖蒲・馬兜苓・馬歯・馬藺・蒲黄・澤瀉・桔梗・紫莞・薊草【原注:大小二種あり。】・天麻・赤箭・白斂・蚤休・続断・漏蘆・藜蘆・細辛・葛根・瞿麦・地楡・当帰・山薬・括楼根・大戟・商陸・白鮮皮・京三稜・鶴蝨・百合・虎杖根・独活・天南皇・牛膝・獅子足・艾蒼耳・柴胡・升麻・芍薬【原注:赤白二種あり。】・蒿本・ビャクシ・半夏・玄蔘・苦蔘・茵陳・蓁・玄胡索・巻栢・土瓜根・黄・黄耆・木通・林下夫人・絡石・知母・貫衆・霊仙・草烏頭・放杖草・殺男・藍漆・茹・蘚・狼牙・旋覆花・金銀花・金燈花。【原注:以上は雑貢と薬材。今、土地の産物のうち希少な物は各邑の下に記す。ただしここに記した物は再び記さない。】

 栽培している薬材:白扁豆・鶯栗・紫蘇・薄荷・香キクラゲ・悪実・芥子・麻子・回香・生地黄・大黄・青木香・荊芥・葵子・羅子・蔓子・真帯・鷄冠花【原注:赤白二種あり。】・甘菊・紅花・ハトムギ。【原注:以上の薬材は各邑の風土に合わせて医院に栽培させている。元は山野で採れる物ではないため各邑の下には記さない。一つの種類が継続して採れ税として納めさせている「土貢」や「薬材」は品目が大変多い。今はその重要度に応じて記す。蜂蜜や黄蝋の類は「土貢」、人参や五味子の類は「薬材」とし重出しない。】

 左道水軍僉節制使営は南陽府の西花の梁に在り。【原注:常に中大船三隻・快船十隻・無軍船十三隻を領し、江華を守備する。長番水軍六十九名、各官左右領船軍総数千五百九十七名。また船一隻につき各々炊事の柴と水を積んだ平底の小船がある。無軍船とは、緊急時に全ての兵を乗船させ出発させるための船である。以下全ての水軍で同様。】
 永宗浦万戸は南陽府の西に停泊する。【原注:中大船三隻、孟船一隻、無軍船三隻。各官左右の船軍を領す。総勢五百十名。】
 草芝梁万戸は安山の西南の沙串に停泊する。【原注:中大船五隻、無軍船四隻、長番水軍八名。各官左右領船軍、総勢六百十五名。】
 済物梁万戸は仁川郡の西の城倉浦に停泊する。【原注:兵船四隻、無軍船四隻。各官左右の船軍を領す。総勢五百十名。】
 右道水軍僉節制使営は喬桐県の西の鷹岩梁に在り。【原注:常に快船九隻・孟船三隻・無軍船十三隻・倭別船一隻を領して守備する。喬桐長番水軍二百九十五名、各官左右の船軍千十八名を領す。】
 井浦万戸は江華府の西に停泊する。【原注:快船十一隻、無軍船十隻、江華長番水軍二百四十六名。各官左右の船軍を領す。九百二十四名。】

 左道忠清道程駅察訪の所管の駅は【原注:良才・楽生・駒興・金寧・佐賛・分行・無極。】
 右道程駅察訪の所管の駅は八【原注:迎曙・碧蹄・馬山・東坡・招賢・青郊・狡猊・中連。】
 京畿・江原道程駅察訪の所管の駅は二十二。【原注:緑楊・安奇梁・文豊田、その他十八駅は、全て江原道界に在り。】

 左道水站転運判官【原注:広津丞を兼領】
 右道水站転運判官【原注:碧瀾渡丞の兼任。】

 監牧官一人、医学教諭一人、検律一人、駅は丞五人。
 重林道の所管の駅は六【原注:慶申・石谷・盤乳・南山・金輸・種生。】
 同化道の所管の駅は五【原注:長足・海門・好・加川・康福。】
 平丘道の所管の駅は八【原注:仇谷・双樹・奉安・娯賓・田谷・冬白・甘泉・連洞。】
 慶安道の所管の駅は七【原注:徳豊・阿川・吾川・留春・楊花・新津・安平。】
 桃源道の所管の駅は六。【原注:仇和・白嶺・玉溪・龍潭・丹金・相水。】

広州

 牧使一人、判官一人、儒学教授官一人。漢の成帝の鴻嘉三年癸卯に、百済の始祖の温祚王が慰礼城を都として建国した。十三年乙卯になると、温祚王は群臣に言った。「私が見るに、漢水の南は土壤が肥沃で、ここを都とすればわが国は長らく安泰であろう。」そこで漢山の麓に柵を建て、慰礼城の民戸を移し、宮殿を建設した。十四年丙辰正月に遷都し南漢城と号した、それから三百七十六年経ち、近肖古王の二十四年辛未になって、南の平壤に都を移し北漢城と号した。【原注:東晋の簡文帝の咸安元年。】唐の高宗の顕慶五年庚申、唐の将の蘇定方が百済に遠征すると、新羅の太宗王が金信を遣わして挟撃し滅ぼした。唐軍が国に引き揚げると、文武王は少しずつその地を接収し、三年甲子に漢山州と改めた。【原注:麟徳元年】、八年庚午に南漢山州と改め【原注:咸亨元年】、景徳王の十五年丁酉に漢州と改めた。【原注:唐の粛宗の至徳二年。新羅が既に高句麗と百済を併合し終えると、神文王は新羅領内を沙伐・軟良・居列の三州に、百済の故地を熊川・完山・武珍の三州に、高句麗の故地を漢山・牛首・河西の三州にして、九州の区画を定めた。景徳王の代になると、九州と諸郡県の名を改めた。後世の書に「新羅の時代に名が改められた」とあるのは、全てこの年の出来事である。】高麗の太祖の二十三年庚子に広州と改め【原注:後晋の高祖の天福五年】、成宗の二年癸未に初めて十二の州牧が置かれたが、広州はそのうちの一つである。【原注:宋の太宗の太平興国八年】十四年乙未に十二節度使が置かれると、広州奉国軍節度使と号した。【原注:宋の至道元年】顕宗の三年壬子に節度使は廃されて按撫使に改められ、九年戊午に八牧が定められて広州牧となった。【原注:宋の真宗の天僖三年】朝鮮ではこれを引き継ぎ、別号を淮安という。【原注:成宗の十年辛卯に州郡の別号を定め、広州を淮安とした。宋の太宗の淳化元年のことである。後世の書に「淳化に定められた」とあるのは全てこのときのことである。】
 黔丹山【原注:州の東に在り、州人は鎮山と呼ぶ。】
 渡迷津。【原注:州の北東に在り。渡船あり。】、その西は津村津【原注:州の北に在り。津の先に水站が置かれ、站船十五艘がある。】更にその西には広津渡がある。【原注:渡丞がいて出入りを観察する。左道水站転運判官の兼任で専ら漕運を管掌する。】

 四境:東は楊根と龍津まで三十里、西は果川を越えて水原の声串まで八十五里、南は利川と陽知まで四十五里、北は楊州まで十一里。東西百十五里、南北五十六里。

 献陵は朝鮮の太宗の恭定大王と元敬王后を合葬。【原注:州の西の大母山の南の乾亥に在り。山の乾の方角に在り巽の方角を向く。陵の巽の方角に神道碑を建て、陵直権務二人と守護軍百戸を置き、一戸ごとに田二結を給す。】
 文廟【原注:州の北に在り。朝鮮の各道州府郡県には全て文廟が置かれ、いわゆる郷校である。生徒の数は、留守官五十、牧都護府四十、郡三十、県十五。祭田・学田・奴婢は規模に応じて給す。都護府以上は全て教授官がおり、郡県では教授官か居る所と教導が居る所がある。民戸が五百に満たない地には学長が置かれて生徒を教育する。以下各邑の項、文廟については省略。】

 戸数は千四百三十六、人口は三千百単十。

 兵士:侍衛軍百二十二、船軍二百六十三。【原注:その他各種の兵は全て地元民を集めて兵としたものであるため改めて記さない。その他の州も同様。】

 土姓は三:李・安・金。
 加属姓は三:朴・盧・張。【原注:この六姓は昔の戸籍と現在地元ある関連記録に拠る。「加属」とは古い戸籍に載るものである。以下全て同じ。】
 亡姓は五:尹・石・韓・池・素。【原注:亡姓とは昔の戸籍に載っているが現在は居住していない者である。以下全て同じ。】

 その土地は沃地と痩せ地が半々。墾田一万六千二百六十九結。【原注:うち水田は四分の一強。】

 土宜:五穀【原注:五穀の品目は諸書で異なる。ただ『周礼』の「職方」の「豫州の穀は五種適している」の顔師古註では「黍・稷・菽・麦・稲」とあり、朱子の『孟子』註でも顔師古註に従っているので、ここではそれに従う。】・雑穀・棗・漆・楮・莞・桑。

 土貢:真茸・芝草。

 薬材:禹余糧・安息香・獅子足艾・玄胡索・蓁

 土産:銀口魚。【原注:州の西の御院前川で採れる。】

 製塩所は一。【原注:盆一区二】
 磁器製作所は四:一つは州の東の代乙川に在り【原注:品質は上】、一つは州の東の所山に在り、一つは州の南の石掘里に在り【原注:二箇所とも品質は下。】、一つは州の東の羔に在り。
 陶器製作所は三:一つは州の南の草に在り【原注:品質は中】、一つは州の東の草伐里に在り、一つは州の西の梨串に在り。【原注:二箇所とも品質は下。】

 日長山城は州の治所の南に在り。【原注:高く険しい。周囲三千九百九十三歩で、内に軍事倉庫が在る。井戸が七ヶ所あり日照りのときでも干上がらない。また乾田と水田が合計百二十四結ある。『三国史記』に「新羅の文武王が初めて漢山に昼長城を築いた」とある。】

 駅は四:徳豊・慶安・奉安・楽生【原注:昔の安僕。】。牧場は二:一つは州の西の麻田浦に在り【原注:周囲二十里。】、一つは州の西の助布坪に在り。【原注:周囲十八里。】

 烽火は一ヶ所:穿川山、州の西に在り。【原注:南は龍仁・石城に、北は京城・木覓に向かう。】

 管下の都護府は一:驪興。郡は一:楊根。県は六:陰竹・利川・果川・川寧・砥平・衿川。

驪興都護府

 使一人【原注:各府の使は全て三品官以上を任命する、四品官の場合は副使という。】、儒学教授官一人。本は高句麗の骨乃斤県で新羅が黄驍と改め、泝川郡の属県とした。【原注:泝川とは現在の川寧。】高麗が黄驪と改め、顕宗戊午に原州の管内に、後に監務を置いた。【原注:または黄利県ともいう。】忠烈王の三十一年乙巳【原注:元の成宗の大徳九年】皇母・順敬王后金氏の故郷であったため、昇格させて驪興郡とし、知郡事を置いた。大明の太祖高皇帝の洪武二十一年戊辰、僞主の辛がこの地に移り黄驪府に昇格となったが、恭讓王の元年己巳【原注:洪武二十二年。】にまた驪興郡に降格となった。朝鮮の太宗元年辛巳、中宮静妃の故郷であったため驪興府に昇格となり、陰竹県の北村から西伊処を割いて所属させた。十三年癸巳に都護府に改めた。【原注:太宗文皇帝の永楽十一年のことである。以前の俗号は鷄林。平壤などは留守府、水原や驪興などはただの府で、名称が混在していたため、単に府と改め、都護府は別枠とした。】
 驪江。【原注:府治の北に在り、渡船あり。】

 四境:東は忠州まで三十一里、西は川寧まで十里、南は陰竹まで三十里、北は砥平まで十里。東西四十一里、南北四十里。

 戸数は五百三十八、人口は千百四十四。

 兵士:侍衛軍七十五、船軍百二十一。

 土姓は七:閔・李・安・畢・尹・韓・陰。

 人物:参知政事・文順公の李奎報【原注:高麗の高宗時代の人】、門下左政丞・驪興府院君・文度公の閔霽【原注:朝鮮の彰徳昭列元敬王后の父】。

 その土地は沃地と痩せ地が半々。墾田六千百四十五結。【原注:水田はやや少ない】

 土宜:五穀・粟・小豆・蕎麦・桑・麻。

 土貢:魚醢・真茸。薬材、蓮子。

 陶器製作所は一、府の北の串山に在り。【原注:品質は中】

 清心楼。【原注:客舎の西北隅に在り、北は驪江に臨む。これまで賢人に詩に詠まれることが多かった。】

 駅は二:新津・安平。【原注:恭讓王の三年辛未に新設。】

 八大藪。【原注:驪江の北に在り。昔は具多藪と呼ばれた。】、神勒寺【原注:府の北に在り、俗号を碧寺】

楊根郡

 知郡事二人。【原注:各郡には全て知郡事が置かれる。】本は高句麗の楊根郡で新羅が浜陽と改め泝川郡の属県とした。高麗になると再び楊根となり、顕宗戊午に広州管内となって、明宗五年乙未【原注:宋の孝宗の淳熙二年】に初めて監務が置かれた。元年十年己巳【原注:元の世祖の至元六年】に衛社功臣将軍の金自廷の故郷であったため益和県令に昇格となり、恭愍王五年丙申【原注:元順帝至正十五年。】に国師の普愚の故郷であったため楊根郡に昇格となった。
 所属の県一:迷原。【原注:普愚は迷原庄の小雪庵に寓居した。恭愍王丙申に普愚の故郷であったため県に昇格となり監務が置かれた。その後、地が狭く人も少ないため楊根の管内となった。】
 龍門山。【原注:郡の東に在り、砥平の西に跨る。】

 四境:東は砥平まで二十里、西は楊州まで三十五里、南は川寧まで十七里、北は加平まで四十里。

 戸数は三百八十八、人口は千六百八十六。

 兵士:侍衛軍二十五、船軍七十九。

 土姓は四:咸・卓・傅・耿。
 亡姓は四:敬・李・鄭・朴。
 迷原庄の続姓は一:咸。【原注:咸氏は古い戸籍には無いが、本道の「関続録」を根拠に記す。以下「続姓」は全て「関続録」に記されているものである。】

 その土地は痩せて山がち、寒さが早く来る。墾田四千三百四十三結。【原注:そのうち水田は六分の一。】

 土宜:五穀・粟・小豆・喬麦・胡麻・桑麻。

 土貢:棗・石茸・真茸・芝草・蜂蜜・黄蝋。

 薬材:当帰・安息香・茯神。土産:山芥・辛甘草。

 磁器製作所は一【原注:郡の西の豆乙万里に在り、品質は下。】
 陶器製作所は一【原注:郡の西の塔洞に在り、品質は下。】

 駅は一:娯賓。

 西深灘【原注:郡の南に在り、西に流れて大灘となる。渡船あり、渡し場の先には水站船十五艘を置く。更に西に流れて蛇浦津となり、民間の渡船あり。】、龍津渡【原注:郡西に在り、渡船あり。川上に灘があり、水が引いたときには歩いて渡れる】。

陰竹県

 県監一人【原注:古くは監務官で今は全てに県監が置かれている。】、本は高句麗の奴音竹県で新羅が今の名に改めて介山郡の属県とした。顕宗戊午に忠州の管内に属し、後に監務を置いた。朝鮮の太宗十三年癸巳に県監に改められ、所属は京畿に移された。【原注:高麗末期、各県に新たに監務が置かれたが、全て参外と権務(従九品より下の地位)で、各司の吏典がこれに就き、地位は低く、代々賎しんでいた。洪武二十一年戊辰になって朝官六品以上を選んで派遣したため、地位が高くなった。このとき監務という名称も県監に改められた。後世に「県監と改めた」というのはこの年の出来事である。】

 四境:北東は驪興まで十一里、西北は利川まで十五里、東南は忠州まで十里。

 戸数は三百九十、人口は千八十八。

 兵士:侍衛軍八十一、船軍五十八。

 土姓は四:金・李・桓・文。
 亡姓は一:翼。

 その土地は沃地と痩せ地が半々。墾田三千百六十三結。【原注:水田と乾田が半々。】

 土宜:五穀・粟・小豆・緑豆・喬麦・胡麻・桑麻。

 土産薬材:石菖蒲・蓮子。

 駅は二:無極・留春。【原注:朝鮮の太宗元年辛巳になって設置された。】

利川県

 本は高句麗の南川県で新羅が併合した。真興王が州に昇格させて軍主を置いた。景徳王が黄武と名を改めて漢州の属県とした。高麗の太祖が南征すると、地元の徐穆が道案内して利渉(訳注:川を渡すの意)したため、利川郡との号を賜り、広州に属した。仁宗二十一年癸亥【原注:宋の高宗の紹興十三年。】に初めて監務が置かれた。恭讓王二年庚午【原注:洪武二十三年。】に祖母の申氏の故郷であったため南川郡に昇格させ、朝鮮の太祖二年癸酉【原注:洪武二十六年。】に再び利川県として監務を置いた。太宗癸巳、全国的な改組に伴い県監に改められた。

 四境:東は驪興まで十五里、西は陽智まで二十五里、南は陰竹まで十五里、北は広州まで十五里。

 戸数は千二十六、人口は三千八百九十八。

 兵士:侍衛軍八十、船軍百十九。

 土姓は五:徐・申・韓・安・張。
 来姓は三・王・洪【原注:一本に弘と記す】・黄。

 人物:内議令・貞敏公の徐弼【原注:新羅人の徐神逸の子で高麗光宗時代の人。】、その子で太保・内史令・章威公の徐熙【原注:成宗時代の人。】、孫で門下侍中・元粛公の徐訥。【原注:熙の子で靖宗時代の人。三代揃って太廟に配祀された。徐神逸は新羅末の生まれで郊外に住んでいた。あるとき矢が刺さった鹿が家に逃げ込んできたため、神逸は矢を抜いて匿った。猟師が来たが鹿を見つけられずに帰った。その日の夢に一神人が謝礼のため現れ「あの鹿はわが子です。あなたのおかげで死を免れました。あなたの子孫が代々宰相となるようにしましょう。」と言った。神逸が八十歳のときに子が生まれた。これが弼である、という。】

 その土地は多くが痩せている。墾田七千五百三十二結。【原注:水田が多少ある】

 土宜:五穀・粟・小豆・蕎麦・胡麻・桑麻。

 土貢:棗・真茸・芝草・蓮子。

 駅は二:吾川・安利。

果川県

 本は高句麗の栗木郡で新羅が栗津郡に、高麗が果州に改めた。顕宗の戊午に広州に配属され、後に監務が置かれた。朝鮮の太宗十三年癸巳、全国的な改組に伴い果川県監に改められた。別号を富林という。【原注:淳化に定められ、または富安とも書く。州府郡県には各々等級があり、朝鮮初期に、高麗時代の格付けを引き継いだ。州で知官がいるものは仁州や槐州、監務官がいるものが果州や衿州などであり、名実が混淆して識別困難である。このため州でありながら知官や監務官がいるものは、全て「山」か「川」の字が付く。後に「山」か「川」の付く名に改められた州は、このときに改められたものである。】
 鎮山を冠嶽という。

 四境:東は広州まで十一里、西は衿川まで十里、南は広州の境の攴石まで十九里、北は漢江まで二十五里。

 戸数は二百四十四、人口は七百四十三。

 兵士:侍衛軍二十一、船軍七十。

 土姓は四:孫・李・田・辺。
 亡姓は三:慎・安・崔。

 その土地は痩せている。墾田三千百二十八結。【原注:そのうち水田は三分の一強】

 土宜:五穀・粟・小豆・喬麦・胡麻・桑麻。土貢:真茸・芝草。

 陶器製作所は一【原注:県の北の加佐淵に在り。品質は中。】

 駅は一:良才。

 露渡津【原注:県の北に在り、渡丞あり。】・黒石津。【原注:県の北に在り、水站あり站船十五艘。】

川寧県

 本は高句麗の述川郡で、新羅が泝川郡、高麗が川寧郡と改めた。顕宗戊午に広州に配属されて、後に監務が置かれた。朝鮮の太宗癸巳、全国的な改組に伴い県監に改められた。

 四境:北東は砥平まで十三里、西南は利川まで八里、東南は驪興まで十八里、西北は広州まで十七里。

 戸数は四百十三、人口は千二百三十四。

 兵士:侍衛軍六十九、船軍四十二。

 土姓は六:堅・玄・崔・兪・房・張。

 その土地は沃地と痩せ地が半々。墾田四千五百七十三結。【原注:そのうち水田は四分の一強。】

 土宜:五穀・粟・小豆・喬麦・芝麻・桑麻。

 土貢:蓮子。

 駅は一:楊花。【原注:古くは楊花と記す】

 梨浦。【原注:県の東に在り、水站を置き、站船十五艘と、別に渡船あり。】

砥平県

 本は高句麗の砥県、新羅が今の名に改めて朔州の属県とした。高麗の顕宗の戊午に黄州に配属され、恭讓王三年辛未に県内に製鉄所が作られ、監務が置かれて州と製鉄所の管理を兼ねた。朝鮮の太宗癸巳、全国的な改組に伴い県監に改められた。【原注:製鉄所は産鉄が少ないと撤去された】
(訳注:『高麗史』地理志に「辛の四年、乳母の張氏の故郷であったため監務が置かれた」とあります。)

 四境:東は江原道の原州まで十八里、西は楊根まで十二里、南は驪興まで十五里、北は江原道の洪川まで三十三里。

 戸数は二百六十七、人口は五百十五。

 兵士:侍衛軍十三、船軍五十八。

 土姓は五:李・申・敬・金・方。

 その土地は痩せている。墾田三千三百三十五結。【原注:そのうち水田は五分の一。】

 土宜:五穀・粟・小豆・喬麦・桑麻。

 土貢:棗・真茸・芝草・紫檀・白檀・蜂蜜・黄蝋。

 薬材:白茯苓・安息香・当帰。

 土産:山芥・辛甘草・松茸。

 磁器製作所は一【原注:県の東の大洞に在り、品質は下。】
 陶器製作所は一。【原注:県の東の文老谷に在り、品質は下】

 駅は二:田谷・白冬。

衿川県

 本は高句麗の仍伐奴県で、新羅が穀壤と改めて栗津郡の属県とした。高麗が衿川【原注:黔とも記す。】と改め、成宗の十四年乙未【原注:宋の太宗の至道元年】に団練使を置いたが、穆宗の八年乙巳【原注:宋の真宗の景徳二年。】に団練使は廃された。顕宗の九年戊午【原注:宋の真宗の天禧二年。】に樹州に配属され、明宗二年壬辰【原注:宋の孝宗の乾道八年。】に初めて監務が置かれた。朝鮮の太宗十四年甲午に果川と改めて衿果県に併合したが、数ヵ月後に止めて陽川県に改めた。衿陽県に併合したが一年でやめ、丙申に再び衿川県監を置いた。別号は始興。

 四境:東は果川まで十四里、西は富平まで十一里、南は安山まで十五里、北は露渡まで十八里。

 戸数は三百二十七、人口は九百三十七。

 兵士:侍衛軍五、船軍七十三。

 土姓は六:李・趙・姜・荘・皮・桂。
 亡姓は二:尹・秋。

 人物:門下侍中・仁憲公の姜邯賛【原注:高麗顕宗時代の人。金台鉉の『東国文鑑』にこうある。「とある使臣が夜中に始興郡に入ると、大きな星が人家に落ちるのを見た。下吏に命じて見に行かせると、ちょうどその家の婦人が男子を産んだ。使臣は不思議なことと思い、引き取って育てた。これが姜邯賛である。後に宋の使者が、姜邯賛を見ると意識せずに拝礼して、こう言った。「しばらくの間、文曲星が見えなかったが、今ここにいた。」この話しは荒唐無稽のようだが、箕と尾の精がッ嶽に降って申と甫(訳注:周の中興の祖である宣王の重臣)となったとの話もあり、姜邯賛だけを疑ういわれはない。】

 その土地は、沃地と痩せ地が半々。民は凡愚な気風。墾田二千七百六十二結。【原注:そのうち水田は五分の二。】

 土宜:五穀・粟・小豆・緑豆・喬麦・唐黍・芝麻・桑・麻。

 土貢:芝草。

 薬材:白扁豆。

 駅は一:盤乳。

 牧場は二:一つ目は達村【原注:県の北に在り。周囲十二里で国の馬を飼う。】、二つ目は沙外浦。【原注:県の西北に在り、湯川寺の串浦と繋がっている。周囲十五里で右軍の牧場。】

 楊花渡。【原注:県の北に在り、渡丞がいる。】

楊州都護府

 本は高句麗の南平壤城【原注:または北漢山ともいう。】で、百済の近肖古王がこれを取った。二十五年辛未【原注:東晋の簡文帝の咸安元年】に南漢山からこの地に都を移した。百五年を経て、盖鹵王の二十年乙卯【原注:宋の廃帝の光徽三年】、高句麗の慈悲王が襲来して漢城を包囲し、盖鹵王は逃走を図って、高句麗兵に殺された。その年、子の文周王が熊津に都を移した。七十九年後の新羅真興王の十三年癸酉に、新羅は百済の北東辺境を取り、十五年乙亥に真興王は北漢山城に来て領域を確定した。十七年丁丑【原注:陳の高祖の永貞元年】に北漢山州を置き、景徳王の十四年丙申に漢陽郡と改めた。高麗が楊州と改め、成宗の十四年乙未に十二の州に節度使を置くと、楊州左神策軍と海州右神策軍の二つの節度使が置かれた。顕宗の三年壬子に節度使は廃されて按撫使に改められ、九年戊午に知楊州事に降格となった。粛宗の九年甲申【原注:宋の徽宗の崇寧三年。】に南京留守官に昇格となり、忠烈王の三十四年戊申【原注:元の武宗の至大元年。】に漢陽府に改められた。朝鮮の太祖の三年甲戊に漢陽に都が定められると、府の治所は東村大洞里に移されて、再び知楊州事に降格となった。四年乙亥に府に昇格して府使が置かれ、丁丑に府の治所は見州の右基に移された。太宗十三年癸巳、全国的な改組に伴い都護府と改められた。
 所属する県は三。
 見州。本は高句麗の売肖県で、新羅が来蘇郡と改めた。高麗で見州と改められ、顕宗の戊午に楊州に配属されて、後に監務が置かれた。【原注:別号は昌化、淳化年間に定められた。】
 沙川県。本は高句麗の内乙買県で、新羅が今の名に改めて堅城郡の属県とした。高麗の顕宗の戊午に楊州の属県となった。
 農壤県。本は高句麗の骨衣奴県で、新羅が荒壤と名を改めて漢陽郡の属県とした。高麗が豊壤県と改め、顕宗の戊午に楊州に配属し、後に抱州に所属を移した。今上の元年己亥に楊州に配属した。

 三角山【原注:府の南に在り、またの名を華山という。三つの峰が突き出た見事な景色で、その高さは青空に入るようである。】、五峯山【原注:府の南に在り。】、天宝山【原注:府の東に在り。】、逍遙山【原注:府の北に在り。】
 楊津。【原注:府の南、漢水の南に在る。龍王を祭るための壇が築かれ、春秋の仲月には朝廷から香を送って祭礼を行う。新羅時代には北漢山河と呼ばれ、中祀の格であったが、今は小祀である。】

 四境:東は抱川まで十八里、西は原平まで二十二里、南は広州まで四十七里、北は積城まで八十三里。

 健元陵。朝鮮の太祖康献から仁啓運聖文神武大王までが埋葬されている。【原注:府の南の倹岩の麓坎山に在り。癸の方角にあり丁の方角を向く。陵の南には神道碑があり、陵直権務二人、守護軍百戸を置く。一戸ごとに田二結を給す。洞の裏には王が斎戒する場があり、これは開慶寺と号して禅宗に属し、田四百結を給す。】
 楽天亭【原注:府の南の皇台山の原に在り。南は漢水に臨み、朝鮮の太宗が行幸した。】
 豊壤離宮。【原注:府の東南に在り。豊壤県の基盤で、太宗が行幸した地でもある。】

 戸数は千四百八十一、人口は二千七百二十六。

 兵士:侍衛軍百三十三、船軍百三十二。

 本府土姓は四:韓・趙・閔・申。
 来姓は五:咸【原注:楊根から来た。】・朴【原注:春川から来た。】・洪【原注:南陽から来た。】・崔【原注:水原から来た。】・夫【原注:果川から来た。】
 亡姓は二:鄭・艾。
 見州土姓は七:李・金・宋・申・白・尹・皮。
 沙川県土姓は一:耿。
 亡姓は四:李・任・宋・許。
 豊壤県土姓は一:趙。
 亡姓は四:李・姜・尹・劉。

 人物:中枢院使・漢山君・忠靖公の趙仁沃。【原注:朝鮮の建国の功臣として太祖の廟に配祀された。】

 その土地は肥沃。墾田一万五千百九十結。【原注:そのうち水田は十分の三強】

 土宜:五穀・粟・蕎麦・桑。

 土貢:真茸・芝草。

 土産:松茸・松子。

 磁器製作所は一。【原注:府の北の沙川県の大灘里に在り、品質は下。】
 陶器製作所は二:一つは府の北の逍遙山の麓に在り【原注:品質は中】、一つは府の東の陶穴里に在り。【原注:品質は下】

 駅は六:青坡・蘆原・迎曙・平丘・仇谷・双樹。

 牧場は二:一つ目は箭串坪【原注:府の南に在り。東西七里、南北十五里、国の馬を放牧する。】、二つ目は緑楊坪。【原注:府の南に在り。東西五里、南北十二里、中軍と左軍の馬を合わせて放牧する。】

 烽火は二ヶ所:大伊山。【原注:府の東南に在り、北は抱川の仍邑站、南は加仇山に向かう。】加仇山。【原注:府の南に在り、北は大伊山、西は都城の木覓に向かう。】

 檜巖寺【原注:天宝山の下に在り。仏殿・僧寮の総数は百楹、僧徒より大迦藍とされる。禅宗に属し、田五百結を給す。寺の安に西蕃の指空和尚の碑がある。】
 逍遙寺【原注:逍遙山の中腹に在り。太宗三年壬午、現在この寺の南に位置する場所に、太祖が堂を作って数ヶ月滞在し新たに絵画を制作させた。今上の六年甲辰、太祖の祈願所であったため寺とした。教宗に属し、田百五十結を給す。】
 真観寺【原注:三角山の西南に在り、国家の祈祷を行うため寺とした。禅宗に属し、田二百五十結を給す。】
 僧伽寺【原注:三角山の南に在り。禅宗に属し、田百四十五結を給す。】
 重興寺。【原注:三角山下に在り。教宗に属し、田二百結を給す。】

 管下の都護府は一:原平。県は六:高陽・交河・臨津・積城・抱川・加平。

高陽県

 本は高句麗の達乙省県で、新羅が高烽と改め交河郡の属県とした。【原注:金富軾が言った。「漢の美女は、高い山の山頂で烽火を焚き、高麗の安蔵王のもとに迎える」ここから高烽との名が付いた。】
 幸州は本は高句麗の皆伯県で、新羅が遇王と改めて漢陽郡の属県とした。または王逢県ともいう。【原注:金富軾が「漢の美女を安臧王のもとに迎える」と言ったところから王逢と名が付いた。】高麗が幸州に改めた。【原注:別号は徳陽で淳化年間に改められた。】高烽県と幸州は共に顕宗の戊午に楊州管内に配属された。
 龍山処は本は果州に属したが、高麗の忠烈王の十年甲申【原注:元の世祖の至元二十一年】に富原県と改めた。
 荒調郷は本は富平府に属した。
 朝鮮の太祖三年甲戌に高峯(訳注:上記の高烽県)監務を設置すると、幸州・富原県・荒調郷を高峯に所属させ、太宗癸巳に高峯と徳陽(訳注:幸州の別号)の両県名から取って高陽と改め、県監を置いた。

 四境:東は楊州まで六里、西は交河まで三十里、南は大江まで十五里、北は原平まで十五里。

 戸数は六百七十九、人口は千三百十四。

 兵士:侍衛軍六十五、船軍二十。

 高峯県土姓は一:高。
 亡姓は四:秦・唐・宋・田。
 幸州土姓は四:金・奇・殷・田。
 亡姓は七:崔・康・夫・則・高・・車。
 来姓は一:李。
 富原県土姓は一:辺。

 その土地は沃地と痩せ地が半々、墾田六千三百二十六結。【原注:水田はやや少ない】

 土宜:五穀・粟・唐・黍・蕎麦・小豆・芝麻・桑・麻。

 土貢:芝草。

 薬材:殺男草。

 駅は一:碧蹄。

 烽火は三ヶ所:所達山【原注:県の北に在り、北は原平の城山、東は京城の毋岳に向かう。】城山【原注:県の西に在り、北は交河の剣断山、東は蜂に向かう。】蜂。【原注:県の東に在り、西は城山、南は京城の毋岳に向かう。】

 大慈寺【原注:県の北に在り。太宗元敬王后の末子の卞韓昭頃公が早世すると、墓の南に庵を作り、これが寺となった。禅宗に属し、田二百五十結を給す。】

 鴨島。【原注:県の南の川の中洲にあり。東西七里、南北四里。繕工監が荻を刈る場所。】

交河県

 本は高句麗の泉井口県で新羅が交河郡と改めた。高麗の顕宗の戊午に楊州に配属し、朝鮮の太祖の甲戌に初めて監務が置いて、漢陽管内の深岳県と富平管内の石浅郷を配属した。太宗甲午に冗官を整理した際、交河県と石浅郷は原平府に、深岳県は高陽県に配属し、戊戌、再び県監が置かれた。【原注:別号は宣城】

 四境:東は高陽まで二十里、西は烏島城まで十里、南は大江まで二十里、北は洛河津まで二十里。

 戸数は五百九十、人口は千六百二十九。

 兵士:侍衛軍六十四、船軍四十三。

 本県土姓は五:盧・金・李・玉・朴。
 亡姓は一:尹。【原注:京から来た。田と記すものもある。】
 深岳県土姓は二:李・朴。
 亡姓は一:全。【原注:金と記すものもある。】
 石浅郷土姓は二:廉・車。
 亡姓は二:夜・扈。

 その土地は肥沃。墾田三千九百五十六結。【原注:そのうち水田は七分の四。】

 土宜:五穀・粟・蕎麦・緑豆・小豆・桑・麻。

 洛河渡【原注:県の北に在り、渡丞がいる。】烏島城。【原注:県の西に在り、漢江と臨津はここで合流する。】

臨津県

 本は高句麗の津臨県【原注:または烏呵忽という。】で、新羅が今の名に改め開城郡の属県とした。高麗の顕宗の戊午に長湍県に配属し、尚書都省の所管とした。文宗十七年壬寅【原注:宋の仁宗の嘉祐八年】に開城府の直属とし、恭讓王の己巳に初めて監務が置かれた。朝鮮の太宗の甲午に長湍と合併して臨湍県とし、己亥に再び分けて臨津県監とした。大川を徳津という。【原注:県の東南に在り、臨津の下流。春と秋に朝廷から香を送って祭礼を行う。中祀。】

 四境:東は長湍まで十里、西は海豊まで二十里、南は原平まで三里、北は松林まで五里。

 戸数は二百七十四、人口は六百十三。

 兵士:侍衛軍二、船軍十六。

 土姓は一:金。
 亡姓は五:宋・咸・・標・宣。
 続姓は一:宗。【原注:今の人は吏となる者が多い】

 その土地は沃地と痩せ地が半々。墾田二千五百七十一結。【原注:水田と乾田が半々。】

 土宜:五穀・粟・小豆・蕎麦。

 土貢:芝草。

 薬材:獅子足艾・玄胡索。

 宮城旧址。【原注:県の北五里の白岳山の南、周囲七百二十七歩。恭愍王の己亥に創建され、辛丑に紅巾軍が乱入して全て破壊された。今は新京と呼ばれる。】

 駅は一:東坡。【原注:または通坡という】

 牧場は二:一つは壼串、一つは伯顔頭昆という。【原注:共に県の西にあり。両牧場は繋がっており、周囲三十里、西南は川で、北東は土で壁を築いて区切られている。国馬数百頭を放牧する。】

 臨津渡。【原注:県の東に在り、渡丞がいる。防衛上の要地で、人馬が集まる場所。】

 烽火は一ヶ所:都羅山。【原注:県の西に在り、北は臨江の天水山、東は原平の城山に向かう。】

積城県

 本は高句麗の七重城で、新羅が重城と改めて来蘇郡の属県とし、高麗が今の名に改めた。顕宗の戊午に長湍県に配属し、尚書都省の所管とした。文宗十七年壬寅に開城府の直属とし、睿宗の元年丙戌【原注:宋の徽宗の崇寧五年】に初めて監務が置かれた。朝鮮の太宗癸巳に全国的な改組により県監が置かれた。
 名山は紺嶽。【原注:県の東に在り、新羅時代からの小祀。山頂に祠があり、春秋に朝廷から香を送って祭祀を行う。顕宗の五年甲寅に契丹軍が長湍に至ると、紺嶽の神が旗を立て馬に乗った姿で現れ、契丹兵は恐れて前に進めなくなった。このときの礼として祠を建てて祀るようになった。新羅人が唐将の蘇仁貴を祀り山の神にしたという伝承もある。】

 四境:東は麻田まで十五里、西は原平まで五里、南は楊州まで八里、北は長湍まで十二里。

 戸数は二百十二、人口は三百八十。

 兵士:侍衛軍二十一、船軍十四。

 土姓は三:申・金・崔。
 亡姓は三:劉・盧・玄。
 続姓は三:趙・徐・梁。

 その土地は痩せ寒気が早く訪れる。墾田二千六百六十三結。【原注:そのうち水田は五分の一。】

 土宜:五穀・粟・蕎麦・小豆・桑麻。

 土貢:真茸・芝草。

 薬材:続断。

 土産:朱土。【原注:県の南の祭堂山の麓から出る。品質は中。】

 陶器製作所。【原注:県の東の白雲里に在る。品質は中。】

 駅は二:橡樹【原注:俗称は相水。】丹棗。【原注:俗称は丹召、または丹金。】

 梨浦津。【原注:県の北に在り。】豆只津。【原注:県の西に在り。梨浦津と共に渡船あり、西に流れて長湍津となる。】

 龍頭山。【原注:豆只津の西に在り。四面は石。周囲一里、高さ五十歩、山頂は四十人ほどが座れる広さで、日照りのときに降雨を祈祷すると霊験がある。】

抱川県

 本は高句麗の馬忽県で、新羅が堅城郡に、高麗が抱州に改めた。成宗十四年乙未に団練使が置かれたが、穆宗八年乙巳【原注:宋の真宗の景徳二年に廃された。顕宗九年戊午に楊州に配属され、明宗二年壬辰【原注:宋の孝宗の乾道八年】に初めて監務が置かれた。朝鮮の太宗十三年癸巳、全国的な改組により県監が置かれた。【原注:別号は清化、淳化年間に定められた。】
 雲岳山。【原注:県の東に在り。】

 四境:東は加平まで十里、西は楊州まで十里、南は豊壤まで二十里、北は永平まで十五里。

 戸数は三百七十一、人口は千二百二十二。

 兵士:侍衛軍六十、船軍五十。

 土姓は三:盧・兪・金。
 亡姓は六:玄・桓【原注:栢と記すものもある。】・朴・房・田・尹。

 その土地は痩せ寒気が早く訪れる。、墾田三千九百四十八結。【原注:そのうち水田は四分の一強】

 土宜:五穀・粟・小豆・桑・麻。

 土貢:蜂蜜・真茸・芝草。薬材、安息香・白茯苓。

 土産:山芥・辛甘草。

 磁器製作所は一【原注:県の東の蜂巣里に在り、品質は下。】
 陶器製作所は一。【原注:県の東の其岾に在り、品質は下。】

 海龍山。【原注:県の西に在り。山上に鑑池があり、日照りのときに降雨を祈祷するとしばしば霊験がある。傍らに海龍寺があり山から名をとった。俗伝では兵と馬が山頂に踏み入れば、雨は降らず曇るだけという。その北に王方山があり、両山とも講武場がある。】

 駅は二:安奇・双谷。

 烽火は二ヶ所:禿山【原注:県の北に在り、北は永平の彌老谷、南は仍邑岾に向かう。】仍邑岾。【原注:県の南に在り、北は禿山、南は楊州の大伊山に向かう。】

加平県

 本は高句麗の斤平郡で、新羅が嘉平郡と改めた。朝宗県は本は高句麗の深川県で、新羅が浚水と改め嘉平郡の属県とした。高麗時代になると浚水は朝宗に改められ、顕宗の戊午に嘉平と共に春川に配属された。朝鮮の太祖五年丙子に加平監務が置かれて、加平県の所属となり、後に全国的な改組により県監が置かれた。
 花岳【原注:県の北に在り。北は狼川との境で、春秋に地元の官人が祭祀を行う。】清平山。【原注:県の東に在り。】

 四境:東は江原道の春川まで八里、西は抱川まで五十七里、南は楊根まで二十九里、北は永平まで三十里。

 戸数は二百八十八、人口は九百八十七。

 兵士:侍衛軍九十六、船軍四十三。

 本県土姓は二:卓・簡。
 亡姓は一:張。
 続姓は一:朴。
 朝宗県土姓は三:玄・胡・李。
 亡姓は二:・朴。
 来姓は一:韓。
 続姓は一:金。

 その土地は痩せて山がち、寒気が早く訪れる。墾田三千五十七結。【原注:水田はわずか百二十三結。】

 土宜:五穀・粟・小豆・胡麻・桑・麻。

 土貢:蜂密・芝草。

 薬材:茯苓・茯神。

 土産:松子・松茸・真茸・山芥・辛甘草・栗。

 養蚕所。【原注:朝宗県の南の土音寺伊里に在り。県から二十二里。桑二万株あまりを植え、近隣の各役所から奴婢五十名あまりを集めて養蚕に従事させる。】

 磁器製作所は一。【原注:県の西の峰在里に在り、品質は下。】

 駅は二:甘泉・連洞。

 按板灘。【原注:県の東に在り、渡船あり。】、

水原都護府

 本は高句麗の買忽郡で、新羅が水城郡に改めた。高麗の太祖が南征した際、郡人の金七や崔承珪ら二百人あまりが帰順して功を立てたので、水州に昇格させた。成宗十四年乙未に団練使を置いたが、穆宗の八年乙巳【原注:宋の真宗の景徳二年】に廃止し、顕宗九年戊午に再び知水州事を置いた。忠敬王の十二年辛未【原注:元の世祖の至元八年】、蒙古兵が大部島に入り住民を連れ去ると、島の人は憤って蒙古兵を殺し叛いた。州官の安悦が兵を率いて討ち平らげたので、その功により都護府に昇格し、後に更に牧に昇格した。忠宣王の二年庚戌【原注:元の武宗の至大三年】に諸牧を整理した際、水原府に降格となった。恭愍王の十一年壬寅【原注:元の順帝の至正二十二年】、紅巾賊が攻め込み、先鋒を遣わして招降した。楊広道の州郡と水原は最も早く降って迎えたため、賊の勢いは増大し、このため郡に降格となった。郡の人々が宰臣の金繧ノ多くの賄賂を贈ったため、まもなく府に戻された。朝鮮の太宗十三年癸巳、全国的な改組により都護府となった。【原注:別号は漢南、淳化年間に定められた。または隋城ともいう。】
 所属する県は五:双阜【原注:昔の六浦。】・永新【原注:または永豊という】・貞松【原注:昔の松山部曲。】・龍城【原注:本は高句麗の上忽県で、新羅の景徳王が車城と改めて唐恩郡の属県とした。高麗のときに今の名に改めた。以上四県は顕宗の戊午に全て水州に配属された。】・広徳。【原注:顕宗の戊午の分属時にはこの名は無かった。】
 所属する郷は三:工二・柱石・盆村。
 所属する部曲は四:陸内弥・浦内弥・沙梁・争忽。
 所属する処は五:奢井・今勿村・楡梯・楊干【原注:本は仁川に属し、太宗の戊戌に水原に配属された。】・深谷。
 所属する荘は三:五朶・宗徳・新永。【原注:初め陽城に属し、太祖の七年戊寅、犬牙と共に水原に配属された。以上の郷・部曲・処・荘は、旧名のままだが全て水原都護府直属の村である。】

 四境:東は龍仁まで十七里、西は双阜と八羅串まで五十五里、南は忠清道の平澤県の酉只頭まで六十五里、北は果川まで二十一里。

 戸数は千八百四十二、人口は四千九百二十六。

 兵士:侍衛軍百九十七、船軍四百五。

 本府土姓は四:崔・金・李・徐・京。
 来姓は一:白。
 村落姓は一:河。
 亡姓は四:白・崔・李・方。
 双阜土姓は二:徐・沈。
 亡姓は三:宋・李・慎。
 永新土姓は一:金。
 亡姓は四:李・崔・呉・黄。
 貞松土姓は一:金。
 亡姓は二:李・崔。
 続姓は一:尹。
 龍城土姓は二:車・宋。
 亡姓は二:任・張。
 続姓は一:金。
 広徳続姓は一:朴。
 工二土姓は一:宋。
 亡姓は一:公。
 柱石亡姓は四:宋・金・崔・車。
 盆村土姓は一:白。
 亡姓は一:田。
 内弥土姓は一:李。
 亡姓は一:白。
 続姓は一:李。
 亡沙梁土姓は一:堅。
 亡姓は二:周・金。
 争忽土姓は一:李。
 亡姓は一:金。
 続姓は一:朴。
 奢井続姓は一:都。
 今勿村土姓は一:呂。
 亡姓は一:李。
 楡梯続姓は一:車。
 楊干続姓は二:朴・金。
 深谷亡姓は一:車。
 五朶亡姓は一:呂。
 続姓は一:金。
 宗徳土姓は一:柳。
 続姓は三:徐・李・車。
 新永続姓は一:柳。

 人物:翰林学士・国子祭酒の崔婁伯【原注:高麗の仁宗時代の人。】

 その土地は沃地と痩せ地が半々、墾田一万九千百五十四結。【原注:水田はやや少ない】

 土宜:五穀・粟・小豆・芝麻・桑・麻。

 土貢:芝草。

 薬材:獅子足艾・蓮子・黄

 製塩所は六。魚場は二。【原注:一つは双阜、一つは龍城酉只頭。主産は蘇魚、または首魚:民魚・真魚・鱸魚・白魚・沙魚・白蝦・大蝦・土花・石花・落地・黄蛤を産する。】

 邑土城。【原注:周囲二百七十歩、内に井戸二つあり。】

 駅は二:長足・同化。

 牧場は二:陽也串【原注:府の西三十里に在り。土場は周囲十五里、国馬七十五頭を放牧す。】・洪原串。【原注:龍城県の西に在り、牛を放牧す。】

 烽火は一ヶ所:興天山。【原注:府の西に在り。南は陽城槐台吉串、西は南陽の念仏山に向かう。】

 管下の都護府は一:南陽。郡は二:安山・安城。県は四:振威・龍仁・陽城・陽智。

南陽都護府

 本は高句麗の唐城県で、新羅が唐恩郡と改めたが、高麗が昔の名に戻した。顕宗の戊午に水州に配属し、後に仁州に移管した。明宗の二年壬辰【原注:宋の孝宗の乾道八年】に初めて監務が置かれた。忠烈王の十六年庚寅、県人の洪茶丘が元の征東行省右丞となると、知益州事に昇格となり、後に更に江寧都護府に、三十四年戊申には益州牧に昇格となった。忠宣王の二年庚戌に諸牧が整理されると南陽府に降格となり、朝鮮はこれを引き継いだ。太宗十三年癸巳、全国的な改組により都護府となった。
 所属の県一:載陽。

 四境:東は水原まで十五里、西は花之梁まで三十里、南は水原管内の双阜まで二十里、北は安山まで十里。

 戸数は四百八十七、人口は七百七十八。

 兵士:侍衛軍二、船軍百四十五。

 本府土姓は六:洪・宋・房・朴・崔・徐。
 亡姓は一:呉。
 載陽土姓は四:孫・尹・辛・祐。
 来姓は一:徐。【原注:安山から来た。】
 続姓は一:田。

 人物:僉議中賛・慶興君・忠正公の洪子蕃、僉議中賛・匡定公の洪文系【原注:共に忠烈王時代の人】、僉議政丞・南陽侯・文正公の洪彦博。【原注:恭愍王時代の人。唐が才子八人を高句麗に遣わして教育させたが、洪氏はそのうちの一人。子孫は代々三韓で貴族となった。その居住地は唐城と名付けられた。】

 その土地は沃地と痩せ地が半々、海に近いため暖気が早く訪れる。墾田四千三百四十八結。【原注:そのうち水田は八分の三。】

 土宜:五穀・粟・唐黍・小豆・芝麻・桑・麻。

 土貢:芝草。

 薬材:獅子足艾【原注:最良】・白附子・蓮子。

 製塩所は四十四。磬石が府の東の舎郡寺の西の山から産する。【原注:色は雑、青白く模様がある。今上の九年丁未に採掘が始まった。これから作られた磬は音律が整っている。】

 魚場は二【原注:主産は民魚:蘇魚。首魚:沙魚・真魚・加大魚・石首魚・大蝦・中蝦・紫蝦・黄蛤・生蛤・土花・石花・落地を産する。】

 駅は一:海門。

 関防は二:永宗浦【原注:府の南に在り。水軍万戸守禦。】・花之梁。【原注:府の西に在り。右道水軍僉節制使守禦。】

 烽火は二ヶ所:念仏山【原注:府の西に在り。東は水原の興天山、北は本府の海雲山に向かう。】・海雲山。【原注:府の北に在り。北は安山の無古里に向かう。】

 仙甘彌島【原注:花之梁の西に在り。水路二里、周囲五里、牛を放牧する。】
 大部島【原注:花之島の西二里に在り。長さ三十里、広さ十五里。左道船軍の営田が百結あまりあって、国馬四百十八頭を放牧し、塩夫四戸が入居して世話をする。】
 小牛島【原注:大部島の西五里に在り。周囲十五里、塩夫二戸あり。】
 霊興島【原注:小牛島の西七里に在り。長さ二十五里、広さ十五里。塩夫五戸あり。】
 召忽島【原注:霊興島の西三十里に在り。古くは召物島といった。周囲二十里、田地と住民は無し。】
 徳積島【原注:召忽島の南六十里に在り。古くは仁物島といった。周囲十五里、国馬二百五十七頭を放牧す。】
 音島【原注:府の北に在り。水路三里、周囲十三里。乾田が五結あり、府から来た人が住み耕作する。】
 士也串。【原注:国馬を放牧す。】

安山郡

 本は高句麗の項口県で、新羅が口郡、高麗が安山郡に改めた。顕宗戊午に水州に配属され、後に監務が置かれた。忠烈王の三十四年戊申に文宗誕生の地として知郡事に昇格となり、朝鮮はこれを引き継いだ。
 鎮山は鷲岩【原注:郡の東に在り、東は果川、北は衿川、南は広州を境とする。】

 四境:東は矜川まで一里、西は大海まで三十里、南は広州の声串まで十一里、北は富平まで十里。

 戸数は三百単二、人口は五百八十八。

 兵士:侍衛兵士一、船軍百十五。

 土姓は三:金・安・方。
 亡姓は一:林。

 その土地は沃地と痩せ地が半々、民は魚と塩で生計を立てる。墾田二千二百八十九結。【原注:そのうち水田は九分の三。】

 土宜:五穀・粟・小豆・蕎麦・麻。

 土貢:芝草。

 薬材:蓮子。

 製塩所は五、魚場は五。【原注:主産は蘇魚。また民魚:首魚・石首魚・鱸魚・真魚・洪魚・大蝦・中蝦・黄蛤・土花・石花・落地を産する。】

 駅は一:石谷。

 関防一:沙串。【原注:郡の西南三十里に在り、別名を草芝という。水軍万戸が守備する。】

 烽火は二ヶ所:吾叱哀。【原注:郡の西に在り。南は無応古里、北は仁川の城山に向かう。】無応古里。【原注:郡の西に在り。南は南陽の海雲山に向かう。】

安城郡

 本は高句麗の奈兮忽で、新羅が白城郡、高麗が安城県に改めた。顕宗の戊午に水州に配属され、後に天安府に移管となり、明宗の二年壬辰に初めて監務が置かれた。恭愍王の十年辛丑、紅巾賊が松都に入り、王が南に逃れると、賊は先鋒を遣わして、楊広道州郡を招降した。賊の至る所、その鋭鋒に敵う者はいなかったが、ただ安城の人々だけは、偽って降伏し宴席を設けて招くと、酔いに乗じて首魁六人を斬った。これより賊は敢えて南下しなかった。壬寅にその功により知郡事に昇格させ、水原管内の陽良・甘彌呑・馬田・薪谷の四部曲を割いて与えた。恭靖王の元年己卯に陽良を割いて陽智県を置いた。他の三部曲は現在は村となっている。
 青龍山。【原注:郡の南に在り。西の峰に壇があり、壇の下に三つの井戸がある。日照りのときにこの井戸で祈祷を行うと、大いに霊験がある。】

 四境:東は忠清道の竹山まで十三里、西は陽城まで十五里、南は忠清道の稷山まで二十四里、北は陽智まで十二里。

 戸数は四百二十四、人口は千七百六十三。

 兵士:侍衛軍九十二、船軍百二十九。

 土姓は六:李・金・趙・薛・張・敬。
 甘彌呑姓は一:柳。

 その土地は痩せている。墾田五千四百三十六結。【原注:水田はやや少ない】

 土宜:五穀雑穀・桑麻・棗。

 土貢:木瓜・柿・真茸・芝草。

 薬材:洛石・蓮子・p休。

 駅は一:康富。

 陶器製作所は一。【原注:郡の東の大門里に在り。】

振威県

 令一人。本は高句麗の釜山県で、新羅が今の名に改め水城郡の属県とした。高麗時代に水州に配属されて、明宗の壬辰に監務が置かれた。後に令に昇格となり、朝鮮はこれを引き継いだ。松庄はもとは水原府に属したが、今上の六年甲辰に振威県に配属された。

 四境:東は陽城まで四里、西は水原所内川まで七里、南は水原管内の永新県まで七里、北は水原の松足まで六里。

 戸数は二百二十一、人口は五百三十五。

 兵士:侍衛軍十、船軍五十一。

 土姓は三:李・金・崔。
 亡姓は二:柳・宋。
 続姓は一:趙。【原注:稷山から来た。】
 松庄一:柳。

 その土地は痩せている。田二千八百四十一結。【原注:水田と乾田は半々。】

 土宜:五穀・粟・小豆・蕎麦・緑豆・芝麻。

 薬材:黄

 駅は一:好。【原注:本は水原に属し、今上の六年甲辰に振威県に配属された。】

龍仁県

 龍駒県は本は高句麗の駒城県で、新羅が巨黍と改めて漢州の属県とした。高麗は龍駒県と改め、顕宗の戊午に広州に配属し、明宗の壬辰に監務が置かれて、後に令に昇格となった。
 処仁県は本は水原に属する部曲で、顕宗の戊午には今の名となり、朝鮮の太祖の丁丑に令が置かれた。
 太宗の癸巳に二県が合併して龍仁県となった。

 四境:東は陽智まで二十五里、西は水原まで十三里、南は陽城まで五十里、北は広州まで十五里。

 戸数は四百五十七、人口は千百六十八。

 兵士:侍衛軍六十六、船軍七十六。

 龍駒土姓は五:秦・李・宋・龍・厳。
 処仁土姓は六:李・徐・池・葉・金・康。

 その土地は沃地と痩せ地が半々、墾田五千九百八十八結。【原注:そのうち水田は八分の三強】

 土宜:五穀・粟・小豆。

 土貢:鳥足茸・芝草。

 磁器製作所は一【原注:処仁の窰山洞里に在り。品質は下。】
 陶器製作所は一。【原注:処仁の甘岩里に在り。品質は下。】

 宝盖山石城。【原注:県の東に在り、険阻。周囲九百四十二歩で内に小さな井戸があり、日照りのときには干上がる。】

 駅は二:駒興【原注:本の名は龍興。政丞の河崙がここを通ったとき「龍興は站駅の名としてふさわしくない」と言い、今の名に改めた。】・金嶺。

 烽火は一ヶ所:石城。【原注:県の東に在り、東は竹山の山、北は広州の穿川山に向かう。】

陽城県

 本は高句麗の沙伏忽、新羅が赤城と改めて白城郡の属県とした。高麗は陽城県と改め、顕宗戊午に水州に配属し、明宗の五年乙未に初めて監務が置かれた。朝鮮の太宗癸巳、全国的な改組により県監が置かれた。

 四境:東は安城まで九里、西は振威まで十一里、南は忠清道の稷山まで三十里、北は龍仁まで十里。

 戸数は四百二十五、人口は千二百十。

 兵士:侍衛軍七十六、船軍六十八。

 土姓は四:河・柳・李・葛。
 亡姓は三:任・唐・宋。

 その土地は痩せている。墾田四千七百四十二結。【原注:水田はやや少ない】

 土宜:五穀・粟・小豆・蕎麦・芝麻・桑・麻。

 土貢:魚醢・民魚・乾水魚・芝草。

 薬材:黄

 製塩所は一。

 駅は一:加川。

 牧場一。【原注:県の西の槐台吉串に在り。水原の南境に食い込む形をしている。周囲七里。今上の十一年己酉になって初めて典廐署の牛を放牧した。水も草も豊富。】

 烽火は一ヶ所:槐台吉串。【原注:南は川の明海山、北は水原の興天山に向かう。】

陽智県

 本は水州所属の陽良村部曲。朝鮮の恭靖王元年己卯に陽智県に改め、初めて監務が置かれた。太宗十三年癸巳、全国的な改組により県監が置かれ、県治は広州管内の秋溪郷に移された。もともとの土地だけではわずかであったため、広州管内の高安・大谷・木岳・蹄村の四部曲を割いて配属した。

 四境:東は利川まで八里、西距は龍仁まで十里、南は陽城まで三十五里、北は広州まで十里。

 戸数は三百四十六、人口は六百九。

 兵士:侍衛軍三十七、船軍六十八。

 土姓は三:安・朴・柳。
 高安姓は一:文。
 亡姓は三:朴・李・金。
 秋溪土姓は一:安。
 亡姓は二:李・池。

 墾田二千六十八結。【原注:水田はやや少ない】

 土宜:五穀・小豆・桑・麻。

 土貢:芝草。

 薬材:洛石。

 磁器製作所は一【原注:県の南の檻項に在り。】
 陶器製作所は一。【原注:県の東の新林里に在り。共に品質は下。】

鉄原都護府

 本は高句麗の鉄圓郡で、新羅が鉄城郡に改めた。新羅末、弓裔が挙兵して高句麗の旧地を攻め取り、後唐の天祐二年乙丑、松嶽郡からこの地に来て宮殿・楼閣を建てた。豪奢を極め、国号を泰封とした。後梁の貞明四年戊寅、高麗の太祖が諸将に推戴されると、報せを受けた弓裔は成すところを知らず、平民の服を着て逃げ出した。太祖が即位すると、都を松嶽に移し、鉄圓を東州に改めた。【原注:弓裔の宮殿の遺跡は府の北二十七里の楓川の原にある。】成宗の十四年乙未に団練使が置かれたが、穆宗の八年乙巳に廃された。顕宗の九年戊午に知東州事に改められ、その後、東州牧に昇格となった。忠宣王の庚戌に諸牧が整理されると鉄原府に降格となり、朝鮮はこれを引き継いで、太宗十三年癸巳、全国的な改組により都護府となった。別号は陸昌。
 宝盖山。【原注:府の南に在り。】

 四境:東は金化まで三十里、西は朔寧まで三十里、南は永平まで二十里、北は平唐まで三十里。

 戸数は三百五十一、人口は七百七十。

 兵士:侍衛軍六十二。

 土姓は三:崔・宋・柳。
 亡姓は十五:張・金・鄭・・辛・高・韓・゙・盧・安・李・蔡・許・朴・芳。
 続姓は一:邦。

 人物:門下侍中・鉄原府院君・武愍公の崔瑩。【原注:高麗末に朝廷に仕えた】

 その土地は痩せ、高地に在り寒気が早く訪れる。墾田四千三百四十三結。【原注:そのうち水田は四分の一弱】

 土宜:五穀・粟・小豆・胡麻・蕎麦・桑・麻。

 土貢:蜂蜜・黄蝋・芝草・真茸。

 薬材:石菖蒲・茯苓・当帰。

 土産:松茸・山芥・辛甘草。

 磁器製作所は一:府の西の高乙波里に在り。
 陶器製作所は一:府の東の松里に在り。【原注:共に品質は下。】

 講武場は府の北に在り。【原注:地は広く人は希で禽獣同然。講武所が常設されると守者と網牌九十名が置かれた。】
 孤石亭の遺跡は府の東に在り。

 駅は二:龍潭・豊田。【原注:今上の六年甲辰三月に楓川と田原の二駅を併せて豊田とした。】

 烽火は二ヶ所:所伊山は府の西に在り。【原注:北は平康霜伊所山、南は恵才谷に向かう。】・恵才谷は府の南に在り。【原注:南は永平彌老谷に向かう。】

 管下の郡は一:朔寧。県は:永平・長湍・安峽・臨江・麻田・漣川。

朔寧郡

 本は高句麗の所邑豆県で、新羅が朔邑と改めて兔山郡の属県とし、高麗が朔寧県に改めた。
 僧嶺県は本は高句麗の僧梁県で、新羅が梁と改めて鉄城郡の属県とし、高麗が僧嶺県と改めた。
 上記の二県は顕宗の九年戊午に共に東州に配属され、睿宗の元年丙戌になって、僧嶺監務が置かれ、朔寧監務が兼任した。朝鮮の太宗三年癸未、朔寧が皇母の神懿王后の故郷であったため知郡事に昇格となり、僧嶺はその下に属した。十四年甲午に安峽県を配属して安朔郡と改め、十六年丙申に再び安峽県監が置かれて、名称を朔寧に戻した。

 四境:東は鉄原まで三十七里、西は臨江まで十五里、南は漣川まで十里、北は安峽まで三十五里。

 戸数は二百三十三、人口は七百二十二。

 兵士:侍衛軍六十一、船軍三十七。

 朔寧姓は二:申・金。
 亡姓は三:宋・゙・呉。
 続姓は一:朴。
 僧嶺姓は一:崔。
 亡姓は四:呉・李、次姓は沈。来姓は宋。【原注:仁義から来た。】

 その土地は痩せ、高地に在り寒気が早く訪れる。墾田三千八百五十四結。【原注:水田は二百八十六結のみ。】

 土宜:五穀・粟・小豆・唐黍・蕎麦・桑・麻。

 土貢:蜂蜜・芝草・真茸・鳥足茸。

 薬材:五味子。

 陶器製作所は一:郡の北の乃文里に在り。【原注:品質は下】

 朔寧渡は郡の南、成灘渡は郡の西に在り【原注:共に渡船あり】、古和陽渡は郡の西南に在り。【原注:水は浅く、春と夏は歩いて渡れる。】

永平県

 令一人。本は高句麗の梁骨県で、新羅が洞陰と改め堅城郡の属県とした。高麗の顕宗の戊午に東州に配属し、睿宗の丙戌に初めて監務が置かれた。元宗十年己巳、衛社功臣将軍の唐允の故郷であったため永興県に昇格となり、朝鮮の太祖三年甲戌に和州が永興府に昇格となると、本県は永平県に改められた。【原注:官号が相似する。】
 白雲山は県の東に在り。【原注:西北は狼川の金化、東は春川と境を接する。】
 風流岩は県内に在り。【原注:高さ数仞、秀麗。】

 四境:東は江原道の金化まで二十二里、西は漣川まで二十里、南は抱川まで十三里、北は鉄原まで二十七里。

 戸数は百三十八、人口は四百十九。

 兵士:侍衛軍三十三、船軍三十七。

 土姓は三:申・栄・田。
 亡姓は二:燕・麻。【原注:林と記す本もある。】
 続姓は二:朴・尹。
 亡乳石郷姓は四:徐・任【原注:或いは白。】・何・尹。

 その土地は多くが痩せ寒気が早く訪れる。墾田二千四百八十七結。【原注:そのうち水田は八分の一。】

 土宜:五穀・粟・小豆・蕎麦・桑・麻。

 土貢:真茸・芝草。

 薬材:五味子・当帰・安息香・白茯苓。

 土産:人参・辛甘草・山芥・松茸。

 県の北の金洞山で鉄を産する。【原注:砂鉄を精錬して鉄を採る。】

 磁器製作所は二:一つは県の東の東良伊里に、一つは県の南に馬乙加伊里に在り。【原注:共に品質は下。】
 陶器製作所は一:県の南の水日里に在り。【原注:品質は下】

 駅は一:梁文。【原注:俗号は独訖、或いは梁骨が転訛したものであろうか。】

 烽火は一ヶ所:彌老谷県の北に在り。【原注:北は鉄原の恵才谷、南は抱川の禿山に向かう。】

長湍県

 令一人。本は高句麗の長浅城で、新羅が長湍と改め牛峯郡の属県とした。高麗の穆宗の四年辛丑に侍中の韓彦恭の故郷であったため湍州に昇格させた。顕宗の九年戊午に再び長湍県令として尚書都省の所管とし、文宗の十七年壬寅に開城府の直属とした。朝鮮の太宗の十四年甲午八月に臨江県と改め、長湍と合併して長臨県となり、十二月には長湍は臨津県と合わさって臨湍県となったが、己亥三月に再び長湍県が設置されて、令が置かれた。県の南の川の両岸には青の石壁が数十里に亘り、壁画のようである。【原注:俗号を長湍石壁。言い伝えでは、高麗の太祖の遊幸の地で、民間には今でもそのときの楽曲が伝承されている。】

 四境:東は麻田まで十五里、西は臨津まで二十里、南は積城まで十里、北は臨江まで十里。

 戸数は百七十、人口は四百六十七。

 兵士:侍衛軍四、船軍十一。

 土姓は一:韓。
 亡姓は六:田・馮・許・宣・金・李。

 その土地は沃地と痩せ地が半々、寒気が早く訪れる。墾田千六百四十五結。【原注:そのうち水田は三分の一。】

 土宜:五穀・粟・小豆・蕎麦・桑・麻。

 土貢:芝草。

 薬材:続断。

 駅は一:白。【原注:俗号を百嶺】

 豆只津【原注:県の東に在り。渡船があり、旅行者は全てここを通る。】長湍渡。【原注:県の西南に在るが、今は廃止されており、船着場の跡だけが残る。俗称は高浪淵。】

 県右に鉤獄あり。【原注:言い伝えでは「高麗の太祖が設置したもので、死刑囚は全てここに収監し、刑部官が来て県官と協議し判決した」という。現在、県では毎年、昔の制度に倣って刑曹の前に伽・杖・笞を置く行事がある。】

安峽県

 本は高句麗の阿珍押県で、新羅が今の名に改め兔山郡の属県とした。顕宗の戊午に東州に配属され、睿宗丙戌に初めて監務が置かれた。朝鮮の太宗甲午、安峽を朔寧に配属して安朔郡としたが、丙申に再び県監を置いた。

 四境:東は江原道の平康まで三十里、西は黄海道の兔山まで十里、南は朔寧まで七里、北は江原道の伊川まで三十里。

 戸数は百四十四百単十。

 兵士:侍衛軍八、船軍十。

 土姓は一:許。
 亡姓は九:孫・尹・方・耿・呉【原注:信州】・劉【原注:公州】・「・柳・徐。【原注:来源不明】

 その土地は多くが痩せ、寒気が早く訪れる。墾田千四百二十二結。【原注:水田は六結のみ。】

 土宜:五穀・粟・唐黍・小豆・緑豆・蕎麦・胡麻・桑・麻。

 土貢:蜂蜜・真茸・鳥足茸・芝草。

 薬材:茯苓・茯神・当帰。

 土産:山芥・辛甘草・石茸・梨。

 陶器製作所は一:県の西の流大浦里に在り。【原注:品質は中】

 祭堂淵は県の西に在り。【原注:春と夏は歩いて渡れる。臨津の上流である也。日照りになれば雨乞いの祈祷を行う。】、

臨江県

 本は高句麗の項県で、新羅が今の名に改め牛峯郡の属県とした。顕宗の戊午に長湍に配属して尚書都省の所管とした。文宗十七年壬寅に開城府の直属となり、恭讓王元年己巳に初めて監務が置かれた。朝鮮の太宗甲午に長湍と合併して長臨県となったが、数ヵ月後、再び臨江県監が置かれた。
 松林県は本は高句麗の若豆恥県で、新羅が如熊と改めて松嶽郡の属県とした、高麗が今の名に改め、顕宗戊午に長湍に配属して尚書都省の所管とした。文宗壬寅に開城府の直属となり、後に監務が置かれた。朝鮮の太宗八年戊戌に松林県は廃されて臨江県に併合された。
 龍虎山は県の南に在り。【原注:春秋に現地の官に命じて祭礼を行わせる。】五冠山は松林県の北に在り、山頂には五小峯圜圍がある。【原注:春秋に朝廷から香を送って祭祀を行う。小祀。山脈は聖居山まで続く。言い伝えでは、孝子の文忠が山麓に住んでいたとされ、現在、楽府五冠山曲がある。】

 四境:東は漣川まで三十里、西は開城留後司境まで二十一里、南は長湍まで十五里、北は兔山まで三十一里。

 戸数は三百六十四、人口は八百七十八。

 兵士:侍衛軍三十三、船軍三十五。

 土姓は二:李・鄭。
 亡姓は三:盧・卿・史。
 松林姓は一:金。
 亡姓は四:宋・田・車・米。
 続姓は一:文。

 その土地は沃地と痩せ地が半々、寒気が早く訪れる。墾田三千九百三十四結。【原注:そのうち水田は五分の一強】

 土宜:五穀・粟・小豆・蕎麦・胡麻・桑・麻。

 土貢:真茸・鳥足茸・芝草。

 薬材:続断。

 土産:松茸。

 陶器製作所は一。【原注:県の西の夫谷に在り。】

 駅は二:仇和・桃源。

 烽火は一ヶ所:天水山が県の西に在り。【原注:南は臨津の都羅山、西は留後司の松岳に向かう。】

 霊通寺。【原注:県の西に在り。教宗に属し、田二百結を給す。松都の北東三十里に在る。景勝の地で松都第一である。高麗王の先祖の阿干唐忠と宝育聖人が住んでいた摩訶岬がここで、碑がある。】

麻田県

 本は高句麗の麻田浅県で、新羅が臨湍と改めて牛峯郡の属県とした。高麗が今の名に改め、顕宗戊午に長湍に配属して尚書都省の所管とした。文宗壬寅に開城府の直属となり、後に監務が置かれた。後に監務を廃して積城県に併合されたが、恭讓王の己巳に再び監務が置かれた。朝鮮の太宗の癸巳、全国的な改組により県監が置かれた。

 四境:東は漣川まで十三里、西は長湍まで十二里、南は積城まで八里、北は朔寧まで十八里。

 戸数は百四十六、人口は四百八十四。

 兵士:侍衛軍十三、船軍二十六。

 亡姓は五:田・宋・柳・車・於。
 続姓は一:徐。

 その土地は痩せ、寒気が早く訪れる。墾田千百七十一結。【原注:そのうち水田は四分の一強】

 土宜:五穀・粟・小豆・緑豆・蕎麦・桑・麻。

 土貢:芝草・足茸。

 薬材:続断。

 高麗四位の祠が県の西の沓洞里に在り。【原注:朝鮮の太祖元年壬申八月、礼曹に命じて本県に廟を建てて祭田を給した。太祖・恵宗・成宗・顕宗・文宗・元宗・忠烈王・恭愍王を祀る。今上の七年乙巳になって担当官がこう言った。「国家の宗廟で祀るのは五柱までのはずですが、前朝の廟に八柱祀ってあり、礼に合いません。」そこで太祖・顕宗・文宗・元宗だけに減らし、春秋に香を焚いて祀ることとした。太祖顕陵は守陵三戸を、その他三陵は二戸を置き、木の伐採を禁じた。】、

漣川県

 本は高句麗の工木達県で、新羅が功成と改めて鉄城郡の属県とした、高麗が州に改めて、成宗乙未に団練使を置いたが、穆宗の乙巳に廃した。顕宗の戊午に東州に配属し、明宗乙未に初めて監務が置かれた。忠宣王が即位すると、王の名を避けて漣州と改めた。朝鮮の太宗の癸巳に全国的な改組により漣川県監が置かれ、甲午に麻田県と合併して麻漣県となったが、丙申に再び二県に分けた。別号は浦。

 四境:東は永平まで十二里、西は臨江まで十五里、南は楊州まで十里、北は鉄原まで二十里。

 戸数は百八十六、人口は三百六十。

 兵士:侍衛軍二十三、船軍二十一。

 土姓は六:李・全・鄭・朴・宋・金。
 亡姓は七:井・崔・房・・゙・田・孫。

 その土地は痩せ、寒気が早く訪れる。墾田千九百三十九結。【原注:水田は九分の二強】

 土宜:・稲・粟・黍・稷・菽・小豆・桑・麻。

 土貢:蜂蜜・芝草・真茸・鳥足茸。

 薬材:吾味子。

 陶器製作所は一:県の東にの仇乙於谷洞に在り。【原注:品質は下】

 澄波渡は県の西に在り。【原注:渡船あり。】

富平都護府

 本は高句麗の主夫吐郡で、新羅が長堤郡に、高麗が樹州に改めた。成宗の乙未に団練使が置かれたが、穆宗の乙巳に廃された。顕宗の戊午に知樹州事、毅宗の四年庚午に安南都護府、高宗の二年乙亥に桂陽都護府に改められた。忠烈王の三十四年戊午に吉州牧に昇格となったが、忠宣王の二年庚戌に諸牧が整理されると、富平府に降格となった。朝鮮の太宗癸巳、全国的な改組により都護府となった。

 四境:東は陽川まで十二里、西は大海まで十里、南は仁川まで十里、北は金浦まで十里。

 戸数は四百二十九、人口は九百五十四。

 兵士:侍衛軍二十、船軍百二十八。

 土姓は七:金・李・柳・・孫・崔・陳。
 来姓は三:趙・柳・尹。
 亡黄魚郷亡姓は一:孫。
 亡来姓は一:鄭。
 続姓は一:金。【原注:今は郷吏となっている。】

 その土地は沃地と痩せ地が半々、海が近いため暖気が早く来る。墾田五千二百九十六結。【原注:水田と乾田は半々。】

 土宜:五穀・粟・小豆・緑豆・桑・麻。

 薬材:獅子足艾【原注:最良】・皀休。

 魚場は一ヶ所。【原注:真魚・民魚・前魚・加火魚・土花・青蟹を産する。】

 製塩所は七。

 駅は一:金輸。烽火は一ヶ所:串は府の西にあり。【原注:南は仁川の城山、北は金浦の白石山に向かう。】

 管下の都護府一:江華。郡は二:仁川・海豊。県は四:金浦・喬桐・陽川・通津。

江華都護府

 本は高句麗の穴口郡、新羅が海口郡、高麗が江華県に改め、顕宗の戊午に県令が置かれた。高宗の十九年壬辰【原注:宋の理宗の紹定五年。】に蒙古軍が都に入ったため、王がこの地に非難して江華郡に昇格となり、江都と号した。元宗の元年【原注:元の世祖の中統元年。】に王は松都に戻った。【原注:今の府の東十里の松嶽里には宮殿の跡地がある。】洪武丁巳に府に昇格し、朝鮮の太宗癸巳に全国的な改組により都護府となった。
 所属する県は二:
 鎮江県は本は高句麗の首知県で新羅が守鎮と改めた。
 河陰県、本は高句麗の冬音奈県で、新羅が沍陰と改めた。
 共に海口郡の属県となり、高麗になると今の名に改め江華に配属した。
 鎮山:
 高麗摩利山【原注:府の南に在り。山頂に塹星壇がある。石を積み上げて築かれ、壇の高さは十尺、上が方形、下が円形。壇上は四面、各六尺六寸、下は各十五尺。言い伝えでは、朝鮮の檀君が天を祀った石壇といい、山麓には潔斎場がある。旧例で春と秋には使者が遣わされて王の言葉を伝え祀っていたが、今上の十二年庚戌からは二品官以上が遣わされるようになった。潔斎場の壁には東字韻詩が記されている。太宗がまだ王子であったときに遣わされて、ここで潔斎して詩を詠んだ。今それが壁に刻まれて字に金が埋め込まれている。】
 伝燈山。【原注:またの名を三郎城。塹城の東にある。言い伝えでは朝鮮檀君が三子に命じて築かせたという。】

 府は海の島にあり、通津県の西、海豊郡の南に通じる。東西三十二里、南北六十四里。

 戸数は二千四百四十五、人口は三千二百八十三。

 兵士:侍衛軍二、船軍百九十五、長番水軍二百七十九。【原注:全羅道の羅州の木浦の人は水上戦を得意とする。洪武年間に朝鮮が、全ての木浦人を喬桐と江華に分けて住まわせ、左右辺水軍とした。】

 土姓は四:崔・韋・黄・高。
 来姓は三:田・魯・韓。
 続姓は二:金・李。
 鎮江姓は五:魯・蘇・高・井・万。
 河陰姓は五:李・田・奉・吉・万。
 来姓は一:鄭。
 亡海寧郷姓は二:高・宋。

 その土地は肥沃で暖気が早く来る。民は漁労と製塩を生業とする。墾田五千六百六結。【原注:水田がやや多い。】

 土宜:五穀・粟・唐黍・小豆・蕎麦・胡麻・桑麻・柿。

 薬材:川椒・獅子足艾・黄耆・続断。

 土産:青蘭石【原注:摩利山の西の海辺で産し碑を刻むことが出来る。陵の神道碑にはこの石を用いる。】他にー石がある。【原注:焼いて石灰にする。】

 魚場は二ヶ所。【原注:洪魚・水魚・民魚・白蝦・生蛤・土花・石花を産する。】

 製塩所は十一。

 牧場:鎮江山と吉祥山で互いに連なって置かれる。【原注:周囲四十三里、放国馬千五百頭。】

 井浦【原注:府の西にあり、水軍万戸が守る。】・甲串津【原注:府の東に在り。渡船があって、渡場の先に燕尾亭がある。】・寅火石津。【原注:府の北に在り。渡船あり。】

 烽火は五ヶ所:大母城は府の南に在り。【原注:東は通津薬山、西は鎮江山に向かう。】鎮江山は府の南に在り。【原注:西は網山に向かう】網山は府の西に在り。【原注:北は別立山に向かう。】別立山は府の北に在り。【原注:東は本府の松岳に向かう。】松岳は府の東に在り。【原注:東は通津県の主山に向かう。】

 嘉陵浦大堤。【原注:府の南に在り。長さ二千尺。】府の西の船で二里進むと煤島がある。【原注:古くは仇音島といい、周囲六十里で国馬三百二十七頭を放牧する。牧子七戸、水軍十六戸が住み、海水から塩を作って生業とする。島には広博石があり、採掘して国のために使う。】更に西に船で七里に注文島がある。【原注:周囲三十里。】更に西に船で三十里ほどに巴音島がある。【原注:周囲四十里。麻田が百六結、右道水軍が田を営み、喬桐水軍八戸が住む。傍らに小島があり、長さ五里、広さ二里で田が五結があり、喬桐水軍四戸が住む。】更に西に船で十五里に末島がある。【原注:周囲十里ほどで田が三結ある。喬桐の人が往来して耕作する。】更に東に船で十六里に今音北島がある。【原注:長さ十里、広さ二里、田が二十結あり、喬桐人七戸が住む。】、更に東に二百歩で彌法島がある。【原注:周囲十五里。古くは買仍島といった。田が七結あり、喬桐水軍六戸が住む。】更に南に船で三十里で長烽島がある。【原注:長さ四十里、広さ五里。牛を放牧し、通津県が管掌する。】更に東に六十里に信島がある。【原注:周囲三十里、国馬三十六頭を放牧する。】

仁川郡

 本は高句麗の買召忽県。【原注:または彌趨忽、慶原買召ともいう。】新羅が邵城と改め栗津郡の属県とし、高麗顕宗戊午に樹州に配属された。粛宗の時代に皇母仁睿王后李氏の故郷であったため慶源郡に昇格させ、仁宗の時代に皇母順徳王后李氏の故郷であったため知仁州事に昇格させた。恭讓王の三年辛未に慶源府となったが、朝鮮の太祖の元年壬申に再び元の仁州となり、太宗癸巳に全国的な改組に伴い仁川郡に改められた。【原注:『三国史記』にいう。「朱蒙には二人の子がいて、長子を沸流、次子を温祚という。扶余から十人の臣を従えて南下すると、多くの民がこれに従った。漢山の負児岳に登って見下ろすと、住むのに良さそうな地であった。沸流は海辺に住もうとしたが、十臣は諌めた。「ここより北の漢南の地に住むべきです。かの地は北は漢水があり、東は高嶽が恃みとなり、南は沃地が広がり、西は大海に守られ、天険の地で得難い地形です。都を作るなら漢南以外にありません。」沸流は聞かず、温祚と民を分けて、自身は彌趨忽に住んだ。温祚は十臣を率いて慰礼に都を造った。しばらく経って、彌趨忽は湿地で塩分も有った為、沸流は安住することが出来ず、慰礼に行って見ると、都が完成して民も安心して暮らしていた。沸流は慙愧の念に堪えず死んだ。沸流の臣民は全て慰礼都に帰した。】
 所属する部曲は一:梨浦。【原注:安山を越えた南陽の境にある。ただ四戸があるのみ。】

 四境:東は安山まで四十五里、西南に七里で大海、北は富平まで十里。

 戸三百五十七【原注:梨浦の四戸を合計した数。】、人口は千四百十二。

 兵士:侍衛軍一、船軍百七十二。

 土姓は六:李・貢・河・蔡・全・門。
 来姓は朴【原注:唐城】。
 亡来姓は崔。【原注:貞州】

 その土地は沃地と痩せ地が半々、海が近いため暖気が早く来る。墾田二千六百一結。【原注:そのうち水田は七分の三】

 土宜:五穀・粟・黍・菽・麦・小豆・蕎麦・胡麻・桑・麻。

 薬材:獅子足艾・皀休・白附子。

 魚場は十九ヶ所。【原注:主産は真魚、また烏賊魚・鱸魚・刀魚・洪魚・広魚・舌大魚・蘇魚・石首魚・亡魚・沙魚・首魚・民魚・加火魚・到美魚・大蝦・生蛤・黄蛤・落地・小螺を産する。】

 製塩所は六。

 南山石城【原注:郡の南二里に在り。周囲百六十歩、四面が険阻で内に小さな泉あり。】

 駅は二:重林・慶新。

 烽火は一ヶ所:城山が郡の南に在る。【原注:南は安山の五叱哀、北は富平の串に向かう。】

 大池堤【原注:郡の北に在り。周囲二千六百尺、仮田百十結がある。】

 済物梁【原注:郡の西十五里に在り。城倉浦に水軍万戸があって守備する。】

 紫燕島【原注:済物梁の西三里に在り。周囲二十五里で国馬三百五十八頭を放牧する。水軍・牧子・塩夫が合わせて三十戸ほどいる。】・三木島【原注:紫燕島の側に在る。周囲四十五里、水軍・牧子・塩夫が合わせて三十戸ほど住む。引き潮のたびに紫燕島と馬が往来する。】・龍流島【原注:三木島の西五里に在る。、周囲二十三里で国馬五十九頭を放牧する。水軍・牧子・塩夫が二千戸ほどある。】・沙呑島【原注:龍流島と繋がっている。周囲十五里。牧子と塩夫が五、六戸いて全て製塩を生業とする。】・無衣島。【原注:西に一里。周囲二十五里、国馬九十二頭を放牧する。田も塩も無く人が住めない。三木島の牧子が来て馬の世話をする。】

海豊郡

 高麗では初め貞州といい、顕宗の戊午に開城県に配属され尚書都省が管掌した。文宗の壬寅に開城府の直属となり、睿宗の三年戊子に昇天府に改められて知府事が置かれた。忠宣王の二年庚戌に牧府が整理されると、知海豊郡事に降格となった。【原注:三国時代の記録は無く不明。】朝鮮の太宗の癸巳に郡は廃されて開城留後司の所属となったが、戊戌に再び分かれて郡となった。別号は河源。
 所属する県は一:徳水。本は高句麗の徳勿県【原注:または仁物県という。】新羅が徳水と改め高麗が引き継いだ。顕宗の戊午に開城県に配属されて尚書都省が管掌した。文宗壬寅に開城府の直属となり、恭讓王の元年己巳に監務官が置かれ、朝鮮の太祖の七年戊寅に監務が廃されて海豊軍の所属となった。
 白馬山。【原注:郡の南に在り。山上に壇があって、春秋に担当官が祭礼を行う。】

 四境:東は臨津まで三十里、西は碧蘭渡まで二十里、南は河源渡まで三十五里、北は留後司まで十三里。

 斉陵は朝鮮の承仁順聖神懿王后を埋葬する。【原注:郡の北十五里の栗村丑山に在り、甲の方角にあり庚の方角を向く。陵の傍らには碑亭が建てられている。陵直権務二人と守護軍五十戸が置かれ、戸ごとに田二結を給す。陵の東の洞の裏には潔斎場が造られ、衍慶寺と号す。教宗に属し、田四百結を給す。】
 厚陵は朝鮮の恭靖大王と定安王后を合葬する。【原注:郡の東十里の興教寺の東にある坎山にあって、癸の方角にあり丁の方角を向く。陵直権務二人と守護軍四十戸が置かれ、戸ごとに田二結を給す。興教寺はそのまま潔斎場とされ、禅宗に属し、田二百五十結を給す。】

 戸数は七百九十二、人口は千三百八十一。

 兵士:侍衛軍九、船軍九十四。

 本郡土姓は四:柳・張・段・田。
 亡姓は一:韋。
 来姓は一:金。
 亡来接姓は四:梁・鄭・林・朴。
 村亡姓は五:鍾・李・杜・包・河。
 徳水姓は二:李・金。
 亡姓は三:張・泰・員。
 村落姓は一:車。

 その土地は沃地と痩せ地が半々、海に近いため暖気が早く来る。墾田六千五百六十四結。【原注:水田がやや多い。】

 土宜:稲・黍・粟・菽・麦・小豆・蕎麦・桑・麻。

 土産:郡の北の興王寺里で錠玉沙を産する。

 郡の西の敬天寺の東の岡で怪石を産する。【原注:地元の人は沈香石という。】

 驪興府院君・文度公の閔霽の墓。【原注:郡の東二十里の中年駅の北に在り。都から香を送り、地元の官に命じて現地の風習で祭礼を行う。】

 駅は一:中年。

 長源亭の遺跡【原注:郡の西南二十里に在り。】
 (訳注:『高麗史』地理志一こうあります。
 道の『松岳明堂記』に「西江の辺は君子の御馬明堂の地」とある。太祖が三国を統一した丙申の歳から百二十年後、ここに堂を建てて国家の命運を延ばそうということになり、文宗が太史令の金宗允らに地相を観させて、西江の餅岳の南に建てた。)
 徳積祠【原注:徳水県に在り。春と秋に国家の祭礼を行う。】

 河源渡【原注:郡の南三十里に在り。江華府が渡船を置く。】・引寧渡。【原注:郡の東南三十里に在り。渡船あり、俗に引目串という。】

 烽火は三ヶ所:徳積は郡の北東に在り。【原注:北は開城の松嶽、東は交阿剣断山に向かう。】三聖堂は郡の南に在り。【原注:南は江華の松嶽、北は民達に向かう。】民達は郡の北に在り。【原注:北は龍首山に向かう。】

 重房堤。【原注:郡の南四里に在り。長さ八里、広さ三里、南北に水門を開き、田二百結あまりを灌漑する。高麗時代には重房裨補といった。春と秋に班主が府兵を率いて修築する。】

金浦県

 令一人。本は高句麗の黔浦県で、新羅が今の名に改め長堤郡の属県とした。顕宗の戊午に樹州に配属され、明宗の壬辰に初めて監務が置かれた。神宗元年戊午、王が懐妊された地であったため県令官に昇格となり。朝鮮の太宗甲午八月に陽川県を本県に併合して金陽県と改めた。十月に更に陽川を衿川に併合して金浦県に改め富平府に配属したが、丙申七月に再び県令が置かれた。

 四境:東は陽川まで十五里、西は通津まで二十里、南は富平まで七里、北は大江まで十五里。

 戸数は三百十八、人口は六百五十一。

 兵士:侍衛軍二、船軍五十九。

 土姓は三:鄭・蒋・琴。
 亡姓は一:安。
 村姓は一:公。

 その土地は沃地と痩せ地が半々、海が近いため暖気が早く来る。墾田三千三十二結。【原注:水田と乾田は半々。】

 土宜:五穀・粟・唐黍・小豆・緑豆・蕎麦・桑・麻。

 魚場は一ヶ所【原注:水魚・民魚・石花・土花を産する。】

 製塩所は二。

 烽火は二ヶ所:主山【原注:西は通津主山、東は陽川の開花山に向かう。】白石山は県の西に在り【原注:北は通津の薬山、南は官平の串に向かう。】

 助島。【原注:県の北の川の中州。繕工監の草場。】、

陽川県

 令一人。本は高句麗の斉次巴衣県で、新羅が孔巖と改めて栗津郡の属県とした。高麗の顕宗の戊午に樹州に配属し、忠宣王の二年庚戌に陽川県に改めて令を置き、朝鮮はそれを引き継いだ。

 四境:東は楊花渡まで十一里、西は金浦まで十一里、南は衿川まで十五里、北は大江まで一里。

 戸数は二百二十二、人口は五百単九。

 兵士:船軍三十一。

 土姓は四:孔・辺・許・崔。

 人物:僉議中賛・文敬公の許。【原注:忠烈王時代の人で王廟に配祀された。】

 その土地は沃地と痩せ地が半々、墾田千八百七十七結。【原注:そのうち水田は三分の一強】

 土宜:稲・粟・黍・稷・菽・唐黍・小豆・緑豆・蕎麦・麻。

 土貢:芝草。

 土産:県の西の堀浦は冬は極寒だが白魚を産する。【原注:甚だ美味で初物は王に献上される。】楊花渡下の主産は葦魚・水魚・緜魚。

 県の北に主山石城がある。【原注:周囲六百五十四歩、北は大江に臨み、城内に井戸と泉は無い。】

 駅は一:南山。

 寺串浦【原注:県の南に在り、右軍の牧場、衿川沙外浦の牧場と繋がっている。】・孔岩津。【原注:県の北二里に在り。民間の渡船あり。東に石があって中に孔があるため地名となった。】

 烽火は一ヶ所:開花山県の西に在り。【原注:東は京城の南山、西は金浦主山に向かう。】

 県の北の河の中に小島があって、名を新島という。【原注:今は繕工監の草場。】

喬桐県

 本は高句麗の高木根県【原注:またの名を戴雲島。】で、新羅が今の名に改め穴口郡の属県とした。高麗はこれを引き継ぎ江華県に配属し、明宗の壬辰に初めて監務が置かれた。【原注:『安東古記』に「昔の高林、または松家島」とある。】朝鮮の太祖の四年乙亥に初めて万戸が置かれて知県事が兼任した。県は海島で、江華府の西北、延安府の東南に在り、東西二十二里、南北二十九里。

 戸数は二百二十一、人口は五百六十二。

 兵士:侍衛軍六、船軍百九十五、長番水軍二百四十九。

 土姓は三:高・・田。
 続姓は一:安。

 その土地は痩せている。海に囲まれているため寒暖は一定しない。墾田千九百八十六結。【原注:そのうち水田は三分の二弱。】

 土宜:五穀・粟・小豆・緑豆・蕎麦・胡麻・桑・麻。

 土貢:民魚・乾水魚・魚醢。

 土産:生蛤・石花・土花・白蝦・石首魚。

 製塩所は三。

 華盖山石城【原注:県の南七里に在り。周囲千五百六十五歩、中に池一つ泉一つがある。】・鷹岩【原注:県の西十六里に在り。右道水軍僉節制使の水営がある。】・鼻石津【原注:県の南に在り、俗に寅火石津という。渡船あり、江華に往来する者はここを経由する。】・仁岾津【原注:県の北に在り。】

 烽火は二ヶ所:修井山は県の西に在り【原注:東は城山、北は延安の看月山に向かう。】城山は県の南に在り。【原注:東は江華の別立山に向かう。】

 松家島は県の南に在り、水上を五里行く。【原注:東西二里、南北一里半。墾田が四結あって、牧子二戸が住む。引き潮のときに煤島の牧馬が往来する。】

通津県

 本は高句麗の平唯押県で、新羅が分津【原注:またの名を北史城】と改め、高麗が今の名に改めた。
 守安県は本は高句麗の首爾忽で、新羅が戍城県に、高麗が今の名に改めた。
 童城県は本は高句麗の童子忽県【原注:またの名を嶂山県。】で、新羅が今の名に改めた。
 以上の三県は全て新羅が長堤郡の属県とし、高麗になって樹州に配属された。恭讓王の三年辛未になって通津監務が置かれ、守安と童城がこれに属した。朝鮮の太宗癸巳、全国的な改組に伴い県監に改められた。

 四境:東は金浦まで十一里、西は甲串まで五里、南は富平まで二十六里、北は祖江まで七里。

 戸数は四百五十八、人口は九百七十一。

 兵士:侍衛軍六、船軍百単十。

 本県土姓は二:石・康。
 亡姓は一:梁。
 亡次姓は二:吉・宗。
 亡来姓は一:李。
 亡村姓は一:仇。
 守安県姓は三:尹・李・安。
 来姓は一:呉。
 亡姓は一:陳。
 童城県姓は四:盧・祐・附・異。
 来姓は二:康・白。

 その土地は沃地と痩せ地が半々、墾田五千三百六十一結。【原注:水田がやや多い。】

 土宜:稲・粟・黍・菽・小豆・蕎麦。

 土貢:芝草。

 薬材:獅子足艾。

 製塩所は三、魚場は二。【原注:主産は水魚・真魚・土花・白蝦。】

 祖江は県の北に在り。【原注:渡船あり、黄大魚を産する。これは他所には無い。宣徳年間に皇帝がこれを求めて中使を遣わした。】

 烽火は二ヶ所:主山【原注:東は金浦の主山、西は江華の松嶽に向かう。】薬山は県の南に在り。【原注:西は江華の大母城、南は金浦の白石山に向かう。】