列伝巻第五
洪儒
洪儒は初め名を術といい、義城府の人である。
弓裔の末年に裴玄慶・申崇謙・卜智謙と共に騎将となると、皆で密かに計画を立て、夜中に太祖の家に行きこう進言した。
「三韓が分裂して各地で賊徒が蜂起して以来、今の王(弓裔)は奮起して覇を唱え、群小の逆賊を殲滅しました。三国に分かれた半島の大半を領有して建国し、都を定めて二紀(一紀は十二年)以上経ちました。それが今では終わりを良くせず、暴虐甚だしく、刑罰を乱用して妻や子を殺し、家臣は一族皆殺しになりました。民は塗炭の苦しみに陥っており、桀や紂と同等の悪です。暗君を廃して名君を立てるのは天下の大義です。そこで公には殷や周のように行動されることを願います。」
太祖は色を成して拒絶しこう言った。
「私は忠義者であると自認している。王は暴虐であるがどうして二心を懐くことなどできようか。臣下の身分で主君を討つのを革命というが、私はこれを不道徳なことだと考えており、湯武の故事に倣うことなどできない。後世の人間がそれを口実に叛逆するからだ。いにしえの人は言った。『一日でも主君としたならば終生主君である。』その昔、延陵の末子は『国の主となるのは私の信念に反する』と言い、立ち去って耕作に従事した。私はこの末子に及ばないというのか。」
洪儒らは言った。
「好機はなかなか訪れず失い易いものです。天が与えるものを受け取らなければかえって天罰を受けます。国中の民が今の王の悪政に苦しみ、日夜、これが覆らないものかと望んでいます。また重臣たちも粛清されてほとんど残っておらず、現在、徳望のある人は公以外にいません。これが人々が公に希望を見出している理由です。公がもし我らの意見を聞き入れないというのであれば、今日がわれらの死すべき日であると覚悟しています。その上、王昌瑾の持ってきた鏡の銘文にも、公が王となるという予言が記されていました。天命を違え、匹夫(弓裔)の手にかかって死ぬつもりですか。」
こうして太祖は諸将に援け起こされて屋外に出た。このとき夜が明けて、洪儒らは太祖を穀物を積んだ上に座らせると、君臣の礼を行った。それから洪儒は人を走らせ「王公は既に義の旗を揚げた。」と大声で触れ回らせた。
弓裔はこのことを聞くと驚愕して逃げ去った。
太祖は即位すると(918)、擁立の功を賞する詔を下し、洪儒・裴玄慶・申崇謙・卜智謙を一等として金器・銀器・錦繍綺被褥・綾羅・布帛を賜った。
太祖は青州が叛くことを恐れて、洪儒と黔弼に兵千五百を指揮させて鎮州に駐留させ、変事に備えた。これより青州は叛くことは無くなった。
大相に昇進し、二年(919)に烏山城を礼山県に改めると、洪儒と大相の哀宣を遣わした。洪儒らは流民五百戸あまりを慰撫して定住させた。
十九年(936)、太祖に従って後百済を討伐し滅ぼした。
卒去すると忠烈と諡された。
裴玄慶は初め名を白玉衫といい慶州の人である。
膽力人より勝り、一兵卒から累進して大匡となった。太祖が青州の人である玄律を徇軍郎中にしようとした際、裴玄慶と申崇謙はこう言って反対した。
「以前に林春吉が徇軍吏となり、謀叛を企てて事が漏れ誅されました。これは軍権を握って地元に居たことを恃みとしたからです。今また玄律を徇軍郎中とすれば、心迷う可能性があります。」
太祖はこの意見を良しとして、玄律を兵部郎中とした。
太祖が各地を討伐するのに裴玄慶の功績は多く、十九年(936)に危篤になると、太祖はその家に見舞いに行って手を執りこう言った。
「ああ、これも天命なのか。卿の子孫のことを私は決して忘れない。」
太祖が門を出ると裴玄慶は卒去したため、そのまま留まって官により葬儀を行い、終わってから宮殿に帰った。
武烈と諡した。
子は裴殷祐である。
申崇謙は初め名を能山といい、光海州の人で、成人すると武勇があった。
十年(927)に太祖が公山桐で甄萱と戦ったとき、劣勢となって太祖は包囲された。このとき申崇謙は大将となっていて、元甫の金楽と共に力戦して死んだ。
太祖は大いに悲しんで壮節と諡し、申崇謙の弟の申能吉と子の申甫、金楽の弟の金鉄を元尹とし、智妙寺を建てて冥福を祈った。
卜智謙は初め名を砂といった。
桓宣吉と林春吉が謀叛を企てると、卜智謙はどちらの件でも密告して、これを誅した。
卒去すると武恭と諡された。
成宗の十三年(993)に以上の四人はみな太師を追贈され、太祖の廟に配祀された。
黔弼
黔弼は平州の人で、太祖に仕えて馬軍将軍となり、累転して大匡となった。
北の辺境の鶻岩鎮は何度も北狄に攻め込まれていた。太祖は諸将を集めた会議でこう言った。
「今、南の兇賊をいまだ滅ぼしていないのに北狄の不安があり、朕は寝所に在っても不安に駆られる。黔弼を遣わして駐留させようと思うがどうであろうか。」
全員が賛成し、黔弼は即日命じられて開定軍三千を率い鶻岩に向かった。
鶻岩に到着すると、東の山に大規模な城を築いて居所とし、北蕃の酋長三百人あまりを招いて盛大に酒宴を催した。その酔いに乗じて恫喝すると、酋長は全員服従した。
それから使者を諸部族に遣わしこう伝えた。
「既に汝らの酋長はこちらのものだ。汝らも来て服従するように。」
こうして諸部族は連れ立って来て千五百人が服従し、更に捕らえられていた高麗人三千人あまりが戻ってきた。
以来、北方は安泰となり、太祖は黔弼に特別に多くの褒美を与えた。
八年(925)、征西大将軍となり、後百済の燕山鎮を攻めて将軍の吉奐を殺し、さらに任存郡を攻めて三千人あまりを捕らえ殺した。太祖は甄萱と曹物郡で戦ったが、甄萱の兵が頑強でなかなか勝敗が決しなかった。そこで太祖は持久戦に持ち込んで敵軍が疲弊するのを待つことにした。そこに黔弼が兵を率いて合流したため士気が大いに上がった。甄萱は恐れ講和を求めてきた。太祖はこれを受け入れ、甄萱を自陣に招いて話し合おうとした。
黔弼はこう言って諌めた。「人の心は計り難いものであり、そのように軽々しく敵と馴れ合うべきでは在りません。」
そこで太祖は中止しこう言った。「卿が燕山と任存を攻め落とした功は多大なものである。国家が安定すれば正に卿のおかげである。」
十一年、王命により湯井郡に城を築いた。このころ後百済の将の金甄萱・哀式・漢丈らが兵三千あまりを率いて青州に来攻した。
ある日、黔弼が郡の南の山に登り、座って居眠りすると、夢に一人の立派な人物が現れてこう言った。「明日、西原に必ずや変事がある。速やかに西原に向かいなさい。」
黔弼は驚いて目を覚ますと、青州に急行し、後百済と戦って撃ち破り、禿岐鎮まで追撃し、三百人あまりを捕らえて殺した。それから急ぎ中原府に行き、太祖に会って具に戦いの状況を報告すると、太祖は言った。「桐藪の戦いでは崇謙と金楽の二名の将が死に、わが国は深刻な不安となったが、今、卿の言葉を聞いて、朕ややや安心した。」
十二年、甄萱が古昌郡を包囲した。太祖が救援に向かい黔弼は従軍した。
礼安鎮に到着すると太祖は諸将と協議してこう言った。「戦って劣勢となったならどうすべきか。」
大相の公萱と洪儒はこう言った。「もし劣勢となったなら竹嶺を通ってはいけません。間道沿いに帰るべきです。」
黔弼は言った。「臣はこう聞きます。『兵は凶器、戦は危事。死ぬことだけを考えて生きることを考えなければ勝つことが出来る。』と。なぜ、今、敵に臨んで戦わないうちから逃げることを考えるのですか。もし救援しなければ古昌の三千の兵は、手を拱いたまま敵の手に落ちてしまいます。心が痛みませんか。進軍し急襲することを臣は願います。」
太祖はこの意見に従った。
黔弼は猪首峰を進み、奮戦して敵を大いに打ち破った。太祖は古昌郡に入ると
黔弼にこう言った。「今日の勝利は卿の力によるものだ。」
十四年、讒言を受けて鵠島に逃れた。翌年、甄萱の海軍将の尚哀らが大牛島に攻め込んだ。太祖は大匡の万歳らを援軍として向かわせたが敗退した。太祖が憂慮していると、黔弼からこのような書状が届いた。
「臣は罪を負いこのような境遇に在りますが、後百済がわが国の海郷に攻め込んだと聞き、本島と包乙島の男たちから選んで軍隊を編成しました。また軍船を準備して敵を防ぎます。主上には憂慮なされませんように。」
太祖はこの書状を見ると泣いてこう言った。「讒言を信じて賢人を追放したのは私の不明である。」
そして使者を遣わして召すとこう慰めた。「卿は本当は無罪なのに官職を追われたが、それを怨みに思わず国のためを思い助けようとしている。私は自分の行いを大変恥ずかしく思う。恩賞を与えてこれを後世に伝え卿の忠節に報いよう。」
さらに翌年、征南大将軍となり義城府を守った。太祖は使者を遣わしてこう伝えた。
「私は新羅が後百済に攻撃されるのを心配して、以前に大匡の能丈・英周・烈弓・希らに義城府を鎮守させた。今、後百済の兵が既に
山城や阿弗鎮などに至り各地で人や物を略奪しているとの報告が入った。新羅の国都が攻撃される恐れも出てきた。卿に救援に向かって欲しい。」
黔弼は壮士八十人を選ぶと救援に向かった。槎灘まで来ると
黔弼は士卒にこう言った。
「もし敵に遭遇したなら私は生きて帰らないつもりだ。ただ汝らが一緒に敵の刃に掛かることが気になる。そこで各々自分がどうしたいか考えるように。」
士卒は言った。「われらは全員死ぬ覚悟です。将軍を一人で死なせはしません。」こうして心を一つにして敵を討つことを誓った。
槎灘を渡ると後百済の統軍の神剣らの軍勢に遭遇した。黔弼は戦おうとしたが、
黔弼の部隊が精鋭であるのを見た後百済軍は、戦わずして崩れ敗走した。
黔弼が新羅に到着すると、老人や子供が城から出て迎え、拝礼して泣きながらこう言った。「思いがけずも今日、大匡(
黔弼)に会うことができました。大匡がいなかったなら我らは皆殺しになっていたでしょう。」
黔弼は七日間留まって引き揚げた。途中、細い道で神剣らに遭遇して大勝利を収め、敵将の今達や奐弓ら七人を捕らえ多くの敵兵を殺した。
戦勝報告が届くと、太祖は驚喜してこう言った。「わが将軍でなければ他の誰がこのような戦果を収められたであろうか。」戻ってくると太祖は宮殿から出て黔弼を迎え、手を執るとこう言った。「卿のような功はいにしえの時代にも希である。朕の心に刻んで決して忘れることは無い。」
黔弼は謝して言った。「困難に臨んでは私事を忘れ危険を見ては命を投げ打つのは臣の職務です。聖上がことさらそのように仰せられる必要はありません。」太祖はますます
黔弼を信頼した。
十七年、太祖が自ら将となり運州に遠征し、黔弼は右将軍となった。これを聞くと甄萱は精鋭五千を率いて来てこう言った。
「両軍相討てば双方被害が出るだろう。何も知らない兵士の多くが傷つき殺されることが私の気がかりだ。講和を結んで双方の国境を保つのが良策であろう。」
太祖は諸将を集めて協議した。黔弼は言った。
「今日の形勢では戦わないなどという選択肢はありません。聖上は臣らが敵を破るのをご覧ください。何も心配はありません。」
そして甄萱がまだ陣形を整えていないのに乗じて、勁騎数千で突撃し、三千以上の首級を斬り、術士の宗訓や医師の訓謙、勇将の尚達・崔弼を捕らえた。熊津以北の三十あまりの城はこの話を聞くと自ら降伏した。
十八年、太祖は諸将にこう言った。
「羅州の四十あまりの郡はわが藩屏となって久しく気風も馴染んでいる。以前に大相の堅書・権直・仁壹らを遣わして慰撫したが、近ごろ後百済に攻め込まれて、六年間海路が不通となった。誰か私のために慰撫に行ってはくれないか。」
洪儒や朴述熙らは言った。「臣らには武勇がありません。将を一人遣わされることを願います。」
太祖は言った。「地位の高い将で人心を得るべきであろう。」
公萱や大匡の悌弓らはこう奏上した。「黔弼が良いでしょう。」
太祖は言った。「私もまたそれを考えていたが、最近、新羅への道が塞がっていたのを、黔弼が行って通してくれた。朕はその苦労を思い再び命を下すことを避けたい。」
黔弼は言った。「臣は老齢で衰えたとはいえ、このような国家の大事に力を尽くさないわけには行きません。」
太祖はこの言葉に喜び、泣きながらこう言った。「卿が命を受けてくれたことはこれ以上無いほど嬉しい。」
そして都統大将軍に任じ、礼成江まで見送ると、王専用の船を賜り遣わした。黔弼はその船に三日間乗ると、下りて太祖に返還した。
黔弼は羅州を攻略すると帰還し、太祖は礼成江まで行って出迎え慰労した。
十九年、太祖が後百済を討つのに従って滅ぼし、二十四年に卒去した。
黔弼は将としての知略があり兵士から人望があった。出征を命じられると常に自宅に戻ること無く出発した。凱旋すると太祖は必ず出迎えて慰労し終始寵遇され諸将の及ぶ所では無かった。忠節と諡された。
成宗の十三年(993)に太師を追贈され、太祖の廟配祀された。
子は兢・官儒・慶である。
崔凝
崔凝は黄州の土山の人で、父は大相の祐達である。
母が懐妊したとき、家に黄色の瓜があり、突然その蔓が甜瓜に結びついた。村人がこれを弓裔に報告すると、弓裔は占ってこう言った。「男が産まれれば国に害を成すので取り上げてはならぬ。」父母は隠して育てた。
幼い頃から勉学に励み、大人になると五経に通じて文を作るのを得意とした。
弓裔のもとで翰林郎となり、制書の草稿を作らせると大いに意に適った。弓裔は言った。「聖人とはこのような人のことを言うのではないか。」
ある日、謀叛を計画していると讒言された太祖が、弓裔に呼び出されて来て弁明した。このとき崔凝は掌奏となって弓裔の側にいたが、わざと筆を落として拾うために下に降り 太祖の近くを通ると小声で「罪を認めなければ危険です。」と言った。太祖は事態を察して罪を認め、これにより赦免された。
太祖が即位すると(918)もとの官職に準じて知元鳳省事となり、まもなく広評郎中を拝命した。
崔凝は国事を補佐する器量があり政務にも明るかったので、当時の人々から大いに賞賛された。夜遅くまで政務に励んでいることが太祖に知られ、多くの献策をすると太祖は喜んで聞き入れた。
あるとき太祖はこう言った。「卿は博識で才能あり、その上、政治のこともよく理解している。国のためを考えて公に尽くすこと。いにしえの名臣と比肩するものだ。」
内奉卿に昇進し、まもなく広評侍郎に転じると崔凝はこう言って辞退した。
「臣の同僚の尹逢は臣よりも十年長く勤めています。尹逢を先に任命するよう願います。」
太祖は言った。「礼讓を以って政治を行えば何も心配無い。昔、そのような話を聞いたが、今の世にそのような人物を見るとは思わなかった。」そして尹逢を広評侍郎とした。
崔凝は常に精進潔斎していた。病気で寝込んだとき、太祖は皇太子に見舞いに行かせ、肉を食べるようにとこう勧めた。
「戒律では自らの手で殺すことだけが禁じられており、肉を食べることは何も問題ない。」崔凝は固く辞して食べなかった。
太祖が崔凝の家に行ってこう言った。「卿が肉を食べないことは二つの問題がある。その身を保たないことで天寿を全うできず母に対して不孝であること。命を永らえず、早くに私から良い補佐役を失わせて不忠であること、だ。」
このため崔凝は肉を食べることにし、病は治った。
後日、太祖は崔凝にこう言った。「その昔、新羅は九層の塔を建てて全国統一を成し遂げた。私は今、開京に七層の塔を、西京に九層の塔を建てて御仏の力を借り、各地の悪党を討ち、三韓統一を果たしたいと思う。卿には私のために発願してほしい。」
そこで崔凝は発願の文を作成した。
十五年、三十五歳で卒去した。このとき太祖は燕山郡にいたが、訃報を聞くと大いに悼み、元甫を追贈して多大な贈り物をした。その後、累贈されて大匡・太子太傅となり、熙トと諡された。
顕宗の十八年(1026)に太祖の廟に配祀され、徳宗の二年(1032)に司徒を加贈された。
子は彬である。
崔彦ヒ
崔彦ヒは初め名を慎之といい、慶州の人である。寛大で温厚な性格で若い頃から文の才があった。
新羅の末年、十八歳で唐に留学し、礼部侍郎の薛廷珪が試験官を務めた下で科挙に合格した。
渤海の宰相の烏度の子の烏光賛も同年に科挙に合格した。烏
度は唐に朝貢に来て、自分の子の名前が崔彦ヒの下に書かれているのを見てこう上表した。
「臣がその昔、入朝して科挙に合格した際、名が李同の上に記されていました。臣の子の光賛の名を崔彦ヒの上に記すことを願います。」
崔彦ヒの方が成績上位であったため許されなかった。
四十二歳になって初めて新羅に帰国し、執事省侍郎・瑞書院学士に任命された。
太祖が高麗を建国すると、家族を連れて来帰し、太子師傅に任命されて文書作成を任された。
宮や院の額号は全て崔彦ヒが選定し、当時の重臣の子弟は全員崔彦ヒに師事した。
官職は大相・元鳳大学士・翰林院令平章事にまで至り、恵宗の元年(943)、七十七歳で卒去した。訃報を聞いた王は大いに悼み、政匡を追贈して文英と諡した。
子は光胤・行帰・光遠・行宗である。
崔光胤は以前に賓貢進士として後晋に遊学し、契丹に捕らえられた。
才能があったので登用され官職に就けられた。使者として亀城に遣わされると、契丹が高麗を攻めようとしているのを知り、その旨書いた書状を蕃人に託して高麗の朝廷に報せた。定宗は担当官に命じて、軍三十万を選んで、これを光軍と号した。
その後、崔行帰は呉越国に遊学し、呉越王から秘書郎に任命された。後に高麗に帰国して光宗に仕えたが、佞臣として殺された。
崔光遠は秘書少監となり、子の崔は別に伝がある。
王儒 附王字之
王儒はもとの姓名を朴儒、字を文行といい、光海州の人である。性格は直情で経史に通じた。
初め弓裔に仕えて員外から東宮記室に昇進したが、弓裔の政治が乱れたのを見て、出家し山谷に隠棲した。
太祖が即位したと聞くと、拝謁しに来た。太祖は礼を以って接するとこう言った。「致理の道は賢人を求めることに尽きる。今、卿が来て、傅説や太公望を得たようなものだ。」
そして冠帯を賜り重要事項の管理を任せた。功を成して遂には王姓を賜った。
玄孫の王字之は字を元長、初め名を紹中といい、胥吏より身を起こした。
妹婿の王国髦が李資義を誅したとき、王字之は宮門を守った功により都校令となった。
粛宗に召されて内侍に入り殿中侍御史に転じた。睿宗の時代に兵馬判官として尹の女真遠征に従軍し、たびたび戦って功を挙げたことは「尹
伝」に記されている。
殿中少監に昇進し、左散騎常侍・吏部尚書・兵部尚書・枢密院使を歴任し、十七年に参知政事のときに五十七歳で卒去した。章順と諡され、睿宗の廟に配祀された。
後に諌官がこう進言した。
「古来、重臣で国家に大功があった者は、没後に王廟に配祀されています。ただ王字之は、多少の戦功はありますが睿宗に気に入られたというだけで配祀されています。上は主君の危機を救ったわけでもなく、下は民に恩恵を与えたわけでもなく、尊んで祀られる理由がありません。担当官に命じて代わりの者を選び祀るよう願います。」
仁宗はこれを受理した。
子の王毅は、娘が李資謙の子の李公儀に嫁いでいて、李資謙が失脚すると縁座して流された。
朴述熙
朴述熙は 城郡の人で、父は大丞の得宜である。
朴述熙は勇猛で肉を大変好み、蟻が集っていても蟻ごと食べた。十八歳のときに弓裔の衛士となり、後に太祖に仕えて数々の軍功を挙げ大匡となった。
恵宗が七歳のとき、太祖はこれを跡継ぎにしようと思ったが、その母である呉氏は身分が低いため跡継ぎに出来ないであろうと考え、笥に黄袍を盛って呉氏に賜った。
呉氏がこれを朴述熙に見せると、朴述熙は太祖の意向を知り、恵宗を「正胤」と成すよう願い出た。正胤とは太子のことである。
太祖は薨去する直前に軍事と国事を朴述熙に託しこう言った。「卿が太子を擁立して良く補佐するように。」朴述熙は遺命に従った。
恵宗が病で臥せると、朴述熙は王規と対立していたので兵百人を付き従えた。定宗はこれを「謀叛の意思あり」と疑い甲串に流した。王規は、配流の命令を改変して朴述熙を殺した。
後に厳毅と諡され、太師・三重大匡を追贈されて、恵宗の廟に配祀された。
子は精元である。
崔知夢
崔知夢は初め名を聡進といい、南海の霊巖郡の人で、元甫の崔相マの子である。
清廉で慎み深く慈しみの心をもって聡明であった。学問を好んで大匡の玄一に就いて学び、経史を広く知り特に天文と卜筮を得意とした。
十八歳のとき、その評判を聞いた太祖が召して夢を占わせると、吉兆であるとして「近いうちに必ずや三韓を統一するでしょう。」と言った。太祖は喜んで「知夢」との名に改めさせ、錦衣を賜って供奉職に就けた。
太祖が戦いに出ると崔知夢は常にその側にいて離れなかった。国内を統一すると禁中にて近侍し相談役となった。
恵宗の二年(944)、王規が王弟を殺害しようと企てると、当時、司天官となっていた崔知夢はこう奏上した。
「流星が紫微に掛かっています。必ずや逆賊が現れるでしょう。」
後に恵宗が病となり神徳殿で臥せっていると、王規は乱を起こそうと企てた。崔知夢は占ってこう奏上した。「近くに変事があります。他所に移るのが良いでしょう。」
定宗が即位すると(945)、王規を誅し、その陰謀を崔知夢が密奏したことを褒めて、王規から没収した鞍馬と銀器を賜った。
光宗の時代、帰法寺への行幸に随行して、酒礼で失態を犯し、隈傑県に左遷された。
十一年後の景宗五年(979)、都に呼び戻されて、大匡・内議令・東莱郡侯・食邑千戸・柱国となり銀器・錦被・褥帳・衣馬・頭・犀帯を賜った。
ある日、崔知夢がこう奏上した。「客星が帝座に掛かっています。不測の事態に備えるよう王が宿衛に命じられることを願います。」
まもなく王承らは謀叛が露見して誅され、景宗は崔知夢に御衣と金帯を賜った。
成宗の元年(981)に左執政・守内史令・上柱国を加えられ、弘文崇化致理功臣の称号を賜り、その父母も爵を賜った。
三年、崔知夢は七十八歳となったので辞職を願い出た。三回願い出て受理されず、更に強く願ったため、朝礼出席は免除して、直接内史房に出仕してこれまで通りに政務を執ることとした。
六年、崔知夢が病となると、成宗は侍医に薬を処方するよう命じ、直接見舞いに行った。更に帰法寺と海安寺に各々馬一頭を与え、僧三千人に食事を与えて病気平癒の祈祷を行わせたが、既に病は進行していてどうすることもできなかった。
八十一歳で卒去し、訃報が届くと成宗は大いに悼み、布千匹・米三百碩・麦二百碩・茶二百角・香二十斤を遺族に贈って、官にて葬儀を行った。太子太傅を追贈し、敏休と諡した。後に太師を加贈され、十三年に景宗の廟に配祀された。
子は玄同と懐遠である。
王式廉
王式廉は三重大匡の平達の子で、太祖の従弟である。忠義者で勇気があり慎み深く、初めに軍部書史となって様々な官職を歴任した。
太祖は、平壤が荒廃していたため他所から民を移住させ、王式廉に平壤に行って鎮守するよう命じた。更に安水や興徳などに城を築いて鎮守するよう命じられ、功を重ねて佐丞となった。
王式廉は長い間平壤を鎮守するうち、国を守り辺境を開拓するのが自分の務めであると考えるようになった。
恵宗が病で臥せると、王規が謀叛を企てるようになった。定宗は密かに王式廉と相談して変事に備えた。王規が乱を起こすと、王式廉は平壤から兵を率いて衛に入ったので、王規は行動することが出来なかった。
王規ら三百人あまりを誅すると、定宗は王式廉を益々信頼するようになり、このような詔を下して褒めた。
「王式廉は三代に亘る元勲でわが国の柱石である。その器量は海も山も呑み込み、気迫は風や雲のようだ。
先王が危篤になったとき、まだ悪が醸成される前に、卿は忠義を懐いて節義を標榜し、私を推戴して軍事・国事に臨んだ。まもなく姦臣が現れ仲間を集めて謀叛を企て突如乱を起こした。卿は苦難を乗り越えて企てを瓦解させ逆党を誅した。朝廷の規律は復活し社稷は復興して、倒れかけた王朝も再び元に戻った。
もし公の働きが無かったなら私も死んでいたはずで、今このようにはしていられなかった。まさに『世が乱れたときにこそ誠の臣を知る』というもので、昔話に出てくるような人物が今まさにここにいるのである。たとえ一万石の封を加え、九州の牧としたとしても、その功には報いきれない。
今、ここに匡国翊賛功臣の称号を賜り、大丞崇資を加える。私の気持ちを示し永遠に顕彰されるように。君臣の義だけでなく私は生死を共にし同じときに死にたいとさえ思っており、この気持ちに偽りが無いことを太陽に誓う。
公は常に自己研鑽に努め、民を愛し賞罰を公平にして、わが王朝が永遠に続くようにした。富貴が千代後の子孫にまで伝えられるであろう。」
四年に卒去すると威静と諡され、虎騎尉・太師・三重大匡・開国公を追贈されて定宗の廟に配祀された。
子は含允と含順である。
朴守卿
朴守卿は平州の人で父は大匡の尉遅胤である。勇烈にして知略に長けており、太祖に仕えて元尹となった。
後百済がたびたび新羅を攻めたので、太祖は朴守卿を将軍に任じて新羅に遣わし鎮守させた。甄萱が再び攻めてくると、朴守卿は奇計を用いて破った。
曹物郡の戦いで、太祖は軍を三つに分け、大相の帝弓を上軍、元尹の王忠を中軍、朴守卿と殷寧を下軍とした。戦闘が開始されると、上軍と中軍は劣勢となったが、朴守卿らが攻め立てたため勝利した。
太祖は喜び元甫に昇進させようとすると、朴守卿は言った。「臣の兄の守文は元尹です。臣がその上の地位に就けば兄は恥じるでしょう。」そこで兄弟共に元甫とした。
勃城の戦いで太祖は包囲されたが、朴守卿が力戦したため突破することが出来た。更に太祖が神剣を討伐するのに従った。
後百済を平定すると、これまでの功労を評価して田を賜ることになり、朴守卿は特別に田二百結を賜った。
定宗が即位すると(945)、内紛を鎮圧するのに朴守卿の働きが大きかったので大匡とされた。光宗の十五年(963)、子で佐丞の承位・承景や大相の承礼らが讒言により投獄された。朴守卿は憂悶のうちに卒去した。
後に累贈されて司徒・三重大匡となった。
王順式 附李言・堅金・尹
・興達・善弼・泰評
王順式
王順式は溟州の人で、溟州の将軍となった。長い間服従しなかったので、太祖の悩みの種となっていた。侍郎の権説がこう奏上した。
「父が子を説得し、兄が弟を従わせるのは天の理です。順式の父の許越は、現在、僧となって内院におります。これを遣わして説得させるのが良いでしょう。」
太祖はこの意見に従った。その結果、順式は長子の守元を遣わして帰順した。
太祖は王姓を賜り、田宅を与えた。順式は更に子の長命に兵六百を指揮させて遣わし、宿衛に入れた。後に子弟と共に兵を率いて来朝し、王姓を賜り大匡を拝命した。
また長命は廉との名を賜って元甫を拝命し、小将官の景もまた王姓を賜って大丞を拝命した。
太祖が神剣を討伐すると、王順式は溟州から自軍を率いて合流し、神剣を撃ち破った。
太祖は王順式に言った。「朕は以前、風変わりな僧が兵三千を率いてわが方まで来たという夢を見た。その翌日に卿が兵を率いて助力に来た。これこそ夢のお告げというものであろう。」
王順式は言った。「臣が溟州を出発して大に到着したとき、風変わりな僧が祠の前に祭壇を設けて祈祷を行っていました。主上が夢を見たのはそのせいでしょう。」太祖は不思議なことだと思った。
王順式の他に李言・堅金・尹
・興達・善弼・泰評らが太祖に帰附した。
李言の家系は史書に残されていない。新羅の末に碧珍郡を保った。
当時、群盜が各地に充満していたが、李言は城を固く守ったため、民は李
言を頼りにして安心して暮らした。
太祖が使者を遣わして「共に力を尽くして戦乱を鎮めよう」と伝えた。
李言は書状が送られてきたことを大いに喜び、子の李永に兵を指揮させて、太祖の征討に従軍させた。
李永は当時十八歳で、太祖は大匡の思道貴の娘をその妻とした。
李言を碧珍の将軍に任命し、近隣の邑の戸二百二十九を賜り、忠原・広竹・堤州の倉にある穀物二千二百石と塩千七百八十五石を与えた。更に「子孫に至るまで汝の家に対する好意は代わらない。」との直筆の書状を送った。
李言は感激し、兵を団結させると兵糧を蓄え、新羅と後百済が狙う地において、孤城を守り東南に睨みを利かせた。
二十一年に八十一歳で卒去した。
子は達行と永である。
堅金は青州の人で、もとは青州の領軍将軍であった。
青州の人は心変わりしやすく偽りが多かったため、太祖は即位すると「早めに手を打たなければ必ずや後悔するであろう」と考えた。
そこで青州の人である能達・文植・明吉らを遣わして様子を窺わせた。能達らは戻ってくると「かの地は異心無く心配には及びません。」と報告した。
ただ文植と明吉は、地元出身の金勤謙とェ駿に私的にこう言った。「能達は心配ないと報告するだろうが、収穫時期に変事が起こる可能性がある。」
堅金は副将の運翌・興鉉と共に太祖のもとに来て拝謁し、各々馬と綾絹を地位に応じて賜った。
このとき堅金らは言った。「臣らは忠義を尽くすことを願っています。ただ同じ青州出身で都にいる勤謙・ェ駿・金言規ら忠誠心が怪しく、この数人を排除すれば心配は無くなるでしょう。」
太祖は言った。「朕は人を殺すのを止めようと考えており、罪ある者でも赦そうと思っている。ましてその者達ははいずれも力を尽くして朕を援けた功がある。一州を得るために忠賢を殺すなど朕にはできない。」
堅金らは恥じ恐れ退出した。
勤謙や金言規らはこのことを聞いて言った。「最近、能達が戻ってきて『青州は心配ありません』と報告しましたが、臣らは強く疑問に思っておりました。それが今、堅金らの発言を聞き、青州の安全は保てないと確信しました。堅金らを都に留めて様子を見るべきです。」
太祖はこの意見に従った。
その後、太祖は堅金らにこう言った。「今、汝らの『勤謙らを排除せよ』との意見は聞けないが、汝らの忠誠心は大いに嬉しく思う。そこで早く青州に戻って民心を安定させるように。」
堅金らは言った。「臣らは忠誠心を示すことが望みです。利害を説いてかえって讒言のようになってしまいましたが 処罰されなかったこと、多大な恩恵であると考えており、誠心誠意国に尽くすことを誓います。しかし一州の中でも人々には各々思惑が異なり、もし災いの発端があれば制御し難くなる可能性があります。そこで官軍を派遣して牽制することを願います。」
太祖もっともなことだと考え、馬軍将軍の洪儒や黔弼らに兵千五百を指揮させて鎮州に駐留させ、事態に備えた。
まもなく道安郡から「青州が密かに後百済と誼を通じ、今まさに叛こうとしています。」との報告があった。
太祖はさらに馬軍将軍の能植に兵を指揮させて鎮撫に向かわせた。これより青州の叛逆計画は失敗した。
尹は塩州の人である。冷静にして勇気があり兵法に長けていた。
弓裔が誰彼構わず誅殺していたため自分にも害が及ぶと考え、一党を率いて北の辺境に逃げ、兵を集めて二千人以上にもなった。
鶻巖城を居所とし黒水の蕃人を集めて、長い間、辺境で害を成していた。
太祖が即位すると(918)麾下を率いて来附したので北の辺境は安泰となった。
興達は甄萱の下で高思葛伊城主となっていた。
太祖が康州を通り高思葛伊城の前を過ぎようとすると、興達は子を遣わして帰順した。その後、百済がこの地に置いた軍吏は全て降附した。
太祖はこれを評価して、興達には青州の禄、子の俊達には珍州の禄、雄達には寒水の禄、玉達には長浅の禄を賜り、更に褒賞として田と邸宅を賜った。
甄萱が高思葛伊城を攻撃する動きを見せ、その報せを受けた興達は城を出て戦おうと思い、その前に沐浴すると、突然右臂の上に「滅」の字が現れた。怪しんでお払いをしたが、十日後に病死した。
善弼は新羅の載巖城の将軍である。
当時、群盜が各地に発生して、至る所で略奪を行っていたため、太祖は新羅と友好関係を結ぼうとしたが、道が通じず悩みであった。
善弼は太祖の威徳を見て帰順し、計略を以って高麗と新羅の友好関係を結んだ。以後賊を防いで何度も功を立て、後に城ごと内附した。
太祖は善弼を格別に優遇し、善弼が老齢であったため「尚父」と呼んだ。
泰評は塩州の人で、書史を広く読み吏事に明るかった。
以前に塩州の賊帥の柳矜順の記室となった。弓裔が柳矜順を撃ち破ると、泰評は降伏した。永年自分に服さなかった怒った弓評は、泰評を一兵卒とした。
太祖の建国に助力したため、徇軍郎中に抜擢された。
直
直は燕山の昧谷の人である。幼い頃から勇気と知略があり、新羅の末に燕山の将軍となった。
当時、新羅は国中が乱れたため、後百済に仕え、甄萱の腹心となった。長子の直達・次子の
金舒・娘一人を後百済の人質として送った。
直は後百済の朝廷に参内してその無道な有様を見て
直達にこう言った。
「今、この国を見るに奢侈にして無道である。燕山からは近いがまた来ようとは思わない。聞くところによれば、高麗王公は文により民を安心させ、武により治安を守っているので、四方がその威を畏れ徳を慕っているという。私は高麗に帰順しようと思うが汝の考えはどうか。」
直達は言った。「私は入質になって以来、新羅の気風を観察するに、富と力を恃みとしてただひたすら傲慢に振舞うだけでまともな国とは言えません。もし父上が聡明なる主君に帰順して我らが領土を安泰にしようとお考えなら、大変良いことです。私は弟・妹と共に隙を窺って帰ろうと思いますが、もしわれらが帰れなくて、父上は明君に帰順してください。それで子孫に明るい未来が開けるのであれば、我らは死んでも悔いはありません。我らを気にして躊躇なされませんように。」
ここに直は高麗に帰順することを決意した。
太祖の十五年、直は子の
英舒と共に来朝してこう言った。「臣は燕山にいて長い間高麗の評判を伝え聞いてきました。微力ではありますが臣となって忠義を尽くしたいと願います。」
太祖は喜んで、白城郡の収入と馬三匹・彩帛を賜り、子の咸舒を佐尹に任命して、一族の俊行の娘を
咸舒のとした。
太祖は言った。
「卿が理乱存亡を良く見極めてわが方に来帰したことを朕は大いに評価する。その意志に応えるためわが一族の縁戚として以後重用するものである。卿はより一層心と力を尽くして、わが国の藩屏となり辺境を鎮撫するように。」
直は謝して言った。
「後百済の一牟山郡はわが領地と境界を接しているので、臣が高麗に帰順すれば、後百済は攻撃して来て民は脅かされて生業を営めなくなるでしょう。そこで一牟山郡を攻め取ることをお許しください。そうすればわが領民は後百済から攻め込まれる不安も無くなり、農業に専念できるようになって、高麗への忠誠心も増すでしょう。」
太祖はこれを許可した。
直が高麗に降ったと知った甄萱は、激怒して、
直達・
金舒・娘を捕らえると股の筋を焼き切った。
直達はこのため死んだ。
後百済を滅ぼした後、羅州で捕まえた後百済の将軍の具道の子の端舒と交換で金舒が父母のもとに帰ってきた。
二十二年、直は佐丞の地位で卒去した。太祖は使者を遣わして葬儀を行わせ、政匡を追贈し、奉義と諡した。
咸舒をその家の後継者とし、後に更に司空・三重大匡を追贈した。
朴英規
朴英規は昇州の人で、甄萱の娘を娶り、甄萱の将軍となった。
神剣が叛逆して甄萱が高麗に来投すると、朴英規は密かに妻にこう言った。
「大王は四十年以上苦労し、あとわずかで偉業を達成するところであったが、突如として家族から攻撃され、領土を失い高麗に身を投じた。
『貞女は二夫に仕えず忠臣は二主に仕えず』という。もし私が主君を捨てて賊子に仕えれば、天下の義士に顔向けできない。
聞くところに拠れば、高麗王公は仁に厚く身を謹んで民心を得ているという。これこそ天に導かれた人で、必ずや三韓の主となるであろう。
わが王に書状を送って慰め、同時に王公に慇懃に対応して、後日恩恵を受けるように期そう。」
妻は言った。「私もあなたと同意見です。」
太祖の十九年二月、朴英規は使者を遣わして誼を通じ、同時にこう伝えた。「もし義兵を挙げるなら内応して官軍を迎えましょう。」
太祖は大いに喜び、使者に多くの贈り物を持たせた。戻ってきた使者は朴英規にこう伝言した。
「もしわが君(甄萱)の恩恵により道が妨げられることが無くなれば、最初に将軍にお会いし、堂に入って夫人に拝礼し、姉として終生敬いましょう。このことを天地の鬼神に誓います。」
九月、太祖は神剣を討ち後百済を滅ぼすと、朴英規にこう言った。
「甄萱が国を失って以来、長い年月が過ぎたが家臣も子も誰一人として慰めようとはしなかった。ただ卿夫婦だけが千里を越えて手紙を送ったこと、誠意の至りである。また同時に私に誼を通じたことを決して忘れはしない。」
朴英規を佐丞とし、田千頃を賜った。駅馬三十五頭を用いて、その家族を都に迎え入れ、二人の子を官職に就けた。
朴英規は後に三重大匡にまで昇進した。