盧彦倫

 盧彦倫、臨の人である。遼の天慶の初め(1111)に蕭貞一が上京の留守となると下吏を置き、盧彦倫はその下吏となって有能であると評判になった。
 このころ臨周辺では盗賊が多く、また城中の兵を統率する者がいなかった。府が盧彦倫を適任者として朝廷に推薦したため、即座に殿直・勾当兵馬公事の地位を与えられた。

 遼軍が出河店で敗れて臨に戻ると、兵を民家に分散して住まわせ、各家で世話をするよう命じられた。兵士はあらゆる場所で横暴に振舞い、民は憎み苦しんだ。留守の耶律赤狗児は制止することができず、兵と民を集めるとこう諭告した。
 「契丹人と漢人は長い間一家を成してきた。今や辺境で非常事態が起こり、国の費用は不足している。このため兵士が長期間父老の家に住む事態に至っているが、損害を掛けられても許容するように。」
 誰も敢えて発言しない中、盧彦倫だけが言った。
 「女直との戦争が起こって以来、民は財も力も尽き果てています。今やこの上に兵士に食料を与えなくてはなりません。国家が多難な中、義として敢えて断ることはしませんが、あの者たちは好き勝手に暴力を振るい人々は耐えきれません。また番人も漢人も共に皇帝の赤子です。一方から奪い一方に与えては理念に反します。」

 初め金軍が臨を占領すると、軍中に辛訛特刺なる者がいた。もとは臨の駅吏で盧彦倫と仲が良かったため、金軍はこれを遣わして招諭させた。盧彦倫は辛訛特刺を殺した。遼は盧彦倫に団練使・勾当留守司公事の地位を与えた。

 天輔四年(1120)、盧彦倫は留守の撻不野に従い金軍に出向いて降伏した。金は盧彦倫に夏州観察使・権発遣上京留守事の地位を与えた。
 金軍が引き揚げると、撻不野が城ごと叛いたため、盧彦倫は麾下を率いて撻不野を追放し、城中の契丹人を皆殺しにして、金に使者を遣わし報告した。
 まもなく遼の将の耶律馬哥が兵を率いて臨を取り戻しに来ると、盧彦倫は籠城した。七ヶ月して金の援軍が到着したため、遼軍は包囲を解いて去った。これを機に盧彦倫は都に行って金の皇帝に拝謁した。

 天会二年(1124)、盧彦倫は知新城事となった。任地の新城は初めて城邑が建設される地で、盧彦倫は民家も政庁も共に基準に則り区割りした。
 その後、静江軍節度留後・知咸州煙火事に改められ、まもなく静江軍節度使に昇進した。天眷の初め(1138)に行少府監兼都水使者となって京城の大内裏の管理者となった。利渉軍節度使に改められたが、一月も経たないうちに都に戻され、大内裏の管理者となった。
 盧彦倫は細部にも余念が無い性格で、よく悼后の意を汲んだため大いに気に入られて重用された。一年ほどして侍衛親軍馬歩軍都指揮使に昇進し、宋国歳元使となった。その後、礼部尚書に改められ、特進を加えられて、国公に封ぜられた。
 天徳二年(1150)に大名尹として赴任し、翌年には海陵王の命により燕京に宮殿を造営した。病のため六十九歳で卒去した。子は



 盧、字は正甫、蔭位により閤門祗候となり、累進して客省使兼東上閤門使となって、提点太医・教坊・司天に改められた。
 大定十五年(1175)には宋主の誕生日祝いの副使となり、帰国後、同知宣徽院事に昇進した。母の喪に服し、復帰すると太府監となり、開遠軍節度使に改められ、都に召されて右宣徽使となった。
 章宗が即位すると左宣徽使に転じ、その後、致仕した。
 明昌四年(1193)、復帰して左宣徽使となり、定武軍節度使に改められ、再び左宣徽使となった。

 このとき盧は既に七十歳、詔により朝参の際に廊下で座っていることを許された。再び致仕し、泰和の初め(1201)に、章宗は盧も天寿節の宴に出席するよう命じた。
 二年(1202)、元妃李氏が皇子を産んだ。満三ヶ月になり、章宗は盧が老いてもなお壮健であったため、突いていた杖を洗児礼物とするよう命じた。
 章宗は玉泉山に行幸すると、盧と致仕した宰相を召して共に会食し、杖を突くことを許し介助人を付けた。
 その後、天寿節に列席すると、章宗は盧に、大臣と槊を握って引っ張り合う遊びをさせ、盧が勝利した。
 章宗に付き従って秋の山に行くと、名馬を賜った。章宗は「これは卿の博識と実直さへの返礼である。」と言った。これほど章宗に気に入られていたのである。
 泰和六年(1206)に八十歳で卒去した。
 子は亨嗣。

盧亨嗣

 盧亨嗣、字は継祖、蔭位により閤門祗候・内供奉となった。同監平涼府醋務となり、同監天山塩場に改められた。母の喪に服して復帰すると、監莱州酒課から累進して、監豊州や任丘・汲県・東平の酒務となった。最も政績が良かったため白登県令に昇進した。
 明昌四年(1193)、行六部となって軍の兵糧を調達し、中央に召されて典給直長となった。西京戸籍判官に改められ、西京や中都の太倉使・中都の戸籍判官・尚署丞を歴任した。父の喪に服し、大安の初め(1209)に復帰すると典給署丞兼太子家令となった。
 崇慶元年(1212)、同知順天軍節度使事に昇進した。このころ蒙古との戦争がはじまり、物資調達が頻繁となったが、盧亨嗣は最も上手く調達した。定遠大将軍に昇進し、都に戻って戸部員外郎となった。
 貞祐二年(1214)に州刺史に昇進し、三年に山東宣撫司が楊安児を討伐に向かうと、盧亨嗣は行六部となった。戦が終わると州に戻った。
 興定二年(1218)、六十一歳で卒去した。

 盧亨嗣と弟の盧亨益は友愛の道を極めた。盧亨嗣は初め祖父の蔭位で官職を得た。大定十六年(1176)に父の盧が同知宣徽院事となると、子に蔭位が適応されることとなったが、盧亨嗣は弟の盧亨益に譲った。盧亨益が早逝し、子の盧がいた。盧はまだ幼かったが、盧亨嗣は全ての旧業・田宅・奴婢・家畜・財物を盧に与えた。

毛子廉

 毛子廉、本の名は八十、臨の長泰の人で、武勇があり射を得意とした。遼末に群盜が発生すると、勇士の募集があり、毛子廉はこれに応募した。天祚帝に召されて拝謁すると、武器を賜り百人を指揮する地位に就けられた。地元で官兵が盗賊を捕縛するのに加わり、その功で東頭供奉官となり、良馬を賜った。

 天輔四年(1120)、金が謀克の辛斡特刺と移刺窟斜を臨に遣わして招諭すると、毛子廉は二千六百戸を率いて来帰した。そこでその二千六百戸を毛子廉の麾下とし、銀牌を佩びさせて、まだ金に降っていない兵と民を招諭させた。
 毛子廉が金に降ったことを怒った盧彦倫は、毛子廉の妻と二人の子を殺し、騎兵二千を差し向けて毛子廉を攻撃した。毛子廉は移刺窟斜と共に険阻な道を進んで騎兵を包囲した。二人の騎兵が毛子廉目掛けて突進すると、毛子廉は弓で一人を斃した。もう一人の槍が危うく毛子廉の腋に刺さる所を、毛子廉は避け、取っ組み合いとなって生け捕りにした。これが盧彦倫の健将の孫延寿であった。残りの兵は潰走した。

 天会三年(1125)、毛子廉は上京副留守に任じられ、しばらく経ってから塩鉄事を兼ねた。
 天眷年間(1138〜1140)、燕京院都監となった。
 遼王の宗幹が宰相に尋ねた。
 「毛子廉には功がある。なぜ降格となったのか。」
 宰相が慣例に拠るものだと説明すると、宗幹は言った。
 「では盧彦倫がなぜあの地位にいるのか。毛子廉の功は盧彦倫の十倍あり、臨にいた十数年間、吏民に畏敬されていた。それは誰も及ぶものではない。」
 このとき盧彦倫は既に少府監から節度使になっていて、宗幹はそれを引き合いに出したのである。このため毛子廉は寧昌軍節度使に任じられた。

 海陵王が熙宗を弑殺した。毛子廉はそれを聞くと、嘆いて「これまで皇帝擁立の功を立てようとは思ったことも無い。」と言い、海陵王を皇帝とする動きに加わらずに致仕した。
 大定二年(1162、世宗の治世)に卒去した。

李三錫

 李三錫、字は懐邦、錦州の安昌人で、金銭を納めて官職を得た。
 遼末に錦州が賊徒に攻撃されると、州人は李三錫を推して軍事を掌らせた。李三錫は臨機応変に対処して城を守り切った。その功により左承制の地位を与えられた。
 天祚帝が天徳に逃れると、劉彦宗に招聘された李三錫は、兵を率いて白雲山に立て籠った。

 金軍が来州に到着すると、李三錫は麾下を率いて来降し、臨時の臨海軍節度副使となって、元帥府の軍事に参与した。その後、厳州知州に改められた。
 宗望が宋を攻撃すると、李三錫は行軍猛安となり、白河で郭薬師軍を破って、安州防禦使に昇進した。再び従軍して京を攻め落とすと、李三錫は闍母に従い宋の二主を警護して北に帰った。再び厳州知州となり、帰徳軍節度副使に改められた。
 斉国の廃止が決まると、その詔を伝える使者に三十人が随行することとなり、李三錫はそれに選ばれた。帰還すると慶州刺史となり、三度異動して武勝軍節度使となった。勤務評価で一位となったため三階級昇進し、安国軍節度使に改められ、河北西路転運使となって、致仕した。

 李三錫は政務に明るく、赴任する先々でその政治は称賛された。世宗は以前からその名を聞いていたため、大定の初め(1161)に北京路都転運使に起用しようとしたが、辞令を出したときには李三錫は既に卒去していた。

孔敬宗

 孔敬宗、字は仲先。先祖は東垣の人で、後晋の末年に遼陽に移った。
 遼末、孔敬宗は寧昌の劉宏の幕官となった。斡魯古の軍が州の境まで来ると、孔敬宗は劉宏に出迎えて降るよう勧めた。孔敬宗は道案内を務め、顕州を攻め落とした功により順安令となった。
 天輔二年(1118)、詔により孔敬宗は劉宏と共に懿州の民を率いて内地に移り、世襲猛安の地位を与えられて知安州事となった。
 兵千人を率いて宗望の宋討伐に従軍した。京を平定すると、宗望は孔敬宗にを守るよう命じた。
 から早馬で河北に至り、戻って黄河まで来ると、日が暮れて船が無かった。孔敬宗は馬に鞭を当てると乱流に飛び込み、遂には南岸まで渡り切った。
 静江軍節度使に昇進し、石・辰・信・磁の四州の刺史を歴任して、位階は光禄大夫となった。

 海陵王が張浩に尋ねた。
 「卿は孔敬宗の事を知っているか。どうして位階が高く官職が低いのであろうか。」
 張浩が答えた。
 「国初、孔敬宗は劉宏に勧めて懿州ごと帰順しました。その後、従軍して功を重ねましたが、担当官はその功を知らず、他の者と同じ地位に在るのです。」
 翌日、寧昌軍節度使に任命された。
 帰徳軍に異動となって致仕し、大定二年(1162)に卒去した。

李師

 李師、字は賢佐、奉聖の永興の人である。若いころから才気があり大志を抱いていた。蔭位によって出仕し、奉聖州監となった。
 天輔六年(1122)、鴛鴦にいた天祚帝を太祖が攻撃すると、郡守は城を棄てて逃亡した。指導者を失った人々は、連れだって門を叩き、郡守の代わりとなるよう李師に求めた。李師はこれを受け入れ、散った兵を集め纏めた。

 迪古乃の兵が奉聖州に至ると、李師は旧知の沈璋と密かに降伏を話し合った。李師は言った。
 「城の全住民の命はこの一挙にかかっている。」
 沈璋は言った。
 「その通りだ。もし兵と民が従わなければ皆殺しとなろう。」
 李師は信頼できる十数人と共に早朝城を出て餘睹に会った。そしてこのような約束を取り付けた。
 「今や我らは既に服従しました。兵を入城させたり領内の民を捕虜としませんよう願います。」
 餘睹は承諾した。

 詔により李師は節度使に、沈璋はその補佐になった。李師は駿馬二頭を賜り、いまだ帰順しない者を招諭するよう命じられて、自己の判断で行動することを許された。
 翌年、左監門衛大将軍を加えられた。

 劇賊の張勝が一万の兵で城に迫った。城内の兵が少なく対抗できないと見た李師は、偽って和を結び、毎日兵糧を送ったため、張勝は李師を信用するようになった。李師はその油断に乗じて、人を遣わして張勝を刺殺し、その首を示して言った。
 「汝らは皆良民で、脅迫されてここに至ったのであろう。今、元凶は既に誅した。武器を捨てて郷里に帰りなさい。」
 賊徒は大いに驚き、みな散り散りになって去った。

 別の賊の焦望天と尹智穆が兵数千を率いて来攻した。李師は兵を率いて対峙すると、敵の退路に伏兵を配置し、人を差し向けて仲間割れをさせた。果たして尹智穆に疑われた焦望天は先に引き揚げた。尹智穆も孤立したため兵を退くと、伏兵に遭って敗れ、遂には捕えられて斬られた。その後、賊徒は敢えて奉聖に攻め入ることは無かった。
 功により静江軍節度留後に昇進し、累進して武平軍節度使となった。東京路転運使に改められ、陝西東路転運使に異動となった。致仕して任国公に封ぜられ、八十五歳で卒去した。

沈璋

 沈璋、字は之達、奉聖州の永興の人である。科挙のために勉強していたとき、迪古乃の軍が上谷まで来たので、李師と相談して門を開き降伏した。翌日、永興を守る者を選ぶ際、住民は揃って沈璋を推したが、沈璋は固辞して李師を推薦したため、李師が武定軍節度使となり、沈璋がその副となった。
 太常少卿の地位を与えられ、鴻臚卿に昇進して、母の喪に服して復帰すると山西路都転運副使となり、衛尉卿を加えられた。
 宋討伐に従軍し、京を平定すると、兵たちは争って財貨を探し求めたが、沈璋だけは何も取らず、ただ書数千巻を車に積んで帰った。

 太行の賊徒が州を攻め落とし、守臣の姚を殺した。金軍がこれを平定すると、沈璋に臨時に州の政務を執らせた。
 沈璋は任地に着くと、逃げた者を招諭し、困窮者を救済して、戦で死んだ者を埋葬した。このため短期間で民は集まってきた。
 賊徒が州を占拠していた時に加担したの兵が七百人いた、帥府から沈璋に「全員誅殺するように」と命令書が送られたが、沈璋は従わなかった。帥府はこれを聞くと激怒し、沈璋を呼び出して責め、更には沈璋を殺そうとした。側近は恐れ震えたが、沈璋は顔色一つ変えず、従容とこう答えた。
 「逃げ出した者を招き残った者を慰撫するのが私の職務です。あの者たちは初めは叛くつもりが無く、賊に脅されて止む無く加担したのです。だから招諭するとまたやって来たのです。それを今、殺してしまえば降伏者を殺すことになります。民の利となるのであれば私は死んでも悔いはありません。」
 しばらくして怒りは解け、の兵を呼び出すことこう言った。
 「私は初め汝らを殺すよう命じた。しかし汝らを活用しようと思う。」
 皆、感涙して帰った。このことを聞いた朝廷は嘉し、沈璋を左諌議大夫・知州事とした。民は沈璋のために祠を建てた。
 忻州知州に異動となり、同知太原尹に改められ、尚書礼部侍郎を加えられた。

 このころ介休の張覚が流民を集めて山谷で徒党を組み、近隣の県で略奪を行い、招諭しても降伏しなかった。張覚は言った。
 「以前に降伏した者は全て殺された。今、上手い言葉で我らを誘っているが、我らを殺すつもりであろう。ただ侍郎の沈公の一言があれば、我らも信用しよう。」
 そこで沈璋に現地に行かせて招諭させると、張覚はその日のうちに降伏した。

 その後、尚書吏部侍郎・西京副留守・同知平陽尹に転じ、利渉軍節度使に昇進し、東京路都転運使となって、鎮西軍節度使に改められた。
 天徳元年(1149)に病のため致仕し、六十歳で卒去した。

 子の沈宜中は天徳三年(1151)に楊建中榜及第となった。

左企弓

 左企弓、字は君材。八代前の先祖の左皓は後唐の棣川刺史で、行軍司馬として燕に駐留した。遼が燕を取ると、薊を守るよう命じられて、薊に居を定めた。
 左企弓は書を読み『左氏春秋』に通じた。進士となって、二度昇進し来州観察判官となった。

 蕭英弼が昭懐太子を害すると、加担者が調べられ多くの者が捕えられた。左企弓が冤罪であると弁護したため、多くの者が処罰されずに済んだ。

 御史知雑事から中京副留守、按刑遼陽となった。遼陽の牢には、軽い罪であったのに投獄後に重罪犯として扱われていた者がいた。既に朝廷に奏上済みで返答を待っている状態であったが、左企弓は釈放してから報告した。
 累進して知三司使事となり、天慶の末(1120)に広陵軍節度使・同中書門下平章事・知枢密院事を拝命した。

 金軍が上京を攻め落としても、北枢密院は天祚帝の怒りを恐れて報告しなかった。遼の慣例では、軍政に関しては北枢密院が決定し、それから奏上することになっていたが、左企弓はこの件を奏上した。天祚帝が「軍事は卿の職務ではないはずだが。」と言うと、「我が国の状況を思えば、慣例を遵守して自分の地位を守ろうとは考えていません。」と答え、守備の策を述べた。
 中書侍郎平章事・監修国史を拝命した。金軍が中京を攻め落としたと聞いた天祚帝は西に避難しようとした。左企弓は諌めたが聞き容れられなかった。

 天祚帝が鴛鴦から陰山に逃れると、秦晋国王の耶律捏里が燕で自立し、天祚帝を廃して湘陰王とし、徳興と改元した。左企弓を守司徒として燕国公に封じ、虞仲文を参知政事・西京留守・同中書門下平章事・内外諸軍都統、曹勇義を中書侍郎平章事・枢密使・燕国公、康公弼を参知政事・簽枢密院事とし、各々に「忠烈翊聖功臣」の号を賜った。
 耶律捏里が没して徳妃が摂政となると、左企弓は侍中を加えられた。宋軍が燕に襲来して不意に城内にまで攻め入った。撃退したが、内応者がいるのではないかとの疑惑が起こり、徹底的に究明すべきとの意見が出たが、左企弓が反対したため中止となった。

 太祖が居庸関に至ると、蕭妃は古北口から逃亡した。都監の高六らが太祖に誼を通じ、太祖が城の前まで来ると、開門して迎え入れた。太祖は入城して降伏を受け入れたが、左企弓らはこの段階でもまだ知らなかった。太祖が燕京城の南に陣を定めると、左企弓らは上表文を奉って降伏した。
 太祖は全員をもとの官職に就かせて金牌を与えた。左企弓は守太傅・中書令、虞仲文は枢密使・侍中・秦国公、曹勇義は旧官から守司空、康公弼は同中書門下平章事・枢密副使権知院事・簽中書省となり陳国公に封ぜられた。
 遼の致仕宰相の張琳が降伏の上表文を奉ると、太祖は「燕京にある張琳の田宅・財物は全て返還しよう。」と言ったが、張琳は高齢であったため返礼に来ることができなかった。そこで太祖は「その子弟が来るだけで良い」と命じた。

 太祖の燕平定後、初めの約束通り、燕は宋に与えられた。ここで左企弓が詩を献じた。概略はこうである。
 「君王は燕を放棄する意見を聞いてはなりません。一寸の山河は一寸の金に値します。」
 太祖は耳を貸さなかった。

 このとき広寧府に枢密院が置かれたので、左企弓らは広寧に赴任することとなったが、平州の張覚が二心を抱いていたため、太祖は兵に守らせて送ろうと考えた。左企弓らは「そのようなことをすれば乱を促すことになります。」と言って断った。一行が平州を通過して栗林の下で夜を過ごすと、張覚が人を差し向けて殺害した。左企弓はこのとき七十三歳。恭烈と諡された。

 天会七年(1129)に守太師を追贈され、使者が遣わされて祭礼が行われた。
 正隆二年(1157)に改めて特進・済国公を追贈された。

虞仲文

 虞仲文、字は質夫、武州寧遠の人である。七歳にして詩を作ることを覚え、十歳にして文章を得意とし日に千言を記した。学問に励んで進士となり、地方官を歴任して、清廉で有能であると評判になった。賢良方正で推挙され、対策も優等であったため、起居郎・史館修撰に抜擢され、三度昇進して太常少卿となった。
 宰相が左遷となった際、虞仲文だけが出向いて餞別をしたため、ある者が「宰相の一味である」と指弾した。このため虞仲文は親の世話をすることを理由に辞職した。
 しばらく経って、召されて前職に就いた。宰相が文行第一であると推薦したため、権知制誥となり、その後、中書舎人となった。白討伐に従軍して、枢密直学士・権翰林学士を拝命し、翰林侍講学士となった。五十五歳で卒去して文正と諡された。

 天会七年(1129)に兼中書令を追贈され、正隆二年(1157)に改めて特進・濮国公を追贈された。