顕宗昭聖皇后
昭聖皇后劉氏は遼陽の人である。天眷二年(1139)九月己亥夜、劉氏の家で、黄色い服を着た女子のようなものが劉氏の母の室内に入るのが見え、まもなく劉氏が生まれた。生来聡明で、一度目を通した文は決して忘れなかった。初めに『孝経』を読むと十日で読み終えた。仏書を最も好んだ。
世宗が東京留守であったとき、撃球をしていると、劉氏を見て気にかかった。府に連れ帰って自分の母に会わせると、劉氏は挙措が優雅であった。
大定元年(1161)に選ばれて東宮に入った。時に二十三歳。
三年三月十三日、宣宗が生まれた。その日、大雨が降り雷鳴が轟いた。劉氏は驚きのあまり病となり、まもなく卒去した。
承安五年(1200)に裕陵昭華を追贈された。宣宗が即位すると、追尊されて皇太后となり、昇格して顕宗の廟に祀られて、昭聖皇后と追諡された。
章宗元妃李氏
元妃李氏師児、その一家は罪により後宮の所属とされた。父は李湘、母は王盻児で共に身分が低かった。
大定の末(1189)に監戸の女子として後宮に入った。
このころ宮教の張建が後宮で教育を行い、李師児は他の宮女らと共にこれに就いて学んだ。
慣例では、宮教と宮女は青い紗で隔てられ、宮教は紗の外、宮女は紗の内にいて、互いに顔が分からなかった。分からない字や意味があった場合には、紗に指で字を書いて質問して、宮教が紗の外から口頭で答えていた。
宮女らの中で李師児だけが理解力が良かったが、張建はそれが誰かは分からず、ただその声の清亮なことだけは覚えていた。
章宗が張建に「宮女を教育していて誰が頭が良いか」と尋ねると、張建は言った。
「あの中で声の清亮な者が最も良いです。」
張建の意見により章宗は李師児を知るようになった。更に宦官の梁道が李師児の才能と美しさを褒め、后とするよう章宗に勧めた。
章宗は文辞を好んだ。李師児は生来聡明で、字が上手く書物の意味も理解していたため、よく章宗の考えを察し、意に適うよう振舞ったため、大いに愛されるようになった。
明昌四年(1193)に昭容となり、翌年には淑妃に進封されて、父の李湘は金紫光禄大夫・上柱国・隴西郡公を、祖父と曽祖父にも官職が追贈された。
兄の李喜児は以前は盗賊であったが、弟の李鉄哥と共に皇帝の側近となった。朝廷で権勢を振るい四方を靡かせて、昇進を望む者はその門前に集まった。南京の李炳と中山の李著は一族であったため、その恩恵に与って高官となり、胥持国はおもねって宰相にまで至った。財と地位を求めて朝廷は混乱し、その奸計を知っても誰も指弾しようとせず、指弾したとしても追放することなどできなかった。
石烈執中は強欲で法を無視した。章宗はその跋扈を知り、何度も追放してはまた起用することを繰り返し、遂には天下を乱した。
欽懐皇后の崩御以来、皇后の地位が空席になって久しかった。章宗は李師児を皇后にしたかったが、金朝の慣例では、徒単・唐括・蒲察・拏懶・僕散・石烈・烏林荅・烏古論の諸部族の族長の家と代々姻戚を結んでおり、皇后とするのも公主を降嫁するのもそれらの家に限られ、しかも李師児の家は身分がかなり低かった
章宗が李師児を皇后に立てようとすると、大臣は強硬に反対して従わず、台諫もそれに同調したため、章宗はやむを得ず、李師児を元妃に進封した。しかしその権勢は確固としたもので、人々から皇后同然に扱われた。
ある日、章宗が宮中で宴会を催すと、役者の瑁頭なる者が章宗の前で戯れた。
ある者が「わが国には何か符瑞があるか。」と尋ねると、瑁頭は「汝は鳳凰が現れたのを耳にしなかったか。」と言った。その者が「聞いたが詳しくは知らない。」と言うと、
瑁頭は言った。
「飛び方が四つあり各々そのご利益は異なる。上に向かって飛べば適切な時期に風雨をもたらし、下に向かって飛べば五穀豊穣、外に向かって飛べば四方の国々が来朝し、内に向かって飛べば(「嚮裏飛」裏飛と李妃が同音なため掛けたもの)昇進する。」
章宗は笑い、宴会はお開きとなった。
欽懐皇后やその他の妃にもこれまで子が産まれたが、二、三歳になるか数ヶ月で夭逝した。
承安五年(1200)、章宗は後継ぎを望んで太廟や山陵を祀った。少府監の張汝猷が進言した。
「お世継ぎがまだいないので、聖主が自ら祭礼を行い、それから近臣を各地の霊山に遣わして廟で祈らせるよう願います。」
章宗は司空の襄を亳州に遣わして太清宮を祀らせた。その後、襄を遣わすことは止めて刑部員外郎の完顔匡を遣わした。
泰和二年(1202)八月丁酉、元妃が皇子の鄰を産み、群臣が祝賀の上表を行った。五品以上は神龍殿で、六品以下は東廡下で宴会が行われた。章宗は報告と謝礼のために平章政事の徒単鎰を太廟に、右丞の完顔匡を山陵に、使者を亳州の太清宮に遣わした。
一ヶ月すると命名して葛王に封じた。葛王とは、世宗が初めて封じた王号で、大定以後は臣下が封ぜられることなく、これ以降は三等国号に「葛」は無くなった。尚書省が、葛王の号は瀛王の下とするよう進言し、章宗はこれに従った。
十二月癸酉、鄰が産まれて満三ヶ月、章宗は僧三千人分の度牒を発給し、玄真観に祭壇を設けて、
鄰の幸福を祈った。
同月丁丑、章宗が慶和殿に渡御して鄰を入浴させた。百官に命じて元旦の儀礼の際に酒を進上して祝う準備をさせ、五品以上は礼物を進上することとなった。
鄰は二歳で薨去した。
兄の李喜児は累進して宣徽使・安国軍節度使に、弟の李鉄哥は累進して近侍局使・少府監となった。
泰和八年、承御の賈氏と范氏が共に懐妊した。まだ母乳が出るようにならないうちに、章宗は咳の出る病となって大いに衰えた。
このとき衛王の永済が武定軍から来朝した。章宗は一族の中で衛王を最も気に入っており後継ぎに立てようと考えていた。このことは「衛紹王紀」に記されている。
衛王が武定軍に帰るため朝方挨拶に来ると、章宗は病を押して共に撃球を行った。そして衛王に「叔王よ、天下の主となる気はないのか。どうして急ぎ帰ろうとするのか。」と言った。元妃はすぐ近くに居て、章宗に「そのようなことを軽々しく言ってはなりません。」と言った。
十一月乙卯、章宗が危篤となり、衛王にはまだ知らせていなかった。元妃は黄門の李新喜が協議して衛王擁立を決め、内侍の潘守恒に呼びに行かせた。潘守恒は良く書を知り儀礼にも通じていたため、元妃に「これは大事です。大臣と協議すべきです。」と言った。そこで潘守恒を平章政事の完顔匡のもとに遣わして召した。完顔匡は顕宗の侍読で、朝廷に最も古くから仕えており武功もあったため、単独で召されたのである。完顔匡が来ると、最終的に衛王擁立が決まった。
丙辰、章宗が崩御し、遺詔により皇叔の衛王が皇帝に即位した。遺詔にはこうあった。
「朕の内人に懐妊している者が二人いる。もしその一方に男子が産まれたら皇太子に立てるべし。もし両方とも男子なら、そのうち一人を選んで立てるべし。」
衛紹王が即位し、大安元年二月にこのような詔を下した。
「章宗皇帝は朕に天下を与えた。その遺詔には『内人に懐妊している者が二人いて、男子が産まれたなら皇太子にせよ』とあった。遺詔は各方面に伝えられ、多くの者が知っている。朕は非才ながらも帝位を託され、遺意に沿うよう常に心を尽くしており、妊娠中の二人にも静かな場所に住まわせ、親族に守らせて、欽懐皇后の母の鄭国公主と乳母の蕭国夫人も昼夜離れず付いていた。しかし先ごろ二人は心落ち着かないと聞き、大臣に命じて二人を守ることに専念させた。
平章政事の僕散端と左丞の孫即康は『承御の賈氏は十一ヶ月目で産み月です』と報告したが、三ケ月経っても報告が無い。范氏の産み月は正月であった。太医副使の儀師顔の言うには、『去年、十一ヶ月目の診察をしたところ、范氏の胎内の気が損じていました。回復して今に至り、脈も息も整ってきましたが、胎児の形は失われています』とのこと。范氏は自らの願いで神前にて髮を剃り尼となった。先帝から大事を託された朕は、これを聞いて大いに驚いた。
今、范氏の子は既に失われたが、賈氏にはまだ望みがある。そこで先帝に報告してご加護を願い、お世継ぎが産まれることを願う。
なお恐れるのは多くの事が究明されていないことであり、隠すことなく全てを朕に報せてほしい。」
四月にこのような詔を下した。
「近ごろ、ある者が『元妃李氏が陰謀を企てて先帝の御恩に背いた』と告発した。
泰和七年正月、章宗が一時的に重病となると、李氏は李新喜と共に密謀した。皇太子がいなかったため、宮人に命じて懐妊したように偽り、他から子を取って皇太子にしようとしたのである。
そして遂には去年の閏月十日、賈承御が病のため嘔吐し腹中に何かの塊ができると、李氏は母の王盻児と李新喜と謀って、賈氏に命じて懐妊したと偽らせた。臨月まで待って、子を取って李家に入れ、月日が合わなければ別の子を取ってお世継ぎにしようとしたが、章宗崩御により計画は実行されなかった。
また先帝が危篤となると、平章政事の完顔匡に内外の政務を任せ、二人の宮人が懐妊していることを明らかにして、更に平章と側近を召して同様に聞かせた。李氏と李新喜は先帝の意思を無視して、李喜児と李鉄哥を宮中に呼ぼうとしたが果たせなかった、そこで提点近侍局の烏古論慶寿を呼んで、諸王のうち誰を後継ぎにするか決まらないうちに計略を巡らせた。
知近侍局副使の徒単張僧が人を遣わして平章を召した。宣華門外に到着したときには同調する様子を見せたが、宮中に入ると、ひとえに遺命を遵守して後継ぎを決めた。
先帝は亡くなる直前に何度も李氏を召したが、李氏は来なかった。強く命じられて行くことを了承しても、李氏は行かずになおも母と密議していた。
先帝は元気だったころに李氏を寵愛したが、李氏は嫉妬深く、巫女の李定奴に命じて紙で人形と鴛鴦符を作らせて呪術を行わせた。このため先帝の世継ぎは絶えるに至った。
その行いは反逆であり申し開きのしようもない。
既に事が発覚すると、朕は大臣を遣わして尋問させ、李氏は全ての罪を認めた。そこで朕は更に宰臣に調べさせると、同様に罪状は明らかであった。担当官の協議の結果、法に則り極刑に処すべきところであるが、先帝に長く仕えていたことを以って、朕はその死を免じようと思った。しかし王・公・百官が奏上して死罪に処すよう強く強く望むため、ここに李氏に自害を命じる。王盻児と李新喜は各々法に則り処刑し、李氏の兄で安国軍節度使の李喜児と弟で少府監の李鉄哥は法に則り再び後宮所属の戸に戻したうえで遠方に配流とする。関係者も法に則り処罰する。承御の賈氏にも自害を命じる。」
章宗が崩御して三日目で范氏の胎児は死んだとされる。また章宗の危篤の際に、完顔匡が内外の政務を任されたという事実は無い。一説に、完顔匡は新帝擁立の功を奪うために元妃を陥れたのだと言われる。以後、天下の人々は元妃と呼ぶこと無く、ただ李師児と呼ぶようになった。
胡沙虎が衛王を弑殺して宣宗を立てると、衛王を降格するよう求めて東海郡侯とした。そのときの詔にこうある。
「大安の初め、天下に詔が頒布された。『李氏がその母の王盻児と李新喜と共に共謀して、賈氏に懐妊したと偽らせたため、各々法に則り処罰したという。
朕は章宗皇帝の聡明さを思い、どうしてそこまで欺かれるものかと考える。近ごろ会議をした際、武衛軍副使兼提点近侍局の完顔達と霍王傅の大政徳が揃って『賈氏の事は実は冤罪です』と言った。あのとき完顔達は先帝の近侍で、大政徳は賈氏を警護していて、事実を知ったのである。朕も直接関係者に問いただして、かの陰謀と言うものが曖昧で無根拠であることが分かった。当時、罪に陥れられた者は全員放免して家に帰ることを許可する。」
これより李氏の家族は全員家に帰れるようになった。
宣宗皇后王氏
宣宗皇后王氏は中都の人で明恵皇后の妹である。その父が身分が低いころ、二つの玉製の櫛が月と化す夢を見て、その後、二后が産まれた。父が没すると棺に芝が映えた。
宣宗が翼王であったころ、章宗は諸王に「平民の子を後宮に入れて後継ぎを増やすように」と命じた。このとき、王氏は氏と共に翼王邸に入った。宣宗は王氏の姉の容姿を見て妻とした。
貞祐元年(1213)九月、王氏は元妃に、姉は淑妃に、氏は真妃になった。淑妃は哀宗を産み、真妃は守純を産んだ。王氏には子が無く、哀宗を養育して自分の子とした。
貞祐二年七月、賜姓されて温敦氏となり皇后に立てられた。同時に曽祖父の得寿は司空・冀国公、曽祖母の劉氏は冀国夫人、祖父の璞は司徒・益国公、祖母の楊氏は益国夫人、父の彦昌は太尉・国公、母の馬氏は
国夫人に追封された。
三年、荘献太子が薨去して哀宗が皇太子となった。
宣宗が崩御して哀宗が即位すると、正大元年(1224)に王氏を皇太后とし、その宮を仁聖と号した。父は進封されて南陽郡王となった。
一説には、宣宗が諸王だったときに、荘献太子の母が正妃となり、宣宗が即位して皇后となったという。
貞祐元年(1213)九月の詔にこうある。
「元妃某氏は王だった時に長い間側で仕えた。既に元妃としているが、ここに皇后とする。」
ここではその姓名は不明である。
また一説に言う。王氏姉妹が後宮に入った後、元妃の寵愛は衰えて尼となった。そこで王氏が后となった。全ては王氏の姉の明恵の計略である、という。
王氏姉妹の受封の日、大風で土が浮遊し、黄気が天地に充満した。その後、王氏は、数万の物乞いが跡を付けて来るという夢を見て大いに不快となった。占い師が言った。
「皇后は天下の母です。今、民は困窮しており、他に誰に窮状を訴えられるでしょうか。」
王氏は担当官に命じて、京城にて粥と薬を施す施設を設けた。
壬辰歳から癸巳歳にかけて(1232〜1233)河南で飢饉が起きた。大元の兵がを包囲したのに加えて疫病が大流行し、
城の民は百万以上の死者を出した。王氏はその全てを目の当たりにした。
哀宗は喪の期間が終わると太廟に参拝することとなった。これより前、担当官の進言により冕服を作成して完成したため、仁聖・慈聖両宮太后(王氏姉妹)を内殿に呼んで、参拝前に冕服を着て見せた。両宮は大いに喜んだ。哀宗は普段着に着替えると、両宮に献杯して長寿を祈った。仁聖太后は哀宗に言った。
「祖宗が天下を取ったときも容易なことでは無かった。いつか四方を平定して民が安楽となってから、この天子の服を着て、中都の祖廟に行き祭礼を行おう。(中都は蒙古占領中)」
哀宗は言った。
「阿婆にその意思があるなら、臣もまたそれを忘れない。」
慈聖太后も言った。
「常にその心があればいずれは実現できよう。」
哀宗が酒を注いで長寿を祈り、歓然のうちに酒宴を終えた。
天興元年(1232)冬、哀宗は帰徳に移った。
二年正月、哀宗は近侍の徒単四喜と朮甲荅失不を遣わして両宮を奉迎した。王氏は仁安殿に行くと、金の延べ棒と七宝金洗を出して、随行する忠孝軍に分け与えた。
その夜、両宮や柔妃裴満氏らが馬に乗って宮を出た。陳留まで来ると、城の左右から火が起こり、蒙古軍がいるのを疑って敢えて前進しなかった。王氏は急ぎ宮に戻るよう命じた。
翌日、入京して徒単四喜の家で休憩した。まもなく宮に入り、再び出発することを計画するうちに、京城が陥落した。王氏と諸妃嬪は北に連行され、その後、どうなったかは分からない。ただ宝符李氏だけは宣徳州に着いたとき、摩訶院に泊まり、仏殿中を寝所として幡旆を作成した。そして后妃と共に北に連れていかれる出発寸前に、仏像の前で自ら首をつって死んだ。仏殿の入り口には李氏が「宝符御侍はここで我が身を処した。」と書いた紙があった。
宣宗明恵皇后
宣宗明恵皇后は王皇后の姉で、哀宗を産んだ。宣宗が即位すると淑妃となり、妹が皇后となると元妃に進封された。哀宗が即位すると皇太后となり、その宮を慈聖と号した。
太后は生来端厳で、よく古今の事を知っていた。哀宗が皇太子となってからも、哀宗に過ちがあれば強く責め、即位してようやく、哀宗は鞭打たれることを免れた。
ある日のこと。宮中では食事の際、玉の器を三つ使っていた。一つは太后、二つは帝と皇后のためである。荊王の母の真妃氏に瑪瑙の器で食事が進められるのを見た太后は、責任者を呼び出してこう責めた。
「誰が汝にこのような分別をさせたのか。荊王の母はわが子の妻よりも下だというのか。飲食は些細な事ではない。汝を杖殺するようにと既に担当官に命じた。」
これ以降、宮中での真妃の待遇は良くなった。
ある者が「荊王が謀叛を企てている」と告発したため、荊王は投獄された。協議して処罰が確定したため、哀宗は太后に報告した。太后は言った。
「汝に兄は一人しかいない。どうして讒言を信じて殺そうとするのか。章宗は伯父も叔父も殺したため、寿命を縮め後継ぎも絶えた。どうして同じようになることを望むのか。速やかに赦免して牢から出し、私に会いに来させなさい。荊王が来るまで私は汝とは会わない。」
哀宗が立ち上がると、太后も立ち上がって側に付いた。哀宗が来ると、太后は涙を流して慰撫した。
哀宗は一人の宮人を激しく寵愛し、皇后に立てようとした。太后はその家の身分の低さを嫌い、宮中から追放するよう厳命した。哀宗はやむを得ず、宮中から追放するよう命じ、命じた者にこう言った。
「汝は東華門を出たなら、誰でも構わぬから初めに会った者にこの宮人を賜るように。」
出ると一人の盾売る者がいたため、宮人を賜って妻とした。
点検の撒合輦が哀宗に騎鞠を教えた。太后は人を遣わして撒合輦にこう伝えた。
「汝は人臣であり、主君を補佐して行いを正すべきであるのに、どうして遊びを教えるのか。再び騎鞠を教えたと聞いたなら、必ずや汝を杖刑に処す。」
このころ蒙古に僅かに勝利し、金は勢いを盛り返した。文士が「聖徳による中興」との文言の詩を奉った。太后はこれを聞くと不快になって言った。
「帝は歳若く意気込みが激しい。恐れの心が無くなれば驕りと怠りが生じる。今、幸いにも一勝したが、それでどうして中興といえようか。そのように言う者は諂っているだけだ。」
正大八年(1231)九月丙申、太后が崩御した。「陵墓は規定通りとし倹約に努めるように」と遺命した。
十二月己未、城の迎朔門から五里の荘献太子の墓の西に埋葬され、明恵皇后と諡された。